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第3話

Author: クチナシ
朝、美夕は強い香水の香りの中で目を覚ました。

その甘く濃厚なフローラルフルーティーの香りが、昨夜、準一が他の女性とどれほど親密に絡み合っていたかを、静かに物語っている。

彼女が指先をわずかに動かした途端、隣のマットレスがかすかに沈むのを感じた。

するとすぐに、温かな腕が懐かしい仕草で、そっと彼女を優しく引き寄せ、指先は軽くはらをくすぐるように愛撫した。

かつては慣れ親しんだあの愛撫も、今の彼女には吐き気をもよおすほどにしか感じられなかった。

美夕は激しく体をよじらせ、躊躇いなくその手を振り払うと、すぐに身を起こして布団を蹴り飛ばし、ベッドから飛び降りようとした。準一のいるこの場から、一刻も早く逃れ出たかったのだ。

予想外の反応に、準一の顔には一瞬、驚きの色が走った。

彼は慌てて追いかけると、美夕の手首をしっかりと掴んだ。その動作には、本人さえ気づかないような本能的な慰めの色合いがにじんでいた。

「美夕、昨日帰らなかったのは俺が悪かった。お前の好きなあの店の、胃に優しい薬膳スープを買ってきたんだ。許してくれないか?」

そう言って彼は手を放し、ベッドサイドのテーブルから保温容器を取り上げた。蓋を開けると、湯気の立つスープが美夕の目の前に現れ、香りがふわりと広がった。

美夕はそのスープを見つめ、苦々しく口元を引き上げて冷ややかに言った。

「いらない。今は食欲がない」

この四年間、彼女は準一の世話をするため、不規則な食生活を続けた結果、重い低血糖を患っていた。

半年前に準一がその事実を知ってから、常に飴を持ち歩き、自ら料理を作って美夕の食事を見守るようになった。

今でもダイニングの冷蔵庫には、彼が書いた【美夕が食べてはいけないもの】と記したメモが貼られており、一番上には【美夕は海鮮アレルギー!!】という文字を赤ペンで大きく囲んでいる。

この半年の間、家の中には海鮮に関するものが一切現れなかった。

しかし今、準一が手にしているこの海鮮入りの「胃に優しい薬膳スープ」は、それがまるで無言の宣告のようなものだ──

準一はもう彼女に関することをすべて忘れ、もはや気にかけてもいないのだ。

美夕は目の前の準一を振り払うように押しのけ、まっすぐにリビングへ向かった。その足取りは速く、ただできるだけ早く準一との距離を取ろうとしているかのようだ。

しかしリビングに足を踏み入れた途端、彼女はぐらりとめまいを覚えた。頭全体がぎゅっと締めつけられる風船のように、今にもはじけそうな感覚だ。額に冷たい汗がにじみ、両手の震えが止まらない。

彼女は部屋に戻り、常備しているフルーツキャンディを取ろうとしたが、足に力が入らず、今にも膝をつきそうだ。

準一は彼女の背中が小さく丸まっているのを見て眉をひそめ、歩み寄ろうとした。

そのとき、外からはっきりとした大きなノックの音が響き、彼の足が止まった。

「準一!早く開けて!あなたが一番好きな羊羹を買ってきたの!」

準一は振り返って美夕を一瞥し、ほんの二秒ほどためらっただけで、すぐに玄関へと駆け出した。

美夕は必死で体を支えながら、準一が玲子の手から袋を受け取り、親しげに言葉を交わす様子を見つめていた。頭の痛みは、ぼんやりと遠のいていくのを感じた。

彼女は身をかがめ、足を引きずりながら一歩一歩部屋へ戻った。震える手でキャンディーの包みを開け、甘さが舌の奥に広がる。しかし、その甘味では、体の奥深くに根を張った苦みを覆い隠すことはできなかった。

美夕は冷たいベッドの隅で身を縮こませ、目を固く閉じ、両手で耳をふさいだ。外の世界のあらゆる音を遮断しようとして。

それでも、リビングから聞こえてくる玲子の甘えた声は、針のように彼女の耳を刺しつづけた。

「あなたって本当に冷たいわね。朝っぱらから姿を消すなんて、私、すっかり寂しくなっちゃったの」

「やめてくれ……美夕はまだ部屋にいるんだ……もし気づかれたらまずい……」

準一の声は低く押し殺されていたが、それでもはっきりと聞こえてきた。

玲子は軽く笑うと、まるで何でもないことのように言った。

「何をそんなに怖がってるの?声さえ出さなければいいんでしょ。どうせ見えないんだから……」

続いて、衣擦れのかすかな音と、胸がむかむかするような湿った接吻の音が響いた。

美夕の身体は硬直し、爪が掌に深く食い込んだ。

突然、準一は何かを感じ取ったかのように顔を上げ、半開きの寝室の扉を見つめた。

彼はほとんど反射的に、身にまとわりつく玲子を押しのけると、慌てて襟元を整え、足早に寝室へと歩み入った。

ベッドサイドのテーブルに置かれた破れたキャンディの包み紙を見つけ、準一の顔には思わず、心配と罪悪感が入り混じった表情が浮かんだ。

彼は急いで外から温かい蜂蜜水を淹れて持ってきて、優しくスプーンで少しずつ美夕の口元へ運んだ。その甘い味は、かつてとまったく同じ。

美夕は彼を見つめながら、ふとした瞬間、時が半年前へと巻き戻ったような錯覚にとらわれた。

あの頃、彼女が低血糖の発作を起こすたびに、準一は必ず温かい蜂蜜水を淹れ、ベッドのそばに片膝をついて、優しく一口ずつ飲ませてくれたのだ。

ふと、その瞬間、死んでいたはずの彼女の心に、微かな波紋が広がった。消えかけた火種が、再びかすかな光を灯すかのように。

しかし次の瞬間、準一のスマホがチンと音を立て、画面がぱっと明るくなった。美夕がさりげなく目をやると、そのメッセージがくっきりと目に入ってきた。

【旦那さん、この目の見えない人にそこまで優しくするなんて、私が嫉妬しちゃうよ!】

準一はそのメッセージを見た途端、反射的にカップを置き、スマホを手に取って、指先で素早く返信を打ち始めた。

【玲子、もうやめるから、これからは玲子だけに優しくするから、ね?】

メッセージを送信し終えると、彼は美夕に一瞥もくれず、足早にリビングへ向かい、玲子をなだめに行った。

ドアが勢いよく閉まり、鈍い音が響いた。その音とともに、美夕の胸の中に残っていた最後の微かな光も完全に消え去った。

美夕はスマホを手に取り、画面に映る日付を見つめた――

あと三日で、この場所を永遠に離れられるのだ。

めまいが再び襲い、胸の奥に痺れるような虚ろな痛みと溶け合っていく。

心身を限界までむしばむ疲労と苦痛に視界が暗転し、意識は徐々に遠のいていった。やがて彼女は、不穏な眠りの底へと沈みこんでいった。
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