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遠き海原に揺れる灯火

遠き海原に揺れる灯火

By:  クチナシCompleted
Language: Japanese
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瀬戸美夕(せと みゆ)はまる一年間「失明」していたが、どんな目の見える人よりも物事を見抜いていた。 たとえば、婚約者の須藤準一(すどう じゅんいち)が、つい先ほど別の女性と婚姻届を提出したことについても―― …… 美夕はベッドの端に腰を下ろすと、その美しい瞳はうつろに前方を見つめていた。まるで本当に何も見えていないかのように。 ところが、準一のスマホの画面が新しいメッセージで光った瞬間、彼女の視線はぴたりとその内容を捉えた。 【準一!嬉しくて一秒だって待てない。ずっと一緒にいたい】 送信者は河野玲子(かわの れいこ)だ。 心底では冷ややかな笑いがこみ上げる。彼女は手探りで準一のスマホを取り上げ、さりげなく指先で画面をタップした。音もなくロックが解除されると、そのまま彼と友人のトーク画面を開いた。 ほんの一瞥しただけで、頭の中がゴーンと爆発するような衝撃に襲われ、全身の震えが止まらなくなった。 【体が回復したばかりなのに、こっそり玲子さんと婚姻届を出したなんて、美夕さんに申し訳ないと思わないのか!】

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Chapter 1

第1話

瀬戸美夕(せと みゆ)はまる一年間「失明」していたが、どんな目の見える人よりも物事を見抜いていた。

たとえば、婚約者の須藤準一(すどう じゅんいち)が、つい先ほど別の女性と婚姻届を提出したことについても――

……

浴室の中から、絶え間なく水の音が響いている。

美夕は静かにベッドの端に腰を下ろすと、その美しい瞳はうつろに前方を見つめていた。まるで本当に何も見えていないかのように。

ところが、準一のスマホの画面が新しいメッセージで光った瞬間、彼女の視線はぴたりとその内容を捉えた。

【準一!嬉しくて一秒だって待てない。ずっと一緒にいたい】

送信者は河野玲子(かわの れいこ)だ。

心底では冷ややかな笑いがこみ上げる。それでも彼女は、従順で無垢な表情を崩さなかった。

彼女は手探りで準一のスマホを取り上げ、さりげなく指先で画面をタップした。音もなくロックが解除されると、そのまま彼と友人のトーク画面を開いた。

ほんの一瞥しただけで、頭の中がゴーンと爆発するような衝撃に襲われ、全身の震えが止まらなくなった。

【あの時、もし玲子にそそのかされて暴走運転なんかしなければ、お前が脊椎を損傷して丸四年も寝たきりになることはなかったはずだ!】

【お前が事故を起こした直後、あの女はすぐに海外へ逃げたんだ。ずっとそばで看病してきたのは美夕だぞ。お前を救おうとして彼女は視力まで失ったんだ!】

【ようやく身体が回復したばかりなのに、こっそり玲子と入籍するなんて、美夕に顔向けできるのか!】

相手の怒りに満ちた言葉が今にも画面から飛び出しそうだった。だが、準一の返信は冷ややかで、あまりにも当然のようだった。

【もう、これでいいんだろう?玲子は俺の子を身ごもってるんだ。彼女に立場を与えねばならない……だが、これからも俺はずっと美夕のそばにいるよ】

【一週間後には、これ以上ないほどの盛大な結婚式を挙げてやる。それでも、この四年間の償いにはなりやしないというのか?】

【そもそも、あいつは目が見えないんだ。俺以外の誰が受け入れるというんだ?】

美夕の目はその数行の文字を釘付けにし、やがて視界が霞んで、それ以降の会話は一切頭に入らなくなった。指先から力が抜け、携帯電話がばたりと柔らかい布団に落ちた。彼女の体はぐったりとその場に崩れた。

――まさか、自分の婚約者がすでに別の女性と籍を入れ、しかも子どもまでいたなんて。

じゃあ、私はいったい何だったの?

この四年間、昼夜を問わず寄り添い続けた日々は一体なんだったのか?

一週間後に控えた結婚式に、今さら何の意味がある?

浴室から響いていた水音が、ぴたりと止まった。

美夕は、胸を抉るような衝撃からまだ立ち直れずにいた。そこへ、腰にゆるくバスタオルを巻いただけの準一が現れ、濡れた上半身にはまだ水滴が残り、そのまま一歩、また一歩と彼女に近づいてくる。

彼の温もりを宿した手のひらが、そっと彼女の頬に触れた。懐かしいその感触なのに、今は全身がこわばってしまった。

準一が口を開こうとしたその瞬間、特別な着信音が突然響き渡った。

彼は画面を見下ろすと、表情をほころばせて柔らかく微笑んだ。そして美夕の隣に腰を下ろし、指先をせわしなく動かして返信を打ち始める。すぐ傍で彼女に起きている異変など、全く目に入っていない。

画面には、玲子からのメッセージが浮かび上がり、美夕の目に焼きついた。

【準一!お腹の中の赤ちゃんが、パパに会いたがっているみたい。いつになったら私たちに会いに来てくれるの?】

美夕は両手を無意識に握りしめていた。爪が掌に深く食い込み、鋭い痛みがこれが夢ではなく現実であると、容赦なく突きつけてくる。

準一は返信を終えると、口元にまだ微かな笑みを残したまま、焦ったような口調で言った。

「美夕、ちょっと急用ができた。夜には戻るから、何かごちそう買ってくるね」

彼は言い終わらないうちに服をつかみ、慌ただしく身にまとうと、振り返りもせずに部屋を出ていった。

美夕は、がらんとした寝室に一人取り残された。閉ざされたままの扉を眺めながら、彼女はふっと、嗤うように低く笑った。その笑い声には、自嘲と悲しみがにじんでいた。

彼女の失明が最初から全部演技だということ、準一はまったく知らない。

彼女が準一に密かに思いを寄せるようになったのは、大学一年生のときからだ。

四年前、彼が事故に遭ったと聞きつけるや、彼女はすべてを投げ打って彼の元へ駆けつけ、その後、昼も夜も側を離れず看病に明け暮れた。

彼女は毎日決まった時間に準一の身体を拭き、薬を飲ませ、マッサージを施し、少しずつ彼の氷のように閉ざされた心を溶かしていった。

時が流れるにつれ、二人の心は少しずつ近づいていった。

その後、準一の容体は落ち着きを見せ始めたが、過酷なリハビリが彼を幾度も絶望の淵へ追いやった。

彼は自信を失い、絶望し、何度も心が折れ、命を絶とうとしたことさえあった。

その痛ましい姿を見るたびに、美夕は彼の苦しみをすべて自分が代わって背負いたいと願った。

一年前、準一が階段から転落したとき、助けようと身を挺した美夕の額は、階段の角に激しく打ちつけられた。

その瞬間、彼女の胸をひとつの思いがかすかに掠めた――

もし私も障害者になれば、準一は少しばかり慰められるだろうか。

そう思った美夕は、視力を失って、もう何も見えないと嘘をついた。

案の定、準一は彼女の手を握りしめ、目に涙を浮かべ、声を詰まらせながら言った。

「美夕、これからは俺がお前の目になる。一生、お前を見守っていく……」

その日を境に、彼は再びリハビリへの闘志を燃やし、半年後には奇跡のように健康を取り戻し、普通に歩けるようになった。

その瞬間、美夕はこれまでのすべての努力が報われたのだと感じた。

だが、今になってようやく悟った。四年間のひたむきな想いと、数えきれない夜の見守りは、準一が回復した途端、かつて彼を見捨てた玲子の存在に、あっけなく敗れてしまったのだ。

胸の奥が鋭く痛んだ。息が詰まるほどに。頭の中には一つの思いが渦巻いている――ここを離れよう、準一から離れよう。

美夕は深く息を吸い込み、震える指先で自分のスマホを取り、通話ボタンを押した。

「先生、この前お話があったミラノの仕事、挑戦してみたいです」
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第1話
瀬戸美夕(せと みゆ)はまる一年間「失明」していたが、どんな目の見える人よりも物事を見抜いていた。たとえば、婚約者の須藤準一(すどう じゅんいち)が、つい先ほど別の女性と婚姻届を提出したことについても――……浴室の中から、絶え間なく水の音が響いている。美夕は静かにベッドの端に腰を下ろすと、その美しい瞳はうつろに前方を見つめていた。まるで本当に何も見えていないかのように。ところが、準一のスマホの画面が新しいメッセージで光った瞬間、彼女の視線はぴたりとその内容を捉えた。【準一!嬉しくて一秒だって待てない。ずっと一緒にいたい】送信者は河野玲子(かわの れいこ)だ。心底では冷ややかな笑いがこみ上げる。それでも彼女は、従順で無垢な表情を崩さなかった。彼女は手探りで準一のスマホを取り上げ、さりげなく指先で画面をタップした。音もなくロックが解除されると、そのまま彼と友人のトーク画面を開いた。ほんの一瞥しただけで、頭の中がゴーンと爆発するような衝撃に襲われ、全身の震えが止まらなくなった。【あの時、もし玲子にそそのかされて暴走運転なんかしなければ、お前が脊椎を損傷して丸四年も寝たきりになることはなかったはずだ!】【お前が事故を起こした直後、あの女はすぐに海外へ逃げたんだ。ずっとそばで看病してきたのは美夕だぞ。お前を救おうとして彼女は視力まで失ったんだ!】【ようやく身体が回復したばかりなのに、こっそり玲子と入籍するなんて、美夕に顔向けできるのか!】相手の怒りに満ちた言葉が今にも画面から飛び出しそうだった。だが、準一の返信は冷ややかで、あまりにも当然のようだった。【もう、これでいいんだろう?玲子は俺の子を身ごもってるんだ。彼女に立場を与えねばならない……だが、これからも俺はずっと美夕のそばにいるよ】【一週間後には、これ以上ないほどの盛大な結婚式を挙げてやる。それでも、この四年間の償いにはなりやしないというのか?】【そもそも、あいつは目が見えないんだ。俺以外の誰が受け入れるというんだ?】美夕の目はその数行の文字を釘付けにし、やがて視界が霞んで、それ以降の会話は一切頭に入らなくなった。指先から力が抜け、携帯電話がばたりと柔らかい布団に落ちた。彼女の体はぐったりとその場に崩れた。――まさか、自分の婚約者がすでに別の女性
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第2話
電話の向こうで、先生の声が一気に高まり、驚きと喜びが溢れていた。「瀬戸さん、やっと決心がついたんだね!あのチームのチーフデザイナーは君の作品を最高評価してたよ。その感性は応募作の中で抜きんでていたよ。本当にミラノでやっていく覚悟、ある?」美夕はまつげを伏せ、一語一語、噛みしめるように言った。「もう決心しました」電話の向こうが一瞬静まり、すぐに抑えきれない興奮した声が伝わってきた。「よし!すぐにスタジオに連絡する。五日後、盛大な歓迎会を開いてあげるから!」美夕はベッドの上の壁に飾られた、彼女と準一との写真に視線を向けた――五日後、本来なら彼女と準一の結婚式が行われるはずの日だ。彼女の瞳の輝きが少し色を失い、声に思わず苦味を滲ませながら、そう答えた。「承知しました。五日後にお会いしましょう」電話を切ると、鼻の奥がつんと痺れ、目頭が熱くなるのを感じた。この四年間の出来事が、波のように押し寄せてくる。二人で乗り越えた苦しい日々、彼が耳元でささやいた優しい言葉――それらのすべてが、今では胸に刺さる棘と変わっていた。ピンポーン――スマホの通知音が彼女の思考を遮った。ウェディングドレス店の店員から、音声メッセージが届いていた。「瀬戸様、店長からお願いがございます。瀬戸様のウェディングドレスデザインの著作権を、市場価格の三倍で購入させていただけませんでしょうか。本日ご主人様がお受け取りになりましたあのドレスの、特にトレーンの独創的なデザインに見入ってしまいまして……ぜひともお譲りいただければ幸いです」美夕は返信する気にもなれなかったが、その直後、玲子が新しい投稿をアップしたのが目に入った。彼女の胸が一瞬、ふさがった。指先を震わせながらメッセージを開くと、自分がデザインしたあのウェディングドレスを玲子が着ている姿の写真があった。3メートルの長さに数えきれないダイヤが散りばめられたマーメイドラインのトレーンは眩い光を放ち、丁寧に整えられた裾は完璧な形を描いていた。玲子は明るく輝く笑顔を浮かべ、片手をお腹に優しく置いている。次のキャプションを添えている。【彼氏が特製のウェディングドレスでプロポーズしてくれた。今まで最高の贈り物!】美夕はその写真を見つめ続け、ついに堪えきれず、涙が一筋こぼれた。ぽたりとスマホの
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第3話
朝、美夕は強い香水の香りの中で目を覚ました。その甘く濃厚なフローラルフルーティーの香りが、昨夜、準一が他の女性とどれほど親密に絡み合っていたかを、静かに物語っている。彼女が指先をわずかに動かした途端、隣のマットレスがかすかに沈むのを感じた。するとすぐに、温かな腕が懐かしい仕草で、そっと彼女を優しく引き寄せ、指先は軽くはらをくすぐるように愛撫した。かつては慣れ親しんだあの愛撫も、今の彼女には吐き気をもよおすほどにしか感じられなかった。美夕は激しく体をよじらせ、躊躇いなくその手を振り払うと、すぐに身を起こして布団を蹴り飛ばし、ベッドから飛び降りようとした。準一のいるこの場から、一刻も早く逃れ出たかったのだ。予想外の反応に、準一の顔には一瞬、驚きの色が走った。彼は慌てて追いかけると、美夕の手首をしっかりと掴んだ。その動作には、本人さえ気づかないような本能的な慰めの色合いがにじんでいた。「美夕、昨日帰らなかったのは俺が悪かった。お前の好きなあの店の、胃に優しい薬膳スープを買ってきたんだ。許してくれないか?」そう言って彼は手を放し、ベッドサイドのテーブルから保温容器を取り上げた。蓋を開けると、湯気の立つスープが美夕の目の前に現れ、香りがふわりと広がった。美夕はそのスープを見つめ、苦々しく口元を引き上げて冷ややかに言った。「いらない。今は食欲がない」この四年間、彼女は準一の世話をするため、不規則な食生活を続けた結果、重い低血糖を患っていた。半年前に準一がその事実を知ってから、常に飴を持ち歩き、自ら料理を作って美夕の食事を見守るようになった。今でもダイニングの冷蔵庫には、彼が書いた【美夕が食べてはいけないもの】と記したメモが貼られており、一番上には【美夕は海鮮アレルギー!!】という文字を赤ペンで大きく囲んでいる。この半年の間、家の中には海鮮に関するものが一切現れなかった。しかし今、準一が手にしているこの海鮮入りの「胃に優しい薬膳スープ」は、それがまるで無言の宣告のようなものだ──準一はもう彼女に関することをすべて忘れ、もはや気にかけてもいないのだ。美夕は目の前の準一を振り払うように押しのけ、まっすぐにリビングへ向かった。その足取りは速く、ただできるだけ早く準一との距離を取ろうとしているかのようだ。しかしリ
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第4話
どれほど眠っていたのかもわからないまま、美夕はかすかな物音に目を覚ました。ゆっくり目を開けると、寝室はもう暗くなっていて、窓の外から差し込むわずかな明かりが床に細い光の筋を作っていた。そのほのかな光が、部屋の片隅をかすかに照らしている。美夕はがらんとした部屋を見つめながら、まるで胸の奥まで少しずつ空洞になっていくような感覚を覚えた。そのとき、静まり返った寝室に突然、スマホの着信音が鳴り響いた。準一からの音声メッセージだ。その声には、どこか不自然で、作りもののような優しさがこもっていた。「美夕、昼間は怒らせて悪かった。お詫びにサプライズを用意したんだ。迎えの者を手配したから、もうすぐそっちに着くよ」音声が途切れるとほぼ同時に、外から騒がしい声が聞こえてきた。美夕がリビングへ向かうと、準一といつもつるんでいる友人たちが勢いよく部屋へ押し入ってくるのが見えた。彼らは美夕を真ん中に囲み、からかうような笑みを浮かべた。「瀬戸さん、ぼうっとしてないで。準一さんが向こうで待ってるぞ!」美夕は着替えをしたいと言う間もなく、左右から二人に腕を取られ、半ば引きずられるようにして玄関の方へと連れ出された。腕を掴まれたところが痛くて、彼女は必死にもがき、振りほどこうとした。しかし、そのうちの一人が苛立ったように彼女を押した。「ぐずぐずすんなよ、瀬戸さん。準一の気持ちを無駄にするな」車は猛スピードで走り抜け、瞬く間に豪奢な内装の会員制クラブの前で止まった。車から引きずり降ろされると、男たちは美夕の抵抗を押し切り、そのまま個室の前へと連れて行った。次の瞬間、そのうちの一人が勢いよく扉を開け、美夕の背を押して中へと押し込んだ。状況を理解する間もなく、耳元で一斉に破裂音が炸裂した。風船の破片がぱらぱらと顔に降りかかり、その音は鼓膜を突き破るかのように響いた。美夕はその場に凍りつき、耳鳴りの中に人々のどっと湧く笑い声が混ざり合った。「ようこそ、瀬戸さん!これは俺たちが特別に用意した歓迎のプレゼントだ!」準一が口元に微笑を浮かべながらゆっくりと歩み寄り、指先で彼女の髪に絡んだ破片をそっと取り除いた。「みんながただふざけてるだけだよ。お前が穏やかな性格だって知ってるから、つい調子に乗ってしまったんだ。気にしないで」その言葉が終わ
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第5話
鼻腔を刺すような消毒液の臭い。手の甲に鋭い痛みが走り、まるで細い針で皮膚を繰り刺されているようだ。美夕は苦しげに眉をひそめ、重く閉ざされた瞼をようやくこじあけるように上げた。朝の光がカーテンの隙間から差し込み、準一の顔をやわらかく照らしている。ぼんやりとした意識の中で、美夕の思いは一年前へと引き戻された――あのとき、彼女は準一を受け止めた直後に意識を失った。目を覚ましたときには、まだ癒えきらぬ身体を引きずりながら、彼が頑なに傍を離れずにいる姿を見た。彼の真剣な、時に誤解を招きかねないほどの気遣いを見て、美夕はふとした衝動から、盲目を装うことにしてしまった。彼女の「失明」を知ったとき、準一はその手を強く握りしめ、涙をこぼしながら見つめて言った――「美夕、どうしてそんなに馬鹿なんだ。安心してくれ。俺たちのために、これから必ず真剣にリハビリを続ける。これからの日々は、俺がお前の目になるから」だが今、その喜びはもう跡形もなく消えていた。美夕の視線がゆっくりとベッド脇をなぞった。そこには、準一の腕が点滴のチューブを押しつぶすように載っている。透明なチューブの中を、暗紅色の血が管壁を伝ってじわじわと逆流し、小さな塊を作りつつある。胸の奥がぎゅっと締めつけられ、美夕はそっと手を伸ばして、押さえられていたチューブを腕から抜き取った。動作は極めて慎重だったが、それでも眠っていた準一を覚醒させてしまった。準一ははっと目を見開くと、瞳に溢れんばかりの心配を浮かべて言った。「美夕、目が覚めたのか?どこか痛むところはない?」準一の言葉が終わらないうちに、スマホの特殊な通知音が突然鳴り響いた。美夕はその音を聞いても、心には何の動きもなかった。確かめようとする気持ちもなく、ただ虚ろな目で天井を見つめている。まるで何も聞こえていないかのように。準一は届いたメッセージを見て、一瞬だけ目を泳がせた。ためらいがちに病床の美夕をちらりと見ると、口早に言った。「ちょっと食べ物を買ってくるね」彼はそう言い終わると、上着をひっつかんで大股で病室を去った。その間、美夕の手の甲が逆流した血で腫れ上がっていることには、最後まで気づかなかった。その慌ただしい背中を見送りながら、美夕は深く息を吸った。点滴針の刺さっていない方の手で必死に体を起こし、枕元の
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第6話
準一は美夕の手からウエディングドレスを受け取り、彼女の腕をそっと支えながら食卓へと導いた。彼の声にはわずかに後ろめたさが漂い、できるだけ優しい口調を装っている。「美夕、どうしてひとりで帰ってきたんだ?薬膳スープを買って来たら、お前がもう退院したって聞いて、慌てて戻ってきたんだよ。ひとりで何かあったらどうする?」そう言いながら、彼は温かい薬膳スープを美夕の前にそっと押し出し、さらにスプーンを取って彼女の手に渡した。「病み上がりなんだから、まずはこれで体を温めて。体が完全に回復したら、お前の好きな料理を作ってあげるよ。ドレスは俺がしまっておくね」そこで少し間を置いてから言い続けた。「美夕がこのドレスを纏ったら、きっと誰よりも美しい花嫁になるぞ」美夕が何も言わず、ただ静かに食事をしているのを見て、準一はそれ以上声をかけず、そっと寝室へと向かった。美夕のあの青ざめた顔色を思い浮かべると、準一の胸の奥に後からじわりと罪悪感が染み渡ってきた。明後日は俺と美夕の結婚式だ。この二日間は、せめて彼女のそばにいてやろうか。そう心に決めながらクローゼットの扉を開けた瞬間、準一は息をのんだ。そこに並んでいたはずの美夕の服は、すっかり姿を消していた。中には、かつて自分が買い与えた三、四着のワンピースだけが寂しく掛かっている。クローゼットの横にはスーツケースが置かれていた。準一は近づいて、その蓋を開けた。中には衣類や、様々な書類がきちんと整理されていた。ここ数日の美夕の冷たい態度を思い返すと、胸の奥からどうしようもない不安が湧き上がってきた。ウェディングドレスをかける間もなく、準一はよろめくようにダイニングへ駆け込み、美夕の両肩をぎゅっと掴んだ。声には焦りがにじんでいた。「美夕、荷物をまとめてどうするつもりだ?どこに行くんだ?何かあったのか?」美夕は海外に出る話で騒ぎを起こしたくなくて、心の中の動揺を押し殺し、できるだけ穏やかな声を装った。「落ち着いて。あと二日で私たちの結婚式でしょう?そのとき慌てないように、先に新婚旅行の荷物をまとめておこうと思ったの」そう言って、彼女はそっと手を上げ、準一の手の甲を軽く叩いた。「それに、今の私には何も見えないのよ。あなたがそばにいなければ、どこへ行けるというの?」掌に伝わる温かな感
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第7話
おばあちゃんは、この世で一番彼女を可愛がってくれた人だった。このペンダントも、おばあちゃんが長い時間をかけてお金を貯めて買い、結婚祝いとして贈ってくれたものだ。けれど今、そのおばあちゃんの形見が玲子のような女の手にあり、しかもそれを見せびらかす道具にされている。胸の奥から込み上げる怒りをもう抑えきれず、美夕は何も考えずに飛び出した。タクシーを拾い、玲子が指定した場所へ向かった。公園の人工湖に着くと、ちょうど食事時だった。公園には散歩している数人しかいなかった。湖畔のベンチに玲子が座っており、美夕の姿を見つけるとすぐに立ち上がり、嘲るような笑みを浮かべた。「あら、よくここまで来られたね。盲目でも意外と自立できるんだ」美夕は彼女と無駄話をする気などなかった。拳をぎゅっと握りしめ、抑えきれない怒りを声に込めて言った。「くだらないこと言わないで、さっさと返しなさい!」玲子はその言葉に、顔の軽蔑の色をさらに濃くした。ポケットからあのペンダントを取り出し、指先でつまんでひらひらと見せつける。「へぇ、そんなガラクタがそんなに大事なの?でも、一応これは準一さんが私にくれたものよ。たとえ気に入らなくても、あなたには渡さないわ」彼女は二歩ほど前に進み、美夕の顔にぐっと近づく。声を少し低くしたが、その響きは悪意に満ちていた。「目の見えないあんたが私と準一さんを奪おうなんて、夢見てんじゃないわよ!四年間も彼のそばでまるで家政婦みたいに尽くしてきたのに、結局どうなった?彼は私と結婚したの。しかも今、私は彼の子を身ごもってる!あんたなんか、いてもいなくても同じよ!」言い終えると、玲子は手の中のペンダントに一瞥をくれ、手首をひらりと返して、そのまま人工湖へと投げ捨てた。ペンダントは空中で弧を描き、ポチャンという音を立てて水の中へ落ち、すぐに姿を消した。「欲しかったんでしょ?じゃあ自分で湖に入って探せば?」そう言い捨てると、玲子は嘲るように笑った。「そんなに自立してるなら、自分で見つけられるんでしょ?ねえ?」その瞬間、美夕の頭の中で張り詰めていた糸がブツンと切れた。考える間もなく、彼女は飛びかかるようにして全身の力を込め、玲子の頬を平手打ちした。玲子の顔が一瞬で歪んだ。咄嗟に反撃しようと手を上げかけたが、美夕の背後に立つ人影を見た
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第8話
準一はスマホの画面に浮かぶそのメッセージを見つめ、しばらくの間、現実を受け止められずにいた。全身がその場に凍りついた。震える手からスマホが滑り落ちそうになる。画面の光が目を刺すように眩しく──美夕からのメッセージ、がらんとした部屋。そのすべてが、どうしても認めたくない現実を彼に突きつけていた。準一はスマホの画面を見つめたまま、長い間思考が止まっていた。空っぽの部屋と、あのメッセージ。すべてが、避けられない結末を告げている。窓から差し込む陽光がレースのカーテンを透かし、彼の青ざめた頬に落ちたが、そこには一片の温もりも感じられなかった。何かを思い出したように、彼ははっとして寝室へ駆け込んだ。バンッという音とともに、クローゼットの扉が勢いよく開かれた──やはり、あのスーツケースは跡形もなく消えていた。昨日、彼がかけ損ねたあのウェディングドレスだけが、みすぼらしくクローゼットの底に丸められて置かれていた。裾は押し潰されて皺だらけになり、傍らには外れた小さなビジュがいくつも散らばっている。準一の心臓がぎゅっと締めつけられる。恐怖と不安が蔦のように足元から這い上がり、胸を締め付けた。息をするのも苦しい。震える手でポケットからスマホを取り出すと、彼は美夕の番号を指先で何度もなぞった。通話ボタンを押した瞬間、受話口から聞こえてきたのは冷たい機械音だけだった。「おかけになった電話は、電波が届かない場所にあるか、電源が入っていないため、つながりません」何度かけても同じ声が、彼の惨めさと愚かさを嘲笑うように繰り返される。「そんなはずがない……」彼は小声で呟き、それでも諦めきれずにSNSアプリを開いた。しかし、トーク画面を開いた瞬間、彼の全身の血の気が一気に引いていく。美夕はもう長い間、彼のメッセージに返信していなかったのだ。六十秒の音声メッセージを送信した後、力が抜け、彼はその場に崩れ落ちた。そのメッセージはいくら経っても既読にならない。今、彼の脳裏には一つの思いが繰り返し反響していた――どこで美夕に異変を悟られたのか?本当に彼女は、自分のもとを去ってしまったのか?準一は必死に首を振り、その恐ろしい考えを振り払おうとした。しかし、目頭が勝手に熱くなり、温かい涙が頬を伝って、冷たいスマホの画面にぽたりと落ち
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第9話
玄関に立つ人影を見定めた瞬間、準一の顔に浮かんだ喜びの色は一瞬で消え、笑みが凍りついた。声にはわずかな震えが滲んでいた。「玲子?……お前が何をしに来たんだ?」玲子は細いハイヒールを履き、コツコツと床を打つ音を響かせて一歩一歩彼に近づいていった。口元には隠そうともしない得意げな笑みを浮かべ、瞳には誇らしげな輝きをたたえている。「その言い方はないでしょう?私が来ちゃいけない理由でもあるの?」わざと間を置き、周囲の人々を見回したあと、手をそっと下腹に添え、親しげな仕草で準一の手を取ろうとしながら言った。「私はあなたと正式に婚姻届を出した正真正銘の妻よ。あなたが人に笑われるなんて、そんなの見過ごせるわけないでしょう?今日は、私たちの結婚式のやり直しということにしましょう」準一は玲子の隠しようもない得意げな表情を見つめ、ふとあの日、公園で彼女と美夕が対峙した場面を思い出した。その瞬間、閃きが脳裏をよぎり、はたと気づいた途端、怒りが一気に胸の奥から込み上げてきた。「お前、美夕に何か言ったのか?」彼はいきなり目の前の玲子を力任せに突き飛ばした。その勢いは思いのほか強く、玲子は構える暇もなく、そのまま後ろに倒れ、ドスンという鈍い音を立てて床に叩きつけられた。周囲の人々は一瞬にして言葉を失い、空気さえ数秒間凍り付いた。玲子は一瞬呆然としたが、すぐに我に返ったように手を上げて下腹部を押さえ、眉を強くひそめ、苦痛に歪んだ表情で悲痛な叫び声をあげた。「準一さん!」玲子が苦しそうに叫んだ。「何を言ってるの……お腹が……お腹が痛いよ!どうしてそんなひどいことするの……」玲子の苦しげな様子を見て、周囲にいた彼女と親しい付き添いの男性たちが次々と声をあげた。「準一、お前正気か?玲子はお前の子を妊娠してるんだぞ!どうして彼女に手をあげるんだ!」「そうだよ、玲子はお前のためにわざわざ場を取り繕いに来てくれたのに、恩を仇で返すなんてひどすぎる!」非難の声が次々と飛び交う中、準一は苦痛に顔を歪める玲子を見つめ、胸の奥に不安が広がっていった。どうあれ、彼女のお腹にいるのは自分の子だ。さっきのあの手荒い真似は、あまりに衝動的すぎた。準一は深く息を吸い込み、胸の動悸を押さえ込むように一歩踏み出し、彼女に手を差し伸べた。玲子は準一
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第10話
準一は恭子を追いかけるどころではなく、地面に倒れている玲子を見て、胸の中は焦りと混乱でいっぱいだった。彼はしゃがみ込み、玲子を抱き上げると、そのまま階下へ駆け下りた。タキシードを着替えることもできなかった。病院に着き、玲子を緊急治療室に搬送されたあと、準一は廊下の壁にもたれかかった。冷たい壁が背中に触れ、混乱した頭がほんの少しだけ落ち着いてきた。この半日で起きたことが、走馬灯のように脳裏をよぎった。美夕の残したメッセージ、空っぽのクローゼット、玲子の挑発、母の失望……一つ一つの出来事が、まるで刃物のように、彼の胸をずたずたに切り裂いていく。あまりにも多くのことが一度に降りかかってきて、どう対処すればいいのか、準一にはまったくわからなかった。無力に壁にもたれ、虚ろな瞳をして、彼は涙さえも流せずにいた。その時、ふと聞き覚えのある声が耳に届いた。「須藤さん?こんなところで何していますか?」準一が顔を上げると、そこにいたのは以前の主治医だった。医者はカルテを手に、にこやかに歩み寄ってくる。「どうしたのですか?体の具合でも悪いのですか?おや、診察に来るのにタキシード姿とは珍しいですな」準一は無理に口角を上げ、首を横に振った。「いや、体は平気です。タキシードは……今日は本当なら結婚式の日だったんです」木村先生は彼の顔色を見て、肩を軽く叩き、ため息をついた。「須藤さん、あなたは恵まれてますよ」少し間を置き、しみじみとした口調で続けた。「瀬戸さんほど素晴らしい方に想いを寄せられるというのは、何度人生をやり直しても得難い縁だと思いますよ。リハビリ当時、あなたがどれほど深刻な状態だったか覚えていますか?一日中、生きる気力もないような表情を浮かべていました。その頃、瀬戸さんはあなたの姿を見るたびに心を痛め……私に何度も相談に来られました。やむなく、彼女の『見えないふり』を了承することにしたんです」「見えない……ふり?」木村先生の言葉は、雷のように準一の頭に直撃し、全身の感覚を一瞬にして奪っていった。彼はよろめきながら半歩後ずさり、背中を冷たい壁に強く打ちつけたが、痛みを感じることはなかった。唇が震えを止められず、歯ががちがちと鳴り、声はかすれて言葉にもならない。「あ……今……何ておっしゃったんです
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