تسجيل الدخول残業で企画書の修正に追われていると、同じ会社で働く親友の林香澄(はやし かすみ)と、恋人の久世研吾(くぜ けんご)が楽しげに話しながら、前後して私のデスク脇を通り過ぎようとした。 私は手を止め、顔を上げて二人を呼び止める。 「研吾、香澄。二人でどこへ行くの?」 香澄は、ほんのわずかに眉をひそめた。 「一日中働いたんだし、二人で煙草を吸って息抜きしてくるの。あんたは煙の匂いが苦手なんだから、自分の仕事を片づけてて」 研吾も同調するように頷いた。 「非常階段で一服してくるだけだよ。煙草を吸わないいい子ちゃんに、悪い癖をつけさせたくないしな。 そうだ。手が空いたら、ついでに香澄の分もやっておいて。こいつ、呆れるくらい要領が悪いから」 私が何か言うより先に、二人はいつものように肩を並べてオフィスを出ると、非常階段へ消えていった。 胸の奥が、かすかに震える。 私が香澄をこの会社に紹介してから、今年で三年目になる。 そして、彼女が私の恋人と二人きりで煙草を吸いに行くのは、これで799回目だった。 煙草一本で息抜きする時間まで、二人一緒でなければならないのなら。 そんな煙にまみれた茶番に、私はもう付き合わない。
عرض المزيد私の顔を見た石田課長も、驚きを隠せなかった。「ま、真壁さん? まさか何年も経って、こんな立場で再会するとは……」どこか気まずそうにしている。以前の私は、石田課長に酒を注ぎ、彼が所属する本社の顔色をうかがいながら働く立場だった。それが今では、彼の上司としてこの会社へ戻ってきたのだ。けれど石田課長は、女である私がここまで上り詰めるには、何か特別な代償を払ったに違いないとでも思ったらしい。私を見る目に、下世話な色が混じった。その視線を無視して軽く頷くと、私は彼より先に車へ乗り込んだ。気まずい沈黙がしばらく続いたあと、助手席の石田課長が振り返り、媚びるような笑みを浮かべた。「真壁副社長、考えてみれば、私たちは身内のようなものなんですよ。以前の会食で、あなたが代わりに酒を飲んだ香澄さんを覚えていますか? 実は今、私たちは結婚しているんです……」胸が大きく揺れた。「結婚?」石田課長は嬉しそうに笑った。「ええ。前の妻が去年病気で亡くなりましてね。その少しあと、香澄が支社から本社へ来て、私の部署で働き始めたんです。一緒に過ごすうちに、自然と惹かれ合いまして……」彼は両手をこすり合わせる。「香澄から聞きましたよ。副社長とは高校時代からの友人で、一番の親友だったそうですね。それなのに、副社長はカリフォルニアへ行って、彼女をこちらに残してしまったとか。何か機会があれば、妻にも一緒に海外で経験を積ませていただけないでしょうか――」私は言葉を遮った。「私が当時、突然会社を辞めたのは、香澄が長年付き合っていた私の恋人と関係を持っていたからです。支社の社員は全員知っていますし、動画までネットに拡散されました。石田課長はご存じなかったんですか?」石田課長の笑みが、顔に張りついたまま固まった。そのまま小さくなり、前を向く。私は後部座席の背もたれに体を預け、目を閉じた。石田課長に案内されて社長室へ入ると、香澄が私のデスクを片づけていた。物音に気づいた彼女は笑顔で振り返り、たどたどしい英語で挨拶する。「Hello――」その声が、途中から不自然に歪んだ。香澄は恐怖に目を見開き、私を凝視している。「晴香? どうして……どうしてあなたなの! この数年間で、いったい何があったの?」私は少し
私は何も言わなかった。研吾も黙ったままだった。しばらくして、私はもう一度腕時計に目を落とす。「残り15分よ」研吾は焦ったように身を乗り出した。「晴香、今回ここまで来たのは、直接お前に謝りたかったからなんだ……それまでのことはひとまず置いても、薬を飲んでいると知りながら、わざと香澄の代わりに酒を飲ませて、お前を入院させた。あれは完全に俺が悪かった。ずっと謝る機会を探してた。でも、あのあとお前は俺の前からいなくなって――」私は眉を上げて研吾を見た。「それまでのことは置いておく? どうして? 私は置いておけない。何年も付き合って、もうすぐ結婚の話まで出るはずだった恋人が、十年来の親友と浮気していたのよ。忘れられるわけがないでしょう?十年よ。香澄のことは、とっくに家族だと思ってた。研吾、あなたは私たちの恋愛を壊しただけじゃない。私の友情も、家族同然だった絆も、全部壊したの」研吾の目から、突然涙があふれた。彼は取り乱したように言葉を重ねる。「分かってる。全部分かってる。お前には、一番申し訳ないことをした……俺は最初、あれを一度きりの甘い過ちとして終わらせるつもりだった。香澄が毎日のように俺を誘って、非常階段で俺と……香澄も俺も黙っていれば、誰にも知られないと思ってた。でも結局、お前に気づかれた」正直に言えば、あの頃の光景はもう少しずつ記憶から薄れている。それでも、はっきり覚えているものが二つあった。香澄が履いていた赤いハイヒール。そして、その足をつかんでいた研吾の大きな手。研吾はうつむいた。「お前には、きちんと謝らなきゃいけなかった。無理だって分かってる。それでも聞かせてほしい。もう一度、俺と一緒に――」私は手を上げ、その言葉を遮った。「嫌よ。私は今のままで幸せなの。研吾、私たちの関係はもう過去よ。これ以上、お互いを縛るのはやめましょう」研吾の手は、ずっと震えていた。私はその様子を見て、少し意外に思う。「煙草でも吸ったら?」研吾は自嘲するように笑った。「やめたんだ。俺たちが壊れ始めたきっかけは、あのくだらない煙草だった。そう考えるたびに胸が締めつけられて……お前がいなくなってから、吸うのをやめた」私は一瞬、言葉を失った。付き合っていた
カリフォルニアの空港に降り立ったとき、目に映るものすべてが新鮮だった。文化も、食事も、住まいも、暮らし方も、国内とはまるで違う。まずは生活を安定させるため、未経験でも始められる仕事に就いた。ここでの私は、不平も言わず働き続け、誰かのプレゼン資料を完成させなければ家に帰ることさえ許されなかった真壁晴香ではない。周囲から「東洋から来たミステリアスな女の子」と呼ばれる、Haruだった。ある程度の貯金ができると、スクールにも通い始めた。英語やビジネスについて学び、自分の趣味まで見つけた。いつしか雷にも、暗闇にも怯えなくなっていた。その後、国内と頻繁に取引を行う企業へ転職し、以前と同じ企画の仕事に就いた。これまでの経験を生かせる仕事は楽しく、私は水を得た魚のように力を発揮した。一年後には、国内事業チームのリーダーになった。何もかもが、少しずつよい方向へ進んでいた。その間も、時折千尋とは連絡を取り合っていた。私が去ったあと、会社で起きた大騒動についても彼女から聞いている。画面の向こうで、千尋はベッドに寝転び、スマートフォンを抱えながら嬉しそうに報告した。「先輩の仇を取るために、あの日撮った動画をネットに投稿したんです。ものすごい騒ぎになったんですよ!会社を特定して、香澄さんの顔を見ようと建物の前で待ち伏せする人まで現れました。同じように浮気で傷つけられた女性たちが、本人を目の前にして散々怒鳴ってくれたんです。香澄さんは耐えられなくなって、数日もしないうちに辞めました。当月分の給料も受け取りに来なかったそうです。研吾さんは、そこから二か月だけ粘りましたけど、最後は『地元に戻って働く』なんて適当な理由をつけて辞めていきました。先輩が二人の末路を直接見られなかったのが、本当に残念です」私は身支度を整え、すっきりとしたパンツスーツに着替えてから、もう一度スマートフォンを持ち上げた。「別に残念じゃないよ。手放したんだから、もう過去のこと。千尋、私は仕事に行ってくるね。そっちは早く寝なよ。おやすみ」千尋は頷いた。そこでビデオ通話が切れた。私はどこか物寂しさを覚え、胸の奥に言葉では表せない複雑な感情が残っていることに気づいた。研吾と香澄が、あそこまで落ちぶれたのは。私のせいなのだろうか
自分のデスクに戻った研吾は、怒りで手を震わせていた。晴香が会社を辞めていた。研吾と香澄は、それを知った最後の二人だった。香澄の顔色もよくない。「私たち、十年来の親友なのに。晴香もひどすぎるわ! 辞めるなら、せめて一言くらい言ってくれてもいいでしょう? 私のことはともかく、あんたのことは考えるべきじゃない? 二人は四年も付き合って――」研吾が言葉を遮った。「もういい!」いったい、いつからすべてが変わってしまったのだろう。始まりは、香澄が入社してからだった。当時、香澄は仕事でミスをして前の会社を解雇され、失業したまま毎日のように酒に溺れていた。そんな彼女を見かねた晴香が、社内推薦で今の会社を紹介した。そうして三人は、同じ会社で働くようになったのだ。晴香は煙草の匂いが苦手だったため、研吾は彼女のいる場所では決して吸わなかった。ところが香澄が入社してからは、「本当の自分を解放しよう」などと言って、毎日のように研吾を非常階段へ誘うようになった。晴香は二人を信じきっており、ただ笑って何も言わなかった。あの日までは。研吾と香澄が、煙の充満した非常階段で煙草を吸っていたとき、荷物を担いだ作業員が上から下りてきた。香澄はそれを避けようとして、研吾の胸に飛び込んだ。作業員が通り過ぎても、二人は離れなかった。煙の向こうで、研吾は衝動を抑えられず香澄に口づけた。香澄も彼を拒まなかった。それ以来、二人はほかの社員が煙草を吸いに来ない時間を狙い、二人だけの秘密の空間へ隠れるようになった。あの場所にいるときの研吾は、「晴香の恋人」という肩書きを背負った久世研吾ではなかった。ただ自分のためだけに生きていられた。研吾は自分の髪をつかみ、目を真っ赤にした。「俺は、どうしてこんな最低なことを……お前だって、晴香とは十年来の親友だろ。それなのに、どうして……」香澄の顔が険しくなり、研吾の言葉を遮った。「私が何をしたっていうの? あのときキスしてきたのはあんたでしょう。私が誘惑したとでも言うの?結局、あんたも晴香をそこまで愛してなかったのよ。非常階段で何度も私にキスしてる間、晴香がどう思うかなんて考えた?私は晴香に隠しておくつもりだった。それなのに、自分から私の足をつかんでいるところを見ら