LOGIN一年後、私は北アルペスの麓へ向かう。陸の付き添いでも、キャンピングカーを追いかけてのことでもない。旅行会社主催のレンタカー・キャラバンツアーに申し込んで、参加同意書にサインする。ルートも、補給ポイントも、宿泊先も、緊急連絡先も、すべて明記されている。チェックポイントに着くたび、ガイドがグループチャットで人数確認をしてくれる。【椎名さん、大丈夫ですか?】【はい】と返信する。とても簡単なやり取りなのに、私は車の中でしばらくじっと考え込んでしまう。昔、私が陸に一番送っていた言葉も、これだった。【大丈夫?】【着いた?】【車は停めた?】返事の来ない夜を数え切れないほど過ごしてきた。しまいには、スマホのバイブレーションが鳴るだけで心臓が跳ね上がるようになっていた。でも、今は違う。先頭の車は待ってくれるし、ガイドは人数確認をしてくれる。同行する人たちも「急がなくていいですよ」と声をかけてくれる。雪山の麓に到着する日は、素晴らしい快晴だ。ガイドが「ペースを上げすぎないように。高山病の症状が出たらすぐに言ってくださいね」と声をかける。同行者の若い女性が私に尋ねた。「一人で参加するの、怖くないですか?」少し考えてから答える。「昔は、怖かったかも」「今は?」「今は、正しい助けの求め方を知っているし、世の中の人がみんな既読スルーするわけじゃないって分かったから」彼女は笑う。「それって、すごいですね」それ以上説明しない。自分がすごいわけではない。ただ、いくら呼びかけても応えてくれない人間のそばから、ようやく離れることができただけなのだ。モルゲンロートが現れた時、ツアーの一行は静まり返る。全員がスマホを掲げて、誰かが感嘆の吐息を漏らす。私は人混みの後ろに立って、雪山が徐々に黄金色に染まっていくのを見つめている。ここはかつて、陸が結菜のために生配信をした場所。そして、私を連れてくると約束してくれた場所だ。昔は、この絶景を見逃したら一生後悔すると思っていた。けれど、実際にこの地に立ってみて気づいた。後悔とは、雪山を見られなかったことではない。私が見たいと願ったすべての景色を、決して振り向いてくれない一人の男に委ねてしまっていたこと。それこそが、私の最大の後悔なのだ。写真を撮って、母に送る。母からすぐに返事が
玄関に立って、しばらく彼を見つめてから口を開く。「それ、持って帰っていいわよ」陸は顔を上げて、すがるような希望をその目に浮かべる。「もう必要ないから」と私が言い放つ。その希望の光は、あっけなく消え失せた。陸はずっと、あの未再生の救急外来からのボイスメッセージを気にしている。自分に聞く資格がないことは分かっている。だが、知らないままでいることは、胸が締め付けられるように苦しいのだ。彼からメッセージが届く。【一度だけ、聞かせてくれないか?】私は返信しなかった。再びメッセージが来る。【許してほしいわけじゃない。ただ、あの日お前がどんな思いをしていたのか、知りたいんだ】今回ばかりは返信した。【知って、どうするつもり?】陸は画面を見つめたまま、長文を打っては消し、打っては消すことを繰り返す。最後に残ったのは、たった一言。【せめて、俺がどれだけ取り返しのつかないミスをしたのか、教えてほしい】私はもう返信しなかった。……半月後。婚約破棄の合意書にサインする日、陸はひどくフォーマルなスーツ姿で現れた。彼は30分も前に到着して、私が以前よく頼んでいたカフェオレを注文して、メニューを二度も隅々まで見ていたらしい。せめて最後くらい、一緒に食事ができるとでも思っていたのだろう。しかし、私は書類だけを持って席に着いた。座るなり、すぐに署名ページを開く。「目を通した?」陸は低い声で答える。「ああ」「債務については弁護士の話し合い通りよ。マンションの担保ローンは私が組んだけど、融資金はあんたに振り込まれているから、今後はあんたが負担すること。結婚式のキャンセル費用も、あんたの支払いね」「俺が払う」陸はこちらをじっと見つめる。「紬、俺がお前に借りがあるのは、金だけじゃない……」顔を上げる。「法律で清算できるのは、これだけよ。形に残らないものまで、取り立てる気はないわ」陸の目頭が赤くなる。「どうして、俺を責めないんだ?」「これ以上、あんたに時間を使いたくないから」その一言で、陸は完全に沈黙した。サインを終えても、彼はすぐに席を立とうとしない。「俺たち、これからは友達としてやり直せないかな?」書類をカバンにしまう。「友達なら、間に合ってるわ」陸は無理に笑みを作る。「じゃあ、俺はもう、紬のために何もしてやれないの
陸は必死に埋め合わせをしようとするが、焦れば焦るほど空回りした。最初に私を訪ねてきた時、彼は宅配弁当を持ってきた。蓋を開けてみると、エビ風味湯豆腐だ。「私、術後で食事制限があるんだけど」陸は表情を強張らせる。「先生に聞いたら、これが一番胃に優しいって……」「それに、私が甲殻類アレルギーだってこと、知ってたはずよね?」紙袋を握る陸の手が硬直する。「ごめん……最近、いろいろあって……」受け取らずに言う。「もう帰って」二度目は、焼き栗を持ってきた。彼はマンションの下で2時間も待ち続けて、私を見つけると、ようやく失くしたものを見つけたかのような表情を浮かべる。「紬、昔この店の栗が一番好きだっただろ」紙袋に目を落とす。「すぐそこの角を曲がったところに支店ができたわ。今はどこでも買えるのよ」陸はその場に凍りつく。私は袋を受け取らず、ただ静かに言う。「それに今、栗の匂いを嗅ぐと、手術跡が痛むの」陸の顔からスッと血の気が引いていく。私が何のことを言っているのか、彼には分かったのだ。あの日、彼が持ち帰った焼き栗の半分は結菜の胃袋に収まっていたというのに、彼はただ買って帰りさえすれば、私が喜んで受け取ると思い込んでいたのだ。三度目は、キャンピングカーのキーホルダーを持ってきた。もう一度プロポーズをやり直したいのだと言う。私は一瞥して答える。「もう婚約は解消したのよ」陸は消え入るような声で言う。「分かってる。でも、もう一度最初からやり直したいんだ」「最初からって、あんたの旅から始まるってこと?」私は言った。「でももう、あの車には乗りたくないわ」陸は言葉に詰まる。彼は見よう見まねで料理にも挑戦して、弁当箱を持ってきたりもした。蓋を開けると、ツンとしたスパイスの匂いが漂ってくる。「誰がこんな辛い味付け好きなの?」陸は無意識に答える。「結菜が、車の中でよく……」最後まで言い切る前に、彼自身もハッとして口をつぐむ。私は静かに蓋を戻す。「ほらね。あんたは人の世話ができないわけじゃない。ただ、世話する相手は他の人よ」陸の目が真っ赤に充血して、焦りと無力感が混じった声が漏れる。「紬……俺はただ、お前がずっとそばにいることに慣れきっていただけなんだ」彼を冷ややかに見つめる。「慣れていたんじゃない。気を配る必要
陸が過去のトーク履歴を遡り始めたのは、3日目の深夜だ。最初はただ、紬がまだ自分を許してくれている証拠を探したかった。二人の間にはまだ愛情が残っていると、どこかで証明したかったのだろう。しかし、画面を上にスクロールすればするほど、陸は言葉を失っていく。吹雪の夜の前には、決まって紬から気象警報が送られていた。【明日の夜は冷え込むから、夜通しの運転は控えてね】【その道の駅は冬季閉鎖されてるから、次の補給ポイントに連絡しておいたよ。電話番号送るね】【この間の点検で、右の後輪がかなり摩耗してるって整備士さんが言ってたから、早めに交換して】その時、自分は何と返していただろう、と陸は思い返した。【わかった】【細かいことまで口出ししないでくれ】【紬、俺は子供じゃないんだぞ】時には、既読スルーもあった。当時の陸は、それを煩わしいと感じていた。見えない糸で、無理やり旅から家へ引き戻そうとしているのだと思っていた。しかし今になってようやく気づいたのだ。あの糸は、自分を縛る鎖ではなかった。命綱だったのだ。陸はかつて大きな反響を呼んだ動画を開く。大雪が過ぎ去った雪山の峠道に立って、カメラへ向かって笑いながら話す自分の姿が映っている。「あの夜、無理して進むのはやめようって結菜が止めてくれなかったら、俺たちの車は間違いなく遭難してしまった」コメント欄は、結菜の冷静さと勇気を称賛する言葉で溢れている。その画面を見つめながら、陸はふと、玄関先で結菜が言い放った言葉を思い出した。指先が冷たくなるのを感じながら、陸はさらに履歴を遡る。ついにあの夜、紬から送られていたメッセージを見つけた。午前1時37分。【あの峠道には入らないで。気象警報が出たから】午前1時42分。【救助隊に連絡した。なんとか車を止めてもらうように頼んだから】午前2時06分。【お願いだから一言返事して。無事に停車したことだけ確認させて】その下に、陸からの返信は一つもない。あの夜、必死に陸を引き止めようとしていたのは、結菜ではなく、紬だった。救助隊にも、地元の警察署にも電話をかけ、陸のチームで唯一紬の電話に出たドライバーにまで頼み込んでいた。「車の中に、言うことを聞かない人がいるかもしれないから、先回りして止めてください」と、相手に懇願したのだ。その
ファンミーティングの動画はあっという間にネット上で拡散された。コメント欄を見る気にもなれず、病院で母の付き添いをしている。目を覚ました母が最初に口にしたのは、陸への文句ではなく、私を気遣う言葉だ。「紬、痛くないの?」母の手を握り返す。「もう痛くないよ」青ざめた私の顔を見つめて、母は目を赤くした。「手術のことじゃないわよ」うつむいて、長い沈黙のあと、口を開く。「昔は痛かったけど、今はもう痛くないの」言い終わってから、自分でも少し驚いた。人が本当に吹っ切れた時というのは、胸が張り裂けるような悲しみを伴うものではないのだ。相手のための言い訳を、もう探さなくてよくなる。ただそれだけのことだ。翌日、結菜が動画を投稿した。白い壁を背に座って、目を真っ赤に腫らした彼女は、「私も陸さんに騙されていました」と語り始める。「私はずっと、陸さんと椎名さんの関係はとっくに冷え切っているのだと思っていた。彼に依存していたことは認めるが、誰かを傷つけるつもりはなかったの。あの録音のことも、何気なく聞いただけ。こんなことになるとは……」その動画を見終えると、新居の玄関の監視カメラの映像を弁護士に転送した。映像の日付は、結菜が初めて家に来た日、つまり、私が救急入院した2日目の夜だ。そこに映る結菜は、事情を知らずに連れてこられた客のようには見えなかった。慣れた手つきで靴を脱いで、迷うことなくゲストルームへ入り、ベッドサイドに自分の充電器を挿している。弁護士が尋ねる。「これも公開しますか?」「ええ。ただ、事実だけを公開して、私見は入れないでください」画像が公開されると、結菜の動画のコメント欄は瞬く間に批判で埋め尽くされる。彼女はまた主張を翻して、「高山から下りてきて体調が悪かった。陸さんに休ませてもらっただけで、あそこが椎名さんの家だなんて本当に知らなかった……」と言い訳を重ねた。……陸が結菜の元を訪れたのは、夕方のことだ。ドアが開く。目の前に立つ結菜の目は、まだ赤く腫れている。「陸さん、何しに来たの?今、みんな私を叩いているのに」陸は結菜を真っ直ぐ見据えて、胸の奥で渦巻く怒りを押し殺しながら、低く問いかける。「雪山の動画……お前、わざと衛星電話を映したのか?」結菜の顔から、かわいそうな被害者の表情がゆっくりと消えていく。「今さら
音声データが流れ終わった瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。さっきまで「謝れ」と騒ぎ立てていたファンたちの手も、スマホを掲げたまま宙で固まっている。オーディオケーブルへ伸ばした陸の手が、そのまま止まっている。司会者がいち早く我に返って、場を収めようとする。「えー、何かの誤解かと思われます。皆様、まずは落ち着いて……」司会者には見向きもせず、私は陸から目を逸らさない。「誤解なの?」陸がこちらを振り返る。その顔色はすっかり青ざめていたが、それでも必死に声を潜めて言う。「紬、こういうのを一部だけ切り取って判断するな。あれはただの冗談だったんだ」「冗談?」私は次の録音データを再生する。「じゃあ、最後まで聞いてみる?」スピーカーからキャンピングカーのドアが閉まる音が響く。誰かの声がした。「陸さん、椎名さんをこんな風に騙すの、ちょっとエグくないすか?この前だって、金のためにマンションまで担保に入れさせてるし」陸の笑い声が続く。「あいつが本気で離れていくわけないだろ。俺が旅先で野垂れ死にするのを、誰よりも怖がってるんだから」客席から、息を呑む音が漏れた。録音は続く。結菜の声だ。さっきステージで泣いていた時よりも、ずっと冷静な声色。「でも、もし圏外じゃないってバレたらどうする?」陸が答える。「バレないって。あいつ、衛星電話の請求書の明細なんて見ない。ただ支払いだけするんだ」結菜が少し黙った後、小さく尋ねる。「それって、彼女を信じすぎじゃないの?」陸は笑った。「信じてるんじゃなくて、あいつが俺から離れられないだけだ」ここまで聞いても、何も感じなかった。もっと取り乱すかと思っていたのに、実際にこれらの言葉を耳にすると、不思議なほど心が凪いでいる。陸は一時的に私を忘れていたわけではない。私がどれほど心配するか、必ず彼を助けようとすること、彼のためなら自分をどこまで犠牲にするか。すべてを計算し尽くして、利用していたのだ。陸が血相を変えて前に飛び出してくる。「もういいだろ!」視線を上げる。「何をそんなに焦ってるの?圏外で遭難なんてしてなかったことがバレるから?それとも、私が救急搬送されたあの日も、本当は電波が繋がっていたことがバレるから?」陸の声が弱々しくなって、懇願するような色が混じる。「紬、家に