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雨の中、もう君とは歩けない

雨の中、もう君とは歩けない

Oleh:  桐谷Tamat
Bahasa: Japanese
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別れてから三年目、元嫁の篠宮栞(しのみや しおり)が子どもの手を引いて、俺の働いてる店に服を買いにやってきた。 俺は一瞬固まったが、いつもと変わらず丁寧に接客した。 距離感も言葉遣いもマニュアル通り。昔のことにはひと言も触れなかった。 栞はしばらく黙っていたが、ふと変形した俺の指をそっと握った。 「ここ、まだ痛む?」 俺は静かに袖口を引き、指先を隠して、もうなんともないと答えた。 その会話は俺たちの間には何ひとつ変わったことなどないみたいだった。 ただもう愛し合っていない、それだけだ。

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Bab 1

第1章

もうなんともないだなんて、本当はそんなことはなかった。

俺は目を伏せ、変形した指の骨を見つめた。雨の日になると、一晩中眠れないほど痛む。

昔の俺なら、わざと大袈裟に言って、栞を心配させていたし、怪我を口実に甘えて、栞にキスをねだったりもした。

けれど、今はもうそんなことはしない。

人間、いつまでも相手にすがりついて、惨めな真似を続けられるわけじゃない。

栞は下唇を噛み、そっとため息をついた。

「圭吾、嘘はよくないよ。昔のあなた、すごく痛がりだったでしょ」

俺は眉を伏せ、感情を押し隠した。

「わかってるだろ。もう昔の話だ」

栞は困ったような顔をして、昔みたいに俺の手を取ろうとした。

「悪い人!ママ、その人に触っちゃダメ!帰ったらパパに言いつけるから!」

篠宮悠愛(しのみや ゆあ)が飛び込んできて、俺を突き飛ばした。そのまま力いっぱい、俺の太ももに噛みつく。痛みで足が痺れる。

「あっち行け!お前のせいだ!お前さえいなかったら、ママはパパに怒ったりしなかったんだ!パパはお前なんか大嫌いだ!ママを誘惑するな!

こいつの服なんか買っちゃダメ!汚いし臭い!こんなやつ、飢え死にすればいいんだ!」

悠愛はテーブルの上のハサミを掴むと、もう一度俺に向かって突っ込んできた。

「悠愛!やめなさい!」

栞が腕を掴んだ。悠安に本気で怒ったところを見たのはこれが初めてだった。

「謝りなさい」

「嫌だ!こいつがいなければ、パパは悲しまなかった!全部こいつが悪いんだ!」

悠愛は納得できないとばかりに俺を睨みつけている。今にも飛びかかってきそうだった。

かつて自分の手で育てた子ども。俺に驚くほどよく似たその顔を見ても、不思議なくらい、何の感情も湧かなかった。ただ、少し滑稽に思えただけだ。

栞は険しい顔で悠愛を俺の前まで引っ張ってくると、無理やり俺をパパと呼ばせようとした。

悠愛は小さな拳をぎゅっと握り、全身で拒絶する。

「違う!こいつは僕のパパじゃない!僕のパパのほうが背も高いし、かっこいい!こんな不細工じゃないもん!こいつなんか死んじゃえばいい!そしたら今のパパだって喜ぶ!」

「悠愛!」

栞は悠愛の手を掴んだまま、震えていた。俺は静かに彼女を制した。

「子どもなんだから、そこまでしなくていい。呼び方なんて、ただの呼び名だろ」

「いい人ぶらないで!」

悠愛は思い切り俺を突き飛ばすと、キッズ携帯に向かって泣きながら訴え始めた。

栞はスカートの裾を握りしめ、複雑な表情で振り返る。

「圭吾、悠愛は……」

疲れたように手首を揉んだ。

「もういい。仕事、何時に終わるの?待ってるから」

「いいよ」

俺は意識して距離を取り、腰をかがめて散らかったものを片づけ始めた。

「旦那さんが家で待ってるだろ」

「おや、篠宮社長じゃないですか」

奥から店長が出てきた。

俺を邪魔者でも見るように一瞥すると、嫌そうに足で小突き、すぐさま愛想笑いを浮かべる。

「新作がたくさん入ったんですよ。今日もご主人のお洋服をお探しですか?前回ご注文いただいたスーツも仕上がっております。よろしければ……

いやあ、人手不足でしてね。仕方なく、こんな使えない店員まで雇ってるんですよ。お気に召さないようでしたら、すぐクビにしますから」

栞は何も言わなかった。ただ、まっすぐ俺を見つめていた。

もしかすると、俺が何か言い返すのを待っていたのかもしれないが、残念ながら、その期待に応えるつもりはなかった。

俺は黙ったまま、自分の仕事を続けた。しばらくして、栞の目が赤くなった。

「必要ありません。この人はちゃんと働いています」

店長は声を上げて笑った。

「いやあ、篠宮社長は本当にお優しい。この男、手癖まで悪いんですよ。私だって本当なら雇いたくないくらいでして。

この前なんて、ご主人も言ってましたよ。大勢の前で高級腕時計を盗んだって。金に困りすぎて頭がおかしくなったんでしょうな」

そう言って、また俺を見下すように睨む。まるで恩を着せるような口調で続けた。

「まあ、篠宮社長がおっしゃるなら、引き続き働かせてやるよ」

俺は淡々と頷いた。何も感じなかった。

その瞬間、栞が突然、俺のつま先を踏みつけた。息を呑むほど綺麗な顔で、俺を睨みつける。

「圭吾、何か言い返しなよ」

俺が黙ったままでいると、焦ったように繰り返した。

「言い返しなよってば。昔のあなたは、あんなに自信に満ちてたじゃない。その気概はどこにいったの?違うって言って。盗んでないって、ちゃんと言いなよ」

俺は口元をわずかに歪め、彼女を押しのけた。

「店長の言うとおりだ。俺が盗んだ」

店長はそこでようやく、何かがおかしいと気づいたらしい。

「篠宮社長……もしかして、お知り合いで?」

「私は……」

「知りません」

栞の言葉を遮り、俺は顔を上げた。まっすぐ彼女の目を見つめる。

「篠宮社長とは、赤の他人です」

この身体になったのは、栞のせいだけどな。

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第1章
もうなんともないだなんて、本当はそんなことはなかった。俺は目を伏せ、変形した指の骨を見つめた。雨の日になると、一晩中眠れないほど痛む。昔の俺なら、わざと大袈裟に言って、栞を心配させていたし、怪我を口実に甘えて、栞にキスをねだったりもした。けれど、今はもうそんなことはしない。人間、いつまでも相手にすがりついて、惨めな真似を続けられるわけじゃない。栞は下唇を噛み、そっとため息をついた。「圭吾、嘘はよくないよ。昔のあなた、すごく痛がりだったでしょ」俺は眉を伏せ、感情を押し隠した。「わかってるだろ。もう昔の話だ」栞は困ったような顔をして、昔みたいに俺の手を取ろうとした。「悪い人!ママ、その人に触っちゃダメ!帰ったらパパに言いつけるから!」篠宮悠愛(しのみや ゆあ)が飛び込んできて、俺を突き飛ばした。そのまま力いっぱい、俺の太ももに噛みつく。痛みで足が痺れる。「あっち行け!お前のせいだ!お前さえいなかったら、ママはパパに怒ったりしなかったんだ!パパはお前なんか大嫌いだ!ママを誘惑するな!こいつの服なんか買っちゃダメ!汚いし臭い!こんなやつ、飢え死にすればいいんだ!」悠愛はテーブルの上のハサミを掴むと、もう一度俺に向かって突っ込んできた。「悠愛!やめなさい!」栞が腕を掴んだ。悠安に本気で怒ったところを見たのはこれが初めてだった。「謝りなさい」「嫌だ!こいつがいなければ、パパは悲しまなかった!全部こいつが悪いんだ!」悠愛は納得できないとばかりに俺を睨みつけている。今にも飛びかかってきそうだった。かつて自分の手で育てた子ども。俺に驚くほどよく似たその顔を見ても、不思議なくらい、何の感情も湧かなかった。ただ、少し滑稽に思えただけだ。栞は険しい顔で悠愛を俺の前まで引っ張ってくると、無理やり俺をパパと呼ばせようとした。悠愛は小さな拳をぎゅっと握り、全身で拒絶する。「違う!こいつは僕のパパじゃない!僕のパパのほうが背も高いし、かっこいい!こんな不細工じゃないもん!こいつなんか死んじゃえばいい!そしたら今のパパだって喜ぶ!」「悠愛!」栞は悠愛の手を掴んだまま、震えていた。俺は静かに彼女を制した。「子どもなんだから、そこまでしなくていい。呼び方なんて、ただの呼び名だろ」「いい人ぶらないで
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第2章
見慣れたその顔。俺は、臆病で気弱だった栞が、一人で何でもこなせるようになるまでをずっと見てきた。栞は幼い頃からよく俺の家に遊びに来ていた。あの頃の栞は痩せて小さく、口数も少なかった。俺の母は「圭吾の面倒を見てあげて」と栞に言っていたけれど、今思えば、むしろ俺が彼女の面倒を見ていた気がする。俺はいつもわざと栞をからかった。あちこち遊びに連れ回しては、恥ずかしそうに頬を赤くする姿を見るのが好きだった。栞をかわいいと褒めるたび、彼女は足をばたつかせて否定した。そして、しどろもどろになりながら付け足す。「圭吾も……かっこいいよ、すごく」一晩中眠らず、ほかの女の子たちを真似して、小さな星を折って瓶いっぱいに詰めてくれたこともある。そして恥ずかしそうに、ほかの誰かを好きにならないで、と言った。栞はいつも俺の後ろに立って、小さな声で繰り返していた。「圭吾……私の圭吾」まるで俺の小さな子分だった。俺以外の言うことなんて、ほとんど聞かなかった。十六歳のとき、俺は橘家に恨みを持つ連中に拉致された。閉じ込められた廃倉庫が、轟音とともに崩れ落ちた。もう助からないと、周囲の誰もがそう言っていた。それでも栞だけは諦めなかった。血まみれの脚を引きずりながら、素手で瓦礫を掘り返し、俺を助け出してくれた。俺の胸に倒れ込み、息もできないほど泣きじゃくっていた。その後、栞は一か月姿を消した。正確には、一か月もの間、集中治療室にいた。片脚を失ってもおかしくないほどの重傷だった。目を覚ました日、俺は栞を抱きしめながら目を赤くした。なのに彼女は笑っていた。「泣かないで。目が腫れたら、せっかくのかっこいい顔が台無しだよ」俺のほうから、彼女にキスをした。その日の夜、栞は俺の服を掴んで言った。「責任、取ってね」そうして俺たちは、周りの声も聞かずに付き合い始めた。母は何度も反対した。それでも栞は、何を言われても別れないと言い張った。その一途さから、いつしか周囲では「純愛の化身」とまで呼ばれるようになった。それから十年以上、俺たちの恋愛はちょっとした伝説のように語られていた。やがて母が病に倒れ、入院した。命さえ危うい状態だった。栞はほとんど眠ることなく、献身的に母の世話をした。そして目を真っ赤にしながら、
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第3章
航はこの家に残ることになってからも、ずっと不安そうにしていた。その目の奥には、いつも怯えが滲んでいた。ここはもうお前の家でもあるんだから、と俺は笑って安心させた。航は感激したように俺の手を握った。「ありがとうございます、兄貴!実の親より、ずっとよくしてもらってます、俺、絶対に頑張ります。いつか必ず恩返ししますから」俺は笑って、軽く拳で肩を小突いた。それから会社の仕事を教え、服装も整えてやり、上流の人間たちの輪にも馴染めるよう手を貸した。何か問題が起きれば、俺が前に出て解決したこともある。一人でも人手が増えれば、栞の負担が少しは軽くなる。俺は純粋に、航にも幸せになってほしかった。やがて航は、人前でも堂々と話せるようになり、自信もついていった。誰かに航を紹介するとき、俺はいつも、こいつは俺の弟みたいなもんだと言った。栞の態度も少しずつ変わっていった。買ってくるプレゼントは、いつしか二人分になった。自分から航に話しかけるようになり、ときには甘えた口調を見せることさえあった。航も栞のそばをうろつきながら笑って会話に加わり、少し寂しそうに言った。「俺、栞さんみたいな人に憧れてるんです。羨ましいなって思います」すると栞は迷うことなく、航を会社へ連れていった。仕事を一から、手取り足取り教え始めた。普段は何より効率を重視する栞が、驚くほど根気よく付き合っていた。あまりにも熱心なので、俺が思わず釘を刺したこともあるが、栞は言った。「向上心があるのはいいことでしょ。せっかくやる気があるのに、邪魔したくないの。どうせ身内みたいなものなんだし、少しくらい面倒を見てもいいじゃない。そのうち私も楽になって、圭吾と過ごす時間を増やせるし。安心して。仕事は仕事だから。私が好きなのは、圭吾だけだよ」それから栞と航が二人が会社で過ごす時間は、どんどん長くなっていった。栞は昔から働き詰めだった。だから俺は航に、栞のことをちゃんと支えてやってくれと頼み、二人分の食事まで俺が用意するようになった。航は言った。「栞さんは、兄貴みたいな旦那さんがいて幸せですね」栞は俺に抱きつきながら笑った。「もう一生仕事なんてしたくない。ずっと圭吾にくっついてたい」なのに、ネット上に、二人の動画が流出した。会社のオフ
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第4章
栞は航を家から追い出した。俺はそれから、細心の注意を払って家事や栞の世話をした。栞もまた、以前のように俺に甘えるようになった。そうして数か月だけは、どうにか穏やかな日々を過ごせた。俺はてっきり、栞がようやく目を覚ましてくれたのだと思っていた。けれど妊娠八か月を迎えた頃、栞は夜になっても帰ってこなくなった。帰宅した彼女の身体には、あの嗅ぎ慣れたメンズ香水の匂いが染みついていた。俺は栞の手首を掴み、声を荒らげた。「栞、お腹の子のことを考えたことはあるのか?」だが栞は意にも介さず、背を向けた。その表情は、波ひとつ立たない水面のように冷え切っていた。それどころか、人をつけて俺を四六時中見張らせるようになった。ネットでは、栞と航の噂が連日話題になり続けた。そして、子どもが生まれた場所さえ、病院ではなくホテルだった。その部屋には、栞と航が一緒に過ごした痕跡がまだ残っていた。栞は予定より早く生まれたばかりの子を、俺に押しつけた。俺は感覚が麻痺したような状態で、その小さな身体を抱きしめた。そして、橘悠愛(たちばな ゆあ)と名づけた。ただ、平穏に、無事に育ってほしい。悠愛は、俺の残りの人生を生きる希望だった。俺は必死に育てた。三歳になるまで、できることはすべてやった。なのに、航がたったひと言、父親になってみたい、と言っただけで、栞は悠愛を俺から奪った。栞は航と悠愛を連れて旅行へ行った。三人で写真を撮り、楽しそうに笑っていた。まるで、あの三人こそが本当の家族であるかのように。俺はどうしても悠愛に会いたくなって、幼稚園まで迎えに行ったが先生に、知らない人には渡せない、と言われた。胸を刃物で抉られたようだった。「俺はこの子の父親です。迎えに来たんです」「違う。この人、僕のパパじゃない」悠愛は先生の後ろに隠れ、警戒するように俺を見つめた。息が詰まった。「悠愛、パパだよ。覚えてないのか?」「こんなパパ、僕にはいない!悪い人だもん!不細工だし、いちいちうるさいし。だからママに捨てられたんでしょ!僕は航パパに迎えに来てほしい!航パパが僕のパパなの!」怒りと悲しみで、悠愛を掴んだ手が震えた。「どうしてそんなことを言うんだ!お前は橘悠愛だろ!」「本人が嫌がってるのに、兄貴は何を無理強いしてるんで
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第5章
栞は俺に金を渡してくれなかった。病院に行くことさえできなかった。家で何日寝込んでいたのかも分からない。そんなある日、悠愛がやってきた。一瞬、自分の目がおかしくなったのかと思った。悠愛はコップを手に、俺の前に立っていた。目を伏せたまま、小さな声で言う。「パ……パパ」幻聴かと思った。悠愛は俺にコップを差し出した。「お水、飲んで」俺は何の疑いもなく信じた。一気に飲み干した。一滴も残さずに。そして悠愛を抱きしめた。身体が震えた。胸の奥が、どうしようもなく痛かった。「悠愛……もう一回……呼んでくれないか……」悠愛の身体は、腕の中で硬直していた。やがて、俺の身体に異変が起き始めた。そこでようやく気づいた。あの水には、毒が入っていた。息ができなくなっていく中、悠愛は俺を力いっぱい突き飛ばし、逃げ出した。「ふん、本当に騙されやすいんだね。パパが、言う通りにして帰ったらお菓子くれるって言ったからやっただけ!じゃなきゃ、パパなんて呼ばないよ!気持ち悪い!」悠愛は一度も振り返らなかった。俺はその小さな背中を見つめたまま、息をする力さえ失っていた。「……何で……」病院では、何度も危篤状態になったらしい。病院側は緊急連絡先へ電話をかけた。電話に出たのは悠愛だった。悠愛は不機嫌そうに、電話口で怒鳴った。「まだ死んでないの?早く死んでよ!そしたらママとパパが結婚できるのに!ずっと居座って、わざとパパを困らせてるんでしょ!」電話の向こうでは、航が栞を宥めている声が聞こえた。栞はうんざりしたように鼻で笑った。「また?今度は何を理由に、私を呼び戻そうとしてるの?また脅してるつもり?切って。電話代がもったいない」俺はもう、涙すら出なかった。それでも運だけはよかったらしい。死ななかった。毒では死ななかった。その代わり、胃がんが見つかった。手も、もう自分のものとは思えないほど変わっていた。昔の俺は絵を描いていた。でも、この手ではもう何もできない。それが幸運なのか、不幸なのか。俺には分からなかった。離婚届を持って、栞のオフィスを訪ねた。彼女の首筋には、まだキスマークが残っていた。手の中でペンを弄びながら、栞は笑みを崩さない。「離婚?本当に決めたの?悠愛と離れても平気なの?」「ああ」「あとになって
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第6章
一瞬、意識が遠のくような感覚に襲われた。昔、俺が怒るたびに、栞はいつもそう呼んでいた。そういえば、最後に圭吾くんと呼ばれたのがいつだったのか、もう思い出せない。いつからだっただろう。彼女が俺を呼ぶ言葉は、少しずつ変わっていった。栞は俺の手を引いて車に乗せた。強引にキスをして、家まで送ると言った。部屋に入ると、辺りを見回し、それから俺の腰に腕を回した。「ここに住んでるの?私をアテにしないで、こんなところで苦しい暮らしをするほうがいいっていうの?それとも、まだ私に意地を張ってるだけ?私が放っておけないって、分かってるくせに……」俺は気づかれないように数歩後ろへ下がった。そして、まっすぐ栞を見る。「違う。俺は今、幸せだよ」栞は唇を引き結ぶと、俺の顔を無理やり自分のほうへ向けた。「どこが幸せっていうの?その曲がった指が?それともこんな貧しい暮らしが?圭吾、全然幸せそうじゃないのに。私の前でまで強がる必要ある?」俺は身体を横に向け、窓辺へ視線を逸らした。全身の筋肉がこわばる。「栞。俺は今の暮らしで満足してる」栞は長いこと黙っていた。やがて、ゆっくりと手を離した。「私を恨んでるんだね」声が小さくて、よく聞き取れなかったが、もうどうでもよかった。「俺、もう寝るから」背を向けた瞬間、また腕を掴まれた。栞の身体が、ぴたりと俺に重なる。「待って。少しだけ。少しだけ抱きつかせて」あまりにも強く抱きしめられ、息が苦しくなる。けれど、振りほどく力すら俺には残っていなかった。「圭吾……私、幸せじゃないの。この何年も、ずっと圭吾のこと考えてた。一緒にうちに帰ろう?ね?」栞は嗚咽を漏らしながら、震える手で小さな箱を取り出した。「これ……圭吾なら気に入ると思って。前に一番好きだったブランドだよ。お揃いで買ったの」薄暗い照明の下で、腕時計がきらきらと輝いていた。確かに、昔の俺が一番好きだったブランドだった。毎年新作が出るたび、栞は俺を連れて買いに行ってくれた頃もあった。だがやがて彼女は俺を「働きもしない穀潰し」と呼ぶようになった。こんな高価なものを持つ資格なんてない、と。そして同じようなものを、航には惜しげもなく与えた。自分が今持っているものの多くが、もともとは俺が与えたものだったことさ
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第7章
この数年、俺は何度も何度も考えた。俺はそんなに罪深い人間だったのか。だからこんな目に遭うことになったのか。でも俺は本当に何もしていない。子どもの頃から、俺は何不自由なく育ってきた。大切にされて、望めば何でも手に入った。なのに今では目を閉じることさえ怖い。夢の中でまで、あいつらが俺を殺しに来る気がした。翌朝、俺は墓地へ向かった。そして、母の墓の隣にある区画を買った。腰をかがめ、墓石を丁寧に拭く。けれど、拭けば拭くほど身体から力が抜けていった。最後には耐えきれず、その場に座り込んだ。「母さん……会いたいよ。もう少しだけ待ってて。すぐ行くから」母も天国で泣いているのだろうか。俺たちの結婚を認めたことを、後悔しているのだろうか。母は会社では誰よりも厳しく、決断も早い人だった。それでも、一番優しい顔はいつも俺に向けてくれた。よく俺の手を握って、笑っていた。「圭吾はいい子ね。圭吾には、これからずっと幸せな暮らしだけさせてあげる。お母さんと一緒にいれば、苦労なんてしなくていいのよ」でも結局、俺は幸せにはなれなかった。母はあまりにも早く逝ってしまった。もし母がまだ生きていたら。俺もここまで一人ぼっちにはならなかったのかもしれない。「おやおや、こんなところにいたんですか。そこから降りてから泣けば?」航が悠愛の手を引いて立っていた。きっちりとスーツを着込み、見下すように俺を見る。「まだ自分をお坊ちゃんだと思ってるんですか?今の兄貴、ほんと惨めですね。まだ栞さんに戻ってきてもらおうなんて思ってるんです?自分が今どんなザマか、鏡で見たほうがいいですよ。それに、兄貴のお母さんも。あれだけ会社を大きくしたんだから、何人の男のベッドを渡り歩いたんでしょうね。いやあ、ご苦労なことです」一気に血が頭へ上った。喉の奥に、鉄臭い味が広がる。俺は近くに落ちていたレンガを掴み、航の頭へ叩きつけた。そのまま胸ぐらを掴む。「ヒモのお前と一緒にするな。もう一度言ってみろ。今すぐ母さんに謝れ!」母は、どれだけ苦しくても、どれだけ疲れていても、俺の前では一度だって弱音を吐かなかった。死んだ後までこんな下劣な噂で汚される理由なんてない。横では悠愛が怯えて、大声で泣いていたが、耳には入らなかった。航の頭が血まみれになるまで
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第8章
栞はよろめきながら後ずさった。壁に手をつき、必死に身体を支える。「その頃にはもう……でも、治せたんだよね?その時なら、まだ治療できたんでしょ?だったら、どうして私に言わなかったの!」そうだ。あの頃なら、まだ治療できた。でも、俺は治したくなかった。もう栞から罵声を浴びせられたくなかった。自分の子どもに、早く死ね、と急かされるのも嫌だった。それに母さんに会いたかった。栞は俺に飛びつき、胸に顔を埋めた。「大丈夫……大丈夫だから。絶対に治るよ」けれど、俺の心も身体も、少しずつ壊れていった。病状は驚くほどの速さで悪化した。栞は狂ったように俺を連れ回した。国中の病院を巡り、それでも駄目なら海外へ飛んだ。一番いい病院。一番腕のいい医者。金に糸目をつけず、ありとあらゆる手を尽くした。けれど、どこへ行っても結果は大して変わらなかった。栞は病院の廊下で泣いた。医師も看護師も、本当に献身的な奥様ですねと、口を揃えて言った。俺には、それがひどく皮肉に聞こえた。本当に、いい妻だ。妊娠中に別の男と寝て、俺を精神科病院へぶち込もうとして、この両手まで壊したくせに。今さら、よくこんな真似ができる。うるさかった。俺は退院して家に帰りたいと言った。けれど栞は、俺を手放そうとしなかった。どこへ行くにも連れていった。会社にまで俺を連れて行き、欲しいものがあれば何でも与えた。すると社員たちは陰で噂した。俺は愛人で、ついに正式な夫の座を勝ち取ったのだと。俺はもう、何を言われても何も感じなかった。けれど栞のほうが耐えられなかった。噂をしていた社員を激しく殴りつけた。「黙りなさい!あの人は私の夫よ!十六歳の頃から付き合ってる、私の夫!ちゃんと結婚して、戸籍上も夫婦なの!これ以上くだらないことを言う人間は、全員クビにするから!」息を切らすほど暴れた栞には、昔のような洗練された美しさなんて、もうどこにもなかった。ふらふらしながら俺のところへ戻ってくると、俺の膝に顔を伏せ、甘えるような声を出した。「圭吾……ねえ、もう一回くっついてもいい?会いたかった。昔に戻りたいよ……お願い……私を一人にしないで……」俺は聞こえなかったふりをした。昔、か。俺の記憶は日に日に曖昧になっていた。昔のことも、もうすぐ全部忘れてしまいそうだ
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第9章
再び目を覚ました頃には、夕日が沈みかけていた。窓の外は、一面の橙色に染まっている。ネットではまた、栞と航の話題が広がっていた。今度は、以前よりもっと露骨な写真まで一緒に流出していた。わざわざ匿名で、俺に送りつけてきた人間もいる。【二人とも幸せそう。こっちのほうがお似合いだね】【あなたと寝てたときより、百倍楽しそう】その下には、動画まで添えられていた。俺は何の感情も湧かないまま、再生した。正直、昔見たものと大して変わらなかった。「圭吾!見ないで!」栞が勢いよく部屋へ飛び込んできた。スマホからはまだ動画の音声が流れ続けている。栞は俺の手からスマホを奪った。止めようとしても、なぜかうまく止まらない。最後には、そのまま窓の外へ投げ捨てた。そして、縋るような目で俺を見る。「見ないで。私がちゃんと全部処理するから。お願い……」俺は短く返事をした。別に、どうでもよかった。栞はすぐに俺を抱きしめると、何度も繰り返した。「信じて。圭吾、私を信じて」そしてまた、俺にキスをしようとした。俺は自然に顔を逸らした。栞の動きが止まる。下唇を強く噛み、血が滲んだ。「……キスが嫌なら、しない。だから少しだけ、抱きしめさせて」悠愛は枕を抱え、ドアの陰に小さくなって立っていた。少しずつ、こちらへ近づいてくる。「パ……パパ……悠愛も、ぎゅってしたい……」俺は何も答えなかった。悠愛はおそるおそる、俺のベッドの足元に丸くなった。俺はただ静かに、自分に残された日数を数えていた。もう、痛みには耐えられそうになかった。夜中になると、二人は俺が眠った頃を見計らって、こっそりベッドへ潜り込んできた。栞は後ろから俺を抱きしめ、悠愛は俺の胸元へ潜り込む。本当は、全部気づいていたが、二人を押しのけるだけの力すら、もう残っていなかった。栞は、昔のものをたくさん探し出してきた。見覚えのあるプレゼント。昔書いたラブレター。俺を喜ばせるため、栞が徹夜で作ったアルバムまであった。栞は俺に寄り添い、一枚ずつ昔の写真をめくった。「圭吾、この写真覚えてる?こっそり撮ったやつ。ここで圭吾が私にキスしたの。こっちはお揃いの服着てる。圭吾が、私のこと子猫みたいって言ってくれたんだよ。これも……圭吾が髪を編んでくれたの。嬉しくて、ずっとほど
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第10章
その日を境に、二人もようやく少し落ち着いたらしい。もう騒がなくなった。俺は歩くこともできず、ベッドに横たわったまま、日が昇り、沈んでいくのを眺めていた。息をするだけでも痛かった。悠愛はこっそり部屋に入ってきて、俺に抱きついてきた。栞は昔の婚姻届受理証明書をネットに公開した。そして、俺たちが出会ってから今に至るまでのことを長い文章にまとめ、何があったのか、すべて明らかにした。自分が犯した過ちも、一つ残らず認めた。航は栞の手で完全に始末されたらしい。生きているのかどうかさえ、俺には分からない。もう、気にする力もなかった。栞は会社を売り払い、その金をすべて俺に渡した。俺は全額、児童養護施設に寄付した。そうして日々は静かに過ぎていった。意識が霞む中、ふと、母さんの姿が見えた気がした。迎えに来てくれたんだ。「母さん……」「圭吾、寝ないで、お願い、目を開けて……」栞が俺の手を握っていた。ほんの一瞬で、何年も老け込んだように見えた。俺はゆっくり瞬きをした。「母さんが見える。俺を迎えに来たんだ」栞は狂ったように首を横に振った。「嫌……嫌だ、私を恨んでいいから、元気になって……元気になって、私を殺しに来てよ、だから諦めないで……お願い……。明日は悠愛の誕生日なの、もう少しだけ頑張って。お願いだから……」悠愛もベッドによじ登り、俺の身体にしがみついた。「パパ……パパ……もう一回、ぎゅってして……?」俺は動けなかった。悠愛のほうから、俺の頬にキスをした。「パパは、ほかのパパよりずっとかっこいいよ。悠愛、パパが一番大好き……」意識がぼやけていく。指先に触れたのは、栞の冷たい長い髪だった。「栞、次は……もう、出会わないようにしよう」栞にも。悠愛にも。もう二度と出会いたくない。誰かを心から愛して、その気持ちを踏みにじられるのも、また傷つけられるのも、もう嫌だった。俺の人生は、惨めなまま生きて、惨めなまま終わった。俺は力なく目を閉じた。そしてようやく望んでいた眠りについた。墓石に刻まれたのは、ただ俺の名前だけだった。……圭吾が死んでから、栞は魂まで抜け落ちてしまったようだった。まともに眠れる夜は一度もなかった。夜中になると、決まって圭吾が夢に出てくる。そしてなぜか栞の両手まで痛
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