Masuk別れてから三年目、元嫁の篠宮栞(しのみや しおり)が子どもの手を引いて、俺の働いてる店に服を買いにやってきた。 俺は一瞬固まったが、いつもと変わらず丁寧に接客した。 距離感も言葉遣いもマニュアル通り。昔のことにはひと言も触れなかった。 栞はしばらく黙っていたが、ふと変形した俺の指をそっと握った。 「ここ、まだ痛む?」 俺は静かに袖口を引き、指先を隠して、もうなんともないと答えた。 その会話は俺たちの間には何ひとつ変わったことなどないみたいだった。 ただもう愛し合っていない、それだけだ。
Lihat lebih banyakその日を境に、二人もようやく少し落ち着いたらしい。もう騒がなくなった。俺は歩くこともできず、ベッドに横たわったまま、日が昇り、沈んでいくのを眺めていた。息をするだけでも痛かった。悠愛はこっそり部屋に入ってきて、俺に抱きついてきた。栞は昔の婚姻届受理証明書をネットに公開した。そして、俺たちが出会ってから今に至るまでのことを長い文章にまとめ、何があったのか、すべて明らかにした。自分が犯した過ちも、一つ残らず認めた。航は栞の手で完全に始末されたらしい。生きているのかどうかさえ、俺には分からない。もう、気にする力もなかった。栞は会社を売り払い、その金をすべて俺に渡した。俺は全額、児童養護施設に寄付した。そうして日々は静かに過ぎていった。意識が霞む中、ふと、母さんの姿が見えた気がした。迎えに来てくれたんだ。「母さん……」「圭吾、寝ないで、お願い、目を開けて……」栞が俺の手を握っていた。ほんの一瞬で、何年も老け込んだように見えた。俺はゆっくり瞬きをした。「母さんが見える。俺を迎えに来たんだ」栞は狂ったように首を横に振った。「嫌……嫌だ、私を恨んでいいから、元気になって……元気になって、私を殺しに来てよ、だから諦めないで……お願い……。明日は悠愛の誕生日なの、もう少しだけ頑張って。お願いだから……」悠愛もベッドによじ登り、俺の身体にしがみついた。「パパ……パパ……もう一回、ぎゅってして……?」俺は動けなかった。悠愛のほうから、俺の頬にキスをした。「パパは、ほかのパパよりずっとかっこいいよ。悠愛、パパが一番大好き……」意識がぼやけていく。指先に触れたのは、栞の冷たい長い髪だった。「栞、次は……もう、出会わないようにしよう」栞にも。悠愛にも。もう二度と出会いたくない。誰かを心から愛して、その気持ちを踏みにじられるのも、また傷つけられるのも、もう嫌だった。俺の人生は、惨めなまま生きて、惨めなまま終わった。俺は力なく目を閉じた。そしてようやく望んでいた眠りについた。墓石に刻まれたのは、ただ俺の名前だけだった。……圭吾が死んでから、栞は魂まで抜け落ちてしまったようだった。まともに眠れる夜は一度もなかった。夜中になると、決まって圭吾が夢に出てくる。そしてなぜか栞の両手まで痛
再び目を覚ました頃には、夕日が沈みかけていた。窓の外は、一面の橙色に染まっている。ネットではまた、栞と航の話題が広がっていた。今度は、以前よりもっと露骨な写真まで一緒に流出していた。わざわざ匿名で、俺に送りつけてきた人間もいる。【二人とも幸せそう。こっちのほうがお似合いだね】【あなたと寝てたときより、百倍楽しそう】その下には、動画まで添えられていた。俺は何の感情も湧かないまま、再生した。正直、昔見たものと大して変わらなかった。「圭吾!見ないで!」栞が勢いよく部屋へ飛び込んできた。スマホからはまだ動画の音声が流れ続けている。栞は俺の手からスマホを奪った。止めようとしても、なぜかうまく止まらない。最後には、そのまま窓の外へ投げ捨てた。そして、縋るような目で俺を見る。「見ないで。私がちゃんと全部処理するから。お願い……」俺は短く返事をした。別に、どうでもよかった。栞はすぐに俺を抱きしめると、何度も繰り返した。「信じて。圭吾、私を信じて」そしてまた、俺にキスをしようとした。俺は自然に顔を逸らした。栞の動きが止まる。下唇を強く噛み、血が滲んだ。「……キスが嫌なら、しない。だから少しだけ、抱きしめさせて」悠愛は枕を抱え、ドアの陰に小さくなって立っていた。少しずつ、こちらへ近づいてくる。「パ……パパ……悠愛も、ぎゅってしたい……」俺は何も答えなかった。悠愛はおそるおそる、俺のベッドの足元に丸くなった。俺はただ静かに、自分に残された日数を数えていた。もう、痛みには耐えられそうになかった。夜中になると、二人は俺が眠った頃を見計らって、こっそりベッドへ潜り込んできた。栞は後ろから俺を抱きしめ、悠愛は俺の胸元へ潜り込む。本当は、全部気づいていたが、二人を押しのけるだけの力すら、もう残っていなかった。栞は、昔のものをたくさん探し出してきた。見覚えのあるプレゼント。昔書いたラブレター。俺を喜ばせるため、栞が徹夜で作ったアルバムまであった。栞は俺に寄り添い、一枚ずつ昔の写真をめくった。「圭吾、この写真覚えてる?こっそり撮ったやつ。ここで圭吾が私にキスしたの。こっちはお揃いの服着てる。圭吾が、私のこと子猫みたいって言ってくれたんだよ。これも……圭吾が髪を編んでくれたの。嬉しくて、ずっとほど
栞はよろめきながら後ずさった。壁に手をつき、必死に身体を支える。「その頃にはもう……でも、治せたんだよね?その時なら、まだ治療できたんでしょ?だったら、どうして私に言わなかったの!」そうだ。あの頃なら、まだ治療できた。でも、俺は治したくなかった。もう栞から罵声を浴びせられたくなかった。自分の子どもに、早く死ね、と急かされるのも嫌だった。それに母さんに会いたかった。栞は俺に飛びつき、胸に顔を埋めた。「大丈夫……大丈夫だから。絶対に治るよ」けれど、俺の心も身体も、少しずつ壊れていった。病状は驚くほどの速さで悪化した。栞は狂ったように俺を連れ回した。国中の病院を巡り、それでも駄目なら海外へ飛んだ。一番いい病院。一番腕のいい医者。金に糸目をつけず、ありとあらゆる手を尽くした。けれど、どこへ行っても結果は大して変わらなかった。栞は病院の廊下で泣いた。医師も看護師も、本当に献身的な奥様ですねと、口を揃えて言った。俺には、それがひどく皮肉に聞こえた。本当に、いい妻だ。妊娠中に別の男と寝て、俺を精神科病院へぶち込もうとして、この両手まで壊したくせに。今さら、よくこんな真似ができる。うるさかった。俺は退院して家に帰りたいと言った。けれど栞は、俺を手放そうとしなかった。どこへ行くにも連れていった。会社にまで俺を連れて行き、欲しいものがあれば何でも与えた。すると社員たちは陰で噂した。俺は愛人で、ついに正式な夫の座を勝ち取ったのだと。俺はもう、何を言われても何も感じなかった。けれど栞のほうが耐えられなかった。噂をしていた社員を激しく殴りつけた。「黙りなさい!あの人は私の夫よ!十六歳の頃から付き合ってる、私の夫!ちゃんと結婚して、戸籍上も夫婦なの!これ以上くだらないことを言う人間は、全員クビにするから!」息を切らすほど暴れた栞には、昔のような洗練された美しさなんて、もうどこにもなかった。ふらふらしながら俺のところへ戻ってくると、俺の膝に顔を伏せ、甘えるような声を出した。「圭吾……ねえ、もう一回くっついてもいい?会いたかった。昔に戻りたいよ……お願い……私を一人にしないで……」俺は聞こえなかったふりをした。昔、か。俺の記憶は日に日に曖昧になっていた。昔のことも、もうすぐ全部忘れてしまいそうだ
この数年、俺は何度も何度も考えた。俺はそんなに罪深い人間だったのか。だからこんな目に遭うことになったのか。でも俺は本当に何もしていない。子どもの頃から、俺は何不自由なく育ってきた。大切にされて、望めば何でも手に入った。なのに今では目を閉じることさえ怖い。夢の中でまで、あいつらが俺を殺しに来る気がした。翌朝、俺は墓地へ向かった。そして、母の墓の隣にある区画を買った。腰をかがめ、墓石を丁寧に拭く。けれど、拭けば拭くほど身体から力が抜けていった。最後には耐えきれず、その場に座り込んだ。「母さん……会いたいよ。もう少しだけ待ってて。すぐ行くから」母も天国で泣いているのだろうか。俺たちの結婚を認めたことを、後悔しているのだろうか。母は会社では誰よりも厳しく、決断も早い人だった。それでも、一番優しい顔はいつも俺に向けてくれた。よく俺の手を握って、笑っていた。「圭吾はいい子ね。圭吾には、これからずっと幸せな暮らしだけさせてあげる。お母さんと一緒にいれば、苦労なんてしなくていいのよ」でも結局、俺は幸せにはなれなかった。母はあまりにも早く逝ってしまった。もし母がまだ生きていたら。俺もここまで一人ぼっちにはならなかったのかもしれない。「おやおや、こんなところにいたんですか。そこから降りてから泣けば?」航が悠愛の手を引いて立っていた。きっちりとスーツを着込み、見下すように俺を見る。「まだ自分をお坊ちゃんだと思ってるんですか?今の兄貴、ほんと惨めですね。まだ栞さんに戻ってきてもらおうなんて思ってるんです?自分が今どんなザマか、鏡で見たほうがいいですよ。それに、兄貴のお母さんも。あれだけ会社を大きくしたんだから、何人の男のベッドを渡り歩いたんでしょうね。いやあ、ご苦労なことです」一気に血が頭へ上った。喉の奥に、鉄臭い味が広がる。俺は近くに落ちていたレンガを掴み、航の頭へ叩きつけた。そのまま胸ぐらを掴む。「ヒモのお前と一緒にするな。もう一度言ってみろ。今すぐ母さんに謝れ!」母は、どれだけ苦しくても、どれだけ疲れていても、俺の前では一度だって弱音を吐かなかった。死んだ後までこんな下劣な噂で汚される理由なんてない。横では悠愛が怯えて、大声で泣いていたが、耳には入らなかった。航の頭が血まみれになるまで