Masuk真冬の冷たい夜気が、コートの隙間から容赦なく入り込んでくる。 日付が変わる少し前。りとと鷲尾は、アパートから歩いて十分ほどの場所にある神社へと足を運んでいた。 大晦日の深夜だというのに、境内は初詣の参拝客で溢れ返り、屋台の明かりと人々の熱気で賑わっている。「うわぁ、すごい人! 課長、はぐれないように気をつけてくださいね!」 「……子供じゃないんだ、はぐれるわけがないだろう。それに、さっきから君の歩くペースが遅いんだ」 相変わらず冷たい口調で文句を言いながらも、鷲尾は人混みに押されそうになるりとを庇うように、さりげなく道路側を歩いてくれていた。黒のチェスターコートを着こなした彼の横顔は、夜の闇の中でもため息が出るほど整っていて、りとは隣を歩けることの優越感に密かに胸を躍らせていた。「あっ、課長! もうすぐカウントダウン始まりますよ!」 境内に設置された時計の針が、頂点に向かって少しずつ近づいていく。周囲の参拝客たちが、自然発生的に声を合わせ始めた。「五、四、三、二、一……!」 ゼロになった瞬間。 パンッ、パーンッ! と、遠くの夜空に色鮮やかな冬の花火が打ち上がった。「あけましておめでとうございます、課長!」 「ああ。……新年早々、うるさいやつだ」 うるさいと言いながらも、鷲尾は打ち上がる花火を見上げて、ほんの少しだけ口角を上げていた。 その穏やかな表情を見られただけで、りとの胸は温かいものでいっぱいになる。「課長、寒いですし、甘酒飲みましょう! 私買ってきます!」 りとは小走りで境内の端にある屋台へ向かい、紙コップに入った熱々の甘酒を二つ買ってきた。 一つを鷲尾に手渡す。「はい、どうぞ! 生姜もたっぷり入れてもらいましたよ」 「……甘酒は飲む点滴と呼ばれるほどブドウ糖とアミノ酸が豊富だ。深夜の冷え切った身体に熱源を供給する手段としては、非常に理にかなっているな」 「もうっ、素直に『温かくて美味しい』でいいじゃないですか!」 フーフーと息を吹きかけながら甘酒を飲むと、麹の優しい甘さと生姜の風味が、冷え切った胃の腑にじんわりと染み渡っていく。 身体が温まったところで、二人は拝殿の前に並び、お賽銭箱の前に立った。 チャリン、と五円玉を投げ入れ、二礼二拍手。(神様! どうか、どうか今年は、鷲尾課長ともっともっと仲
十二月三十一日、大晦日。 世間が年越しの準備で慌ただしく動く中、りとは自室のベッドで大きなクマのぬいぐるみを抱きしめながら、今日も今日とて鷲尾のことばかりを考えていた。(課長……今日くらいは、実家に帰るのかな) ふとそんな疑問が浮かんだが、すぐに首を横に振る。 以前、ホテルで〝レイ〟に初めて施術してもらった時、彼が夜の世界に入った理由を語ってくれたことがあった。『家族が残した多額の借金があって、それをどうしても急いで返済しなければならなかったんです』 その言葉を思い出すと、彼の実家や家族関係は、親族が集まって穏やかに年越しを祝えるような状況ではないのだろうと容易に想像がついた。 だとすれば、今日も隣の部屋にいるのだろうか。 しかし――もし家にいたとしても。(あんな声聞かれて、しかも最中に名前まで呼んじゃって……もう絶対、顔なんて合わせられないっ……!) ベランダでのやり取りを思い出し、りとは「うわぁぁぁっ!」と声を上げてクマのぬいぐるみに顔を埋めた。自分の変態的かつ図々しい妄想が彼に筒抜けだったのだ。穴があったらブラジルまで掘り進めてから埋まりたい。「……そうだ。大晦日だし、年越し蕎麦を作ろう」 このまま一人で悶々としていても気が狂いそうになるだけだ。りとは鬱屈とした気持ちを紛らわすため、夕方、近所のスーパーへと買い出しに出かけることにした。 大晦日のスーパーは、営業時間が短縮されていることもあり、夕方の割引を狙う客たちでごった返していた。 人の波をかき分け、なんとか野菜売り場へと辿り着く。お目当ての長ネギを見つけ、スッと手を伸ばした――その瞬間。 同じネギに向かって伸びてきた大きな手と、自分の手がパシッと重なってしまった。「あ、すみま――」「……甘崎」 謝りながら顔を上げたりとは、息を呑んだ。 そこに立っていたのは、黒のチェスターコートを着こなした鷲尾冴臣その人だった。 まさかこんな激混みのスーパーで遭遇するなんて。気まずさで顔が真っ赤になりそうだったが、ふと彼の持っている買い物かごの中身に目がいった。 かごの中には、生蕎麦、立派なブラックタイガー、長ネギ、そして紅白のかまぼこが綺麗に並んで入っている。「か、課長も、ちゃんと年越し蕎麦食べるんですね……!」 完璧主義で合理的な彼のことだから、大晦日だろうが完全栄養食
日付が変わる頃、乃々羽と別れたりとは、冬の凍てつくような寒さの中を一人、自分のアパートへと歩いていた。「あーあ、飲んだ飲んだ……」 口から吐き出す白い息は、街灯に照らされてすぐに夜の闇へと溶けていく。親友の乃々羽と心ゆくまで愚痴を言い合い、カラオケで喉が枯れるまで騒いだおかげで、沈んでいた気分は随分と軽くなっていた。 年末で静まり返った住宅街の道を歩きながら、りとはマフラーに顔を埋める。 アパートの敷地内に入り、ふと自分の部屋の隣――鷲尾の部屋の窓を無意識に見上げていた。 電気はついておらず、カーテンの隙間からも光は一切漏れていなかった。真っ暗だ。(まだ帰ってないのかな。それとも、もう寝てる……?) 時刻は深夜の零時を回っている。もし彼が今日、女性向け風俗のセラピストとして出勤していたのなら、お客さんを見送り、そろそろ仕事が終わる頃かもしれない。 もしかしたら、そのままお客さんとホテルでお泊まりの時間を過ごしている可能性だって十分にある。 ズキリ、と。アルコールで麻痺していたはずの胸の奥が、再び嫌な痛みを訴えた。カラオケで発散したはずのモヤモヤが、彼の不在を突きつけられただけで簡単に蘇ってしまう。「……私には関係ないし! どうせただのお客さんなんだから!」 りとは冷たい頬を両手でパチンと叩き、自分自身に言い聞かせるように呟いた。彼が誰とどこで何をしていようと、部下であり客でしかない自分がいちいち気に病むことではない。そう、割り切らなければいけないのだ。 逃げるように外階段を駆け上がり、自室のドアを開ける。 暖房をつけてダウンコートを脱いだりとは、この鬱屈とした気持ちを少しでも紛らわすため、キッチンに向かった。 小鍋に牛乳を注いで火にかけ、細かく刻んだビターチョコレートをゆっくりと溶かしていく。とろりとしたところに、隠し味のブランデーをほんの少しだけ垂らした。 お気に入りのマグカップに注ぎ、仕上げに真っ白なマシュマロを浮かべてシナモンスティックを添えれば、甘くて濃厚な大人のホットチョコレートの出来上がりだ。 マグカップから立ち上る湯気と甘い香りに少しだけホッとしたりとは、部屋の窓を開け、ベランダへと出た。「うわっ、さっむ……」 十二月末の深夜の空気は、肌を刺すように冷たい。けれど、いろいろな感情で火照ってしまった頭を冷やすにはち
翌日、十二月三十日。 世間はすっかり年の瀬の慌ただしい空気に包まれている中、りとは昨夜送ったメッセージの通り、親友の乃々羽を呼び出し、街へと繰り出していた。 レイさんが他の女の子と会っているという残酷な現実を少しでも頭から追い出すために、「どうせ暇してるでしょ」と自ら声をかけて付き合ってもらったのだ。「もう、ほんっとに男なんてろくなもんじゃない! 今年の厄は今年のうちに全部落としてやるんだから!」 駅前の大型ショッピングビルに到着するなり、不倫男に騙されていたトラウマから完全にヤケになっている乃々羽の勢いは凄まじかった。 「付き合ってあげるんだから、私の買い物にもとことん付き合いなさいよ!」と息巻く彼女に手を引かれ、アパレルショップから雑貨屋まで、各フロアを端から端まで徹底的に練り歩く。りともそれに付き合いながら、自分用の冬物コートや、気になっていたデパコスをじっくりと見て回った。 一階のコスメフロアは、年末の自分へのご褒美を求める女性たちで賑わっていた。煌びやかなショーケースを覗き込み、りとはずっと気になっていた外資系ブランドの新作リップを試させてもらった。 美容部員に丁寧に塗ってもらったのは、冬らしい、ほんのりと色づく深みのあるプラムピンクのリップだ。鏡の中の自分は、普段のドジで子どもっぽい雰囲気から、少しだけ〝大人の女性〟へと背伸びできているように見えた。(これを塗ったら、少しは大人っぽく見えるかな……。年明けの仕事始めで、課長に会う時につけていこっと。……あっ、でも、ホテルで会う時に塗っていったら、キスした時、彼にも色がついちゃうかな……) 無意識のうちに〝彼〟との接触を想像してしまい、りとは慌ててぶんぶんと首を振った。忘れるために来たのに、結局何を見ても鷲尾の顔がチラついてしまう。 それでも、可愛いコスメを綺麗なショッパーに入れてもらった時の高揚感はりとの心を明るくしてくれた。 買い物の後は、そのまま駅前のカラオケ店に飛び込んだ。 「今日はもう、喉から血が出るまで歌うからね!」とマイクを握りしめる乃々羽とともに、二人は流行りの失恋ソングや、アップテンポなアイドルソングを次々と予約した。 タンバリンを叩き、大声で歌って、笑って、物理的に体力を消費する。 「クソ男には天罰が下れーっ!」と叫ぶ乃々羽に合わせ、りとも「そうだそうだー
すき焼きの鍋がすっかり空になり、締めに入れたうどんまで綺麗に平らげた頃。 ふと時計の針を見ると、時刻はすでに深夜の十一時を回ろうとしていた。「……すっかり長居してしまったな。そろそろ失礼する」 「あ、はい。お粗末様でした!」 鷲尾はクッションから立ち上がると、「少し待っていろ」と言い残し、一度自分の部屋へと戻っていった。 数分後、再びりとの部屋を訪れた彼の手には、可愛らしい小ぶりの紙袋が提げられていた。「すき焼きをご馳走になった礼だ。賞味期限が今日までで、一人では食べきれないと思っていたところだったからな」 そう言ってローテーブルの上に置かれたのは、デパ地下で行列が絶えないことで有名な、高級洋菓子店の瓶入りプリンが二つだった。 とろけるような滑らかな食感と、濃厚なバニラビーンズの香りで、若い女性を中心に爆発的な人気を誇っているスイーツだ。 しかし、その美しいプリンを見た瞬間、りとの胸にチクリと冷たい棘が刺さった。(これって……もしかして、女性のお客さんからの差し入れ……?) レイは、超人気のトップセラピストだ。休日のデートやホテルでの施術の際に、女性客から高価なプレゼントや流行りのスイーツを差し入れされることなど、日常茶飯事だろう。 つい先程まで、〝二人きりで鍋を囲む特別な時間〟だと浮かれていた自分の頭に、冷や水を浴びせられたような気分になった。 所詮、自分は数多くいる客の一人に過ぎない。彼にとって自分は、特別な存在でもなんでもないのだ。「……どうかしたか、甘崎。甘いものは嫌いだったか?」 「えっ? あ、いえ、そんなことないです。ただ……」 りとは唇を噛み締め、ずんと重くなった声でぽつりと呟いた。「……お客さんからの差し入れですか? だとしたら、私がいただくのはちょっと申し訳ないというか……」 あからさまに顔をしかめ、嫉妬を隠しきれない声になってしまった。 すると、鷲尾はピタリと動きを止め、黒縁メガネの奥の目をパチクリと瞬かせた。そして、少しだけ気まずそうに視線を泳がせると、コホンと小さく咳払いをした。「……客からの貰い物ではない」 「え?」 「仕事帰りに、デパ地下に寄って……俺が食べたくて買ったものだ。それも、わざわざ三十分並んでな」 その言葉に、りとは目を丸くした。「か、課長が、自分で買ったんです
十二月二十九日、木曜日の夜。 今日から一月三日まで、株式会社ウィルクエスは年末年始の長い連休に入った。 世間が帰省や旅行で慌ただしく動く中、りとは暖房の効いた自室のベッドの上で一人、毛布にくるまりながらスマホの画面を見つめていた。 開いているのは、女性向け風俗〝メロウルーム〟の公式ウェブサイトだ。 トップページには『年末年始の営業について:十二月三十一日〜一月二日は休業、一月三日より一部キャストにて営業開始』というお知らせがデカデカと掲載されている。 りとはスクロールして、お気に入り登録している〝レイ〟の出勤スケジュールを開いた。「レイさん、年末も働くんだ……」 ぽつりと、ひとりごちる。 カレンダーには、明日の三十日の夜に〝年内ラスト一枠〟として出勤のマークがついており、年明けは三日の夜からすでに出勤予定が入っていた。 会いたい。 画面越しの出勤スケジュールを見ているだけで、鷲尾の大きな手や、甘いキスの感触が蘇ってきて胸が苦しくなる。 でも、もしここで自分がこの年内ラストの枠を予約してしまったら。 「年末の忙しい時期にわざわざ自分を指名してくるなんて、こいつ本気になってるんじゃないか」と、彼に気づかれてしまうかもしれない。シャワー室でのあの牽制し合うような会話があった手前、それはどうしても避けたい。 それに――もし今から予約しようとして、すでに他の誰かで枠が埋まっていたら。(そっか……レイさんは明日、誰かと年内最後を過ごすかもしれないんだ……) 見ず知らずの他の女の子を優しく抱きしめ、甘い言葉を囁き、あのとろけるようなキスをするのだろう。 そう想像しただけで、心臓がギリッと嫌な音を立てて軋む。勝手に傷つき、勝手に嫉妬している自分がひどく惨めだった。「……あー、もう! 考えるのやめやめ!」 りとはスマホをベッドに放り投げ、むくりと起き上がった。 本当は実家の九州に帰省しようかとも迷ったのだが、年末の帰省ラッシュで新幹線も飛行機も混んでいるし、何より親から「いい人はいないの?」と小言を言われるのが目に見えていて、遠いしめんどくさいなぁと早々に諦めていたのだ。 せめて美味しいものでも食べて、心を満たそう。 りとは立ち上がり、冷蔵庫の扉を勢いよく開けた。 中には、このおひとり様の連休を乗り切るためにスーパーで買い込んでおいた大







