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03.秘密にしましょう

last update Tanggal publikasi: 2026-06-15 12:12:18

 激しい波が何度も押し寄せ、ようやく静まり返ったハイクラスホテルのスイートルーム。

 間接照明の柔らかな光の中、りとは真っ白なシーツにすっぽりと包まれながら、指一本動かせないほどの心地よい疲労感にどっぷりと浸っていた。

「お疲れ様でした。少し、汗を拭きましょうか」

 レイ――鷲尾課長の声は、昼間の冷徹さからは想像もつかないほど甘く低く、どこまでも優しかった。

 温かいホットタオルが、りとの火照った身体を丁寧に拭い清めていく。その手つきには一切のいやらしさがなく、ただ大切なものを慈しむように扱われているという絶対的な安心感だけがあった。

 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、彼から漂う落ち着いた〝ウッディな香り〟。

 昼間、オフィスですれ違った時にも微かに感じていたその洗練された大人の香りが、今は深いリラックス効果をもたらしてくれている。昨夜のマッチングアプリの男の、鼻をつくような安物の香水とは雲泥の差だった。

 肌触りの良いバスローブをふわりと羽織らせてもらい、ふかふかのソファに深々と腰を下ろす。レイは手際よくミネラルウォーターをグラスに注ぎ、そっとりとに手渡した。

「ありがとうございます……」

「どういたしまして。……まだ少し、お時間がありますね。何か冷たいものでも頼みましょうか? それとも、温かいハーブティーのほうがよろしいですか?」

 時計を見れば、百二十分のコース終了まで、まだ三十分ほど残っていた。あれだけ濃厚で、頭の芯が溶けるような夢の時間を過ごしたというのに、この絶妙な時間配分。プロフェッショナルの完璧な計算は見事としか言いようがない。

「いえっ……お水で大丈夫です。あの、レイさん。いや、鷲尾課長……」

「今はレイですよ、甘崎様」

 レイはクスッと笑いながら、向かいのソファに腰を下ろし、長い脚を優雅に組んだ。黒縁メガネの奥の瞳が、面白そうにりとを見つめている。

「じゃあ、レイさん……。ずっと気になってたんですけど、どうして、このお仕事をされているんですか?」

 りとの直球な質問に、レイはグラスをテーブルに置き、少しだけ表情を引き締めた。

「……軽蔑しましたか? 昼間は偉そうに部下を怒鳴り散らしている男が、夜は女風のセラピストなんて。いかがわしい二重生活だと思われても仕方ありませんが」

「いえ! そんなこと全然ないです! むしろ、さっき……すごく、その、プロだなって感動したというか……。ただ、すごく不思議で。会社は副業禁止ですし、課長……レイさんなら、仕事も完璧で出世コース真っしぐらじゃないですか。リスクを冒してまで、どうして?」

 レイは少しの間沈黙し、窓の外に広がる都心の夜景へと視線を向けた。

「……最初は、単純にお金のためでした」

「お金……?」

「ええ。家族が残した多額の借金があって、それをどうしても急いで返済しなければならなかったんです。昼間の給料だけでは到底追いつかない。手っ取り早く、高額な報酬を得られる夜の世界に飛び込んだ、ただそれだけの、切羽詰まった理由でした」

 淡々と語るその過去に、りとは息を呑んだ。あの完璧主義で、一切の隙がない鬼上司に、そんな泥臭い事情があったなんて想像もしていなかった。

「でも、今は少し違います」

 レイは再びりとへと視線を戻し、真っ直ぐに見つめてきた。落ち着いた香水の香りが、彼の誠実な言葉を後押しするように漂う。

「いくつもの夜を重ねて、様々なお客様の肌に触れ、声を聞くうちに……気づかされたんです。女性たちが、どれほど深い〝性欲〟や〝寂しさ〟を、誰にも言えずに抱え込んでいるかということに」

 その言葉が、りとの胸の奥に深く、静かに刺さった。まさに、自分自身がそうだったからだ。

「昼間は社会で必死に戦って、理不尽なことにも耐えて、強く振る舞っている女性たち。けれど、夜のベッドの上では、驚くほど脆くて、純粋な欲望や温もりを求めている。……それに応えることは、決して〝いかがわしい裏稼業〟なんかじゃないと、私は本気で思っています」

 彼の瞳には、強い信念の光が宿っていた。

「接客、心理の理解、身体への配慮、そしてコミュニケーション技術。これらを高いレベルで融合させる、極めて高度なサービス業です。だからこそ、私は徹底的に学びました」

 高級ホテルマンに匹敵するマナー、女性の脳を刺激し深い安心感を与える香りの調合、解剖学に基づいた無駄のない身体の扱い方。そして、心理的安全性と境界線の引き方、事後の完璧なアフターケア。

 彼が昼間の仕事と同じように――いや、もしかしたらそれ以上に、この夜の仕事に誇りを持ち、完璧を追求していることが痛いほど伝わってきた。だからこそ、先ほどの時間はあんなにも満たされ、魂が救われるような感覚になったのだ。

「レイさん……すごいです。本当に、一流のプロなんですね」

「お褒めに預かり光栄です。それに、甘崎様のように、ご自身の欲望に素直になってくださるお客様のおかげで、私もやりがいを感じていますよ」

 からかうような、けれど確かな熱を含んだ甘い言葉に、りとの頬がカッと熱くなる。

「あ、あのっ! 今日のことは……!」

「ええ、分かっています。この部屋を出て、週明けにオフィスで顔を合わせれば、私はただの厳しい上司で、貴女は私の部下です。会社では、お互いに今日のことは一切〝秘密〟にしましょう」

 レイは悪戯っぽく、けれど大人の余裕を含んだ笑みを浮かべた。

「私が副業でセラピストをしていることも。そして、甘崎様が……昼間のドジな姿からは想像もつかないほど情熱的で、愛らしい〝欲〟を持て余していることも、私と貴女だけの秘密です」

「うぅ……っ、忘れてください……!」

 両手で顔を覆って縮こまるりとに、レイは低く喉を鳴らして笑った。

「忘れるなんて、もったいない。……とても、素敵でしたよ。でも、月曜日に私の顔を見て動揺して、また書類をぶちまけるのだけは勘弁してくださいね」

「うっ……! ぜ、善処します!」

 からかわれながらも、そのやり取りが妙に心地よかった。

 こうして、決して交わってはいけない上司と部下の、絶対秘密の協定が結ばれたのだった。

 ――数十分後。

 ホテルを出て、夜の街を歩きながら駅へ向かう。

 昨夜、マッチングアプリの男から恐怖とともに逃げ出した時とは、足取りの軽さが全く違っていた。

(すごい……。憑き物が落ちたみたいに、身体が軽い!)

 何ヶ月も――いや、何年も溜まりに溜まっていた鬱屈とした欲求とストレスが、跡形もなく消え去っていた。心は満たされ、細胞の隅々まで酸素が行き渡ったように、肌はツヤツヤと輝いている気がする。

「プロの力って、偉大だなぁ……」

 冷たい夜風が心地よく頬を撫でる。

 電車に揺られながら、りとはふと、週明けの自分の姿を想像した。きっと、また鷲尾課長に「甘崎、足元を見ろ」と冷たく怒られるのだろう。

 けれど、あの冷たい表情の裏に、自分を熱くとろけさせてくれた完璧なセラピスト〝レイ〟の姿があるのだと思うと、なんだか無性に面白くて、そして胸の奥がチリチリと甘く粟立ってしまった。

 自分のアパートに帰り着いたのは、すっかり夜も更けた時間だった。

 部屋の明かりをつけ、お気に入りの部屋着に着替える。ふわりと、自分自身の髪からほのかにレイと同じウッディな香りが移っていることに気づき、また顔を熱くしながら、りとはキッチンへと向かった。

 いつも会社ではドジばかりで、何もないところで転んだり、お茶をこぼしたりしているりとだが、実は〝料理〟だけは昔から大の得意なのだ。

 手先が不器用なわけではない。ただ、仕事のプレッシャーや焦りがあると空回りしてしまうだけで、自分のペースで没頭できる料理は、彼女にとって最高のリフレッシュ方法だった。

「よし、久しぶりに気分も最高だし、美味しいもの作っちゃお!」

 すっきりと満たされた身体は、素直に空腹を訴えていた。

 冷蔵庫を開け、鼻歌交じりに手際よく食材を取り出す。

 小鍋に生姜を効かせた煮汁を沸かし、脂の乗った鯖の切り身をそっと沈める。ふつふつと煮立つ音と共に、甘辛い味噌の香りがキッチンに広がる。

 その横で、まな板の上で瑞々しい大根を細切りにし、カリカリに炒めたじゃこを乗せてサラダの準備は万端だ。包丁さばきは、会社での彼女を知る者が見れば驚くほど鮮やかだった。

 炊飯器を開けると、出汁がしっかりと染み込んだきのこの炊き込みご飯から、ふわりと湯気が立ち上る。

 玉ねぎとホクホクのじゃがいもがたっぷり入ったお味噌汁をお椀に注ぎ、小さなダイニングテーブルに並べた。

「特製、〝鯖の味噌煮定食〟の完成!」

 箸でふっくらとした鯖の身をほぐし、そのまま口に運ぶと、濃厚な味噌のコクと魚の旨味が口いっぱいに広がった。

「ん〜っ! 美味しい!」

 炊き込みご飯をもぐもぐと頬張りながら、りとは無意識のうちにスマホの画面を立ち上げていた。

 ブラウザを開き、アクセスしていたのは、先ほどまでいた女風〝メロウルーム〟のウェブサイトだった。

 トップページからセラピストの一覧へと飛び、〝レイ〟のプロフィールページを開く。

 写真に映る、少し長めの茶髪と、口元の艶っぽいホクロ。

 先ほどまで自分を抱きしめ、甘い言葉を囁き、極上の快感を与えてくれた彼の姿が、ありありと脳裏に蘇る。画面を見つめているだけで、満たされたはずの身体の奥が、ほんの少しだけ、また熱を帯びて疼いた気がした。

(お給料日前はきついけど、でも、来月ボーナスが出たら、また……)

 温かいお味噌汁をゴクリと飲み込み、食後の片付けを済ませたりとはベッドにコロンと寝転がった。

 画面越しのレイを見つめながら、ぽつりと呟く。

「……やばい。女風、完全にハマりそう……」

 秘密の共有。極上の快感。そして、退屈な日常に突如として潜み込んだ、非日常のスパイス。

 ドジなOLと完璧な鬼上司の、決して交わってはいけない裏側の関係が、今、静かに幕を開けたのだった。

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