LOGIN――そして、運命の週明け、月曜日。
朝からオフィスの空気は、いつも以上に重く感じられた。 いや、実際に重いわけではない。りとの心が、勝手にそう感じているだけだ。亜麻色のショートカットを揺らしながら、りとは自分のデスクでパソコンの画面を見つめていた。しかし、タイピングする指はさっきから完全に止まっている。
視線の先にあるのは、斜め前に座る営業部一課の絶対的権力者、鷲尾課長の背中だ。土曜日の夜の出来事が、フラッシュバックする。
あのホテルでの、甘く、熱く、とろけるような時間。あの冷徹な鬼上司が、夜はあんなにも優しく、情熱的に自分を愛撫してくれたのだ。 あの長くて綺麗な指先。首筋に落とされた熱いキス。そして、微かに香るウッディな香水……。(だめだめだめ! 思い出しちゃだめ!)
りとは慌てて両手で自分の頬をパチンと叩いた。
周りの社員がビクッとこちらを見たが、気にしている余裕はない。問題は、当の鷲尾本人が、どう見ても〝普通〟すぎることだ。
月曜の朝一番に行われた朝礼でも、鷲尾はいつも通り、氷のように冷たい表情で今週の目標数値を淡々と読み上げていた。りとの顔を見ても、眉毛ひとつ動かさない。 まるで、土曜日の夜のことなど、彼の脳内ハードディスクから完全に削除されてしまったかのようだ。(プロだ……。あの人、完全に仕事の顔になってる。っていうか、私だけがこんなにドギマギしてるの、なんか悔しい!)
りとは唇を尖らせながら、立ち上がった。
先週の会議の議事録をコピー機に取りに行かなければならない。 歩き出しながら、つい鷲尾のデスクの方をチラリと見てしまう。その横顔の、口元の右下にあるホクロに視線が吸い寄せられた瞬間だった。「あっ」
またしても、何もないオフィスの床で、りとのパンプスが謎の引っ掛かりを見せた。
身体が大きく前へ傾き、今度こそ顔面から床にダイブする――! そう覚悟して、りとはギュッと目を瞑った。しかし、予想していた鈍い痛みはやってこなかった。
代わりに、りとの腕を強く、けれど痛くない絶妙な力加減で引き寄せる感覚があった。「おっと」
頭上から降ってきたのは、低く落ち着いた声。
目を開けると、そこには、りとの身体を片腕でガッチリと受け止めている鷲尾の姿があった。彼の胸板に顔が近づいた瞬間、あの夜にホテルのベッドで嗅いだのと同じ、落ち着いた〝ウッディな香り〟が、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「わ、鷲尾課長……!」
「君は、月曜の朝から重力に従う実験でもしているのか? 歩く時は前を見ろと、あれほど言っているだろう」黒縁メガネの奥の目が、呆れたようにりとを見下ろしている。
その対応は、あまりにもクールだった。土曜日の夜、あんなに情熱的に身体を重ねた相手だというのに、彼の声のトーンにも、腕の筋肉の緊張にも、一切の動揺が感じられない。 むしろ、りとが転ぶのを完全に予測して、先回りして受け止めたようなスムーズさだった。(平常心すぎるでしょ!)
心の中で特大のツッコミを入れながら、りとは慌てて鷲尾の腕から離れた。
「す、すみません! ありがとうございます!」
「次はないぞ。書類ならまだしも、君の頭が割れたら労災の処理が面倒だ」冷たく吐き捨てて、鷲尾はそのまま自分のデスクへと戻っていく。
その無駄のない背中を見つめながら、りとは赤くなった顔を両手で仰いだ。(……びっくりした。でも、あの香り、やっぱり課長だったんだ……)
ドギマギしているのは自分だけだと思うとやっぱり少し癪だったが、あの頼もしい腕の感触に、身体の奥がまたほんの少しだけ熱を帯びたのは事実だった。
その後も、鷲尾の鬼上司ぶりは健在だった。
午後になると、営業部のフロアに、鷲尾の氷点下の声が響き渡った。「高橋。この企画書のコンセプトはなんだ。幼稚園児のお遊戯会の提案か? 数字の根拠がまったく示されていない資料など、シュレッダーの餌にもならんぞ」
ターゲットとなった若手社員の高橋が、半泣きで直立不動になっている。
周りの社員たちも、飛び火を恐れてキーボードを叩く音すら小さくしていた。 いつもなら、りとも一緒になって「ヒィィ、課長こわい〜!」と心の中で震え上がるところだ。しかし、今日のりとは違った。
パソコンのモニターの影から、般若のような顔で部下を叱責する鷲尾をこっそりと見つめながら、りとの口元はだらしなく緩んでいた。(あんなに怖い顔して怒ってるけど……。でも、この人、夜はあんなことやこんなことしてるんだよなぁ……ふふっ)
自分にしか見せない――いや、お金を払った女性にしか見せない顔を知っている。
あの冷徹な唇が、自分の身体のあちこちに熱いキスを落としたこと。 あの厳しい瞳が、欲情に潤んで自分を見つめていたこと。その事実が、りとの中に謎の〝優越感〟を生み出していた。
他の誰も知らない、完璧な鬼上司の秘密。それを私だけが知っている。共有している。 そう思うと、鷲尾の怒号すらも、どこか別世界の出来事のように聞こえてきて、少しだけクスリと笑ってしまいそうになるのだった。――その日の夜。
月末の処理に追われ、りとは珍しく残業をしてから退社した。 時刻はすでに夜の八時を回っている。 すっかり疲れ果てた身体を引きずりながら、りとは帰り道にある大きめのスーパーマーケットに立ち寄った。「今日はさすがに自炊する気力ないなぁ……。お惣菜でも買って帰ろっと」
入り口でカゴを手に取り、惣菜コーナーへと向かう。
値引きシールが貼られたコロッケや唐揚げを物色していると、不意に、すぐ隣に誰かが立った気配がした。「甘崎か」
「えっ?」聞き慣れた低い声。
ビクッと肩を跳ねさせて振り向くと、そこには、スーツ姿のまま買い物カゴを提げた鷲尾冴臣が立っていた。「か、課長!? どうしてここに……!」
「どうしてって、スーパーは買い物をする場所だろう。君はここで盆踊りでもするつもりか?」 「いや、そういう意味じゃなくて! こんな時間にお会いするなんて珍しいなと思いまして!」りとは慌てて取り繕ったが、視線は自然と鷲尾の持っている買い物カゴの中へと向かっていた。
そこに入っていたのは――、なんと、長ネギ、豆腐、そしてパックの豚肉だった。(ネ、ネギ……!)
あの、冷徹で完璧で、夜は極上のセラピストとして女性をとろけさせている鷲尾冴臣が、長ネギをカゴに入れている。
そのあまりにも庶民的な一面に、りとの脳内は処理落ちを起こしかけていた。(えっ、自炊するの? ネギとか切るの? エプロンとか着ちゃうの? ちょっと待って、情報量が多すぎる!)
ここ数日で、鬼上司の裏の顔を知り、今度は生活感あふれる顔まで知ってしまった。
もう、どう対応していいのか全く分からない。 挙動不審になっているりとを他所に、鷲尾は相変わらずクールな表情を崩さなかった。「残業ご苦労だったな。惣菜ばかり食べていると、またオフィスの床で転ぶぞ。栄養バランスを考えろ」
それだけ言い残すと、鷲尾はさっさとレジの方へと向かっていってしまった。
残されたりとは、手に持っていた半額のコロッケを見つめながら、ポカンと立ち尽くすしかなかった。適当に買い物を済ませ、スーパーを出る。
夜風が冷たく、りとはコートの襟を合わせた。 駅から少し離れた閑静な住宅街へと続く、暗い夜道を歩き出す。ふと、背後に気配を感じた。
一定の距離を保って、コツ、コツ、と革靴の足音がついてくる。 振り返ると、そこには、ネギの入ったレジ袋を提げた鷲尾が歩いていた。(……え? なんでついてくるの?)
りとは少し歩くスピードを速めた。
しかし、背後の足音も同じように速まる。 右に曲がっても、左に曲がっても、鷲尾はぴったりと後ろをついてくるではないか。(ウソ、もしかして……!)
りとの頭の中で、最悪のシナリオが展開された。
まさか、土曜日の夜のことで私に執着して? いやいや、あの人はプロのセラピストだ。そんな顧客のストーカーになるような真似はしないはず……。 だが、恐怖に耐えきれなくなったりとは、バッ! と勢いよく振り返った。「あ、あのっ!」
「なんだ。急に止まると危ないだろう」 「もしかして……ストーカーですかっ!?」りとは両手を胸の前でクロスさせ、防御の姿勢をとった。
鷲尾はピタリと足を止め、黒縁メガネの奥の目を大きく見開いた。そして、呆れ果てたような、盛大なため息を吐いた。「失礼だな。誰がネギを持ってストーカーをするんだ。俺の家も、この通りにあるから帰っているだけだ」
「えっ……あ、そうなんですか? すみません……」盛大な勘違いだった。恥ずかしさで顔から火が出そうになる。
しかし、冷静になってみると、さらに疑問が湧いてきた。「でも、課長の家がこっちの方向だなんて、知りませんでした。というか、私、この道真っ直ぐ行った先のアパートなんですけど……」
「奇遇だな。俺もだ」鷲尾の言葉に、りとは首を傾げた。
この道を真っ直ぐ行った突き当たりには、りとが住んでいる築浅のオートロック付きアパートしかないはずだ。二人は無言のまま、並んで歩き始めた。
気まずい沈黙が流れる中、やがて目的の建物が見えてきた。メゾン・ド・ルミエール。
お洒落な名前のそのアパートのエントランスに、二人は同時に足を踏み入れた。 鷲尾がポケットから鍵を取り出し、オートロックのセンサーにかざす。ウィーン、と自動ドアが開く。 りとも、自分のバッグから鍵を取り出し、その後ろをついて入った。 エレベーターホールに到着する。 二人は無言のまま、上へ向かうボタンを押した。「……何階ですか?」
りとは、恐る恐る尋ねた。
「三階だ」
「……私もです」チーン、と間抜けな音を立てて、エレベーターの扉が開いた。
三階で降りる二人。 長い廊下を、並んで歩く。 りとの部屋は、角から二番目の〝302号室〟だ。りとは自分の部屋の前で足を止めた。
そして、隣を歩いていた鷲尾もまた、ピタリと足を止めた。 彼の立つ位置は、一番奥の角部屋――〝301号室〟の前だった。……え?
りとは、自分の部屋のドアノブに手をかけたまま、鷲尾の顔をまじまじと見つめた。 鷲尾もまた、自分の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだまま、りとの顔をまじまじと見つめ返していた。静寂。
秋の虫の声だけが、遠くから聞こえてくる。「……」
「……」二人は、顔を思いっきりしかめて見合わせた。
なんと、二人は全く気づいていなかったが、隣同士の部屋に住んでいたのだ。りとは入社に合わせてこのアパートに住み始めた。隣に男性が住んでいるということだけは不動産屋から聞いていたが、若い女が一人で住んでいることをばらしたくなくて、あえて挨拶するのを控えていたのだ。
一方の鷲尾は、課長という立場上、誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰宅する日々を送っていた。
休日はセラピストとしての出張が入っているため、昼間にアパートにいることはほとんどない。 だがこの日は、たまたま残業が少なく早めに帰れて、セラピストの仕事も入っていない珍しい日だったため、こうして落ち合ってしまったのだ。確かに、このアパートは職場から徒歩圏内で、家賃の割に設備が良く、かなり条件のいい物件だ。だからこそ、独身の社員が住んでいても不思議ではない。単なる偶然というわけでもなかった。
しかし。
会社では鬼上司とドジな部下。 週末の夜は、女風のナンバーワンセラピストと、欲求不満の客。 そして今度は――隣人。(嘘でしょ……。こんなことあり得る〜!?)
りとは心の中で絶叫した。
信じられないという様子で、二人は完全に石像のように固まっている。お互いに、ツッコミたいことは山ほどあったはずだ。
「お前が隣だったのか」とか、「どうして今まで気づかなかったんだ」とか。 しかし、数秒の硬直の後。ガチャリ。
ガチャリ。二人は、まるで示し合わせたかのように、一切言葉を交わすことなく、何事も無かったかのようにそれぞれの部屋のドアを開け、素早く中へと入っていった。
バタン。
バタン。廊下には、再び静寂が戻った。
ただ、二つのドアの向こう側で、二人が同時に大きなため息をついたことだけは、誰にも知る由のない事実だった。十二月三十一日、大晦日。 世間が年越しの準備で慌ただしく動く中、りとは自室のベッドで大きなクマのぬいぐるみを抱きしめながら、今日も今日とて鷲尾のことばかりを考えていた。(課長……今日くらいは、実家に帰るのかな) ふとそんな疑問が浮かんだが、すぐに首を横に振る。 以前、ホテルで〝レイ〟に初めて施術してもらった時、彼が夜の世界に入った理由を語ってくれたことがあった。『家族が残した多額の借金があって、それをどうしても急いで返済しなければならなかったんです』 その言葉を思い出すと、彼の実家や家族関係は、親族が集まって穏やかに年越しを祝えるような状況ではないのだろうと容易に想像がついた。 だとすれば、今日も隣の部屋にいるのだろうか。 しかし――もし家にいたとしても。(あんな声聞かれて、しかも最中に名前まで呼んじゃって……もう絶対、顔なんて合わせられないっ……!) ベランダでのやり取りを思い出し、りとは「うわぁぁぁっ!」と声を上げてクマのぬいぐるみに顔を埋めた。自分の変態的かつ図々しい妄想が彼に筒抜けだったのだ。穴があったらブラジルまで掘り進めてから埋まりたい。「……そうだ。大晦日だし、年越し蕎麦を作ろう」 このまま一人で悶々としていても気が狂いそうになるだけだ。りとは鬱屈とした気持ちを紛らわすため、夕方、近所のスーパーへと買い出しに出かけることにした。 大晦日のスーパーは、営業時間が短縮されていることもあり、夕方の割引を狙う客たちでごった返していた。 人の波をかき分け、なんとか野菜売り場へと辿り着く。お目当ての長ネギを見つけ、スッと手を伸ばした――その瞬間。 同じネギに向かって伸びてきた大きな手と、自分の手がパシッと重なってしまった。「あ、すみま――」「……甘崎」 謝りながら顔を上げたりとは、息を呑んだ。 そこに立っていたのは、黒のチェスターコートを着こなした鷲尾冴臣その人だった。 まさかこんな激混みのスーパーで遭遇するなんて。気まずさで顔が真っ赤になりそうだったが、ふと彼の持っている買い物かごの中身に目がいった。 かごの中には、生蕎麦、立派なブラックタイガー、長ネギ、そして紅白のかまぼこが綺麗に並んで入っている。「か、課長も、ちゃんと年越し蕎麦食べるんですね……!」 完璧主義で合理的な彼のことだから、大晦日だろうが完全栄養食
日付が変わる頃、乃々羽と別れたりとは、冬の凍てつくような寒さの中を一人、自分のアパートへと歩いていた。「あーあ、飲んだ飲んだ……」 口から吐き出す白い息は、街灯に照らされてすぐに夜の闇へと溶けていく。親友の乃々羽と心ゆくまで愚痴を言い合い、カラオケで喉が枯れるまで騒いだおかげで、沈んでいた気分は随分と軽くなっていた。 年末で静まり返った住宅街の道を歩きながら、りとはマフラーに顔を埋める。 アパートの敷地内に入り、ふと自分の部屋の隣――鷲尾の部屋の窓を無意識に見上げていた。 電気はついておらず、カーテンの隙間からも光は一切漏れていなかった。真っ暗だ。(まだ帰ってないのかな。それとも、もう寝てる……?) 時刻は深夜の零時を回っている。もし彼が今日、女性向け風俗のセラピストとして出勤していたのなら、お客さんを見送り、そろそろ仕事が終わる頃かもしれない。 もしかしたら、そのままお客さんとホテルでお泊まりの時間を過ごしている可能性だって十分にある。 ズキリ、と。アルコールで麻痺していたはずの胸の奥が、再び嫌な痛みを訴えた。カラオケで発散したはずのモヤモヤが、彼の不在を突きつけられただけで簡単に蘇ってしまう。「……私には関係ないし! どうせただのお客さんなんだから!」 りとは冷たい頬を両手でパチンと叩き、自分自身に言い聞かせるように呟いた。彼が誰とどこで何をしていようと、部下であり客でしかない自分がいちいち気に病むことではない。そう、割り切らなければいけないのだ。 逃げるように外階段を駆け上がり、自室のドアを開ける。 暖房をつけてダウンコートを脱いだりとは、この鬱屈とした気持ちを少しでも紛らわすため、キッチンに向かった。 小鍋に牛乳を注いで火にかけ、細かく刻んだビターチョコレートをゆっくりと溶かしていく。とろりとしたところに、隠し味のブランデーをほんの少しだけ垂らした。 お気に入りのマグカップに注ぎ、仕上げに真っ白なマシュマロを浮かべてシナモンスティックを添えれば、甘くて濃厚な大人のホットチョコレートの出来上がりだ。 マグカップから立ち上る湯気と甘い香りに少しだけホッとしたりとは、部屋の窓を開け、ベランダへと出た。「うわっ、さっむ……」 十二月末の深夜の空気は、肌を刺すように冷たい。けれど、いろいろな感情で火照ってしまった頭を冷やすにはち
翌日、十二月三十日。 世間はすっかり年の瀬の慌ただしい空気に包まれている中、りとは昨夜送ったメッセージの通り、親友の乃々羽を呼び出し、街へと繰り出していた。 レイさんが他の女の子と会っているという残酷な現実を少しでも頭から追い出すために、「どうせ暇してるでしょ」と自ら声をかけて付き合ってもらったのだ。「もう、ほんっとに男なんてろくなもんじゃない! 今年の厄は今年のうちに全部落としてやるんだから!」 駅前の大型ショッピングビルに到着するなり、不倫男に騙されていたトラウマから完全にヤケになっている乃々羽の勢いは凄まじかった。 「付き合ってあげるんだから、私の買い物にもとことん付き合いなさいよ!」と息巻く彼女に手を引かれ、アパレルショップから雑貨屋まで、各フロアを端から端まで徹底的に練り歩く。りともそれに付き合いながら、自分用の冬物コートや、気になっていたデパコスをじっくりと見て回った。 一階のコスメフロアは、年末の自分へのご褒美を求める女性たちで賑わっていた。煌びやかなショーケースを覗き込み、りとはずっと気になっていた外資系ブランドの新作リップを試させてもらった。 美容部員に丁寧に塗ってもらったのは、冬らしい、ほんのりと色づく深みのあるプラムピンクのリップだ。鏡の中の自分は、普段のドジで子どもっぽい雰囲気から、少しだけ〝大人の女性〟へと背伸びできているように見えた。(これを塗ったら、少しは大人っぽく見えるかな……。年明けの仕事始めで、課長に会う時につけていこっと。……あっ、でも、ホテルで会う時に塗っていったら、キスした時、彼にも色がついちゃうかな……) 無意識のうちに〝彼〟との接触を想像してしまい、りとは慌ててぶんぶんと首を振った。忘れるために来たのに、結局何を見ても鷲尾の顔がチラついてしまう。 それでも、可愛いコスメを綺麗なショッパーに入れてもらった時の高揚感はりとの心を明るくしてくれた。 買い物の後は、そのまま駅前のカラオケ店に飛び込んだ。 「今日はもう、喉から血が出るまで歌うからね!」とマイクを握りしめる乃々羽とともに、二人は流行りの失恋ソングや、アップテンポなアイドルソングを次々と予約した。 タンバリンを叩き、大声で歌って、笑って、物理的に体力を消費する。 「クソ男には天罰が下れーっ!」と叫ぶ乃々羽に合わせ、りとも「そうだそうだー
すき焼きの鍋がすっかり空になり、締めに入れたうどんまで綺麗に平らげた頃。 ふと時計の針を見ると、時刻はすでに深夜の十一時を回ろうとしていた。「……すっかり長居してしまったな。そろそろ失礼する」 「あ、はい。お粗末様でした!」 鷲尾はクッションから立ち上がると、「少し待っていろ」と言い残し、一度自分の部屋へと戻っていった。 数分後、再びりとの部屋を訪れた彼の手には、可愛らしい小ぶりの紙袋が提げられていた。「すき焼きをご馳走になった礼だ。賞味期限が今日までで、一人では食べきれないと思っていたところだったからな」 そう言ってローテーブルの上に置かれたのは、デパ地下で行列が絶えないことで有名な、高級洋菓子店の瓶入りプリンが二つだった。 とろけるような滑らかな食感と、濃厚なバニラビーンズの香りで、若い女性を中心に爆発的な人気を誇っているスイーツだ。 しかし、その美しいプリンを見た瞬間、りとの胸にチクリと冷たい棘が刺さった。(これって……もしかして、女性のお客さんからの差し入れ……?) レイは、超人気のトップセラピストだ。休日のデートやホテルでの施術の際に、女性客から高価なプレゼントや流行りのスイーツを差し入れされることなど、日常茶飯事だろう。 つい先程まで、〝二人きりで鍋を囲む特別な時間〟だと浮かれていた自分の頭に、冷や水を浴びせられたような気分になった。 所詮、自分は数多くいる客の一人に過ぎない。彼にとって自分は、特別な存在でもなんでもないのだ。「……どうかしたか、甘崎。甘いものは嫌いだったか?」 「えっ? あ、いえ、そんなことないです。ただ……」 りとは唇を噛み締め、ずんと重くなった声でぽつりと呟いた。「……お客さんからの差し入れですか? だとしたら、私がいただくのはちょっと申し訳ないというか……」 あからさまに顔をしかめ、嫉妬を隠しきれない声になってしまった。 すると、鷲尾はピタリと動きを止め、黒縁メガネの奥の目をパチクリと瞬かせた。そして、少しだけ気まずそうに視線を泳がせると、コホンと小さく咳払いをした。「……客からの貰い物ではない」 「え?」 「仕事帰りに、デパ地下に寄って……俺が食べたくて買ったものだ。それも、わざわざ三十分並んでな」 その言葉に、りとは目を丸くした。「か、課長が、自分で買ったんです
十二月二十九日、木曜日の夜。 今日から一月三日まで、株式会社ウィルクエスは年末年始の長い連休に入った。 世間が帰省や旅行で慌ただしく動く中、りとは暖房の効いた自室のベッドの上で一人、毛布にくるまりながらスマホの画面を見つめていた。 開いているのは、女性向け風俗〝メロウルーム〟の公式ウェブサイトだ。 トップページには『年末年始の営業について:十二月三十一日〜一月二日は休業、一月三日より一部キャストにて営業開始』というお知らせがデカデカと掲載されている。 りとはスクロールして、お気に入り登録している〝レイ〟の出勤スケジュールを開いた。「レイさん、年末も働くんだ……」 ぽつりと、ひとりごちる。 カレンダーには、明日の三十日の夜に〝年内ラスト一枠〟として出勤のマークがついており、年明けは三日の夜からすでに出勤予定が入っていた。 会いたい。 画面越しの出勤スケジュールを見ているだけで、鷲尾の大きな手や、甘いキスの感触が蘇ってきて胸が苦しくなる。 でも、もしここで自分がこの年内ラストの枠を予約してしまったら。 「年末の忙しい時期にわざわざ自分を指名してくるなんて、こいつ本気になってるんじゃないか」と、彼に気づかれてしまうかもしれない。シャワー室でのあの牽制し合うような会話があった手前、それはどうしても避けたい。 それに――もし今から予約しようとして、すでに他の誰かで枠が埋まっていたら。(そっか……レイさんは明日、誰かと年内最後を過ごすかもしれないんだ……) 見ず知らずの他の女の子を優しく抱きしめ、甘い言葉を囁き、あのとろけるようなキスをするのだろう。 そう想像しただけで、心臓がギリッと嫌な音を立てて軋む。勝手に傷つき、勝手に嫉妬している自分がひどく惨めだった。「……あー、もう! 考えるのやめやめ!」 りとはスマホをベッドに放り投げ、むくりと起き上がった。 本当は実家の九州に帰省しようかとも迷ったのだが、年末の帰省ラッシュで新幹線も飛行機も混んでいるし、何より親から「いい人はいないの?」と小言を言われるのが目に見えていて、遠いしめんどくさいなぁと早々に諦めていたのだ。 せめて美味しいものでも食べて、心を満たそう。 りとは立ち上がり、冷蔵庫の扉を勢いよく開けた。 中には、このおひとり様の連休を乗り切るためにスーパーで買い込んでおいた大
十二月二十八日、水曜日。 株式会社ウィルクエスの営業部フロアは、朝からバタバタと慌ただしい空気に包まれていた。 本日は仕事納めであり、午後からは社内全体での大掃除、そして夕方からは納会が控えている。(だめだめ。絶対に、好きになっちゃだめ……!) りとは自席のデスク周りを片付けながら、パタパタと両手で自分の頬を叩いた。 一昨日の月曜日、グランド・クレスト不動産との大型商談を終えた後。誰もいない廊下で頭を撫でられ、りとは自分が鷲尾冴臣という男に完全に惹かれていることを自覚してしまった。 しかし、相手はプロのセラピストだ。休日のあの極甘な時間は、あくまでお金を払って買っている〝疑似恋愛〟のサービスに過ぎない。 しかも、鷲尾自身が「客に恋愛感情を抱くことはあり得ない」とシャワー室で断言していたばかりだ。 ここで自分が本気になってしまえば、この都合の良い関係すら壊れてしまう。それどころか、ただでさえドジばかりで迷惑をかけている上司との関係もぎくしゃくしてしまうに決まっている。(私はただの部下! 休日はお金を払っているお客さん! それ以上でも以下でもないの!) ぐるぐると頭の中で自分に言い聞かせていると、不意に背後から声が掛かった。「甘崎。現実逃避をしていないで、キャビネットの上の古いファイルを倉庫用のダンボールに詰めておけ。大掃除の時間は限られているんだぞ」 「ひゃいっ!」 変な声が出た。振り返ると、腕を組んだ鷲尾が冷ややかな視線で見下ろしていた。 今日は大掃除ということで、彼もいつものスリーピーススーツではなく、動きやすいダークネイビーのシャツにノーネクタイという少しラフな出で立ちだ。 少しだけ開いた胸元に、ベッドでの情熱的な記憶がフラッシュバックしてしまい、りとは慌てて視線を逸らした。「す、すぐにやります!」 りとは急いでパイプ椅子を引き寄せ、その上に乗って背の高いスチールキャビネットの天板に手を伸ばした。 分厚いファイルが何冊も並んでいる。それを一気に抱え込もうとしたのが間違いだった。「うっ、重……っ」 想像以上の重量にバランスを崩し、パイプ椅子の上でぐらりと足元が揺れる。 あっ、倒れる。そう思って目を瞑った瞬間――。「……君は、仕事納めの日に労災を申請して俺の仕事を増やす気か」 ドサッ、という鈍い音ととも