Masuk――そして、運命の週明け、月曜日。
朝からオフィスの空気は、いつも以上に重く感じられた。 いや、実際に重いわけではない。りとの心が、勝手にそう感じているだけだ。亜麻色のショートカットを揺らしながら、りとは自分のデスクでパソコンの画面を見つめていた。しかし、タイピングする指はさっきから完全に止まっている。
視線の先にあるのは、斜め前に座る営業部一課の絶対的権力者、鷲尾課長の背中だ。土曜日の夜の出来事が、フラッシュバックする。
あのホテルでの、甘く、熱く、とろけるような時間。あの冷徹な鬼上司が、夜はあんなにも優しく、情熱的に自分を愛撫してくれたのだ。 あの長くて綺麗な指先。首筋に落とされた熱いキス。そして、微かに香るウッディな香水……。(だめだめだめ! 思い出しちゃだめ!)
りとは慌てて両手で自分の頬をパチンと叩いた。
周りの社員がビクッとこちらを見たが、気にしている余裕はない。問題は、当の鷲尾本人が、どう見ても〝普通〟すぎることだ。
月曜の朝一番に行われた朝礼でも、鷲尾はいつも通り、氷のように冷たい表情で今週の目標数値を淡々と読み上げていた。りとの顔を見ても、眉毛ひとつ動かさない。 まるで、土曜日の夜のことなど、彼の脳内ハードディスクから完全に削除されてしまったかのようだ。(プロだ……。あの人、完全に仕事の顔になってる。っていうか、私だけがこんなにドギマギしてるの、なんか悔しい!)
りとは唇を尖らせながら、立ち上がった。
先週の会議の議事録をコピー機に取りに行かなければならない。 歩き出しながら、つい鷲尾のデスクの方をチラリと見てしまう。その横顔の、口元の右下にあるホクロに視線が吸い寄せられた瞬間だった。「あっ」
またしても、何もないオフィスの床で、りとのパンプスが謎の引っ掛かりを見せた。
身体が大きく前へ傾き、今度こそ顔面から床にダイブする――! そう覚悟して、りとはギュッと目を瞑った。しかし、予想していた鈍い痛みはやってこなかった。
代わりに、りとの腕を強く、けれど痛くない絶妙な力加減で引き寄せる感覚があった。「おっと」
頭上から降ってきたのは、低く落ち着いた声。
目を開けると、そこには、りとの身体を片腕でガッチリと受け止めている鷲尾の姿があった。彼の胸板に顔が近づいた瞬間、あの夜にホテルのベッドで嗅いだのと同じ、落ち着いた〝ウッディな香り〟が、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「わ、鷲尾課長……!」
「君は、月曜の朝から重力に従う実験でもしているのか? 歩く時は前を見ろと、あれほど言っているだろう」黒縁メガネの奥の目が、呆れたようにりとを見下ろしている。
その対応は、あまりにもクールだった。土曜日の夜、あんなに情熱的に身体を重ねた相手だというのに、彼の声のトーンにも、腕の筋肉の緊張にも、一切の動揺が感じられない。 むしろ、りとが転ぶのを完全に予測して、先回りして受け止めたようなスムーズさだった。(平常心すぎるでしょ!)
心の中で特大のツッコミを入れながら、りとは慌てて鷲尾の腕から離れた。
「す、すみません! ありがとうございます!」
「次はないぞ。書類ならまだしも、君の頭が割れたら労災の処理が面倒だ」冷たく吐き捨てて、鷲尾はそのまま自分のデスクへと戻っていく。
その無駄のない背中を見つめながら、りとは赤くなった顔を両手で仰いだ。(……びっくりした。でも、あの香り、やっぱり課長だったんだ……)
ドギマギしているのは自分だけだと思うとやっぱり少し癪だったが、あの頼もしい腕の感触に、身体の奥がまたほんの少しだけ熱を帯びたのは事実だった。
その後も、鷲尾の鬼上司ぶりは健在だった。
午後になると、営業部のフロアに、鷲尾の氷点下の声が響き渡った。「高橋。この企画書のコンセプトはなんだ。幼稚園児のお遊戯会の提案か? 数字の根拠がまったく示されていない資料など、シュレッダーの餌にもならんぞ」
ターゲットとなった若手社員の高橋が、半泣きで直立不動になっている。
周りの社員たちも、飛び火を恐れてキーボードを叩く音すら小さくしていた。 いつもなら、りとも一緒になって「ヒィィ、課長こわい〜!」と心の中で震え上がるところだ。しかし、今日のりとは違った。
パソコンのモニターの影から、般若のような顔で部下を叱責する鷲尾をこっそりと見つめながら、りとの口元はだらしなく緩んでいた。(あんなに怖い顔して怒ってるけど……。でも、この人、夜はあんなことやこんなことしてるんだよなぁ……ふふっ)
自分にしか見せない――いや、お金を払った女性にしか見せない顔を知っている。
あの冷徹な唇が、自分の身体のあちこちに熱いキスを落としたこと。 あの厳しい瞳が、欲情に潤んで自分を見つめていたこと。その事実が、りとの中に謎の〝優越感〟を生み出していた。
他の誰も知らない、完璧な鬼上司の秘密。それを私だけが知っている。共有している。 そう思うと、鷲尾の怒号すらも、どこか別世界の出来事のように聞こえてきて、少しだけクスリと笑ってしまいそうになるのだった。――その日の夜。
月末の処理に追われ、りとは珍しく残業をしてから退社した。 時刻はすでに夜の八時を回っている。 すっかり疲れ果てた身体を引きずりながら、りとは帰り道にある大きめのスーパーマーケットに立ち寄った。「今日はさすがに自炊する気力ないなぁ……。お惣菜でも買って帰ろっと」
入り口でカゴを手に取り、惣菜コーナーへと向かう。
値引きシールが貼られたコロッケや唐揚げを物色していると、不意に、すぐ隣に誰かが立った気配がした。「甘崎か」
「えっ?」聞き慣れた低い声。
ビクッと肩を跳ねさせて振り向くと、そこには、スーツ姿のまま買い物カゴを提げた鷲尾冴臣が立っていた。「か、課長!? どうしてここに……!」
「どうしてって、スーパーは買い物をする場所だろう。君はここで盆踊りでもするつもりか?」 「いや、そういう意味じゃなくて! こんな時間にお会いするなんて珍しいなと思いまして!」りとは慌てて取り繕ったが、視線は自然と鷲尾の持っている買い物カゴの中へと向かっていた。
そこに入っていたのは――、なんと、長ネギ、豆腐、そしてパックの豚肉だった。(ネ、ネギ……!)
あの、冷徹で完璧で、夜は極上のセラピストとして女性をとろけさせている鷲尾冴臣が、長ネギをカゴに入れている。
そのあまりにも庶民的な一面に、りとの脳内は処理落ちを起こしかけていた。(えっ、自炊するの? ネギとか切るの? エプロンとか着ちゃうの? ちょっと待って、情報量が多すぎる!)
ここ数日で、鬼上司の裏の顔を知り、今度は生活感あふれる顔まで知ってしまった。
もう、どう対応していいのか全く分からない。 挙動不審になっているりとを他所に、鷲尾は相変わらずクールな表情を崩さなかった。「残業ご苦労だったな。惣菜ばかり食べていると、またオフィスの床で転ぶぞ。栄養バランスを考えろ」
それだけ言い残すと、鷲尾はさっさとレジの方へと向かっていってしまった。
残されたりとは、手に持っていた半額のコロッケを見つめながら、ポカンと立ち尽くすしかなかった。適当に買い物を済ませ、スーパーを出る。
夜風が冷たく、りとはコートの襟を合わせた。 駅から少し離れた閑静な住宅街へと続く、暗い夜道を歩き出す。ふと、背後に気配を感じた。
一定の距離を保って、コツ、コツ、と革靴の足音がついてくる。 振り返ると、そこには、ネギの入ったレジ袋を提げた鷲尾が歩いていた。(……え? なんでついてくるの?)
りとは少し歩くスピードを速めた。
しかし、背後の足音も同じように速まる。 右に曲がっても、左に曲がっても、鷲尾はぴったりと後ろをついてくるではないか。(ウソ、もしかして……!)
りとの頭の中で、最悪のシナリオが展開された。
まさか、土曜日の夜のことで私に執着して? いやいや、あの人はプロのセラピストだ。そんな顧客のストーカーになるような真似はしないはず……。 だが、恐怖に耐えきれなくなったりとは、バッ! と勢いよく振り返った。「あ、あのっ!」
「なんだ。急に止まると危ないだろう」 「もしかして……ストーカーですかっ!?」りとは両手を胸の前でクロスさせ、防御の姿勢をとった。
鷲尾はピタリと足を止め、黒縁メガネの奥の目を大きく見開いた。そして、呆れ果てたような、盛大なため息を吐いた。「失礼だな。誰がネギを持ってストーカーをするんだ。俺の家も、この通りにあるから帰っているだけだ」
「えっ……あ、そうなんですか? すみません……」盛大な勘違いだった。恥ずかしさで顔から火が出そうになる。
しかし、冷静になってみると、さらに疑問が湧いてきた。「でも、課長の家がこっちの方向だなんて、知りませんでした。というか、私、この道真っ直ぐ行った先のアパートなんですけど……」
「奇遇だな。俺もだ」鷲尾の言葉に、りとは首を傾げた。
この道を真っ直ぐ行った突き当たりには、りとが住んでいる築浅のオートロック付きアパートしかないはずだ。二人は無言のまま、並んで歩き始めた。
気まずい沈黙が流れる中、やがて目的の建物が見えてきた。メゾン・ド・ルミエール。
お洒落な名前のそのアパートのエントランスに、二人は同時に足を踏み入れた。 鷲尾がポケットから鍵を取り出し、オートロックのセンサーにかざす。ウィーン、と自動ドアが開く。 りとも、自分のバッグから鍵を取り出し、その後ろをついて入った。 エレベーターホールに到着する。 二人は無言のまま、上へ向かうボタンを押した。「……何階ですか?」
りとは、恐る恐る尋ねた。
「三階だ」
「……私もです」チーン、と間抜けな音を立てて、エレベーターの扉が開いた。
三階で降りる二人。 長い廊下を、並んで歩く。 りとの部屋は、角から二番目の〝302号室〟だ。りとは自分の部屋の前で足を止めた。
そして、隣を歩いていた鷲尾もまた、ピタリと足を止めた。 彼の立つ位置は、一番奥の角部屋――〝301号室〟の前だった。……え?
りとは、自分の部屋のドアノブに手をかけたまま、鷲尾の顔をまじまじと見つめた。 鷲尾もまた、自分の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだまま、りとの顔をまじまじと見つめ返していた。静寂。
秋の虫の声だけが、遠くから聞こえてくる。「……」
「……」二人は、顔を思いっきりしかめて見合わせた。
なんと、二人は全く気づいていなかったが、隣同士の部屋に住んでいたのだ。りとは入社に合わせてこのアパートに住み始めた。隣に男性が住んでいるということだけは不動産屋から聞いていたが、若い女が一人で住んでいることをばらしたくなくて、あえて挨拶するのを控えていたのだ。
一方の鷲尾は、課長という立場上、誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰宅する日々を送っていた。
休日はセラピストとしての出張が入っているため、昼間にアパートにいることはほとんどない。 だがこの日は、たまたま残業が少なく早めに帰れて、セラピストの仕事も入っていない珍しい日だったため、こうして落ち合ってしまったのだ。確かに、このアパートは職場から徒歩圏内で、家賃の割に設備が良く、かなり条件のいい物件だ。だからこそ、独身の社員が住んでいても不思議ではない。単なる偶然というわけでもなかった。
しかし。
会社では鬼上司とドジな部下。 週末の夜は、女風のナンバーワンセラピストと、欲求不満の客。 そして今度は――隣人。(嘘でしょ……。こんなことあり得る〜!?)
りとは心の中で絶叫した。
信じられないという様子で、二人は完全に石像のように固まっている。お互いに、ツッコミたいことは山ほどあったはずだ。
「お前が隣だったのか」とか、「どうして今まで気づかなかったんだ」とか。 しかし、数秒の硬直の後。ガチャリ。
ガチャリ。二人は、まるで示し合わせたかのように、一切言葉を交わすことなく、何事も無かったかのようにそれぞれの部屋のドアを開け、素早く中へと入っていった。
バタン。
バタン。廊下には、再び静寂が戻った。
ただ、二つのドアの向こう側で、二人が同時に大きなため息をついたことだけは、誰にも知る由のない事実だった。――あの日から、数年の年月が過ぎ去った。 しとしとと、静かな雨音が古民家の瓦屋根を叩いている。 りとが店主を務める古民家カフェ〝ひだまり〟の厨房で、大きな小麦粉の袋を持ち上げようとした彼を見て、りとは慌てて声を上げた。「あ、だめだよ冴臣! 雨の日はただでさえ傷跡が疼くのに、そんな重いもの持ったら……っ」「大丈夫だ。もうだいぶ良くなってきている」 苦笑いしながら振り返った鷲尾冴臣の表情は、東京で張り詰めていた頃よりもずっと柔らかく、穏やかだった。 あの日、路地裏で大量の血を流して倒れた冴臣は、三ツ谷の医師としての完璧な応急処置と、その後の緊急手術によって、奇跡的に一命を取り留めた。 彼を刺した月白依織――ティフィンは、そのまま警察に逮捕された。パパ活で得た資金や、他人の人生を狂わせた悪質なストーカー行為もすべて明るみに出た彼女は、今も重い懲役刑に服しているはずだ。 一方、八尾蓮真は、一連の騒動の責任を問われヤオノードの社長を辞任。会社から事実上追放され、業界内での信用も完全に失った。刑事事件でも事情聴取を受け、依織の罪を裏付ける証言台に立ったと聞いている。 後日、りと宛てに八尾から分厚い謝罪の手紙が届いたが、りとは一度だけそれに目を通し、返事を書くことはなかった。 そして、りとの実家に入った悪質な匿名通報の件も、無事に誤解を解くことができた。 真相を暴いてくれたのは、綾と剛堂店長だった。夜の街のネットワークを駆使して調べ上げた結果、実家に電話を入れたのは依織本人ではなく、金で雇われた代行業者だったことが判明したのだ。 すべてを把握した後、りとは震える手で実家の母親へと電話をかけた。「……お母さん、ちゃんと話したいことがあるの」 りとは、隠し立てせず、事実と嘘をしっかりと分けて説明した。「夜のお店で働いていたのは本当。会社の規則を破ったのも本当だよ。それは、私が悪かった」『……っ、そんな……じゃあ、あなたずっと東京で夜の仕事を……?』「ごめんなさい。でも、男関係で会社に迷惑をかけたとか、情報漏洩の犯罪に関わったとかいうのは、全部嘘なの。私を追い詰めるために、誰かが業者を使って家に電話したの……」 電話の向こうで、母親が言葉を失っているのがわかった。「お母さんたちに、軽蔑されると思って……言うのが、すごく怖かった」 りとの絞り出
肩にのしかかる、想像以上に重い身体。 生ぬるい液体の感触が、服越しにりとの肌へとじわじわと伝わってくる。「……冴臣、さん……?」 震える声で呼びかけながら、りとはずるずると崩れ落ちそうになる彼の身体を、必死に両腕で抱きとめた。 夕陽に照らされた彼の白いシャツが、みるみるうちに赤黒く染まっていく。鉄の錆びたような血の匂いが、夏のぬるい空気に生々しく混じり合った。 カラン、と。 血に濡れたサバイバルナイフが、乾いたアスファルトの上に転がり落ちる。「わ、私……」 自分の真っ赤に染まった手と、血を流して倒れ込む鷲尾の姿を交互に見つめ、ティフィンは大きく目を見開いた。彼女の瞳から先程までの夜叉のような狂気は完全に消え失せ、代わりに強烈なパニックと恐怖が顔に張り付いている。「そんな……つもりじゃ……っ」 ガタガタと震えながら、ティフィンはフラフラと後ずさった。 鷲尾は、刺された右の腹部を片手で強く庇いながら、荒い息を吐き出してティフィンを睨みつけた。「……月白……依織……」 ひどく掠れた、かすかな声。彼が紡いだのは、ティフィンの本名だった。 その名に過剰に反応し、ティフィンは両手で耳を塞ぐようにして首を激しく振った。「そもそも……冴臣くんが……私を選んで、くれないから……っ!」 それは、身勝手で子供じみた、ひどく哀れな言い訳だった。 鷲尾は腹部の激痛に顔を歪めながらも、冷静さを保とうと必死に言葉を絞り出す。「……最近、客でしかないはずなのに、突然俺の本名を呼ぶようになって、驚いていたが……。まさか、甘崎と繋がりがあったとはな……」「……っ」「君が俺に執着していることには、気づいていた……。だが、まさか……俺たちの後をつけられているとは……」 その言葉を最後に、プツリと、鷲尾を支えていた糸が切れた。 彼は血に染まった手をつき、そのまま力なくアスファルトに膝を折った。「冴臣さん……っ! もう、喋らないで……!」 りとは半狂乱になりながら、彼の上着を脱がせ、出血を抑えようと傷口に布を強く押し当てた。温かくて粘り気のある血が、りとの指の隙間からとめどなく溢れてくる。 いくら押さえても、血が止まらない。彼の体温が、指先から少しずつ奪われていくのがわかる。「だ、誰か……っ! 誰か、救急車を……っ!!」 りとの悲痛な叫び声が、夕暮れの
ネオンの光が夜の街を彩り始める頃、ガールズバー〝ルージュ・ラパン〟の店内には、開店前の静かな時間が流れていた。 カウンター席に腰を下ろした綾は、手元のスマートフォンを見つめ、ふぅと深く安堵の息を吐き出した。画面には、りとから届いた退職の報告と、少しだけ前を向けたような明るい文面が並んでいる。「……ラム、少しずつ立ち直ってきてるみたい」「そう。結局お店を辞めることになっちゃったのは残念だけど……あの様子なら、もう一人でも大丈夫そうね」 グラスを磨きながら、剛堂店長もホッと胸を撫で下ろした。しかし、二人の表情はすぐさま険しいものへと変わる。 この数日間、綾と店長は夜の街のネットワークを駆使し、りとの実家に入った悪質な匿名通報の出所を探っていた。そしてついに、一本の線が繋がったのだ。 通報に使われたのは、金で雇われた悪質な代行業者だった。そして、その業者に依頼を出したパトロンの背後にいるのは、間違いなくティフィンだ。「ラムをここまで追い詰めたこと、絶対に許さないんだから……っ」 綾は怒りに任せて、ティフィンの連絡先へと発信ボタンを押した。りとのご両親への誤解を解かせるためにも、本人を問い詰める必要がある。 だが、無機質な機械音が返ってくるだけで、一向に通じる気配がない。着信拒否されているか、すでに番号を変えられた後らしかった。「……出ない。完全に切られてる」「姿も見せないし、連絡もつかないなんて……妙ね。嫌な予感がするわ」 店長が眉をひそめて呟く。二人は顔を見合わせ、得体の知れない不穏な空気を感じ取っていた。 同じ頃。株式会社ヤオノードの社長室で、八尾蓮真は頭を抱えていた。 ウィルクエスとの共同プロジェクトは、情報漏洩騒動の余波で完全に凍結。それどころか、パートナー企業を陥れようとしたという最悪の事実が業界内に漏れ出し、ヤオノードへの信用は地に墜ちていた。 役員会からの激しい突き上げと、取引先からの契約打ち切りの電話が鳴り止まない。会社を救うために悪魔の手を借りた結果、蓮真はすべてを失おうとしていた。「……ティフィンちゃん……」 虚ろな目で呟くが、彼女はもう三日も蓮真のもとへは姿を見せていない。 あの日、「全部壊せばいいじゃない」と夜叉のように笑った彼女の異常な瞳を思い出すと、今でも背筋が凍る。彼女の執着の矛先は、もはや蓮真の理解を
数日後。 ウィルクエスの第一会議室には、重苦しい空気が漂っていた。 長机を挟んで、葛城部長、監査委員会の面々、そして鷲尾と依千が並んで座っている。りとは案内された席に腰を下ろし、膝の上でギュッと手を握りしめていた。 ヤオノード側への正式な調査照会、そして依千が提出したアクセスログの解析結果が出揃ったのだ。結論から言えば、りとの情報漏洩疑惑は完全に払拭された。 りとのアカウントは外部から不正利用された可能性が極めて高く、アクセス元はヤオノード側の検証環境だったこと。不審なアクセス時刻と、りとの社内での入退室ログが一致しないこと。さらにはヤオノードのサブサーバーに、漏洩を偽装するためのダミーファイルが事前に用意されていたこと。 最終的には八尾蓮真自身も証言に立ち、「甘崎さんは一切関係ない」と明確に認めたことで、事態は収束を迎えた。「甘崎さん」 葛城部長が、いつもの温厚な顔つきに戻り、深く頭を下げた。「情報漏洩疑惑について、君に重大な非は認められなかった。……会社として、君を守り切れなかったことを、心から謝罪するよ。本当に申し訳なかった」「……っ」 その言葉を聞いた瞬間、りとの目からボロボロと安堵の涙がこぼれ落ちた。自分が会社を裏切った犯罪者ではないと、ようやく公式に認められたのだ。 しかし、泣きながらも、完全に晴れやかな笑顔にはなれなかった。疑いが晴れたからといって、あの日のフロアで浴びた冷たい視線や、事実無根の噂話の恐怖が、綺麗になかったことにはならないからだ。「だがね……」 葛城部長は少しだけ表情を引き締め、言葉を続けた。「ガールズバーで副業をしていた事実は、就業規則上、どうしても処分対象になってしまうんだ」 情報漏洩は濡れ衣でも、副業規定違反は紛れもない事実だ。りとは涙を拭い、静かに、けれどしっかりと頷いた。「はい。……それは、私が悪いです。会社のルールを破っていたことは、言い逃れできません」 ここで言い訳をして逃げるような真似はしたくない。自分の非を真っ直ぐに認めるりとの誠実な態度に、葛城はふっと目を細めた。「懲戒解雇にするつもりはないよ。会社としても、君が経済的な事情を抱えていたことや、今回の件で理不尽な被害を受けたことを考慮する。処分はけん責、または一定期間の減給に留める。……希望するなら、別部署への配置転換で再スター
夏の夕暮れが夜の闇へと溶け込んでいく頃。 メゾン・ド・ルミエールの302号室、インターホンが静かに鳴った。 りとはビクッと肩を震わせたが、隣にいた綾が「アタシが出る」と立ち上がった。モニターを覗き込んだ綾は、少しだけ目を丸くして、それからふっと小さく笑った。「……ほら、お迎えだよ」 綾に促され、りとはおぼつかない足取りで玄関へと向かった。 ゆっくりとドアを開けると、そこにはネクタイを緩め、少しだけ息を切らしたスーツ姿の鷲尾が立っていた。「冴臣さん……」「……社内での接触は禁止されているが、すでに退社したのだから、ここは社外だろう」 少しだけ言い訳めいたことを真面目に口にする鷲尾を見て、後ろに立っていた綾が、どこか安堵したような声で笑った。「……やっとお迎えが来たんだ。彼氏さんが来てくれたなら、もう安心だね!」 綾は手早く自分の荷物をまとめると、りとの頭をポンと撫でた。「じゃ、アタシはお邪魔虫だから帰るわ。りと、ちゃんと話すんだよ」「綾さん……本当に、ありがとうございました。ずっと、一緒にいてくれて……」「いいのいいの。アタシたちは友達でしょ」 綾はひらひらと手を振り、鷲尾とすれ違いざまに、彼にだけ聞こえるほどの小さな声で「……絶対、泣かせんなよ」と鋭く告げた。 鷲尾は深く頷き、綾の背中を見送った。 エレベーターホールへと向かう綾の胸の奥には、ちくりとした失恋の痛みが残っていた。けれど、ドアの向こうでやっと息を吹き返した親友の顔を見れば、これでよかったのだと心から思えた。 ガチャリ、と。玄関のドアが閉まり、部屋に二人きりになる。 静寂が落ちた瞬間、鷲尾は大きな歩幅でりとに近づき、その細い身体を腕の中に強く、きつく閉じ込めた。「……っ、冴臣さん……」「……よく、一人で耐えてくれた。すまなかった。もっと早く、君のところへ来るべきだった」 耳元で聞こえる、低くて震える声。彼特有の、清潔なウッディの香りに包まれた途端、りとの目からせき止められていた涙が一気に溢れ出した。 シャツの胸元をギュッと掴み、りとは彼の胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。鷲尾は何も言わず、大きな手で彼女の背中を、何度も何度も愛おしむように撫で続けた。 やがて、少しだけ落ち着きを取り戻したりとは、鷲尾に促されてソファに並んで座った。「……情報漏洩の
翌朝。 メゾン・ド・ルミエールの302号室には、白々と夏の朝日が差し込んでいた。 りとは腫れ上がった重い瞼をこじ開け、のそりとベッドから身を起こした。隣には、昨夜からずっと泊まり込んでくれている綾が、疲れた顔で眠っている。「……会社……行かなきゃ」 フラフラと立ち上がり、クローゼットへ向かおうとしたりと腕を、起きてきた綾がガシッと掴んだ。「ダメ。自宅待機って言われたんでしょ」「でも……私……」 焦点の合わない瞳で虚ろに呟くりとを、綾は無理に励ますことはせず、ただ優しくベッドに座り直させた。「今日はアタシがいる。一人で悪い方向に考えるのは禁止。……スマホも、会社の連絡も、見る時は一緒に見よ」 綾に促され、りとは昨夜から電源を切っていたスマートフォンのことを思い出した。 電源を入れる前に、ふと、綾がサイドテーブルに置いていたタブレットの画面が目に入った。それは偶然開いたままになっていた、メロウルームのサイトだった。 一番上にあるレイのプロフィールページには、昨日まではなかった〝当面の活動休止〟という文字が赤く表示されている。「……レイ、さん……?」 血の気が引いた。自分のせいで、鷲尾がセラピストとしての仕事まで失ってしまったのだ。「どうしよう、私のせいで……っ」「違うでしょ」 青ざめて震えるりとに対し、綾は少しだけ強めの口調で言い放った。「りとのせいじゃない。りとを守るために、そいつが自分で選んだ道なんだよ。……少しは彼氏の覚悟を信じてやりなよ」 綾の力強い言葉に、りとはギュッと胸の奥を掴まれたように、ぽろぽろと涙をこぼした。 同じ頃、株式会社ウィルクエスの第一会議室。 朝一番、鷲尾は自ら葛城部長と監査委員会のメンバーに面談を申し入れていた。「……昨日、君には甘崎さんの件から完全に手を引けと言ったはずだが」 葛城部長が眉根を寄せて渋い顔をする。しかし、鷲尾は決して視線を逸らさなかった。「手は引けません。私が彼女を庇う理由は、直属の部下だからではありません。……甘崎りとは、私にとって大切な人です」 会議室の空気が、一瞬にして凍りついた。 鷲尾は監査委員会の前で、自分とりとが私的な関係にあることを堂々と認めたのだ。「私情があるからこそ、この場に来ました。保身のために上司面をして彼女を見捨てる方が、よほど不誠実だと判断し
日付が変わる頃、乃々羽と別れたりとは、冬の凍てつくような寒さの中を一人、自分のアパートへと歩いていた。「あーあ、飲んだ飲んだ……」 口から吐き出す白い息は、街灯に照らされてすぐに夜の闇へと溶けていく。親友の乃々羽と心ゆくまで愚痴を言い合い、カラオケで喉が枯れるまで騒いだおかげで、沈んでいた気分は随分と軽くなっていた。 年末で静まり返った住宅街の道を歩きながら、りとはマフラーに顔を埋める。 アパートの敷地内に入り、ふと自分の部屋の隣――鷲尾の部屋の窓を無意識に見上げていた。 電気はついておらず、カーテンの隙間からも光は一切漏れていなかった。真っ暗だ。(まだ帰ってないのかな。それと
激しい波が何度も押し寄せ、ようやく静まり返ったハイクラスホテルのスイートルーム。 間接照明の柔らかな光の中、りとは真っ白なシーツにすっぽりと包まれながら、指一本動かせないほどの心地よい疲労感にどっぷりと浸っていた。「お疲れ様でした。少し、汗を拭きましょうか」 レイ――鷲尾課長の声は、昼間の冷徹さからは想像もつかないほど甘く低く、どこまでも優しかった。 温かいホットタオルが、りとの火照った身体を丁寧に拭い清めていく。その手つきには一切のいやらしさがなく、ただ大切なものを慈しむように扱われているという絶対的な安心感だけがあった。 ふわりと鼻腔をくすぐるのは、彼から漂う落ち着いた〝ウッ
土曜日の夜。 職場である都心のオフィス街から電車を乗り継ぎ、一時間以上離れた閑静なエリアにあるハイクラスホテル。 りとは広々としたスイートルームのふかふかの上質な絨毯の上で、落ち着かない様子でウロウロと歩き回っていた。 女性向け風俗、出張型リラクゼーションサービス〝メロウルーム〟。 予約を完了した日から今日まで、りとは仕事中も上の空になるほど、この日のことばかりを考えていた。下着も奮発して、少し透け感のある黒のレースのランジェリーを身につけている。上には、ホテルに備え付けられていた肌触りの良いバスローブを羽織っていた。(あの写真の人……本当に鷲尾課長なのかな。いや、まさかね。いく
「はぁ、はぁ……っ、ん……」 お互いの吐息が混じり合う、狭くて、どこか安っぽいビジネスホテルの客室。 部屋の明かりは落とされ、枕元のスタンドライトだけが、不気味にオレンジ色の光を放っている。 甘崎りとは、見知らぬ男の身体の下に敷き調えられていた。 男の硬い胸板が押し当てられ、鼻を突くのは、どこのものとも分からない安価な香水と汗が混じったような匂い。りとが望んでいた展開とは、あまりにもかけ離れた現実がそこにはあった。「ねえ、もっと力抜いてよ。そっちから誘ってきたんでしょ?」 男の濁った声が耳元で鼓膜を震わせる。 太い指が、りとのタイトスカートの裾を強引に捲り上げ







