LOGIN「愛子も」少し掠れた声。あ。これ、本当に疲れてる。自然に眉を寄せていた。「なんか本当に疲れてそうだね」翔太が少し肩をすくめる。「まあ、今週ちょい修羅場で」いつもより言葉が少ない。でも、私を見る時だけ、少し目が柔らかい。自然に。何気なく。視線が止まる。見られている。そう思う。でも、嫌じゃない。エレベーターを待つ。静かなロビー。翔太の目が、ふと袋へ落ちる。ハイボール。チーズ。生ハム。それから、また私の顔。少しだけ止まる。「……なんかあった?」心臓が、小さく跳ねた。「え?」「いや」翔太は少し首を傾げる。目元には疲れがあるのに、その視線だけ妙に鋭い。「今日、なんか違う」責めるでもなく。探るでもなく。ただ、感覚で見ている。なんで分かるの。正人に抱きしめられたこと。少し心が動いたこと。整理しきれていない感情。全部、なんとなく見透かされている気がして落ち着かない。正人は、私が言うのを待ってくれる。翔太は、私が言う前に気づいてしまう。その違いが、急に目の前で形になった気がした。エレベーターが着く。二人で乗り込む。深夜。誰もいない。狭い空間。翔太が壁にもたれる。少しだけ俯く。本当に疲れているらしい。けれど、私を見る時だけ、視線が戻る。身長差のせいで、自然と少し上から。近い。距離感が。たまに、本当に自然に近い。疲れている時ほど、それが無防備に出る。私は少しだけ落ち着かなくなる。近いんだよな、たまに。あと、鋭い。本当に。しばらく沈黙が落ちた。エレベーターの数字だけが、静かに上がっていく。そのあと、翔太がぽつりと言った。「……明日」少しだけ笑う。「何個か時間候補あるし」それから、本当に当たり前みたいに。「適当に行きましょ」思わず小さく笑ってしまった。本当に、そのままなんだ。お好み焼き屋で、楓に慌てて説明した。あの人、当日決めるし。多分、適当に連絡してくると思う。本当にその通りになる。妙に翔太らしい。妙に自然。生活の中に馴染んでいる感じが、少しくすぐったかった。「適当すぎない?」私が言うと、翔太が少し笑う。「いいじゃん。楓くんいるし」「楓がいるから適当でいいってこと?」「楓くん、たぶんどこでも楽しめるでしょ」「それはそう」「あ
倉庫を出る頃には、夜風が少し冷たくなっていた。湾岸沿いの空気は、都心より少し重い。潮っぽい匂い。遠くを走るトラックの音。湿った風が、少しだけ髪を揺らす。さっきまでいた倉庫の灯りが、背後で小さくなっていく。正人は、倉庫を出てからしばらく何も言わなかった。でも、気まずい沈黙ではなかった。何かを大事に抱えている人の静けさだった。私も、無理に話そうとはしなかった。見せたもの。言葉にしたこと。抱きしめられた感触。腕の熱。近くで感じた、タバコとミントみたいな香り。全部がまだ、身体のどこかに残っている。車に戻る。正人が自然に助手席のドアを開けた。「足元、気をつけて」いつも通り。でも、ほんの少しだけ静かだった。私は小さく頷いて、車に乗り込んだ。ドアが閉まる。さっきまでの倉庫の冷えた空気が、少しだけ遠ざかる。車が走り出した。湾岸の夜景が窓の外を流れる。橋の灯り。倉庫街。遠くの高層ビル。少し映画みたいな夜だった。しばらくして、正人がふっと笑う。「正直」少し間があく。「一瞬、殺されるかと思った」思わず吹き出した。「なんで」「湾岸、倉庫、夜」ハンドルを握ったまま、少し肩をすくめる。「ドラマだったら普通に消されるやつ」「そんなわけないでしょ」「いや、ちょっと覚悟した」その真面目な顔が可笑しくて、また笑ってしまった。空気が、少し戻る。正人って、こういう時にちゃんと冗談を言う。空気を壊さない。でも、軽くもしない。そのバランスが心地よかった。さっき、倉庫の中で抱きしめられた時。好きだと、少し苦しそうに言われた時。胸が痛かった。痛いのに、嫌ではなかった。むしろ、正人の腕の中で、少しだけ安心してしまった。その事実を、まだ自分でもうまく扱えない。でも今、隣で冗談を言う正人を見ると、少しだけ息がしやすくなる。正人は、私が受け止めきれないものを、重いまま押しつけてこない。ちゃんと置いたあとで、少し笑える余白を作ってくれる。その優しさが、また胸に残った。少しして、正人が倉庫で見た絵の話をした。「あの青い絵、好きだった」「青?」「入口近くにあったやつ」少し考える。「ああ」大学二年の頃の作品。海みたいな色の、大きなキャンバス。教授にはかなり怒られた。「まとまりないって言われたやつ」
「今は、懐かしいとも思えるし。好きなアートとか、資料とかも置くようになった」言いながら、まともに正人の顔を見られない。究極の自己開示すぎる。仕事の失敗を見せるより恥ずかしい。恋愛の話をするより、ずっと怖い。自分が昔、本気で何かを作ろうとしていた証拠。そして、それを途中で手放した証拠。その両方を見せている。「ここに連れてきたの」少し息を吸った。「正人で、五人目だよ」正人がこちらを見る気配がした。「ほとんどの友だちも、元カレも、連れてきたことないし」少しだけ迷う。でも、言う。「翔太も、連れてきたことないよ」その言葉を口にしてから、ようやく正人を見ようと顔を上げた。その瞬間だった。後ろから、腕が回った。正人が、私を抱きしめていた。強くはない。けれど、ためらいきれなかったような腕だった。一瞬、息が止まる。背中に、正人の胸の熱がある。近い。タバコと、ミントみたいな香り。さっき車の中で感じていた距離よりも、ずっと近い。倉庫の蛍光灯の音が、耳の奥で小さく鳴っている。正人の腕に、少しだけ力が入った。嫌ではなかった。それに気づいて、また少しだけ息が詰まる。「……見ないで」正人が低く言った。声が、少しだけ揺れていた。「多分、今まともな顔してないから」冗談みたいに言おうとしているのに、うまく誤魔化せていなかった。私はしばらく何も言えなかった。それから、ゆっくりと正人の腕に手を添える。離すためではなく。拒むためでもなく。握り返すように、少しだけ力を込めた。「正人はずるい」正人の腕が、少しだけ動く。「なにが」「さっき、あんな顔で、どっちが特別かって聞かれたら」目を閉じた。言葉が少し震えた。「そういうことじゃない、ってこっちがちゃんと示すしかないじゃん」自分でも少し情けない言い方だと思った。でも、もう綺麗には言えなかった。「私、頑張ってるんだよ」小さくこぼれた。答えを出せない罪悪感がある。待たせていることも分かっている。それでも、正人が距離を保ちながら丁寧に接してくれるたびに、少しずつ惹かれている自分がいる。コンサートで見た正人。ピアノを弾く正人。ペンギンの関係図を一緒に笑った正人。疲れていても時間を作ってくれる正人。鉄板越しに、嫉妬を飲み込もうとしていた正人。知らなかった
お好み焼き屋を出る頃には、金曜の夜の街は少しだけ落ち着き始めていた。店内に残っていたソースの甘い匂いが、まだ服に少し移っている。外へ出ると、夜風が頬に触れて、鉄板の熱で少し火照っていた肌が冷めていくようだった。正人は何も聞かなかった。「行きたい場所がある」と言った私の言葉を、そのまま受け取っただけだった。少しの気まずさは残っている。お好み焼きの鉄板越しに話したこと。翔太の名前を避けた自分。それでも正人に問われて、言い訳が全部ほどけてしまったこと。二人で会いたかった、と言った時の、正人の一瞬だけ緩んだ表情。そして。――どっちが特別かって、明らかじゃない?あの言葉。胸の奥には、まだ静かに刺さっていた。駐車場へ向かう途中、正人が少しだけ横を見る。「場所、送って」声はいつも通りに近かった。でも、さっきより少し慎重だった。私はスマホを開き、住所を送った。「ここ」正人は受け取った住所を地図アプリに入れる。画面を見た瞬間、少しだけ眉を上げた。「……湾岸の方?」「うん」「本当にここ?」その確認に、少しだけ唇を結ぶ。普段のように軽く返せなかった。「付き合ってくれるんでしょ」声が、自分でも分かるくらい硬かった。少し低い。少し怖い。正人はすぐにそれを察したように、表情を整えた。「分かった」それ以上は聞かない。ただ、車のロックを開け、助手席のドアを自然に示す。私は小さく頷いて乗り込んだ。車が走り出す。夜の都心を抜けていく。さっきまであった店の熱気から離れて、窓の外は少しずつ暗い水辺の気配へ近づいていった。高架。倉庫街。遠くに見える橋の灯り。オフィス街の光とは違う、少し冷たい照明が車窓を流れていく。車内は静かだった。正人は無理に話さない。でも、沈黙を放置しているわけでもない。少し走ってから、エアコンの温度を一段上げた。「寒くない?」「大丈夫」「後ろに毛布あるよ」「そこまでじゃない」そう答えながら、胸が少し痛くなる。こういうところだ。何も聞かない。でも、ちゃんと見ている。踏み込まないまま、気遣いだけは差し出してくる。それが優しくて、申し訳なくて、少しだけ苦しい。目的地までは三十分ほどかかるはずだった。その間、私はずっと自分の指先を見ていた。ここへ連れて行く。そう決めたのは、
鉄板の上で、ソースが小さく弾けた。しばらくして、正人が小さく咳払いをした。「……えっと」少し苦笑い。「すごいしょうもない自覚あるし」言葉を探すみたいに、視線が泳ぐ。「自分が理解してない背景があるのも、分かってるんだけど」少し間。それから、ようやく顔を上げた。「……お隣の子、だよね」翔太。名前を出さない。でも、分かる。「その子とは」正人がヘラを置いた。カチ、と小さな音がした。鉄板の湯気が、二人の間に少し上がる。「弟くんも入れて遊びに行けるのに」少しだけ乾いた笑い。「日曜に、自分が会えないのはなんでだろうって」胸が少し痛む。「ちょっと考えた」責めていない。でも、傷ついている。その温度が、静かに伝わってくる。正人の視線は、まっすぐではなかった。少しだけ横へ流れている。でも、それは逃げているというより、自分の言葉を抑えようとしている目だった。言いすぎないように。責めないように。でも、黙ったままにもできないように。私は何か言おうとして、止まった。全部、言い訳になる。楓がいたから。翔太は隣だから。昔の恋人だから。ホラー映画とアートバーは前からの約束だから。でも。それだけじゃない。自分でも、分かっている。翔太は、“隣人”だけの距離ではない。だったら、これは何なのか。そう聞かれても、まだ答えは出ない。でも。一つだけ、確かなことがあった。私はゆっくり口を開く。「正人はさ」少し迷う。でも、逃げない。「ちゃんと告白してくれて」正人の目が、私を見る。「待ってくれてるじゃん」視線が少し下がる。「だから」息を飲む。「楓を、入れないでデートしたかったの」正人の表情が止まる。私は少しだけ苦笑いした。「言い訳じみてるけどさ」声が少し小さくなる。「……二人で会いたかったんだよ」沈黙。ほんの少しだけ。正人の肩の力が抜けるのが分かった。目元も、少しだけ緩む。でも、そのあと、困ったみたいに笑った。「でもさ」静かな声。「客観的に見たら」少しだけ苦い笑い。「俺と、その隣の子」間。「どっちが特別かって、明らかじゃない?」胸が痛くなる。すぐに正人が続けた。「ごめん」少し目を逸らす。「こんな形で嫉妬すべきじゃないの、分かってるから」綺麗に片付けようとする。いつ
お好み焼き屋の店内は、思っていたより落ち着いていた。金曜の夜らしく席は埋まっているのに、不思議とうるさすぎない。鉄板の上で焼けるソースの匂いと、少し甘いキャベツの香り。奥の席からは、グラスのぶつかる音と、小さな笑い声が聞こえてくる。古い木のテーブル。少し年季の入った鉄板。暖色の照明。どこか昔から変わらない店、という空気だった。正人っぽい。なんとなく、そう思った。流行りの店ではない。でも、ちゃんと美味しくて、気取っていない場所。安心感がある。席につくと、正人は慣れた様子でメニューを広げた。「苦手なものある?」「ない」「じゃあ適当に頼んでいい?」その言い方があまりにも自然で、少し笑ってしまう。「そこ、最近安心感あるから助かる」正人が少し目を細める。「任せるの、慣れてきたよね」「正人、外さないし」「珍しく褒められた」少し嬉しそうに言いながら、正人はジャケットを脱いだ。そのままシャツの袖を二回折る。腕まくり。少し筋張った手首。時計。普段、資料を持つ時に見慣れている綺麗な指先。それが、自然な動きでヘラを持つ。店員が置いていったボウルを迷いなく混ぜて、キャベツの量を見ながら生地を整えていく。動きが慣れていた。雑じゃない。でも、気取ってもいない。ちゃんと生活してきた人の手つきだった。私は少し目を丸くする。「……料理するんだ」正人が少し顔を上げる。「意外?」「かなり」「一人暮らし長いから」さらっと言って、鉄板へ生地を落とす。じゅう、と音がした。湯気が少し上がる。手際がいい。ひっくり返すタイミングも迷いがない。「え、普通に上手」「そこそこだから」少しだけ得意げな顔。その意外さに、思わず笑ってしまった。こういう正人を、少し前まで知らなかった。車を運転する正人。ピアノを弾く正人。妹の話をする正人。馴染みのバーへ連れて行ってくれる正人。そして今、鉄板の前で当たり前みたいにお好み焼きを焼く正人。知っているはずの人の中に、知らない生活がいくつもある。それを少しずつ見せてもらっていることが、嬉しかった。ふと、頭の片隅に翔太が浮かぶ。翔太は、こういうのをするんだろうか。しなさそう。いや、するのかもしれない。五年前、一緒にいた時に見たことがなかっただけで。カフェ。映画。







