Se connecter正人の視線は、翔太の顔を一度だけ見て、それからすぐに目元へ戻った。翔太はその視線を受けても、目を逸らさない。少しだけ顎を引き、丁寧な姿勢のまま立っている。礼儀正しい。冷静。それなのに、どこかでお互いを測っている。言葉にすれば、たった数秒のことだった。でも私は、その数秒をひどく長く感じた。麻衣ちゃんだけが、まだ翔太を見ていた。「本当にゆうとくんに似てます……」「ここ最近で。急によく言われるようになりました」翔太は愛想笑いを崩さない。でも、その視線は一度だけ正人へ戻る。正人も、目を逸らさなかった。怒ってはいない。笑ってもいない。ただ、静かに見ている。お互いが、お互いを測っている。私はそう感じて、少しだけ背中が落ち着かなくなった。それと同時に、別のことにも気づいていた。翔太は、麻衣ちゃんにも正人にも丁寧だ。でも、その顔は私に向けるものではない。さっき封筒を渡してくれた時の、少し砕けた笑い方。「命の恩人なので」と言った声。辛いものをねだる、軽いテンポ。あれは、私に向けていたものだった。他人モードの翔太を目の前で見たことで、その差がかえってはっきりしてしまう。そのことに気づいて、胸が小さく跳ねた。そしてたぶん。正人も、それに気づいている。視線の端で、正人の指がほんの少しだけ資料ケースを握り直したのが見えた。「ごめん、私次のミーティングある」私は時計を見る。「ほんとありがとう。今度ちゃんとお礼する」「はい」翔太は頷いた。そのあと、ふと少しだけ口元を上げる。「じゃあ、また一緒に辛いもの食べに行こ」声は自然だった。でも。少しだけ、正人にも聞こえるような大きさだった。私は一瞬、返事に迷った。ただのお礼の延長。命の恩人への冗談。そう受け取ればいい。でも、その声の置き方が、完全な偶然ではない気がした。「連絡するね」結局、そう言った。「うん、またね」翔太は軽く手を上げて、ロビーを出ていく。自動ドアが開き、外の光が一瞬差し込む。翔太の背中は、何でもないように去っていった。でも、その何でもなさが少しだけ引っかかった。正人の表情は、まだ少しだけ固かった。本当に少しだけ。普段の正人を知らなければ、気づかないくらい。私は封筒を抱え直しながら、その横顔を見た。「正人?」「ん?」正人は
「本当にありがとう。ほんと助かった。命の恩人」「早いですね、命の恩人認定」「いや本当に。これなかったら今日終わってた」「終わらなくてよかったです」翔太は少し笑った。その笑い方は、いつもの翔太だった。ベランダで話す時の。辛いものを食べて目を赤くしていた時の。私の前でだけ少しだけ気を抜く、あの顔。私は封筒の中身を確認して、胸を撫で下ろす。色サンプル。ちゃんと入っている。間に合った。「今度絶対お礼するから」「じゃあ辛いものでお願いします」「また?」「お願い、聞いてくれるんでしょ」思わず笑った。その瞬間だった。ビルの前に、タクシーが一台止まった。ドアが開いて、麻衣ちゃんが先に降りる。その後ろから、正人が降りてきた。私は一瞬だけ固まった。タイミングが悪い。いや、悪いわけではない。何も悪いことはしていない。翔太はただ封筒を届けに来てくれただけ。でも。なぜか、空気が少し変わる予感がした。麻衣ちゃんがこちらに気づく。そして、翔太を見た瞬間、目を丸くした。「えっ」声が、思っていたより大きくなる。「ゆうとくん……?」翔太の顔が、ほんの少しだけ固まった。私は反射的に笑いそうになるのをこらえた。まただ。「違います」翔太は慣れたように、でも少し困った顔で答える。麻衣ちゃんは近づきながら、まじまじと翔太を見る。「すみません。でも本当に似てますね。え、事務所とか入ってます?」「入ってないです」「モデルとかも?」「してないです」翔太は愛想よく笑っている。でも、私に向ける笑い方とは違った。礼儀正しくて、距離がある。声も少しだけ低すぎない。表情も綺麗に整っていて、失礼にならない程度に柔らかい。でも、壁がある。他人に向ける翔太。よそ行きの翔太。新大久保でスカウトを断った時にも見た顔だった。麻衣ちゃんはまだ驚いた顔をしていた。「本当に一般の方ですか?」「一応ね」「一応って」麻衣が小さく笑う。その笑いには、戸惑いと興奮が混ざっていた。分かる。分かってしまう。客観的に見れば、翔太はやっぱり普通の一般人の見た目ではない。隣に住んでいて、気軽に話して、歯磨き粉や封筒を持ってきてくれるから、うっかり忘れそうになるけれど。初めて見る人は、こういう反応をする。その事実が、なぜか少しだけ胸をざ
その日は、朝から少しだけ嫌な予感がしていた。新商品のローンチ準備は、撮影が終わってからの方が細かい。スチールの選定。媒体ごとのリサイズ。店頭ツールの色味調整。クライアント確認。印刷会社との納期交渉。ひとつひとつは小さいのに、どれか一つでも遅れると全体が崩れる。午後三時。私は会議室の端で、ノートPCを開いたまま固まっていた。「……嘘でしょ」画面には、配送完了通知。けれど配送先は、会社ではなかった。自宅。色味確認用のサンプルが入った白い封筒。本来なら、今日中に会社で確認して、夕方のクライアントミーティングで方向性を固めるはずだった。それが、なぜか自宅に届いている。普段頼んでいる業者では納期が間に合わず、今回だけ別の会社に頼んだ。その時に、登録住所が自宅のままになっていたらしい。最悪。本当に最悪。私はスケジュールを見た。このあと三十分後に社内確認。その後すぐクライアント。さらに媒体社との調整。取りに帰る時間なんてない。でも、今日必要だった。今日見なければ、明日の修正指示が出せない。明日遅れれば、週明けの納品が危ない。私はスマホを握りしめた。数秒だけ迷って、翔太に電話をかけた。数コールで繋がる。『はい』「翔太、今家?」声が少し焦っていた。翔太はすぐにそれを察したのか、少しだけ声のトーンを変えた。『在宅です。どうしました?』「ごめん、ほんとにごめんなんだけど」早口になる。「今、ちょっと手離せる?」『うん。何?』「私のポストのダイヤル暗証番号言うから、白い封筒が届いてないか見てほしい」電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。『……ポストの暗証番号?』「ほんとごめん。かなり急ぎで」『いや、別にいいですけど』翔太の声に、少しだけ笑いが混ざった。『信頼が急に重いですね』「今それに突っ込まないで」『はいはい。番号ください』暗証番号を伝えながら、片手で資料を開いた。電話の向こうで、翔太が部屋を出る音がする。鍵。廊下。エレベーターの電子音。そんな生活音が、妙に近く感じた。自分の家のポストを、翔太が開けに行っている。冷静に考えると、かなり距離が近い。でも今は、それどころではなかった。『ありました』翔太の声が戻る。『白い封筒。これ?』「それ!」思わず椅子から立ち上がりそ
「その反応は、ちょっと傷つくなあ」声は軽い。でも、完全な冗談にも聞こえない。胸が、また変なところで鳴った。「……翔太、今日なんか変だよ」「そうですか?」「うん」「まあ。そんな楽しいデートの話されたら」翔太は缶を手すりに置いた。「もっと楽しいことに誘いたくなるもんでしょ」その言い方に、また動揺する。「アートバー行くじゃん」「そういう話じゃなくてさ」翔太がこちらを見る。夜の暗さのせいで、表情の輪郭がいつもより少し柔らかい。けれど、目だけはやけに真っ直ぐだった。「愛子の楽しい時間は、俺の方がもっと自然に作れると思ってるだけ」少しだけ口元を上げる。「俺ら、好きなもの似てるじゃないですか」軽く言った。軽く言ったのに、胸に残る。正人は、正人の生活へ私を招いてくれた。それは本当に嬉しかった。でも翔太は、私の中にある“楽しい”を、説明する前から知っているように話す。そこが少し怖い。そして、少しだけ悔しい。当たっている気がしてしまうから。「じゃあ」私は少しだけ挑むように言った。「なんか楽しいことに誘ってくれるの?」翔太は少し考え込んだ。いつものように、すぐ適当なことを言うかと思ったのに、案外真剣に空を見ている。夜風で、少し湿った髪が揺れた。「イマーシブシアターとか、行ってみます?」「イマーシブシアター?」「体験型の劇場みたいなやつ。観客も空間の中に入って、物語を追うやつです。ニューヨークで一回見て面白くて」翔太の声が少しだけ熱を持つ。「最近、東京でもちょっとずつ増えてるんですよ。知り合いのアーティストの子が関わってるのがあって」「へえ」「まあ、ちょっと最近は距離置いてたんですけど」その言い方に、何かあったのだと察した。でも、聞かなかった。翔太もそれ以上は言わなかった。その代わり、缶を持ち直して、少しだけ笑う。「そんな楽しそうな顔してるのを今日見ると」胸がまた少し騒ぐ。「隣人として。ちょっと嫉妬したからさ」さらっと言った。でも、嘘ではない温度だった。隣人として。その言葉をつけたのは、逃げ道なのか。線引きなのか。それとも、私を困らせないためなのか。分からない。分からないから、余計に落ち着かない。「なんか新しい体験、俺も愛子に提供したいなって思ったから」言葉が出なかった。顔が
部屋に戻ってからも、しばらくコートを脱げなかった。玄関の明かりだけがついた部屋の中で、バッグを持ったまま立ち尽くす。正人の言葉が、まだ身体のどこかに残っていた。――でも、もうしょうがないよね。好きだから。タクシーの中の静けさ。窓に流れていた夜の光。情けないみたいに笑った正人の顔。それなのに、あの人は最後まで優しかった。待つと言った。困らせることは想定していたと言った。水族館に行きたいという唐突な言葉にも、呆れながらちゃんと受け取ってくれた。私はようやく靴を脱ぎ、コートをソファの背にかけた。シャワーを浴びるべきだと思う。明日は月曜だ。でも、身体の奥にまだ熱が残っていて、すぐに眠れる気がしなかった。正人のことを思い出すたび、胸が静かに温まる。それは、翔太に揺らされる時のような急な熱ではなかった。もっと深いところで、ゆっくり染みてくるようなものだった。今日また、正人を知ってしまった。そう思う。ピアノを弾く横顔。私を「大事な人」と言った声。好きだから、と少し情けなく笑った顔。今まで同期として見ていた人の輪郭が、少しずつ男の人の形を帯びていく。その変化が、嬉しくて。同時に、怖かった。スマホが震えたのは、その時だった。翔太だった。『起きてます?』私は少しだけ息を止めた。隣。また、隣。今日の正人の話を思い出して、胸が少しざわつく。それでも、返信画面を開いてしまう。『起きてる』数秒後。『ちょっとベランダで飲みません?』私はスマホを見つめた。今日はもう飲んだ。しかも、コンサートのあとバーまで行った。明日は仕事。普通なら断るべきだ。でも。少しだけ、飲み足りない。正人との時間が悪かったわけではない。むしろ、良すぎた。良すぎたからこそ、胸の中に残ったものを、まだ一人で抱えきれなかった。『少しだけなら』送ってから、小さく息を吐いた。ベランダに出ると、夜風が少し冷たかった。隣のベランダでは、翔太がすでに缶を開けていた。黒いスウェットに、少し濡れたような髪。たぶん、シャワーのあとだ。ラフなのに、やっぱり目立つ。夜の薄い光の中でも、肩の線や首元の影がきれいに見える。何も作っていない姿のはずなのに、気を抜いた色気がある。そう思ってしまって、私は少しだけ視線を逸らした。「おかえり」翔太
タクシーの中の静けさが、急に濃くなる。「意識してたのは、二年前くらいからかな」「二年前?」思わず聞き返した。「私、前の彼氏と付き合ってたし。正人も彼女いたじゃん」「うん」正人は苦いものを飲み込むみたいに笑った。「だから最初は、ないと思ってたんだよ。自分でも」少し間。「でも、気づいたら、一番話したいのが愛子だった」胸の奥が、静かに揺れる。「嬉しいことがあった時も、しんどい時も、先に顔が浮かぶのが愛子で」正人は窓の外に視線を向ける。「それでも、いやこれは同期としてだろって思ってた。仕事もあるし、彼女もいたし、愛子には彼氏がいたし」その声は、淡々としているのに、どこか痛かった。「でもまあ、彼女にも振られたよね」言葉を失った。正人は乾いた笑いをこぼした。「気持ちが離れすぎてるって」「……正人」「向こうが結婚したがってたのもあるけど」さらっと言う。でも、さらっと言うには重すぎる内容だった。「俺、ちゃんと向き合えてなかったんだと思う」何を言えばいいか分からなかった。正人の好きが、自分が想像していたよりずっと長い時間の中にあったこと。そのせいで、誰かが傷ついたかもしれないこと。正人自身も、きっと何度も誤魔化そうとしたこと。全部が一気に流れ込んできて、うまく飲み込めない。正人は、少しだけこちらを見た。「まあ、だから」声が少し柔らかくなる。「そんな簡単に諦められるって話でもないわけ」胸が詰まる。「だからって、どうしようもないのは知ってたけどさ」正人は苦笑した。「愛子が前の彼氏と別れた時は、正直かなり動揺した」息を止める。「一人暮らし始めるってなった時も」正人の声は穏やかだった。でも、そこにあった感情の熱は隠れていなかった。「愛子の気持ちは心配したよ。もちろん」少し間。「でも、諦めなくてもいいんじゃないかって、真剣に思った」その正直さに、胸がきゅっと痛んだ。「今までの距離感も、失う可能性も、仕事も、全部天秤にかけた」正人は自分でも少し呆れたように笑う。「でも、もうしょうがないよね」正人が私を見る。逃げない目。でも、少し情けないような笑み。「好きだから」その一言で、胸がひどく揺れた。かっこいい告白ではなかった。完璧に整えられた言葉でもなかった。でも、だからこそ響いた。長い間、







