LOGIN朝倉倫子:奨学金で医師を目指すが、妊娠により休学。夫・桐生智也に冷遇されて離婚し、復学して医師になる。 桐生美琴(旧姓白木):医療法人の理事長の娘。広告塔になるべく「天才外科医」を名乗る。 桐生智也:美琴の恋人だったが、倫子と結婚した。離婚して、美琴と再婚。IT企業の二代目社長。 イーサン・タン:国際医療グループに所属する医療コーディネーター。 パク・ミンジェ:国際医療グループに所属する形成外科医。
手術の翌日。 朝倉倫子が目覚めたときには、十時を回っていた。「……寝過ぎたわ」 スマートフォンには、メッセージが入っていた。 イーサン・タンからは『起きたら、連絡をください』と、シンプルに。 パク・ミンジェは『今日は観光に行ってくる』そうだ。「……元気ね」 倫子はそう呟いて、内線でモーニングのルームサービスを頼んだ。 午後になって、倫子はイーサンと大学病院へ行くことにした。 西園寺澄子の病室の前には、強面の男性が立っていた。アリフ王子がつけた護衛だろう。 イーサンは病室に入らずに、その護衛の横に立った。「澄子さん。気分はどうですか?」「ええ……悪くはありませんわ」 ベッドのリクライニングで頭を少し高くして、安静にしている。 点滴やドレーンが付けられているので、倫子はそれらに触れないように気をつけながら近づいた。 倫子はガーゼを慎重に外し、皮膚の色や腫れなどをチェックした。「これくらい腫れがあるのは普通ですから、心配ありませんよ。大きく口を開けたり、顔をしかめるのは控えてくださいね」「はぁい」 澄子は小さな声で返事をした。 病室に山本准教授が入ってきた。「朝倉先生。澄子さんの経過は良好ですよ。見事な腕前ですね」「いえ。大学病院の皆さまも素晴らしい方ばかりで……」 倫子はそう言いかけて、怪しい看護師がいたことを思い出した。だが、患者の前で質問するのはよくないだろう。「明後日、澄子さんの手術に関して記者会見したいのですが、ご協力いただけますか」「イーサン・タンを通していただければ」「はは、そうでしたね。澄子さんが怪我をした経緯などは、触れないようにするからね」「はい」 並んで病室を出たところで、倫子は気になったことを尋ねた。「蒲田医師の具合はいかがですか?」「今日は通常通り勤務しています」「まあ! ……そうですよね。スケジュールがぎっしりで、休めないですよね」 医師が予定外の休みを取ると、患者に迷惑をかける。そのため、無理をする者も多い。「それにしても、お恥ずかしい事態が起きてしまって……。私もまだ混乱しています」 山本准教授は頭をかいた。「警察には届けたのですか?」「病院と大使館で、届けるかを協議中です。休憩スペースからクッキーが消えていたので
「蒲田医師が体調不良……?」 突然入ってきた情報に、朝倉倫子は動揺した。 先ほど休憩に入るまでは、問題なく手術をしていたのだ。 第二助手のパク・ミンジェが手を動かしながら、早口で言った。「第一助手の担当は終わっている。これ以上何もなければ、無事に終えられる。落ち着け」 倫子はハッとした。パクの言うとおりだ。 今ここで自分が取り乱して、みんなを不安にさせてはいけない。患者に影響が出たら、最悪だ。「ドクター・パクの言うとおりね。頼りにしているわ」「任せとけ」 パクはいつもと変わらない口調で答えた。 倫子は深く息を吸い、冷静に必要なことを考えた。被害を拡大させないための情報だ。「休憩室で怪しい看護師に話しかけられたわ。クッキーを食べろと言われたり、私の右手に触れようとしたり……。みんな、休憩するときに警戒して」 倫子の忠告に、手術室がざわめいた。「どんな風貌でしたか?」「三十代くらいの女性だったわ。身長は……平均的だったかしら。細身だったわね」 髪は手術用のキャップに押し込まれていたので、わからない。「名前はわかりますか?」 別の看護師に尋ねられた。「名札は……見てないわ」 あのときは、自分を守るので精一杯だった。 あまり目を合わせたくなくて、顔を見なかった。「今は、それ以上考えなくていい。手術を終わらせよう。犯人探しは、終わってからでもできる」 パクが言った。「……そうね」 倫子はうなずいた。「ドクター・リン。交替してくれ」 パクから声をかけられた。パクが立っていた場所に、倫子が移動する。「みんな、ラストスパートよ。よろしくね」 倫子は気合いを入れた。 それぞれが自分の役割を果たし、声を掛け合いながら手術を進めていく。 何時間にも及ぶ手術だった。 そして――ついに手術は終わった。「終了です」 倫子のその声で、手術室の空気がふっと緩んだ。 蒲田医師が戻ってこなかったことを除けば、予定どおりに進んだ。 だが、これで終わりではない。 倫子は手術室から出て山本准教授と合流した。患者の家族に、手術の報告をするのだ。「山本准教授。蒲田医師のことはお聞きになりましたか?」「ああ。強力な下剤を盛られたようだ」 彼が戻って来れなかった理由がわかった。薬を人を傷つけるために使うな
朝倉倫子は、まだ空が白み始めたばかりの早朝に目を覚ました。 今日は、西園寺澄子の手術の日だ。 身支度を整え、護衛のイーサン・タン、そして同じ手術を執刀するパク・ミンジェと朝食を取る。「緊張してる?」 パクが倫子に訊いた。「……準備を整えて、挑むだけよ」 倫子はそう答えると、テーブルの上に右手を置いた。 一本ずつ指を動かし、関節の動きや感覚を確かめる。手の甲には、今も傷跡が残っている。それでも、動きは滑らかだった。 大丈夫。この手なら、できる。 三人は揃って大学病院へ向かった。 病院に到着すると、倫子とパクは手術着に着替え、手術チームと合流した。 手術前の最終確認をする。 倫子はモニターに表示されたCT画像を、もう一度確認していく。「……待って」 倫子が画面を止めた。「このCT、術前カンファレンスで見たものと同じ?」「はい……あれ?」 看護師が画面を確認する。「こちらに表示されているのは、二週間前の画像です」「生着して日々状況が変わるのよ。最新のものを出して」 倫子の声がピリッと鋭くなる。 一人の看護師が、びくりと肩を揺らした。「確認します」 看護師が端末へ向かった。「日付順に並んでいない? ファイル名が……ありました!」 倫子はほっと息をついた。 だが、身体には妙な緊張が残ってしまう。「もしかしたら、僕たちが名声を得るのを妬んでいる人がいるかもしれないね。些細な違和感も見逃さず、声を掛け合っていこう」 パクが、明るく冗談めかして声をかけた。「そうね。昨日なんか、外国のお嬢さんが家出までして、私をひっぱたきに来たくらいだし」「ええ? 朝倉先生、大丈夫ですか?」 看護師が倫子の頬に目をやる。「女の子の細腕じゃ、跡も残らないわよ。さあ、打ち合わせをしてしまいましょう」 倫子がおどけてみせると、手術チームにも笑みが広がった。ナイフを振り回したことは、言わなくてもいいだろう。 西園寺澄子のカルテと術式を確認する。麻酔科、看護師たちとの最終打ち合わせが進んでいく。 そして、倫子は全員を見渡した。「外野はいろいろとうるさいけれど……今は患者さんのことだけ考えましょう」 SNSの騒ぎを、みんながどこまで知っているかはわからない。けれど、そんなことに振り回されてなるも
朝倉倫子は、自分の頬を叩いたヌール・ファラという女性の言葉を待った。「……っ」 ファラは唇を噛んでいる。手術の妨害をしないという約束をするつもりはないようだ。「ドクター・リン。その写真、僕の方に転送して」 同じく医師のパク・ミンジェが、そう言った。「何をするつもり?」「国際医療グループに送って、彼女がドクター・リンに暴力を振るって脅迫したことを報告する」「仕方ないわね。素直に反省してくれそうもないもの」「や、やめて。謝るから。もうやらないから」 ファラが慌てだした。「何人の婚約者候補を葬り去ってきたんだ? だから、アリフ殿下は自国じゃなく日本で婚約者を見つけたんだ」 パクが冷たい目を向ける。「この子の謝罪は受け取らないでいいよ。舌の根も乾かないうちに、またやるから」 ファラは何も言い返せず、奥歯を食いしばっている。 倫子はそんな彼女を見ながら、ふと頬をさすった。腫れるほどではないが、まだ少し痛い。「……美琴に似た子って、どこの国にもいるのね」 倫子はぽつりと呟いた。自分こそが選ばれるべきだという強い思いと、手段を選ばない大胆さ。「ドクター・パクはそのままその子を抑えていて。私がメールするわ」「そうだね。その方がいいか。ちょっと、暴れるなって」「私は悪くない。悪いのはあの女よ。泥棒猫スミコ!」「それは、傷害をそそのかしたという自白かな?」 パクの追求に、ファラは口を閉じた。 メールを送り終えて、倫子は二人に向き合った。「ところで、その彼女はどうするの?」「ただの観光客として来日したなら、大使館に連絡するのもおかしいだろう。だけど、ここで解放してまた襲撃されても困るしなぁ」「彼女の一族の人で、日本にいる人っていないのかしら?」「ミス・ファラ、一人で来たのか?」「そうよ。見張りの隙を突いて来たんだから」「つまり、一族の意向を無視したってことか」 パクは厳しい顔になった。「いいか。金持ちの家に生まれただけの君と、自分の力で地位を獲得した僕たち。この場合、どちらが貴重な存在かわかるかい? そして、僕らの腕は国際医療センターにとって、最大の武器であり、財産だ。 君はそれを意図的に害そうとした」「そ、そんなつもりは……ただ、ちょっと」「君は国際的な団体と、現王家を敵に回した。それも一族の総意
月曜日。 朝倉倫子は、今日はSNSを見ないと決めた。そうすれば、心穏やかに過ごせる。 日曜日に倫子を叩いていた人たちも、午後に反論されて勢いを失っていった。新たな火種が投下されなければ、話題は別のものに移っていくだろう。 大使館や官僚たちは、週明けの仕事を始めている。王子の婚約者を公表し、その婚約者の手術を担当する医師はまともな人たちだと確認した。これ以上は彼らの仕事ではない。 国際医療センターも、今回の騒ぎが風評被害につながらなければいいと、静観の姿勢に入っていた。それらを見れば、ようやく日常が戻ってきたように思える。 イーサン・タンは、以前から予定していた話し合いに出かけることにした。「今日は厚生労働省との話し合いです。ドクター・リンはホテルから出ないでくださいね」 倫子は出不精だが、自分の出身国なのでふらりと出かけるかもしれない。イーサンは念のために釘を刺した。「僕には言わないのか?」 パク・ミンジェはイーサンに絡んだ。「……出かける場合は、怪我しないようにお気を付けて」「つれないなぁ」 パクはケラケラと笑った。「今日はのんびりできそうだ。ここは天国だな」 パクはイーサンを見送って、そう言った。 倫子は苦笑する。「いつもなら手術前日でも、他の患者を診るし、別の手術のカンファレンスも入るし。忙しいものね」「ドクター・リンは働くのが好きだよね」「そうかしら?」 倫子は思いがけないことを言われて、首をかしげた。「……でも、そうかもしれないわね。実力をつけなきゃ、認めてもらわなきゃと焦っていたかもしれない」「今回は、その実績が君を救ったね」 パクにそう言われて、倫子は目を丸くした。「ああ、そう……ね。がむしゃらに働いた数年のおかげかも」 倫子は柔らかな笑みを見せた。 二人はそのままホテルの庭を散歩することにした。「日本に病院が建ったら、ドクター・リンは日本に戻るの?」 パクの質問に、倫子は口ごもった。「……それもいいかと思っていたわ。けれど、今回のような騒動になるなら、考えてしまうわね」 直接知り合いではない人に、SNSで責められただけだ。それでも落ち込むし、誰に何をリークされるか恐ろしくなる。「ドクター・リンが日本にいるなら、僕も移ってもいいけど」「本当に? あなたが来てくれるのは
土曜日の夜。朝倉倫子は泥棒猫と言われ、無免許医師と罵られていた。 日曜日の朝に、それに反論するように実績が公表されたが、SNSの流れを止めるほどの効果はなかった。『免許持っているらしいけど、こんな噂が出るってことは、やぶ医者なんじゃない?』『海外の病院に勤めているんでしょ? 日本に帰ってこなくていいよ』 倫子はホテル内のジムで身体を動かしながら、雑念を払おうとした。「明後日の手術に集中。哲郎がほぐしてくれた身体を当日までキープ」 そうつぶやきながら、ランニングマシンでひたすら走る。 外科医には体力が必要だ。 それに、いくら周囲が自分を守ろうとしてくれても、最後に手術台に立つのは自分だ。 雑念を振り払うように、倫子は走る速度を少しだけ上げた。 *** 日曜日の午前中。 故郷に戻った三枝哲郎は、顔をしかめながらSNSを追っていた。「ほんと、胸くそ悪いなこいつら」 だが、どうしても倫子が親友の恋人を寝取ったという悪いイメージは拭えない。 一度広まった噂は、消そうとするほど真実味を帯びる。 だからこそ、哲郎は倫子本人に反論させるつもりはなかった。 哲郎はネットのゲーム仲間に協力を仰いだ。 ヘッドセットをつけ、ゲーム仲間とボイスチャットを続ける。「七年前の花火の動画、まだ残ってないか?」『ちょっと待て。探してみる』 しばらくして、チャット欄に動画のURLが貼られた。『これじゃね?』「おお、よく残ってたな」『おまとめサイトにアップする記事が書けたぞ』 そんなメッセージが届く。『ありがとう。もう少し待って。相手の火の勢いが弱くなるまで待機』 哲郎はそう返した。 相手が一番勢いづいているときにまともにぶつかり合ったら、倫子への個人攻撃がヒートアップするだけだ。 だから待つ。 哲郎以外の仲間たちは新しい装備を試したり、素材を取りに行ったり、緩くゲームを楽しんでいる。 午後一時を過ぎ、書き込みが少なくなった。火にくべる材料が尽き、倫子を攻撃するのも飽きたらしい。『今だ。よろしく』 哲郎の合図で、複数人がそれぞれSNSにアップした。 まず、花火の日の動画。『これ、まだ離婚前の動画なんだよね』『ほんとだ。その前に、人生を共にとか言っちゃってますね~』 別の人が花火の静止