LOGIN人は、逮捕された瞬間に地獄へ落ちるわけではない。
本当の地獄は、その後に来る。 留置場の壁は冷たい。 取調室の机は固い。 弁護士の言葉は重い。 だが、それらはまだ始まりでしかない。 桐谷健吾にとって本当に重かったのは、数字だった。 慰謝料。 養育費。 損害賠償。 返還請求。 納税。 延滞税。 重加算税。 弁護士費用。 そして、これから先の生活費。 それらは、感情では消えない。 謝罪でも消えない。 泣いても消えない。 裁判所の紙と、国税の通知と、会社側の請求書は、人の後悔に同情しない。 午前九時。 東京拘置所へ移送される前の接見室で、桐谷健吾は刑事弁護人の赤羽和人と向人は、逮捕された瞬間に地獄へ落ちるわけではない。 本当の地獄は、その後に来る。 留置場の壁は冷たい。 取調室の机は固い。 弁護士の言葉は重い。 だが、それらはまだ始まりでしかない。 桐谷健吾にとって本当に重かったのは、数字だった。 慰謝料。 養育費。 損害賠償。 返還請求。 納税。 延滞税。 重加算税。 弁護士費用。 そして、これから先の生活費。 それらは、感情では消えない。 謝罪でも消えない。 泣いても消えない。 裁判所の紙と、国税の通知と、会社側の請求書は、人の後悔に同情しない。 午前九時。 東京拘置所へ移送される前の接見室で、桐谷健吾は刑事弁護人の赤羽和人と向かい合っていた。 アクリル板越しの顔は、数週間前とは別人だった。 頬がこけている。 目の下が黒い。 髪は乱れ、声は乾いていた。 赤羽和人は、机の上に資料を並べた。「桐谷さん。刑事事件とは別に、民事と税務がかなり重いです」「分かってます」「分かっている、では足りません。数字で見てください」 赤羽は一枚目を指差した。「ネクストリンクからの請求です。現時点では、直接損害七千二百四十万円。調査費用、弁護士費用、フォレンジック費用、監査費用などを含め、会社側は一億二千万円台で請求を組む可能性があります」 桐谷は顔を歪めた。「一億……」「主犯と見られている以上、全額請求される可能性があります。共同不法行為として、黒川亮介さん、青柳拓人さん、西岡大輔さん、山城直人さん、小田切修さんにも請求は行くでしょう。ただ、会社は回収できるところから回収しよ
会社が大きくなる時、一番先に変わるのは社長室ではない。 会議の数だ。 報告の線が増える。 確認すべき数字が増える。 判断を待っている人間が増える。 そして、放置すれば、そこからまた穴が空く。 高瀬悠真は、その穴がどれほど危険かを知っていた。 桐谷健吾は、穴から入ってきた。 黒川亮介は、その穴を広げた。 青柳拓人は、その穴を隠すための箱を作った。 西岡大輔と山城直人は、穴に紙を貼った。 小田切修は、穴を見ないふりをした。 高瀬美咲は、穴を塞ごうとした雨宮彩乃を黙らせようとした。 だから、ネクストリンクはもう、穴を感覚で塞がない。 仕組みで塞ぐ。 午前八時三十分。 ネクストリンク本社、二十七階大会議室。 壁面モニターには、全国八支社の映像が並んでいた。 愛知。 北海道。 広島。 大阪。 高知。 長野。 青森。 鹿児島。 その中央に、東京本社。 今日から始まるのは、全国支社常設会議だった。 参加者は、本社経営陣と八支社の支社長、副支社長。 支社長八名。 副支社長八名。 合計十六名。 毎週月曜午前。 売上、採用、顧客、監査、契約、経費、労務、リスク、地域貢献、AI開発連携、支社間連携を確認する。 会議は長くなる。 だが、長くなるべき会議だった。 まず、愛知支社。 支社長、伊吹達也。 四十二歳。 製造業クラウド、東海営業、開発支援の責任者。 副支社長、久世拓真。
高瀬凛は、朝から忙しかった。 少なくとも、本人はそう思っている。 父親である高瀬悠真から見れば、同じマンションの中を上下に行ったり来たりしているだけだった。けれど、六歳の凛にとっては、朝から予定の詰まった立派な一日だった。 午前七時。 四十階の自宅で起床する。 白いウサギのぬいぐるみを抱えたままベッドを抜け出し、まだ少し眠そうな顔で洗面所へ向かう。歯磨きを終える頃には目が覚め、今日の予定を自分なりに確認し始める。 午前七時十五分。 三十九階に住む高瀬誠一と高瀬由紀子の部屋へ行き、朝食を食べる。 由紀子が焼いた薄めのトーストへ、凛は自分でイチゴジャムを塗った。以前のように山盛りにしようとして、誠一に無言で見られ、少しだけ量を減らした。「じいじ、これならいい?」「パンが見えているから、今日は合格だな」「きのうも見えてたよ」「昨日は端だけだった」 由紀子が苦笑しながら、凛の前へスクランブルエッグを置いた。「凛ちゃん、卵も食べましょうね」「食べる。りん、今日はいっぱい行くところあるから」「同じ建物の中でしょう」「でも、いそがしいの」 午前七時四十五分。 朝食を終えた凛は、そのまま一階下の三十八階へ向かった。 そこには母方の祖父母である秋山孝之と秋山美津子が暮らしている。 美津子は、凛が来ることを予想していたらしく、冷蔵庫から小さなヨーグルトを出した。「朝ごはんを食べてきたんでしょう」「食べたけど、ヨーグルトはべつ」「別腹を覚えるには早くないか」 孝之が新聞を畳みながら言う。 凛は真剣な顔で首を振った。「ヨーグルトはおなかにいいから、だいじょうぶ」「誰に教わった」「みつこばあば」「
朝のタワーマンションは、街より先に目を覚ます。 地上より少しだけ早く、空の色が変わる。 ガラス張りのリビングに、淡い朝日が落ちていた。 四十階。 高瀬悠真の自宅。 都心湾岸エリアに建つ高級タワーマンション、グランレジデンス月島ベイ。 コンシェルジュ常駐。 地下駐車場。 ゲストラウンジ。 スカイラウンジ。 フィットネスルーム。 プライベートミーティングルーム。 キッズスペース。 宅配ボックスと専用集配導線。 警備員の二十四時間巡回。 そして、居住者専用エレベーター。 もともとは投資用として高瀬悠真が代表を務める不動産管理会社、タカセ・アセットマネジメントが複数フロアを保有していた物件だった。 悠真はIT企業ネクストリンクの創業者であり、同時に不動産にもかなり早い段階から投資していた。 会社経営が軌道に乗る前から、収益の一部を都心不動産へ回していた。 理由は単純だった。 IT企業は伸びる時は伸びる。 しかし、景気や投資環境の影響を受けやすい。 だから、安定した家賃収入の柱が欲しかった。 都内の高級タワーマンションを区分で複数戸。 港区、中央区、品川区、文京区。 さらに法人名義で一棟レジデンスも二棟。 地方では名古屋、大阪、札幌にも収益物件を持っている。 グランレジデンス月島ベイでは、三十六階から四十階の一部住戸をタカセ・アセットマネジメントが保有していた。 多くは賃貸に出している。 外資系企業の役員。 医師。 弁護士。 上場企業の役員。 芸能関係者。 月額家賃は部屋によって七十万円から百八十万円
佐々木茉里は、請求書を作ることが仕事だった。 会社の将来を左右するような、大げさな仕事ではない。 自分がこの会社を動かしているという実感も、ほとんどなかった。 朝、事務所へ来たら、最初に小さな給湯室へ入り、電気ポットの水を替える。入口脇の郵便受けを確認し、届いている封筒を請求書、広告、役所関係の通知に分ける。 留守番電話を聞き、来客予定を確認し、代表取締役である黒川亮介の予定を共有カレンダーへ入力する。 その後は、黒川から届いたメールや、机の上に置かれたメモを見ながら請求書を作成する。 取引先の正式名称。 請求先の住所。 業務内容。 請求金額。 消費税。 支払期限。 振込先口座。 数字や文字に誤りがないかを二度確認し、PDFへ変換してメールで送る。紙での発行を求められている取引先には、印刷した請求書へ角印を押し、三つ折りにして封筒へ入れた。 宛名ラベルを貼り、切手を確認し、帰りに駅前の郵便ポストへ投函する。 それが、佐々木茉里の仕事だった。 勤務先は、Raven Works株式会社。 社員数は少なく、正社員と契約社員を合わせても両手で数えられる程度しかいない。実際には外部の業務委託者が多く、毎日事務所へ出勤してくる社員は、茉里と黒川を含めても数人だった。 代表取締役は黒川亮介。 佐々木茉里は、そこで働く契約社員だった。 二十八歳。 月給は二十二万円。 賞与はない。 入社時には、半年から一年程度で正社員登用を検討す
離婚届そのものは、紙一枚で終わる。 夫と妻がそれぞれ署名し、必要な欄を埋めて役所へ提出すれば、法律上の婚姻関係は解消される。 けれど、その紙一枚へ辿り着くまでには、二人で過ごした年月を何度も振り返らなければならない。 出会った日のこと。 結婚を決めた時のこと。 子どもが生まれた日のこと。 同じ家で重ねた朝と夜。 そして、どこから互いの視線がずれ、何を見落とし、何を壊したのか。 高瀬悠真は、弁護士事務所の応接室で、テーブルの上に置かれた書類を見つめていた。 協議離婚合意書。 親権者の指定。 面会交流の条件。 慰謝料の支払い方法。 財産分与を行わないこと。 悠真から美咲へ養育費を請求しないこと。 会社で締結する契約書に比べれば、記載されている内容は多くない。文字数だけを見れば、取引先との業務委託契約書や株式譲渡契約書よりもずっと短かった。 それでも、一行読むたびに胸の奥が重くなる。 数字と条文で整理された文書の向こうに、悠真、美咲、凛の三人で過ごしてきた時間があった。 相手側の席には、高瀬美咲が座っている。 以前のような、ネクストリンク専務取締役としての気配はなかった。 白いブラウスに、薄いグレーのジャケット。 髪は丁寧に整えられ、化粧もしている。だが、隠し切れない疲労が頬と目元に残っていた。 悠真がよく知っていた美咲は、会議の場で相手を見据え、自分の意見をはっきり口にする女性だった。 今は、机の上に重ねた両手を見つめたまま、ほとんど顔を上げない。 美咲の隣には、彼女の代理人弁護士が座っている。 悠真の隣には、代理人である矢島明彦がいた。 さらに少し離れた席には、双方の両親が座っていた。 悠真の父、高瀬誠一。 六十五歳。 元地方銀行員で、退職するまで企業融資と事業再生に長く携わって