Masuk返済計画書というものは、紙の上では静かだった。
怒鳴らない。 責めない。 泣かない。 ただ、数字が並んでいる。 だからこそ、逃げ場がない。 桐谷健吾は、川田アグリファームの寮の六畳部屋で、弁護士の赤羽和人から送られてきた返済試算表を見ていた。 作業着は泥で汚れている。 風呂には入った。 それでも爪の間に土が残っていた。 かつて高級時計をつけていた手は、今は赤く荒れている。 昼間は苗箱を運び、畑に出て、資材を積み、腰が悲鳴を上げた。 それでも、仕事が終われば終わりではない。 夜には数字が待っている。 ネクストリンクへの損害賠償請求。 基準額、一億二千四百万円。 直接損害、七千二百四十万円。 調査費用、フォレンジック費用、外部弁護士費用、監査法人費返済計画書というものは、紙の上では静かだった。 怒鳴らない。 責めない。 泣かない。 ただ、数字が並んでいる。 だからこそ、逃げ場がない。 桐谷健吾は、川田アグリファームの寮の六畳部屋で、弁護士の赤羽和人から送られてきた返済試算表を見ていた。 作業着は泥で汚れている。 風呂には入った。 それでも爪の間に土が残っていた。 かつて高級時計をつけていた手は、今は赤く荒れている。 昼間は苗箱を運び、畑に出て、資材を積み、腰が悲鳴を上げた。 それでも、仕事が終われば終わりではない。 夜には数字が待っている。 ネクストリンクへの損害賠償請求。 基準額、一億二千四百万円。 直接損害、七千二百四十万円。 調査費用、フォレンジック費用、外部弁護士費用、監査法人費用、再発防止初期対応費。 国税の追徴見込み。 本税、重加算税、延滞税を含め、六千六百二十四万円。 桐谷沙耶香への離婚慰謝料、五百万円。 子ども二人、桐谷陽菜と桐谷悠斗への養育費、月八万円。 弁護士費用。 生活費。 保釈中の身柄条件。 今後の刑事裁判。 赤羽和人の説明は、情け容赦がなかった。 隠し口座と証券口座から回収可能な資産は、国税と会社側に押さえられる。 親族口座へ移した金も、事情を知っていれば返還対象になる。 車も売却。 高級時計も売却。 ブランド品も換価対象。 それでも、足りない。 桐谷の目は、試算表の下段で止まった。 月収見込み、農業法人勤務。 手取り、二十二万から二十四万円。 養育費、八万円。
第二回公判の朝。 東京地方裁判所の正面には、初公判の時を上回る数の報道陣が集まっていた。 歩道の端にはテレビ局の中継車が並び、裁判所の出入口へ向けて何台ものカメラが据えられている。記者たちは手元の資料を確認しながら、被告人や関係者が姿を見せるたびに一斉に顔を上げた。 初公判は、事件の輪郭を世間へ示す日だった。 ネクストリンクで、どのような不正が起きたのか。 誰が起訴され、どの法人を通じて、いくらの金が動いたのか。 第二回公判では、その輪郭の内側へ踏み込み、会社と社員に残された傷の深さが証拠によって示される。 起訴されているのは、元営業本部長の桐谷健吾。 Raven Works元代表取締役の黒川亮介。 Blue Mark Partners元代表の青柳拓人。 元営業課長の西岡大輔。 元営業管理担当の山城直人。 元経理課長の小田切修。 そして、桐谷たちとは別件で、特別背任罪により在宅起訴された高瀬美咲。 元ネクストリンク専務取締役。 高瀬悠真の元妻。 高瀬凛の母親。 会社を傷つけた取締役であると同時に、桐谷健吾の言葉と関係に利用された側面も持つ。 しかし、世間は一人の人間を、そのように複雑なまま受け止めてはくれない。 不倫。 裏切り。 専務取締役。 背任。 母親。 短く、刺激の強い言葉だけが切り取られ、美咲本人の意思とは関係なく一人歩きしていた。 高瀬美咲
上場準備という言葉は、華やかに聞こえる。 だが実際には、夢の扉というより、会社の内臓検査に近い。 売上は本物か。 利益は続くのか。 契約は正しいか。 労務は壊れていないか。 社内規程は機能しているか。 取締役会は飾りではないか。 内部通報制度は紙だけではないか。 経営者が強すぎて、会社が私物化されていないか。 投資家は、会社の未来だけを見るわけではない。 会社の骨を見に来る。 朝八時。 ネクストリンク本社二十七階大会議室には、いつもより早い時間から役員と本部長たちが集まっていた。 窓の外には、東京の朝が広がっている。 高層ビルのガラスに光が刺さり、下を走る車は小さな虫のように流れていた。 高瀬悠真は、会議室の中央に座っていた。 代表取締役社長。 ネクストリンク株式、九十%保有。 もともとは七十八%だった。 しかし、不正発覚後に高瀬美咲と桐谷健吾側の保有分、さらに関係者の持分を整理し、十二%分を買い戻した。 その一部は、内部通報者や重要役員への付与枠として確保されている。 雨宮彩乃。 秋山翔太。 森本結衣。 三人にそれぞれ一千株を付与したのも、その枠からだった。 総発行株式数は百万株。 一千株は〇・一%。 非上場株式とはいえ、ネクストリンクが上場すれば、その価値は大きく変わる。 会社を守った人間に、会社の未来を持たせる。 悠真は、その考えを変えるつもりはなかった。 今日の議題は、取締役会の整理と上場準備委員会の設置だった。 水城莉央が、資料を前に立ち上がった。 専務取締役兼CFO。 数字と資金
現実は、判決文よりも先に届く。 裁判官が罪と責任を言い渡すより前に、損害賠償の請求書や納税通知書が届く。家族との会話が途切れ、昨日まで当たり前に使っていた肩書きが消え、誰からも頭を下げられない朝が来る。 桐谷健吾にとって、その現実は、朝五時の冷たい空気と、まだ履き慣れない長靴の重さを伴って届いた。 茨城県にある農業法人、川田アグリファーム。 その事務所前に立つ桐谷の周囲には、東京の朝を形作っていたものが何一つなかった。 高層ビルのガラスへ反射する光も、駅前へ連なるタクシーも、早朝から開いているカフェもない。 見渡す限りの畑と、作業開始を待つ軽トラック。昨日の雨を含んだ土の匂いと、遠くから聞こえる農機具のエンジン音だけがある。 桐谷は、作業着の袖口を引いた。 会社から支給された作業着は、まだ体に馴染んでいない。軍手も長靴も新品に近く、長く現場で働いてきた人間の道具とは明らかに違った。 つい数か月前まで、桐谷健吾はスーツを着ていた。 ネクストリンク株式会社の営業本部長として、役員会議へ出席し、営業本部の中央で部下たちへ指示を出していた。 年収は一千五百万円を超えていた。 自分の予定を管理する部下がいて、接待の店を予約する社員がいて、取引先が到着すれば若手が先に頭を下げた。 高級ホテルのラウンジで商談し、内容をよく知らないワインでもラベルを見ながら感想を述べた。相手の予算や弱点を見抜き、自分が優位に立っていることを楽しんでいた。 しかし、今の桐谷に営業本部長という肩書きはない。 事務所の扉が内側から開き、川田一郎が姿を現した。 五十八歳。 日に焼けた顔と太い腕を持ち、背はそれほど高くない。それでも、長く土の上で働いてきた体には、簡単には揺らがない重さがあった。 川田は、桐谷の父である桐谷正臣の古い知人だった。 桐谷を雇ったのは、事件を起こした人間へ同情したからではない。桐谷正臣が
人は、逮捕された瞬間に地獄へ落ちるわけではない。 本当の地獄は、その後に来る。 留置場の壁は冷たい。 取調室の机は固い。 弁護士の言葉は重い。 だが、それらはまだ始まりでしかない。 桐谷健吾にとって本当に重かったのは、数字だった。 慰謝料。 養育費。 損害賠償。 返還請求。 納税。 延滞税。 重加算税。 弁護士費用。 そして、これから先の生活費。 それらは、感情では消えない。 謝罪でも消えない。 泣いても消えない。 裁判所の紙と、国税の通知と、会社側の請求書は、人の後悔に同情しない。 午前九時。 東京拘置所へ移送される前の接見室で、桐谷健吾は刑事弁護人の赤羽和人と向かい合っていた。 アクリル板越しの顔は、数週間前とは別人だった。 頬がこけている。 目の下が黒い。 髪は乱れ、声は乾いていた。 赤羽和人は、机の上に資料を並べた。「桐谷さん。刑事事件とは別に、民事と税務がかなり重いです」「分かってます」「分かっている、では足りません。数字で見てください」 赤羽は一枚目を指差した。「ネクストリンクからの請求です。現時点では、直接損害七千二百四十万円。調査費用、弁護士費用、フォレンジック費用、監査費用などを含め、会社側は一億二千万円台で請求を組む可能性があります」 桐谷は顔を歪めた。「一億……」「主犯と見られている以上、全額請求される可能性があります。共同不法行為として、黒川亮介さん、青柳拓人さん、西岡大輔さん、山城直人さん、小田切修さんにも請求は行くでしょう。ただ、会社は回収できるところから回収しよ
会社が大きくなる時、一番先に変わるのは社長室ではない。 会議の数だ。 報告の線が増える。 確認すべき数字が増える。 判断を待っている人間が増える。 そして、放置すれば、そこからまた穴が空く。 高瀬悠真は、その穴がどれほど危険かを知っていた。 桐谷健吾は、穴から入ってきた。 黒川亮介は、その穴を広げた。 青柳拓人は、その穴を隠すための箱を作った。 西岡大輔と山城直人は、穴に紙を貼った。 小田切修は、穴を見ないふりをした。 高瀬美咲は、穴を塞ごうとした雨宮彩乃を黙らせようとした。 だから、ネクストリンクはもう、穴を感覚で塞がない。 仕組みで塞ぐ。 午前八時三十分。 ネクストリンク本社、二十七階大会議室。 壁面モニターには、全国八支社の映像が並んでいた。 愛知。 北海道。 広島。 大阪。 高知。 長野。 青森。 鹿児島。 その中央に、東京本社。 今日から始まるのは、全国支社常設会議だった。 参加者は、本社経営陣と八支社の支社長、副支社長。 支社長八名。 副支社長八名。 合計十六名。 毎週月曜午前。 売上、採用、顧客、監査、契約、経費、労務、リスク、地域貢献、AI開発連携、支社間連携を確認する。 会議は長くなる。 だが、長くなるべき会議だった。 まず、愛知支社。 支社長、伊吹達也。 四十二歳。 製造業クラウド、東海営業、開発支援の責任者。 副支社長、久世拓真。