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第4話

Autor: 萌木しい
瑞希は前を向いたまま、歩き出した。

京介の横を通り過ぎようとしたとき、彼が薄く笑って言った。「俺が汚いって?」

「汚くないとでも思ってるの?」

瑞希が言い返すと、京介は笑った。「じゃあ、どうする?そんな汚い男に、今まで散々抱かれてきたくせに」

結婚前、瑞希は男の浮気にまつわる話をいくつも耳にしていた。

若い頃から深く愛し合っていた二人も、幼なじみも、生死を共にした仲間同士も、どんなに理想的に見える関係だって、最後には悲しい結末を迎えることがある。

それでも瑞希は、自分だけは特別なのだと思っていた。

京介が自分を裏切るはずなんてない。二人の結婚生活は幸せで、いつまでも愛し合い、やがて二人の愛の結晶となる子どもにも恵まれる。そう信じていた。

けれど、現実はどうだろう。

結婚生活は幸せとはほど遠く、京介との間に子どもができることもない。二人はもう愛し合っていない。それどころか、今ではかつて誰よりも親密だったからこそ知っている弱みを、互いに傷つけるために持ち出すようになってしまった。

「京介」

瑞希はそっと目を閉じた。再び目を開けたとき、その瞳には凍りつくような冷たさが宿っていた。

「私があなたを愛したことまで、後悔させないで」

京介の体が、わずかに強張った。

そのとき、看護師がやってきて瑞希に声をかけた。

「白石先生、あと三十分で手術が始まります。そろそろ準備をお願いします」

「わかりました」

瑞希は現在、市立病院の脳神経外科で専攻医として働いている。まだ経験が浅く、執刀医を任される立場ではない。手術に入るときも、執刀医の助手を務めるのが主な役割だった。

それでも、開頭手術に助手として入るだけで、かなりの集中力と体力を使う。

しかも今夜は夜勤だった。

夜、病棟の見回りを終えた瑞希は、当直室に戻って休むことにした。

目を閉じると、昼間、京介と言い争ったときのひどいやり取りが、次々と頭によみがえってきた。

京介は仕事熱心で、商売のためなら無理もする。仕事の付き合いで酒を飲みすぎ、体を壊して入院するのも、今回が初めてではなかった。

数年前、飲みすぎたときもそうだった。

瑞希に怒られたくないし、心配もかけたくない。そんな思いから、名家の御曹司である京介は、こっそり診療所に駆け込んで点滴を受けていた。

ところが、運悪くそこは金儲けしか考えていない悪質な診療所だった。胃潰瘍のはずが、適切な治療を受けられず、胃から出血する事態になってしまった。

夜中に市立病院へ運ばれてきた京介を診たのは、当時まだ研修医だった瑞希だった。

瑞希は腹を立てながらも、彼が心配でたまらなかった。

口では京介をさんざん叱りつけながらも、片時もそばを離れず、ずっと付き添っていた。

「京介、これ以上お酒を飲み続けたら、本当に離婚するからね!もう一緒にいられないから!」

「ごめん、悪かったよ。次からは絶対に隠し事しないって約束する」

「隠し事もダメだし、お酒ももう飲んじゃダメ!」

「わかった、わかった。全部、奥さんの言うとおりにするよ」

当時は、二人の仲がいいからこそのやり取りだと思っていた。

けれど今振り返れば、あの頃からすでに、何かが少しずつずれていたのかもしれない。

瑞希は、京介にもうお酒を飲んでほしくなかった。

それなのに、京介は彼女の言葉を本気で受け止めてはいなかった。

あの頃は二人の仲がよく、「離婚」なんて言葉を口にしても、ただのじゃれ合いにしかならなかった。

ところが、少しずつ心が離れていくにつれ、二人は激しく言い争い、どれほどひどい言葉をぶつけ合っても、「離婚」だけは口にしなくなった。

いつしか、その言葉は二人の間で触れてはいけないものになっていた。

昨日までは。

瑞希はついに、京介に離婚協議書を渡した。

当直室で三十分ほど休んだあと、白衣を脱いでダウンジャケットを羽織った。何か食べるものを探しに、階下へ降りるつもりだった。

ちょうどエレベーターの扉が開いた。

顔を上げた瑞希は、思わず目を見張った。

まさか冬弥に会うとは思っていなかった。

全身を黒のオーダーメイドスーツでまとめた彼は、気品のある雰囲気を漂わせていた。瑞希に気づいても、いつもと変わらず冷たく、よそよそしい。

瑞希はエレベーターに乗り込んだ。

狭く閉ざされた空間には、二人きりだった。

長身の冬弥を見上げると、くっきりとした顎のラインが目に入った。

ふと、高校時代のことを思い出した。あの頃も、隣の席に座る冬弥を、こうして見上げていた。

十七歳の冬弥には、少年らしいすっきりとした美しさがあった。けれど、口数が少なく、どこか近寄りがたいところは今と変わらなかった。

ただ、当時の彼は安物の服を着ていて、お金もまったく持っていなかった。

彼にとって一番高価なものといえば、高校の制服くらいだった。黒と赤と白の、目がチカチカするほど派手な制服だ。

何も持たなかった冬弥が、まさか今のような華やかな成功を収め、誰もが手の届かない場所まで上り詰めるとは、当時は誰一人想像していなかっただろう。

彼はまるで奇跡のように、今の地位を手に入れたのだ。

視界の端で、瑞希は冬弥の骨ばった長い指が、弁当箱を提げているのに気づいた。

「ご家族が入院してるの?」

瑞希が自分から尋ねると、冬弥は短く答えた。「ああ」

淡々とした表情からして、それ以上話すつもりはなさそうだった。

けれど、瑞希はふと思い出した。脳神経外科の上の階にあるのは、精神科だった。

冬弥の母親は、精神疾患を抱えている。

思い返せば、あれはちょっとした行き違いから始まったことだった。

高校時代、冬弥に夢中だった瑞希は、いくら話しかけても相手にされなかった。冬弥はまるで口に接着剤でも塗っているかのように、何を聞いても答えてくれなかった。

それでも瑞希は、めげるどころかますます燃え上がった。

クラスの情報通に頼み込み、冬弥の趣味や好きなものを探ろうとしたのだ。

ところが、思いがけず彼の家庭事情まで、すっかり調べ上げてしまった。冬弥の母親が精神疾患を患っているという話は、あっという間に学校中に広まった。

思春期の生徒たちは無神経で、精神疾患のことを、まるで悪口のように「頭のおかしい人」と言いふらした。

当時の瑞希は、事情を何も知らなかった。ただ自信満々に、冬弥にこう言った。「冬弥、私、将来は医者になるね。おばさんの病気をタダで治してあげる。だから、治してあげたら私と結婚してね」

冬弥は顔をこわばらせ、瑞希をいっそう冷たく、険しい目で見た。

瑞希が本当のことを知ったのは、大学に進学し、医療について本格的に学び始めてからだった。冬弥の母親が抱えているのは精神疾患であって、いわゆる「頭のおかしい人」などという話ではない。

それに、瑞希が学ぶ脳神経外科とはあまり関係もなかった。

それでも、早い段階で脳神経外科という分野に触れたことが、知らず知らずのうちに今の道へ進むきっかけになったのかもしれない。

冬弥の母親の病気が高校で広まったことについて、瑞希は自分にも責任があると感じていた。

あの頃の恋心はもう残っていない。それでも、このことに対する後ろめたさだけは、今も消えていなかった。

「何か手伝えることはある?」

エレベーターを降りた瑞希は、冬弥の後を追いながら声をかけた。

「私、脳神経外科にいるし、精神科の先生とも親しいから。何か必要なことがあったら、いつでも連絡して」

冬弥は足を止めず、視線だけを落として瑞希を見た。

そして、すぐに目をそらすと、そっけなく言った。「君の助けなんかいらない」

冷たく、突き放すような口調だった。

高校時代よりも、むしろ今のほうが疎ましく思っているようにさえ感じられた。

あの頃の瑞希は、幸せだった。

自分自身が満たされていたからこそ、人にも惜しみなく気持ちを向けられた。冬弥に冷たい顔をされても、不満を抱くことも、自分を疑うこともなかった。

けれど、今はどうだろう。

幸せだった頃の自分を失ってしまった。

冬弥に冷たく拒まれても、昔のようにめげずに話しかけ続ける気力は、もう残っていなかった。

結局、何も言い返さず、黙って受け流すしかなかった。

考えてみれば、今の冬弥には地位も権力もある。望めば、どんな医療サービスだって受けられるはずだ。それなのに、今さら自分があんなことを言っても、かえって取り繕っているように思われるだけだろう。

……

瑞希は病院近くの飲食店で、うどんを一杯食べた。

病院に戻ると、当直室の前に京介が立っていた。

暗い瞳で瑞希をまっすぐに見つめ、その目にはあからさまな不満が浮かんでいた。「どこに行ってた?」

責めるような口調だったが、瑞希は取り合う気にもならなかった。

京介は眉をひそめた。「瑞希、毎日そんな冷たい顔ばかりして、何が楽しいんだ?」

「毎日外で女と遊んでるあなたに比べたら、別に楽しくもないわね」

瑞希は薄く笑い、皮肉たっぷりに言い返した。

そして、少し間を置くと、冷ややかな目で京介を見た。「離婚協議書、サインしたの?」

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