FAZER LOGIN冬弥は仕立てのいいスーツを着こなし、背筋をまっすぐに伸ばしていた。彼は涼しげな目で瑞希を見た。整った顔立ちに浮かぶ、冷淡な表情。その姿が、十数年前、窓際の席で彼女を冷ややかに見つめていた、十七歳の頃の面影と重なった。瑞希は気を取り直し、軽く微笑んで声をかけた。「おはよう」冬弥はじっと彼女を見つめていた。黒い瞳には、問い詰めるような色が浮かんでいる。瑞希は気まずさをこらえながら病室に入り、たまごサンドを真弓のベッド脇にあるテーブルに置いた。「おばさんのお見舞いに来たの」冬弥は何も答えなかった。その表情には、はっきりと書いてあった。――信じられない。瑞希には弁解のしようもなかった。実際、彼に会うためという目的もあって、ここに通っていたのだから。真弓は二人の間に流れる微妙な空気には気づかず、瑞希の顔を見るなり、もうすぐ三十歳になる息子がいまだに独身であることを思い出したらしい。「あのね、瑞希先生の周りに、独身でいいお嬢さんはいない?よかったら、うちの冬弥に紹介してくれないかしら」真弓は瑞希のことが気に入っていた。ただ、瑞希はもう結婚している。それが残念だった。瑞希は少し考えてから、真面目に答えた。「いますよ。同僚に独身の人がいるので、時間があるときに聞いてみますね」言い終えた途端、隣からひやりとした空気が伝わってきた。瑞希がそちらに目を向けると、窓が少し開いていた。春先の冷たい風が、隙間から入り込んでいる。もちろん、春風よりも冷たかったのは、冬弥の不機嫌そうな顔だった。瑞希はそっと唇を引き結んだ。冬弥が自分に母親へ近づいてほしくないと思っている理由は、よくわかっていた。高校時代、勝手に冬弥の家庭事情を調べたせいで、彼の家のことが学校中に知れ渡ってしまった。そのとき、瑞希が耳にしたのは、心ない言葉ばかりだった。「母親が精神病なんだから、息子だってまともなわけないじゃん!」「前から変な奴だと思ってたんだよな。成績がいいだけで、普段はろくに口も利かないし。知らない奴が見たら、自閉症かと思うだろ!」「ちょっと、声が大きいって。あいつの父親が殺人犯だって知らないの?そういうのって、遺伝するんじゃない?」中には、冬弥の机にまで「精神病」「殺人犯」といった言葉を刻みつける者もいた。
瑞希は諦めなかった。「でも、今日こうして会ってくれたということは、まだ可能性はあるんですよね?」修平は否定しなかった。「黒田さん、どうかお願いします」瑞希が懇願すると、修平は少し考えてから尋ねた。「瑞希さん、昨日の電話で、私の名刺は冬弥社長からもらったと言っていましたよね?」「はい」瑞希は頷いた。「冬弥とは親しいんですか?」修平は意外そうに瑞希を見た。冬弥を「さん」付けもせず、名前だけで呼ぶ人は、これまで見たことがなかった。しかし、修平はあえてそれを口にすることなく、笑って答えた。「冬弥社長は、うちの事務所のオーナーなんです」瑞希は一瞬、呆気に取られた。思わず尋ねる。「じゃあ、冬弥が私の離婚案件を引き受けるなって言ったんですか?」京介と冬弥は親しい間柄だ。冬弥に頼んで、自分の離婚案件を断ってもらうくらい、京介にとっては簡単なことだろう。そもそも、冬弥が自分に手を貸してくれる理由も思い当たらなかった。何しろ、京介との関係を抜きにしても、自分はもともと冬弥に好かれていないのだから。「瑞希さん、誤解されていますよ」修平は微笑んだ。「冬弥社長は確かに、うちの事務所にとって最大の出資者です。ただ、桐原支店は冬弥社長が手がけている事業のほんの一部にすぎません。いちいち個別の案件にまで口を出すことはありませんよ」修平はそれ以上、詳しくは説明しなかった。話を切り上げると、店員を呼んで会計を済ませた。けれど、瑞希には彼の言いたいことがわかった。――冬弥なら、話を聞いてくれる余地があるかもしれない。……困ったことに、ついこの間までは、あれほど何度も冬弥と顔を合わせていたのに、いざ会おうとすると、まるで連絡がつかない。瑞希は彼の会社まで足を運んだ。だが、受付で告げられたのは、今から予約を入れても、最短で会えるのは一か月後だということだった。それに、予約が取れるかどうかも、冬弥本人の承諾次第らしい。瑞希は、彼が自分に会ってくれるとは思えなかった。送ったメッセージにすら、返事はなかったのだから。冬弥が直接、事務所に圧力をかけて離婚案件を断らせたわけではないのかもしれない。けれど、よく考えれば、彼が京介の顔をまったく立てないとも思えない。あえて口を出さず、どちらにも肩入れしない。それが冬弥にとっ
瑞希にはわかっていた。京介は離婚したくないのではなく、ただ自分の思いどおりにさせたくないだけなのだ。三年前、初めて京介の浮気を知ったとき、瑞希はそれを水に流すことを選んだ。一度は、すべてが落ち着いたかのように見えた。京介は毎日家に帰り、以前のように優しく瑞希に接し、彼女の気持ちを何よりも気遣うようになった。それでも瑞希は、毎晩ろくに眠れなかった。あの頃は仕事にも身が入らず、何をするにも気力が湧かなかった。病院に長期休暇を申請し、昼間は病院へ行くと言いながら、実際にはあてもなく街をさまよっていた。そんなある日、運がよかったのか、悪かったのか。偶然にも京介を見かけてしまった。彼の隣には、宮原香織(みやはら かおり)という秘書がいた。一か月前、瑞希は京介の会社を訪れ、彼がオフィスで若い女性とキスしているところを目撃していた。その相手が、まさに香織だった。けれど、京介ははっきりと言っていた。彼女はもう解雇した、と。その日、瑞希は何もしなかった。だが一か月後、京介の浮気の証拠をメディアに送りつけた。京介と香織の関係は世間に暴かれ、会社にも深刻な影響が及んだ。株価は見るも無残なほど下落した。しかし、京介の背後には西園家がついている。彼に手を出そうとする者など、誰もいなかった。その代わり、香織が世間の非難を一身に浴びることになった。大学を卒業したばかりの彼女には、その重圧に耐えられなかった。彼女は京介の会社から飛び降り、その場で命を落とした。京介が瑞希に激怒したのは、それが初めてだった。「彼女はただ、家の経済状況が苦しくて、仕事が欲しかっただけなんだ!だから俺が雇ってやったんだ!瑞希、どうしてだ?どうして君はいつだって自分のことしか考えないんだ!人の気持ちなんて、少しも考えようとしない!どうしてそんなに残酷になれるんだ!」瑞希だって、まさか人が死ぬことになるとは思っていなかった。それでも、自分から折れる気にはなれなかった。自分が間違っていたと認めることもできず、彼に言い返した。「あなたこそ、喜ぶべきじゃない?私があなたに仕返ししたおかげで、罪悪感も薄れたでしょ?これで何の後ろめたさもなく、次の女を探せるんだから」あのとき、京介は失望しきった目で瑞希を見た。瑞希には理解できなかった。傷つ
京介はネクタイを緩め、不機嫌そうな顔で瑞希を睨んだ。「この家の暗証番号、何に変えたんだ?」結婚記念日も、付き合い始めた記念日も、瑞希と自分の誕生日も、すべて試した。だが、どれも違った。しかも、指紋認証の登録まで削除されていた。京介は腹が立って仕方なかった。「暗証番号を変えたのは、犬に吠えられないようにするためよ。教えたら意味ないじゃない」瑞希は彼にまともに目も向けず、玄関の前まで歩いていった。指紋認証で鍵を開けようと手を伸ばした、そのとき。手首を乱暴につかまれた。京介は瑞希をドアに押しつけ、荒々しい口調で言い放った。「俺たちがこんなことになった理由がわかるか?君が自分の悪いところを反省したことなんて、一度もないからだ。いつだって人のプライドを踏みにじってばかりいる!」瑞希は背中をドアに押し当てていた。まるで氷に触れているかのように、冷たさが骨の髄まで染み込んでくる。「へえ。あなたにも、プライドなんてものがあるのね」瑞希は皮肉っぽく笑った。「ほかの女と寝てるときは、プライドなんて考えもしなかったくせに」京介は彼女の言葉を無視して顔を近づけた。だが、その瞬間、瑞希から男物の香水特有の、甘さを抑えた香りが漂っていることに気づいた。声が急に低くなる。「誰に会ってきた?」「死神よ。あなたみたいなろくでなしを、いつ迎えに来てくれるのか聞いてきたの」「……」京介の顔から、ますます表情が消えた。瑞希は薄く目を細め、彼を見上げた。「京介、離婚協議書のこと、最後にもう一度だけ言っておくわ。これ以上引き延ばすなら、弁護士を立てて法的手段を取るから」京介は数秒、彼女を見つめた。そして、不意に笑った。「なあ、瑞希。俺たち、もう長いことしてないよな」「京介、気持ち悪いからやめて」瑞希の冷たい目には、嫌悪感がありありと浮かんでいた。京介はそんな視線など意に介さず、大きな手を遠慮なく彼女の腰に回した。瑞希が手にしていたバッグを振り上げ、京介の頭に叩きつけようとした、そのとき。エレベーターの到着音が響いた。扉が開く。オレンジ色の照明の下、冬弥がエレベーターから降りてきた。「冬弥?」京介は眉をひそめ、瑞希を放すと、不思議そうに冬弥を見た。「どうしてここに?」「病院で会った。ちょうど通り道
瑞希は伏し目がちに本を読んでいた。長く密なまつ毛が、目の下に影を落としている。白くほっそりした手の甲には点滴の針が刺さり、もう片方の手で医学書を開いていた。病院の白い照明に照らされ、瑞希の顔はいつにも増して青白く見えた。冬弥は目を細め、彼女を見つめた。すると、瑞希のまつ毛がかすかに揺れた。次の瞬間、彼女が顔を上げ、二人の視線がぶつかった。瑞希は、また病院で冬弥に会うとは思っていなかった。少し驚いたが、口元にかすかな笑みを浮かべ、彼に手を振って挨拶した。冬弥は口元を引き締めたまま、冷ややかな表情で視線をそらした。そして、そのまま背を向けて立ち去った。「……」瑞希は気まずそうに手を下ろした。母に気が強いと言われるのも、あながち間違いではない。特に、思春期真っただ中だった高校時代はひどかった。自分の思いどおりにならない相手ほど、意地でも手に入れたくなる。冬弥を追いかけていた頃もそうだった。彼が相手にしてくれないと、ますますしつこくつきまとった。「冬弥、こんな貧乏なあなたを私が好きになってあげてるんだから、ありがたく思いなさいよ。せっかくのチャンスを逃すなんてもったいないわ!私のことが好きじゃないなら、一生貧乏なままでいれば!冬弥って、ほんっとに鈍いんだから!」あの頃は自分の気持ちしか頭になく、思ったことを何でも口にしていた。今になって振り返れば、ずいぶん無神経だったと思う。相手のプライドを傷つけることなど、少しも考えていなかった。それにしても、だ。もう十年以上も前のことなのに、冬弥はまだあの頃のことを根に持っているのだろうか。瑞希は困ったように小さく息をついた。それ以上気にしても仕方がない。そう思い直し、またしばらく本を読んだ。やがて喉が渇き、点滴のボトルを手に持って水を買いに行こうとした、そのときだった。目の前に人影が差した。すらりとした長い指が、お湯の入った紙コップを差し出していた。瑞希が顔を上げると、その黒い瞳に冬弥の涼しげな顔が映る。「ありがとう」瑞希は紙コップを受け取り、少しずつお湯を飲んだ。「一人か?」冬弥の声は低く、どこか冷たかった。「うん」紙コップを握る瑞希の指先に、思わず力がこもる。冬弥は隣の空席に目をやり、点滴のボトルに半分ほど残っている液を
「離婚協議書一枚で、俺と君の関係にケリがつくとでも思ってるのか?」京介は冷笑した。瑞希はうなずいた。「確かに、この書類一枚じゃ、あなたが私にどれだけの借りがあるのか、とても清算しきれないわね。残念だけど、離婚で分けられるのは財産だけ。あなたの命まで取り立てるわけにはいかないものね」「……」「いちいちそんな言い方しかできないのか?瑞希、何年経っても、まともな話し方ひとつ覚えられないんだな!」京介の、目を引くほど端正な顔が怒りでみるみる険しくなった。それでも瑞希は、表情ひとつ変えなかった。「普通に話すことくらいできるわよ。ただし、相手が人間で、こっちの言葉が通じる場合に限るけど」さらに追い打ちをかけるように、瑞希は吐き捨てた。「京介、あなた、本当に人間なの?」その瞬間、二人の間に重苦しい沈黙が広がった。互いに相手を食い殺さんばかりに睨み合う。そんな険悪な空気には、瑞希もすっかり慣れていた。三年前、京介の浮気を初めて知ってからというもの、互いに傷つけ合うことが、二人の日常の一部になっていた。そして、いつも先に火をつけるのは瑞希のほうだった。京介に裏切られたことが許せない。それなのに、きっぱり別れることもできない。だからこそ、来る日も来る日も、消えない不満とやり場のない怒りを抱えながら、京介を責め、自分自身をも苦しめてきた。けれど、もう終わりだ。京介への愛も、憎しみも、期待も、失望も。今ではすべて、きれいさっぱり消え去っていた。目の前の京介は、意地の悪い笑みを口元に浮かべ、鋭い眼差しを瑞希に向けていた。「離婚したいんだろ?いいぜ。子どもを産んでくれたら、その場で離婚してやるよ」瑞希にはわかっていた。京介は本気で子どもを望んでいるわけではない。ただ自分を嘲笑っているのだ。子どもも産めない女だと。結婚して最初の二年間、瑞希と京介は妊活をしていた。けれど、どうしても子どもを授かることができなかった。二人そろって検査を受け、ようやく原因が瑞希の側にあるとわかった。当時の瑞希は、京介に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。どうにか子供を授かりたくて、効果があると聞けば怪しげな民間療法にまで手を出した。あらゆる注射や薬にも頼った。そのせいで、お腹には、注射の痕がびっしりと残っていた。そ







