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第3話

Autor: 萌木しい
瑞希と京介が結婚した年、芙美は夫の白石隆之(しらいし たかゆき)と離婚した。

隆之は事業に失敗し、多額の借金を抱えた。けれど、それが原因で家族が壊れたわけではなかった。決定的だったのは、隆之が外で女を囲っていたことが発覚したからだ。

白石家では、またしても夫婦喧嘩が始まり、家中がひっくり返るほどの大騒ぎになった。

瑞希は今でも覚えている。

父が家を出ていったあの夜、母は顔を怒りに歪め、父に向かって叫んだ。「そんなに行きたいなら、その女のところへ行けばいい!二度と帰ってこないで!」

本当は引き止めたかったはずなのに、その言葉がかえって父に、何もかも放り出して家を出る口実を与えてしまった。

あの日の瑞希は、今の芙美と同じように冷静だった。

母から「結婚ってそういうものなのよ。京介と結婚するかどうか、よく考えなさい」と言われても、まるで聞く耳を持たなかった。

恋に夢中になっている女は、誰だって自分だけは違うと思いたがる。瑞希もそうだった。自分はほかの女とは違う。京介との結婚が、両親と同じ結末を迎えるはずがない。そう信じて疑わなかった。

それどころか、母にこんなひどいことまで言ったのだ。「私はお母さんとは違う。京介だって、お父さんとは違うわ」

それなのに、どうなったのか。

結局、自分も母と同じ道をたどることになった。

電話は気まずいまま終わった。

瑞希は力なく壁にもたれ、顔を覆った。

胸の奥から、どうしようもない嫌悪感が込み上げてくる。

京介に対してでも、芙美に対してでもない。

自分自身に対してだ。

結婚生活の中で繰り返される喧嘩や口をきかない日々は、目に見える形で現れた問題にすぎない。本当に残酷なのは、その積み重ねが少しずつ心をすり減らし、自信を失わせ、自分のことさえ大切に思えなくさせてしまうことだ。

瑞希が涙を拭っていると、建物の脇にある裏口から冬弥が出てきた。

仕立てのいいスーツに身を包み、涼しげで上品な佇まい。すらりとした白い指には、火のついていない煙草が挟まれていた。

冬弥は黒い瞳を瑞希に向けた。けれど、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。

「車を取りに来たのか?」

そっけなく尋ねられ、瑞希は頷いた。「うん」

目に浮かんだ涙を、瑞希はどうにかこらえた。

「昨日はありがとう」

そう告げると、冬弥はちらりと彼女を見た。「昔は、そんなに素直に礼を言うタイプじゃなかっただろ」

冬弥の言う「昔」がいつを指しているのか、瑞希にはわからなかった。

ただ、高校時代の自分が彼に猛アタックしていた頃のことなら、確かに今とはずいぶん違っていた。

席が隣なのをいいことに、自分の席には座らず、冬弥がいない隙を見つけては彼の席に陣取っていた。しかも、「窓際の席が好きだから」などと、もっともらしい理由までつけて。

もちろん、当時の瑞希は今よりずっと図太かった。冬弥が不機嫌そうな顔で何も言わずに瑞希の席に座ると、今度はすぐ隣に身を寄せ、小さな声でこう囁いた。「あなたのことも好きだよ」

当然、返事はなかった。

それどころか、冬弥の顔はますます険しくなり、目つきまで冷たくなっていった。

今の瑞希には、もうあの頃のように、好きな人を前にしただけで胸が高鳴るようなときめきはない。自分の気持ちに正直になって、迷わず行動する勇気もない。

京介と過ごした十年間で、瑞希の強気なところも、意地っ張りなところも、恋にまっすぐ向き合う情熱も、すべて削り取られてしまった。

冬弥の言う「昔」に、瑞希は何と答えればいいのかわからなかった。

もっとも、冬弥も別に、彼女と話を続けたいわけではなかったらしい。

彼はふっと視線を外すと、そのまま離れた場所へ歩いていき、煙草に火をつけた。

……

瑞希は車で病院に戻った。

白衣に着替えてからトイレに行き、出てくると、洗面台の前に美咲が立っていた。

瑞希に気づいた美咲は、若い顔に少し気まずそうな色を浮かべたが、すぐに勇気を出したように声をかけた。

「瑞希さん、昨日はあんなに雪が降っていましたけど、帰り道で風邪をひいたりしませんでしたか?」

瑞希は蛇口をひねって手を洗いながら、顔も上げずに答えた。「風邪をひいてたら、今ここにいないでしょ?」

冷たい口調で、愛想のかけらもない。

美咲の顔が曇った。「瑞希さん、私のことがお嫌いなんですか?」

瑞希は水を止め、ちらりと美咲を見た。

「どうしてあなたを好きにならなきゃいけないの?あなたって、そんなに好かれるような人?」

美咲は唇をきゅっと結んだ。

「瑞希さんは京介社長の奥さんですし、私は京介社長の秘書ですから。私としても、瑞希さんに認めていただきたいんです」

「認めてないなんて言った?」瑞希は表情を変えず、口元だけで笑った。

「京介の彼女だって認めてあげてるじゃない。それじゃ足りないの?それとも、本当は京介の妻になりたいの?」

そう言って、ふっと笑みを浮かべた。

「ああ、ひとつ忠告しておくわ。京介の妻になりたいなら、今のうちから覚悟しておいたほうがいいわよ。いつまでも自分だけが特別だと思っていられるとは限らないから」

美咲の目に涙が浮かんだ。

「瑞希さん、私はただ心配して、挨拶したかっただけなのに……そんなにいちいち嫌味を言わなくてもいいじゃないですか」

「私のことを誤解するのは構いません。でも、京介社長にそんな言い方をするのは、さすがにひどすぎませんか?昨夜は体調を崩していたんです。今朝も私が病院に連れてきたのに、瑞希さんは心配するどころか、冷たい言葉ばかり……あんまりです」

美咲は瑞希をまっすぐに見つめた。

その堂々とした態度のせいで、まるで瑞希のほうが悪者であるかのようだった。

瑞希はペーパータオルを一枚取り、手についた水気を拭き取った。

「京介、頭でもおかしくなったの?」

美咲は一瞬きょとんとした。「社長はお酒を飲みすぎて、胃から出血したんです」

瑞希は彼女をじろりと見た。「じゃあ、頭がおかしいのはあなた?」

「……」美咲は顔をこわばらせた。「瑞希さんは医者でしょう?人にそんなことを言うなんて、あまりにも品がないんじゃありませんか!」

瑞希は相手にせず、そのまま洗面所を出た。

左手を白衣のポケットに突っ込み、右手の親指を立てて、少し離れたところにある案内板を示した。

「京介は胃から出血したんでしょ?それなら、下の階の消化器内科に行くべきじゃない?なのに、どうして私のいる脳神経外科に来たの?下の階にも女子トイレはあるでしょ?」

「……」

瑞希の表情は冷めきっていた。

美咲は拳をぎゅっと握りしめた。

目の前の女は、息をのむほど整った顔立ちをしていた。無表情なのに、潤んだ瞳には人を惹きつけるような色気がある。

会社でささやかれている噂なら、美咲もいくつか耳にしていた。

社長が自分をそばに置いたのは、若い頃の瑞希によく似た顔立ちで、名前の響きまで似ていたからだという。

けれど、美咲はそんなことを気にしていなかった。

自分のほうが瑞希より優しいし、社長の気持ちだってよくわかっている。

何より、瑞希はもうすぐ三十歳。対して自分はまだ二十二歳で、ずっと若い。

若い女を嫌う男なんていない。

「瑞希さん」

美咲は自信たっぷりに微笑んだ。

「若い女なら、少しくらい気が強くても、棘のあるバラみたいで魅力的に見えるかもしれません。でも、年を取った女が同じことをしたら、ただのみっともないおばさんですよね。瑞希さんなら、その違いをいちばんよくわかっているんじゃありませんか?」

瑞希は目だけを上げて、彼女を見た。

淡々とした眼差しに、近寄りがたいほど冷たい雰囲気。真っ白な白衣が、その冷たさをいっそう際立たせていた。

美咲はなぜか、思わず二歩ほど後ずさった。

瑞希は淡々と言った。

「どうしてそんなに必死になって、二十八歳の女をおばさん扱いしたいの?あなたのお母さんが二十八歳になる前に亡くなったから?それとも、自分も二十八歳になったら死ぬつもり?」

美咲の目が大きく見開かれ、怒りで頬が真っ赤になった。

「白石瑞希、あなた……!」

「何よ」瑞希はうんざりした様子で遮った。「頭を診てもらいたいなら、一階の受付で受診手続きをしてきなさい」

それから、吐き捨てるように言った。「それと、京介みたいな汚い男、欲しいなら持っていけばいいわ。私はゴミの回収係になるつもりなんてないから」

言い終えると、美咲の目には涙が光っていた。だが、瑞希の背後に視線を向けた途端、必死に涙をこらえた。

瑞希は振り返った。

そこには、高級ブランドのシャツとスラックスを身につけた京介がいた。襟元のボタンをいくつか外し、長身を壁に預けている。

顔色は青白く、いかにも具合が悪そうだったが、その目は重く沈んだまま、じっと瑞希を見つめていた。

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