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第262話

Author: 桜夏
「新井蓮司」という名前を聞いて、透子は唇を固く結び、顔色が一層悪くなった。

あの男よりは、まだ聡の方がずっとましだ。

「私、行かなくてもいいですか?」

透子は尋ねた。

「申し訳ない、透子。先方が君を名指しで指定していて、君が来ないと話を進めないの一点張りなんだ」

公平はため息をついた。

「新井グループの子会社のセキュリティメンテナンス案件で、かなり大きな取引なんだ……

君一人にさせるようなことはしない。我々も同席するから、大丈夫だ」

部長の公平の言葉を聞き、透子は俯いたまま黙り込んだ。

一社員として、当然会社のことを考えなければならない。それに、先輩も自分のせいで蓮司に攻撃され、会社が買収されそうになったこともある。その埋め合わせをしなければ。

白昼堂々、ここは旭日テクノロジーのオフィスだ。それに他の人もいる。まさか蓮司が手を上げたり、自分を攫ったりするようなことはしないだろう。

そう天秤にかけ、透子は同意した。

「……分かりました、行きます」

「協力に感謝するよ!」

公平は感動したように言った。

彼も、新井社長が透子に会うためだけに、この案件を「交渉の切り札」として利用していることは察していた。

だが、どうしようもない。営業部から頼まれたことだし、この案件の利益は確かに大きいのだ。

応接室。

「新井社長、まずはお茶をどうぞ。担当の如月は、今呼んでおりますので」

営業部長が微笑みながら告げた。

蓮司は腕時計に目をやり、すでに十分が経過しているのを確認した。

交渉の場で、相手を待たせることはあっても、自分が待つことなどなかった。これが初めてだ。

だが、相手が違う。彼女は透子だ。一時間でも十時間でも、彼は待てる。

どんな縛りにも裏をかく手はある。新井のお爺さんは監視の人間を付けて自分の行動を制限したが、提携の話し合いで外出することまでは禁じていない。

もう何日も透子に会っていない。先週の金曜日には怪我までした。週末の二日間は耐え難い時間だったし、理恵は彼女にお見合い相手まで探している……

蓮司は、今すぐ透子に会わなければ、自分が本当に狂ってしまうと感じていた。

今回の提携は、会議もなければ、部署への通知もない。彼が衝動的に思い立ち、十時の予定をキャンセルして、適当な案件を掴んでやって来たのだ。

入り口の方向をじっと見
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