「説明する必要なんて、ありません」実際のところ、史弥にとっても、悠良と伶の関係はずっと曖昧なものだった。ただ今回の件は、その疑念にさらに確証を与えただけの話だ。ここまで来たら、もうどうしようもない。伶は顎に手を当て、タバコを咥えながら、笑みとも皮肉ともつかない目で悠良を見た。「見た目に似合わず、なかなか肝が据わってるな、悠良ちゃん」悠良は笑みを浮かべたまま、何も言わなかった。伶はそのままタバコを揉み消し、指先で弾くようにして吸い殻を窓の外へ飛ばした。そして彼女の前に立ち、手を伸ばして手首を引っ掴む。「ついて来い」悠良は眉をひそめ、困惑した表情で彼を見た。「今、外は記者でいっぱいですよ。一体どこへ?」「来なくてもいい。どうせスキャンダルだ、俺は損しない」伶は肩をすくめて、あっさりと言い放った。悠良は自分から騒ぎを大きくしたくなかった。すでに状況は十分厄介だが、今はまだ「噂」でしかない。けれど、もし記者たちに二人が同じ病院の、しかも同じ病室にいるところを撮られたら、それは噂ではなく「証拠」として拡散される。それが引き起こす騒動を想像すると、悠良は怖くてたまらなかった。だから、彼女は小さくうなずいた。「わかりました。一緒に行きます」伶は彼女を連れて、いくつもの診察室を抜け、神経科にたどり着いた。そしてドアを開け、悠良を中に押し込んだ。ちょうど医師が診察中だったため、悠良は気まずそうに伶に小声で言った。「本当に大丈夫ですか?」伶は外を指さして、淡々とした顔で言った。「じゃあ、外の記者たちに俺たちの関係について説明してこい。信じてくれるかどうか、見てみよう」悠良は黙り込んだ。記者に説明なんてしても無駄だ。彼らは事実を知りたいんじゃなくて、自分たちの想像を裏付ける材料が欲しいだけ。そしてそのネタが「数字」になる。それだけのこと。その時、診察中だった医師が振り向き、悠良は彼の顔を見て目を見開いた。以前、薬を盛られたときに診てくれた医師じゃない!医師――有澤旭陽もまた、二人の姿に驚いて目を見開いた。そして伶に視線を移す。「また眠れなくなったのですか?」伶は鼻で笑いながら言った。「お前、ネットを見ないのか」旭陽はハッとしたように目
悠良は彼の言葉に言い返せなかった。この男、言うことがいちいち......「ベッドに入り込んだ」とか、どういう言いぐさなのよ。ちょうどそのとき、伶が何かを見て表情を変えた。眉間に深いシワを寄せ、不機嫌そうな顔になる。悠良も気づいたが、彼が何を見たのか聞く間もなく、自分のスマホが突然震えた。画面を見ると、発信者は葉。悠良は深く考えずにそのまま通話ボタンをスライドした。「葉、どうしたの?」「やばいよ!大変なことになってる!昨日の夜、ずっと寒河江社長と一緒にいたでしょ?」悠良は驚きながらうなずいた。「え......なんで知ってるの?」「私だけじゃないよ!今やネット中が知ってるよ!昨夜、あんたと寒河江社長がバーに行って、寒河江社長がケガして警察まで来たって。で、そのあとずっと病院で一緒に過ごしてたんでしょ?」「ネット中が知ってる」という言葉を聞いた瞬間、悠良は完全に固まった。頭の中に浮かんだのは、たった三文字。しまった!葉は彼女の沈黙に気づいて、さらに叫んだ。「早くスマホ見て!あと、今日からしばらく会社に来ない方がいいよ。外には記者が押し寄せてる。写真撮られないように注意して!じゃないと白川社長に殺されるよ!」悠良は慌ててニュースアプリを開いた。目に飛び込んできたのは、ド派手な見出し。【白川家の若奥様、深夜にLSの寒河江社長と密会――離婚危機か!?】そして、詳細な記事はさらに脚色がひどくて、悠良も思わずツッコミを入れたくなった。これ書いた人、記者よりネット小説家の方が向いてるんじゃないの?そんなことを考えていた矢先、今度は史弥からの電話がかかってきた。着信画面に表示される彼の名前が、何度も点滅する。悠良は思わず唇をきつく引き結んだ。怖くて出られない。初めて、そんな心情を体感した。一方、伶は病室の窓際まで歩いて外を覗き込んだ。下には、メディアの群れがびっしりと詰めかけていた。悠良も窓辺に駆け寄って、思わずクラッとした。「こんなに記者が......どうして......」伶はすぐに光紀へ電話をかけた。声は低く、冷たかった。「入り口のメディアをなんとかしろ」「寒河江社長、それが......今ここには雲城中のメディアが集まっていて、一社や二社って規
「調べがつきました。確かに、白血病を患っている子どもが一人います。そして、あの人は実際にかなりの額を横領していました。およそ2000万円です」悠良はそれを聞いて、思わず息を呑んだ。あの秘書、まさに自滅行為だ。伶から2000万円もくすねるなんて。金額は確かに大きいが、白血病の治療費としてはそれでも足りないかもしれない。病気の前では、どんなに大金でも一瞬で消えてしまう。もし伶が本気で追及すれば、その秘書の人生は完全に終わる。2000万円を返せなければ、刑務所行きは避けられないだろう。伶は眉をひそめ、その漆黒の瞳に一瞬だけ驚きの色がよぎった。「そんなに?」「はい、おそらく以前は寒河江社長自身も気づいていなかったのではないかと」光紀は理解していた。伶は仕事に全精力を注いでおり、私生活にはほとんど関心を持たない。最近はオアシスプロジェクトに集中していたため、生活面の問題に気づく余裕もなかったのだろう。少しの沈黙の後、光紀は再び尋ねた。「寒河江社長、この件、訴訟にしますか?」伶は手を振った。「必要ない。今は会社の力をプロジェクトに集中させるべきだ。裁判するなんて、時間の無駄だ。解雇しろ。それと、新しい生活秘書を探しておけ」「かしこまりました」悠良はそのやり取りを聞いて、内心ほっと息をついた。伶は冷酷で、部下に対して情を見せることはまずないが、今回ばかりは、あの秘書に情けをかけたようだった。理由が理由だけに、仕方のない面もあるのだろう。人情は、法の外にあるとはいえ、完全に無視できるものではない。悠良は、伶が思っていたほど冷たい人間ではないのかもしれないと、少しだけ思った。だが、その考えがよぎった瞬間、自分の頭を軽く振って、その思考を振り払った。次に彼が何をしでかすか分からない。まともな判断では測れない男なのだ。光紀は任務を果たすと、そのまま静かに退出した。その夜、悠良は伶のそばに付き添った。彼女自身は、近くの折りたたみ椅子に横になって、なんとか休んでいた。今日一日の出来事があまりに多く、精神的にも肉体的にも疲れ切っていた。どんなに硬い椅子でも、そのまま眠りに落ちてしまった。翌朝。悠良が目を覚ましたとき、外はすっかり明るくなっていた。ぼんやりと目を
彼女は慌てて言い直した。「どうしたいかは個人の自由、だったね。さっきの言葉は、全部忘れて」伶は思わず皮肉っぽく笑った。「君って本当に部下に向いてるよ。上司のことをここまで考える部下なんて、そうそういない」悠良は少し気まずそうに答えた。「ただの思いつきで言っただけよ」だが、伶は他人に操作されるような人間ではない。悠良も、自分が一線を越えたことに気づいていた。伶は考えを変えず、むしろ身につけている安物の服にますます嫌悪感を示した。「君が部下でよかった。もし社長だったら、商売の世界じゃすぐに食い物にされて終わりだな。人に対して優しすぎるのはダメだ。それが俺からの唯一の忠告だ」悠良は何も返さなかったが、伶のその言葉はまるで心に刺さるようで、後々まで彼女の胸に響くことになる。夜になって、光紀がすぐに新しい服を持ってやってきた。悠良にとっては、これが初めて光紀を目にする機会だった。それまでは、先ほどの男が秘書だと思っていたが、この光紀こそ、伶の本当の側近らしく見えた。二人にはどこか似たような空気があり、冷たく、近寄りがたい雰囲気をまとっていた。光紀は伶の前まで歩み寄り、手に持っていた服の袋を差し出した。「ご依頼の品はすべて揃っております」伶はしばし黙ってから口を開いた。「今度こそ偽物じゃないだろうな」光紀は口元だけわずかに笑った。「ご安心ください。今回は本物です」すると、伶の冷ややかな視線が悠良へと向けられた。「着替え、手伝え」その口調は、頼むというより命令に近い。悠良は、彼のこうした「俺様」ぶりにはもう慣れていた。彼のような人間は、生まれながらにして高貴さを纏っていて、誰もが無意識に気を使ってしまう。彼女は口を尖らせて、少し恨めしそうに言った。「はいはい」悠良はすぐに近づいて伶の着替えを手伝い始めた。先ほどは気づかなかったが、今回は彼の背中が目に入った。まるでムカデのように走る傷跡が背中に張り付いていて、思わず目を背けたくなるほど痛々しかった。悠良は血や生々しい傷口に対して、極端に敏感なところがあり、鳥肌が立つような嫌悪感を覚えてしまう。だからこそ、その傷を見た瞬間、彼女は思わず顔を背けた。そして、慎重に彼の服を替えながら口を開いた。「今
伶の瞳は陰鬱に沈み、まるで地獄から現れた修羅のようだった。「俺が無駄話を嫌いなのは知ってるはずだ。さっさと会社に戻って辞職願を出せ」秘書は目を見開き、恐怖に満ちた声で叫んだ。「寒河江社長......お願いです、もう一度だけチャンスをください!本当に事情があるんです、うちの子が白血病で......まだ三歳なんです。このまま見捨てるわけにはいきません。医療費が高額で、どうしても支えきれなくて......寒河江社長、長年お仕えしてきた情けで、今回だけはお許しを......」だが、伶の態度は変わらなかった。「長年俺に仕えてきたなら、俺の性格は分かっているはずだ。一度決めたことは、絶対に変えない」悠良は、会社内のことに口を挟む立場ではないと分かっていた。しかし、彼女の目から見れば、事情を汲んでやってもいいのではと思った。だが、伶は決して同情で判断するような人間ではなかった。秘書は、まるで天が崩れ落ちたかのように絶望していた。「わざとじゃないんです。仕方なかったんです......これをやらなかったら、うちの子は......他に手段があったなら、私だってこんなことを......!」伶は顔を背け、もはや秘書の言い訳を聞こうとすらしなかった。「いずれ詳しく調査するつもりだ。今までいくらピンハネしていたかも含めてな。ただ、今は辞めてもらう。それだけだ」その言葉には圧倒的な威圧感があり、悠良ですら、もうこの秘書に望みはないと感じた。ここにこれ以上いても意味はない。彼女は秘書に向き直って言った。「まずは帰った方がいいよ。これをやった時点で、いつかバレる覚悟はしていたはずでしょ」秘書は涙を浮かべながら、袖で目元を拭った。「こ......小林さん、少しでも他に方法があれば、私だって......」「でもやった以上、結果は受け入れないと。寒河江さんの性格、あなたが一番知ってるでしょ?」悠良は心配していた。秘書がここでしつこく懇願すれば、かえって伶の怒りを買うだけだと。秘書はため息をついて、絞り出すように答えた。「......分かりました」秘書が退室した後、伶は数千円の服を不快そうに引っ張った。「どうりで最近ずっと体がかゆいと思ったんだ......よくもまあ、こんなところまでピンハネしやがって」
「私に任せて」悠良が出てきたのを見て、秘書はすぐに安堵のため息を漏らした。「お手数をおかけします」今日もし寒河江社長の服をちゃんと着替えさせられなかったら、自分は明日クビだと覚悟していたのだろう。悠良は伶の横に歩み寄り、彼の手をそっと下ろした。「そんなに焦って、あなたらしくないよ」彼女は服の両端をつかみ、少し引っ張ってみた。確かに少しきつい。悠良は冷や汗を拭いている秘書に顔を向け、尋ねた。「サイズ間違えて買ったんじゃない?」「その......店員さんが、これは寒河江社長のサイズだって言ってましたし、まさかこんなに小さいなんて......」悠良は服を改めて見回した。下半身は問題なかったが、明らかに上半身、特に首元が小さすぎる。彼女は冗談めかして伶に言った。「他の人はちゃんと着られるのに、なんであなたは無理なの?」伶はその言葉を聞いて、また自分で引っ張ろうとした。「俺のせいだって言いたいのか?これは完全に服の問題だろ。今すぐあの服屋に電話して、明日には店を閉めさせろ」秘書の額にはさらに汗が浮かんだ。「は、はい......」悠良はようやく、伶の頭からTシャツを脱がせることに成功した。顔は赤くなっていて、目つきはどこか切なげで、まるでいじめられたお嫁さんみたいな雰囲気だった。悠良は思わず顔をそむけて笑ってしまった。かなり我慢していたのだが、肩の揺れからばれてしまったらしい。伶の低い声が背後から響く。「俺を笑ってる?」悠良は慌てて手を振った。「ち、違う。ちょっと目がかゆいだけで......」そこまで言ったところで、何かがおかしいと感じた。彼女は伶の服をもう一度引っ張り確認してみると、まだ繋がっている部分があることに気づいた。悠良は秘書に向かって言った。「ハサミを持ってきて」秘書は目を見開いた。「小林さん、ハサミで何を......?」まさか寒河江社長の服をまた......?悠良はもはや我慢の限界だった。「いいから持ってきて。安心して、社長さんをどうこうするつもりじゃないわ」秘書は急いで隣の診察室からハサミを借りてきて、悠良に手渡した。彼女はそれを受け取り、伶の襟をつまんで、繋がった部分を丁寧に切り始めた。すると、伶は一気に楽にな