「黒澤、貴様……」冬城が言いかけたところで、黒澤が遮った。「真奈が目を覚ましたようだ。冬城総裁は浅井の世話でもしていたらどうだ。これで失礼する」黒澤は電話を切った。冬城の顔は険しく、受話器を握る指が白くなっていた。「冬城様……」警備員は恐る恐る声をかけた。「また、改めて……」冬城は警備員を冷たい目で一瞥し、警備員は即座に口をつぐんだ。一方、真奈はぼんやりとベッドから目を覚まし、目をこすりながら尋ねた。「さっき電話がありました?」黒澤は新聞を手に取り直し、さりげなく答えた。「いいえ、夢だよ」真奈は首を傾げた。確かに寝ている間に電話の音が聞こえたはずなのに。夢だったのだろうか。真奈は眉間をこすりながら、ベッドサイドの携帯を手に取ると、冬城からの不在着信が表示されていた。真奈は眉を寄せた。冬城が……目を覚ましたの?そのとき、幸江がキッチンから料理を運んできて、声をかけた。「真奈、起きて!ご飯よ!」「……はい」真奈は携帯を脇に置いた。翌日、弁護士から離婚協議書が届き、夕刻、真奈は冬城家を訪れた。大垣さんは真奈を見つけると、嬉しそうに迎えに出てきた。「奥様!お帰りになられて!」真奈の怪我を見て、大垣さんは驚いた表情を浮かべた。「奥様、どうしてこんなに怪我を……」「冬城は?」「旦那様は……」大垣さんの言葉が終わらないうちに、冬城は階段を降りてきた。冬城の様子を見ると、一日で随分と回復したようだ。それなら安心だ。真奈はリビングに入り、大垣さんに言った。「大垣さん、冬城と話があるので、庭の掃除をお願いね」「かしこまりました」大垣さんは心配そうに真奈と冬城を交互に見た。冬城はダイニングテーブルに座り、表情を変えることなく夕食を取り続け、最後まで真奈を一度も見ようとしなかった。真奈はバッグから離婚協議書を取り出し、冬城の前に置いた。「弁護士に作らせた離婚協議書よ。サインしてもらえる?」「離婚?」冬城は箸を持つ手を止め、顔を上げて冷たく真奈を見つめた。「そう、離婚よ」真奈は平然とした顔で答えた。冬城は立ち上がり、真奈の前まで歩み寄ると、一言一言噛みしめるように言った。「誰に許可を取った?」「お互い好きじゃないのに、無理に一緒にいる必要なんてないでしょ
「瀬川家との協力関係が欲しいから離婚したくないと思っているの?」冬城が迫ってくるのに合わせ、真奈は顔を上げた。「違うといえる?」「当然違う!」冬城は充血した目で真奈の肩を掴み、言い放った。「よく聞け。俺は絶対に離婚を認めない。冬城家から出ていくなど考えるな」「離して!」真奈は冬城の手を振り払い、冷ややかに言った。「まさか、私のことが好きだから離婚したくないなんて言わないでしょうね」「俺は……」冬城の言葉を遮って、真奈は続けた。「私には冬城総裁に気に入られるような魅力はないでしょう。浅井のために何度も人前で私を辱め、私の友人にまで理由もなく当たる。もうこんな結婚には耐えられない。あなたが望もうが望むまいが、私は離婚する」「真奈!よくもそんなことが言えたな」冬城は怒りを爆発させた。「お前こそ黒澤とイチャつきまわって、怪しい関係じゃないか。俺の立場なんて少しも考えてない!」「私と黒澤が?」真奈は嘲笑うように言った。「そう思っていたね」「黒澤に乗り換えたから離婚したいんじゃないのか?」冬城は冷笑した。「真奈、お前は本当に薄情で移り気な女だ」「黙りなさい!」真奈は冬城を突き飛ばした。目に露骨な嫌悪を浮かべて言った。「あなたを好きだった自分が本当に恥ずかしい」真奈の目に浮かぶ嫌悪の色を見て、冬城の胸が鋭く痛んだ。真奈が踵を返そうとしたとき、冬城は咄嗟に腕を掴んだ。「どこへ行く」「離して!」真奈が眉をひそめる。冬城は力任せに真奈をソファに押し倒し、覆い被さった。熱を帯びた目で真奈の唇を見つめながら、抑えた怒りを滲ませて言った。「昨日は、黒澤にこうされたんだな?」「バカなことを!」真奈が平手打ちを食らわせようとしたが、冬城に手首を掴まれた。きつく握られ、真奈は顔を歪めた。「バカなことだって?」「バカだと?お前を助けるために命を懸けたというのに、目が覚めたら一目も合わせずに出て行きやがった。随分と薄情な女になったものだ」抵抗も虚しく、真奈は嘲るように笑った。「浅井がいるじゃないか。私なんか要らないよ」冬城の手の力が僅かに緩んだ。「浅井が好きなのに、どうして私を離さないの?」冬城は歯を噛みしめた。「浅井が好きなんて、一度も言ってないはずだ」「そうだね、口では言わない。でも私を何度も傷つけ
「冬城!どうして……」「もう離婚という言葉は聞きたくない。俺が許さない限り、お前は永遠に俺の妻だ」「あなたに何の権利が……」「この海城では俺の言葉が法だからだ。俺が反対する限り、離婚など認めない」「あなた……」真奈が言い終わる前に、冬城は離婚協議書をゴミ箱に放り込み、階段を上がっていった。真奈は冬城の背中を怒りの眼差しで見送った。おかしい。なぜ離婚を拒むのか。前世では彼女が泣きながら離婚を止めようとしたのに、冬城は容赦なかった。今度は彼女から離婚を切り出し、ここまで揉めているのに、逆に離婚を拒むなんて。真奈はゴミ箱の中の離婚協議書を見つめた。確かに冬城の言う通り、この海城では彼の言葉が絶対だ。彼が同意しない限り、離婚はできない。となれば、離婚に向けて別の手を打つ必要がありそうだ。翌日、真奈は商業登記所に赴き、瀬川家の赤字企業数社の引き継ぎ手続きを済ませた。会社に到着すると、だらしない受付と、トランプに興じる社員たちの姿が目に入った。瀬川家のエンタメ部門は業界で有名なポンコツ企業だ。以前は多くの優秀なタレントが所属していたが、皆引き抜かれてしまった。今では毎年大きな赤字を出し、瀬川家が穴埋めをしている状態だ。このままでは数年後には立ち行かなくなるだろう。真奈がゆっくりと入ってくると、受付は顔も上げずに冷たく尋ねた。「本日はどのご用件でしょうか」「瀬川真奈よ」「瀬川真奈?」受付は言葉を反復し、何かを思い出したように慌てて顔を上げた。「瀬川社長!」瀬川社長という言葉を聞いた社員たちは姿勢を正し、急いでトランプを片付けた。真奈は一瞥して尋ねた。「私が来ることを知らなかったのか」数人が一列に並び、居心地の悪そうな表情を浮かべた。「私たち、その……吉田マネージャーが来られるものと……」真奈は眉を上げた。吉田マネージャーか。「昨日、私が瀬川エンターテインメントを引き継ぐという連絡があったはず。これからは頻繁に来るから、勤務中の怠慢を見つけたら即刻解雇だわ」「いえ、とんでもないです!私たち、ただ暇を持て余しただけで、二度とこのようなことは……」マネージャーは慌てて言った。真奈は適当な場所に腰を下ろした。内装は立派だ。瀬川家が当初投資した額を考えれば、毎年赤字を出すはず
「白石新のことですか?」マネージャーは頭を捻って考えたが、そんな人物を思い出せないようだった。「社長、うちで一番売れているのは遠野礼(とおの れい)です!遠野をお呼びしましょうか?」真奈はマネージャーを見つめた。口元は笑みを浮かべているものの、目は笑っていなかった。「30分あげるわ。白石新を連れてきなさい」真奈はそう言い残すと、そのまま階上へ向かった。マネージャーは部下に目配せし、すぐに真奈の後を追った。階下の社員たちは顔を見合わせた。白石新?たしか卒業したての若造じゃないか。とはいえ、真奈の命令なので、すぐに白石に連絡を取るしかない。真奈はオフィスの内装を見回した。マネージャーは横でへつらいながら話を続けた。「社長、これは前任の方のオフィスです。昨日特別にリフォームを施しましたが、いかがでしょうか?」「悪くないわ」真奈は椅子に腰を下ろした。瀬川は更に取り入るように言った。「社長、遠野は今やうちの看板タレントです。本当にお会いになりませんか?」真奈が笑みを浮かべると、マネージャーは何故か背筋が寒くなった。真奈が遠野礼のことを知らないはずがない。スキャンダルで有名になっただけのB級タレントで、演技も実力もない、見た目だけが取り柄の存在だ。それでも、このような芸能人が瀬川エンターテインメントではトップの座に君臨している。真奈は覚えていた。遠野は女性スポンサーを見つけると、自分を売り出した瀬川エンターテインメントを見捨て、その後ファンとのセフレ関係、スタッフへのパワハラ、闇契約などが次々と発覚。あっという間に世間の評判を落とし、2年と経たずに干されてしまった。真奈は部長を見つめ、皮肉な微笑みを浮かべた。「随分と遠野を評価されているようだね」「遠野は毎年、会社に大きな収益をもたらしていますから、もちろん……」「昨年、遠野の仕事はすべて会社の金で交渉したものだったよね。それなのに目立った成果も上げられず、会社に利益も名声ももたらしていない。そこまで持ち上げるなんて、彼からいくら貰ったの?」突然の鋭い追及に、部長は緊張して喉を鳴らし、背中に冷や汗を感じた。「社長、誤解です。私は……」「誤解かどうかは、帳簿を見れば分かるよ」その言葉を聞いて、マネージャーの神経は更に張り詰めた。遠野を売り出
「社長が部下に会いに行くなんて」マネージャーは驚いて顔を上げた。「白石に顔を立て過ぎではないでしょうか」普段なら違約金をちらつかせれば、白石は大人しく従うはずだった。それなのに今回は、まるで別人のように。社長の言葉すら聞かず、強気な態度を取るなんて。真奈はバッグを手に取り、そのままオフィスを後にした。資料に記された住所に向かうと、そこは古びた団地だった。高級車が到着すると、住民たちの視線が集まった。マネージャーは気を利かせて車のドアを開け、取り入るように言った。「社長、ご案内いたしましょう」「結構。一人で行くわ」古い団地には高齢者が多く住んでいた。エレベーターもなく、階段を上るしかない。真奈は3階まで上がり、錆びた鉄扉をノックした。すぐにドアが開いた。部屋着姿の男性が現れた。背が高く、色白で、澄んだ瞳を持つ男性は、真奈より二つの頭分ほど背が高かった。その凛とした容姿は、遠野などを遥かに凌駕していた。「どちら様でしょうか」男は真奈を見て一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに取り繕い、低い声で尋ねた。「誰が来たの?」中から年老いた声が聞こえてきた。「おばあちゃん……」白石が何か言おうとした時、真奈が中に入り、笑顔で挨拶した。「こんにちは、おばあさん。瀬川真奈と申します」瀬川真奈という名前を聞いて、白石は眉をひそめた。部屋の中のおばあさんは背中を丸め、目も少し霞んでいるようだった。真奈の方に近寄り、「真奈ね、新の彼女さん?さあさあ、お上がりなさい」おばあさんは真奈を温かく招き入れた。真奈は笑顔を引きつらせた。おばあさんと親しくなるつもりだったが、いきなり彼女役を押し付けられるとは。「おばあちゃん、彼女は……」白石の言葉を遮って、おばあさんが言った。「新、何をぼんやりしてるの?真奈にお茶を入れてあげなさい」真奈は気まずい思いをしながら、おばあさんにソファへと導かれた。おばあさんの嬉しそうな様子を見て、白石は仕方なくお茶を入れに行った。真奈は目を離さず白石を見つめていた。前世で、彼が有名になった後におばあさんが亡くなったことを覚えている。あるテレビ番組で白石は涙ながらに語っていた。成功する前は、おばあさんに貧しい生活をさせるしかなかったと。有名になれたのに、最愛のお
真奈は過去の契約書を手に取り、白石の目の前で真っ二つに引き裂いた。白石は息を呑んだ。「新しい契約書をよく読んでごらん。私の言葉を信用できないなら、弁護士に見てもらっても構わないわ。私を信じてくれるなら、一年以内にあなたをトップスターにする」真摯な様子の真奈を見て、白石は少し躊躇った。「なぜ遠野のほうじゃないんですか?」結局、遠野礼こそが瀬川エンターテインメントの看板タレントなのに。「遠野はすぐに切り捨てるわ」ただ、まだその時ではない。白石は沈黙の後、尋ねた。「条件は?」「条件?」真奈の困惑した表情を見て、白石は冷たく言った。「女性客の接待か、それとも……」白石は言葉を濁し、目を逸らした。真奈は白石の言葉の意図を悟り、怒りと恥ずかしさで頬を赤らめた。「違うわ!接待も求めないし、囲い者にするつもりもない!」白石は唇を噛んだ。「では……」「どうしても条件というなら、有名になっても移籍せず、ずっと私の事務所で活動すること。それだけよ」真奈はゆっくりと言った。「反対に、一年以内にあなたをスターにできなかったら、違約金なしで自由に去っていただいて構わないわ」白石は真奈をじっと見つめ、その言葉の真偽を見極めようとしているようだった。「新、おばあちゃんの餃子作りを手伝っておくれ!」と台所からおばあさんの声が聞こえた。白石は台所を一瞥してから、真奈に向かって言った。「承知しました」そう言うと、白石は台所へ向かった。真奈はほっと胸を撫で下ろした。その日、真奈は白石と一緒におばあさんの夕食を共にした。真奈を見送った後、白石は家に戻り、窓辺に立って電話をかけた。「もしもし、白石さん。弊社への移籍をご検討いただけましたでしょうか」電話の向こうの声は丁重だった。白石は淡々と言った。「申し訳ありません。お断りさせていただきます」「よくお考えください。瀬川エンターテインメントは白石さんを売り出すつもりはありません。違約金は弊社で……」「結構です。もう決めました」白石は電話を切った。今日、目の前に現れた真奈の姿が、頭から離れなかった。ほんの一瞬だったが、心臓が止まったのを感じた。「瀬川真奈……」白石は呟いた。彼女の言葉は本当なのだろうか。それから二週間、真奈は怪我の療養を利用し
マネージャーは何とか遠野を止めたかったが、間に合わなかった。「何故僕の仕事が白石なんかに?あいつは何者ですか。僕と比べるまでもないでしょう」と遠野は激昂した。これまで瀬川エンターテインメントでいい仕事を独占してきたのに、今や大学を出たばかりの無名の新人にそれらを奪われている。真奈は椅子に寄りかかった。「理由を知りたいの?」「聞きたいですよ!」遠野は怒りに任せて言った。「白石が裏で何か……それとも枕営業でも……」「バン!」真奈が書類を机に叩きつけた音が鋭く響いた。遠野は思わず身を竦ませた。女性で業界の経験もない、甘く見られる相手だと高をくくっていた。しかし真奈の目には鋭い警告が宿っていた。「遠野、あなたは所属タレントよ。発言には気をつけなさい」真奈は冷ややかに言い放った。「僕は事務所のエースですよ!会社の売上は僕が稼いでいます。新米社長が僕の仕事を他人に回すなんて、どういうつもりですか」遠野は食い下がった。傍らのマネージャーは真奈の険しい表情を見て、背筋に冷や汗を感じていた。真奈は冷笑を浮かべた。「あなたの仕事?全て会社が金を注ぎ込んで作り上げたものよ。人気者だと?B級タレントにも入れないくらいのレベルだわ。会社の売上を支えていると言っているが、この帳簿を見てみる?」真奈は会計資料を遠野の前に投げ出した。遠野の顔が青ざめ、マネージャーも居心地の悪そうな様子を見せた。「所属タレント全員の収益を遠野一人に流用するとは、大島健(おおしま たける)マネージャー、随分と大胆なことを」真奈は冷静に言い放った。「しゃ、社長、ご説明させていただきます……」マネージャーは声を震わせた。当時はただ瀬川グループの体裁を取り繕うためだった。でなければ、瀬川エンターテインメントの実力では数年前に破綻していたはずだ。帳簿は改ざんしたはずなのに。なぜ瀬川真奈に見破られたのか。言い訳を探しあぐねるマネージャーを、真奈は冷ややかに見つめた。どの会社にも、財務部に帳簿の改ざんを命じ、私的流用をする役員はいる。発覚さえしなければ、後で穴埋めすれば済む話だ。しかし大島と遠野は3年もの間、帳簿の穴を埋めずにいた。真奈が就任後に警告を与えても、まさか発覚するとは思っていなかったのだろう。所詮、大島は真奈を飾り物程度に
「あなたにも二つの選択肢をあげるわ」先ほどの大島マネージャーの一件で、遠野は既に身構えていた。真奈が何を仕掛けてくるのか、予想もつかない。「一つ目は、会社に残ること。ただし、もう仕事は回ってこない」遠野は青ざめた。「二つ目は、冬城グループのエンターテインメント部門への移籍。推薦状を書くわ」遠野は目を見開いた。こんな良い話があるとは思ってもみなかった。「本当ですか?」「ええ、もちろん」「では二つ目を!」遠野は興奮を隠せなかった。冬城グループに行けるなら、この落ち目の瀬川エンターテインメントに誰が残るというのか。「では、出て行っていいわよ。明日、冬城グループに推薦する。きっと……喜んで受け入れてくれることでしょう」真奈は微笑みを浮かべた。確かに遠野は一流とは言えないが、瀬川家の投資で一定の知名度はある。冬城グループの映画部門は他社のタレントの引き抜きを得意としている。ただし、これは良い話ではない。結局のところ、遠野の背後には数々のスキャンダルが隠されているのだから。そのスキャンダルは時限爆弾のようなもので、契約した会社はいつ爆発するか分からない遠野を追い払うと、白石が突然オフィスに姿を現した。眉をひそめ、躊躇いがちな表情を見せる白石に、真奈は先ほどの遠野との会話を聞いていたことを悟った。「なぜ遠野を送り出したんですか」一般的に見れば、遠野が冬城グループに移るのは出世コースだ。誤解されては困ると思い、真奈は説明した。「彼は良い話だと思っているでしょうが、むしろ不運の始まりよ」前世で、遠野は冬城映画の女性副社長をパトロンにつけた。彼女は遠野を猛プッシュしたが、彼の数々のスキャンダルが発覚し、冬城映画は巨額の賠償金を支払うことになった。それが原因で、冬城映画は何年も低迷を続けることになる。遠野を送り込むことは、その没落を加速させるようなものだった。白石が黙り込むのを見て、真奈は首を傾げた。「今日はまだ仕事があるはずでは?何か用件でも?」「遠野が騒ぎを起こしたと聞いたので……」白石はそこで言葉を切った。この数日の付き合いで、真奈は白石が寡黙で口下手な性格だということを理解していた。「大丈夫よ」白石の気持ちを察して、真奈は微笑んだ。「では、仕事に戻ります」白石は
「私にもわかりません……」浅井の顔色は悪くなった。「まさか、まさか瀬川家が今、冬城家よりも強くなってるなんてこと……ではないでしょうね?」冬城家は海城の覇者で、ビジネス界で知らない者はいない。一方の瀬川家は、とうの昔に勢いを失っていたはずだ。そんな相手に対して、どうして冬城があんなことを言ったのか、理解が及ばない。「大奥様、今日の件で、冬城総のすべての計画が台無しになりました!」中井はついに堪えきれずに声を上げた。彼は多くは語らず、そのまま冬城を追って会場を出ていった。「大奥様、どうか気になさらないでください、これは全部……あっ!」浅井が宥めようとした瞬間だった。冬城おばあさんの手が振り上がり、彼女の頬を打った。浅井の顔色が一瞬で変わる。冬城おばあさんは冷ややかな目を浅井に向け、言い放った。「全部、あんたのせいだよ。この卑しい女が冬城を誘惑したから、こんな恥さらしな騒動が起きたんだ!」浅井は唇を噛みしめながら、怒りを堪えて何も言わなかった。まだ冬城とは結婚していない。今の彼女には、冬城おばあさんの後ろ盾が必要だった。浅井は唇を噛み、言った。「……私だって、自分と司さんの関係が恥ずかしいことくらい、わかってます。でも、あの夜は……司さんが私を無理やり……それに、今私のお腹には冬城家の子がいるんです。将来、戸籍もなく、家にも入れないなんて、そんなこと……あっていいはずありません」血筋を何より重んじる冬城おばあさんは、その言葉にようやく少し落ち着いた。「もしあのとき、真奈に子どもがいたら……あんたなんて、とっくに必要なかったのよ」そう吐き捨てると、冬城おばあさんは浅井をその場に残したまま、くるりと背を向けて去っていった。浅井は内心では納得がいかなかったが、冬城おばあさんには逆らえず、すぐにその後ろを追いかけた。「大奥様、どうかご安心ください。私と司さんが結婚したら、必ず司さんの仕事を支えます。私はA大学を卒業した身ですし、司さんに支援していただいた恩も忘れていません。今後はしっかりと大奥様のお世話もいたしますし、ご希望があれば主婦になり、夫と子どもを全力で支えることもできます……」だが、冬城おばあさんは浅井のような出自の女をそもそも見下しており、彼女の言葉など聞く耳を持とうとしなかった。そのころ、真奈は車
「その通りだ!当初、うちの瀬川社長が海に落ちた件は、まだ真相が明らかになっていないんだ。冬城家が愛人を迎え入れるために仕組んだんじゃないのか?」「瀬川社長がいなければ、私たちが冬城家と組む理由なんてあると思うか?」「わざわざパーティなんて開いて、瀬川家を侮辱するなんて……冬城家って、こんなにも人をバカにするのか!?」……会場のあちこちから、怒声が次々と上がり、空気は一気に緊張感に包まれた。その中で、真奈はひとり静かに、この騒ぎを冷ややかに見つめていた。彼女にとっては、ここまで騒ぎになってこそ、これまでの仕込みが報われるというものだった。冬城の視線は真奈に注がれ、彼はすぐに、これが全て彼女の仕組んだことだと気づいた。中井も場をどう収めていいかわからず、内心で焦っていた。彼が知っていたのは、冬城総裁が今回のパーティを利用して、真奈との関係修復をアピールし、メディアを使って円満夫婦を演出し、世間の不安を抑えようとしていたということだけだった。だがまさか、冬城おばあさんが突然浅井を連れて現れるとは、誰も予想していなかった。それによって冬城総裁の計画は完全に崩れ、瀬川家との対立は決定的なものとなり、会場は一気に混乱に陥った。そして今、一番顔色を悪くしていたのは冬城おばあさんだった。まさか自分の一言が、ここまで皆の怒りを買うとは思ってもみなかったのだ。これまで誰も、彼女の前で正面から異を唱える者などいなかった。一瞬、冬城おばあさんは慌てた。そのとき、タイミングを計っていた真奈がゆっくりと椅子から腰を上げ、場の中央へと歩を進める。そして、すべての視線が集まる中、こう言い放った。「どうやら、今日のパーティにこれ以上参加する意味はなさそうですね」瀬川グループの幹部たちは次々と真奈の背後に立ち並び、まるで彼女に全面的な支持を示すかのようだった。冬城はようやく気づいた。いつの間にか、真奈は瀬川家のすべてを掌握していたのだ。もはや、彼女はかつてのように自分の背中をただ追いかけるだけの女ではない。真奈はふっと微笑みながら、はっきりと言い放った。「冬城家がそれほどまでに誠意を欠くのなら、今回の協力も必要ありません。冬城総裁、離婚の手続きは早めに進めましょう。そうでないと、子どもが生まれた時に戸籍の手続きがややこしくなってし
「おばあさま、今日は来るべきではなかった」冬城は深く眉をひそめた。今日のような大事な場におばあさんが来ること自体は構わない。しかし、よりによって浅井まで連れてくるとは、絶対にしてはいけなかった。「冬城家と瀬川家の協力が始まる、こんな大切な日に、私が来ないわけがないでしょう?」冬城おばあさんは、ゆっくりと瀬川家の幹部たちに視線を走らせた。その態度は高圧的で、居合わせた者たちの空気を一気に張り詰めさせた。彼女は昔からそうだった。まるで時が止まったかのように、冬城家が絶頂期だった頃の感覚で生きている。自分に楯突く者はいない、冬城家の名を汚す者など誰もいない――そう信じて疑わない。しかし、時代は変わっている。今の海城は、もはや冬城家一強の時代ではない。「大奥様、今日のような正式な場に、こんな女性を連れてくるなんて、ふさわしくないと思いませんか?」「うちの社長がこの場にいるというのに、それを無視して……瀬川家を軽んじているとしか思えません!」「これが協力?とてもそうは思えません。ただの侮辱じゃないですか!」……会場のあちこちから、ざわめきと怒りを含んだ声が次第に広がっていった。冬城おばあさんは依然として高慢に立っており、自分が何を間違えたのかわかっていないようだ。真奈にはわかっていた。冬城おばあさんがこんな真似をしたのは、瀬川家に対する牽制であり――そして、自分に対する牽制でもあったのだ。しかし、彼女のやり方はあまりにも不適切だった。今日は記者がいるので、明日は冬城家が瀬川家をいじめたという報道が一面を飾るだろう。ましてや、冬城おばあさんは妊娠中のみなみまで連れてきたのだ。そうなれば、世論は一気に瀬川家側に傾き、冬城家は「冷酷で非情な搾取者」というレッテルを貼られることになるだろう。そのようなネガティブなイメージは、そう簡単に払拭できるものではない。「皆さま、冬城家は心から瀬川家との協力を望んでおり、侮辱する意図など決してございません」中井が間を取り持つように声を上げたが、その言葉が終わる前に、白石がゆったりとした口調で口を開いた。「僕もそう信じています。冬城家が瀬川家を侮辱するなんて、まさかそんなことはないでしょう。ご一家そろってわざわざ僕たちの協力を祝うためにお越しいただいたのですから。この上なく重視
白石が戻ってくると、真奈は眉をひそめて尋ねた。「さっき彼と何を話していたの?」白石はわずかに口元を緩めた。普段はどこか禁欲的なその顔に、掴みどころのない笑みが浮かぶ。「もしこれ以上撮るなら、その場でカメラをぶっ壊すって言ったんだ。それから、彼の競合メディアにこの騒動を一面に載せてもらうってね。そうなったら、カメラはパー、スクープは奪われる。記者としては、もう終わりだろうって」真奈はその一言にぐうの音も出なかった。前から白石は腹黒くて策士だとは思っていたが……どうやらそれは、想像以上だったようだ。一方その頃、冬城は真奈と白石があまりに親しげにしている様子を目にし、思わず眉をひそめた。そこへ、中井が警備からの報告を受けて駆け寄り、顔色を変えて伝える。「総裁!浅井さんと大奥様が到着されました!」「誰が呼んだんだ?」冬城の目が鋭くなった。中井は慌てて答えた。「大垣さんでも大奥様を止めきれず……どうしても浅井さんを連れていらっしゃると仰って……どうにもなりませんでした」冬城おばあさんは昔から言い出したら聞かない性格で、その気迫に逆らえる者など一人もいなかった。入り口に目を向けると、そこには宝石をこれでもかと身につけた冬城おばあさんの姿があった。その装いは、数十年前には確かに華やかだったかもしれない。だが今では、どこか時代遅れで、悪目立ちするばかりだった。そして、そんな冬城おばあさんの腕を取って付き添っていたのは、浅井だった。浅井の姿が視界に入った瞬間、真奈はほんのわずかに眉をひそめた。浅井はまだお腹がはっきり目立つほどではなかったが、あえて身体のラインが出るタイトなドレスを選び、少し膨らんだお腹をあえて見せるようにしていた。もともと細身な彼女だからこそ、そのわずかなふくらみがかえって目立っていた。そして浅井は真奈を見つけると、勝ち誇ったような視線を投げかけた。まるで「勝者は私よ」と言わんばかりに。それを見た真奈は、思わず鼻で笑った。冬城がそんなに価値のある男だと思っているのは、冬城だけだ。「司、冬城家と瀬川家のこんな大事な場に、どうして私を呼んでくれなかったの?」冬城おばあさんがこうした正式な場に姿を現すことは滅多になかった。ましてや妊娠中の浅井を連れての登場とあって、たちまち記者たちの注目を集めた。
「僕が変われたのは、君がいてくれたから」白石の瞳には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。もし真奈がいなければ、彼は今でも鬱々とした白石、半年で一気に頂点に登り詰め、今の地位に到達することはなかっただろう。真奈のおかげで、彼は祖母に孝行できるだけのお金も手に入れた。彼にとって、真奈は暗闇の中の一筋の光であり、彼の人生全体を照らしてくれた。けれど真奈は、前世で瀬川家が白石にどれだけ酷い仕打ちをしたかを知っていたからこそ、彼のその言葉を素直に受け止めることができなかった。むしろ、その言葉を言わせる資格すら、自分たちにはないと思っていた。車は四季ホテルの前に停まり、新は先に降りて、真奈のためにドアを開けた。その光景はひときわ目を引いた。今日は上層部の関係者たちが数多く出席しており、特に女性たちの視線が一斉に新に集まった。白石は普段から目立つことを嫌い、社交の場にはほとんど顔を出さない人物だった。そんな彼が目の前に現れたのだから、周囲の女性たちが目を輝かせるのも無理はない。真奈は小声でつぶやいた。「あんまり目立たないで。下手したら誰かに気に入られて、囲われちゃうかもよ」その言葉に、白石はふいに手を伸ばし、真奈の腕をそっと取った。真奈は一瞬驚いてその手元を見下ろしたが、白石は淡々とした声で言った。「これが一番のカモフラージュになるだろ?噂の彼女ってやつ」真奈はふと、以前白石との間にスキャンダルがあったことを思い出した。白石と噂になった唯一の女性――そんな彼女が、今こうして白石と腕を組んで現れたのだから、周囲の人間があれこれ勘ぐらないわけがない。ましてや、今日は記者も多く来ている。「あなた、正気?芸能界でやっていく気がないの?」真奈の声には、はっきりとした警告の色がにじんでいた。かつて彼女が冬城の妻だったころ、白石とのスキャンダルが報じられたとき、白石は女パトロンに養われているヒモ男だと揶揄された。今は冬城との離婚が世間を騒がせている最中で、こんなタイミングでまた白石との噂が出れば、アンチたちがどれだけ彼を叩くか想像もつかない。そう思った瞬間、真奈は腕を引こうとしたが、白石はそれを許さなかった。白石の腕には強い力がこもっていて、彼女は二度ほど抵抗したものの、やがて諦めた。すでに多くの視線が自分たちに集ま
「社長、白石はもう承諾しました」大塚が報告に現れると、真奈はスマートフォンを軽く持ち上げて言った。「もう知ってるわ」スマホの画面には、白石からのメッセージが表示されていた。「任せて」大塚はその意味を測りかねて、少し戸惑った様子を見せたが、すぐにもっと重要なことを思い出し、口を開いた。「冬城グループから正式な招待状が届いています。明日の夜、瀬川エンターテインメントの幹部を、冬城グループとの協力パーティーにご招待したいとのことです」「招待状を見せて」真奈はさほど興味もなさそうに言った。大塚は招待状を真奈に送った。真奈は画面を確認し、そこに押された印鑑を見て、予想通り冬城が直々に発行したものだと理解した。 「誰を招待したの?」「瀬川エンターテインメントの幹部全員、冬城芸能の幹部全員、そして……メディア関係者です」メディアという言葉を聞いた瞬間、真奈の口元に冷笑が浮かんだ。冬城は世論を利用するのが好きで、今回のパーティーにメディアを招待した彼の意図は、誰の目にも明らかだろう。大塚は少し躊躇いながら言った。「社長、やはり行かない方がいいかもしれません」「いいえ、そこまで私に来てほしいというのなら、行ってあげるわ。顔を立ててやらないと」「でも、世間の噂は……」今や誰もが、真奈と冬城が離婚手続き中であることを知っている。この時期に二人が会えば、大きな騒動を引き起こすだろう。「彼が世論を作りたいのなら、私たちもそれに乗りましょう。ただし……彼が望むような世論ではないわ」真奈の顔には控えめな笑みが浮かんでいた。その表情を見て、大塚はすべてを察したように軽く頷く。「はい、すぐに手配します」日が暮れ、真奈は金色のロングドレスに身を包み、大人の女性の魅力を漂わせた。迎えに現れたのは白石だった。彼は彼女の華やかな姿を見てきたはずなのに、それでも思わず息を呑む。「どう?」真奈は両手を広げ、白石の前でふわりと一回転して見せた。白石は微笑んで言った。「素敵だよ」今日は瀬川家と冬城家、両家の協力を名目にしたパーティ。白石も白のフォーマルスーツに身を包み、まるで童話の中の王子のような姿で人々の視線をさらった。彼はスマートに車のドアを開け、真奈をエスコートする。後部座席に彼女が座ると、自分もその隣に腰を下ろし
「かしこまりました」大塚が言い終えると、また躊躇し始めた。その様子を見た真奈は尋ねた。「ほかに何かあるの?」「社長、もう一つありますが……」大塚はさらに困ったような表情を浮かべて言った。「白井綾香は今、冬城グループの所属タレントですが、本日冬城グループから連絡がありまして、白井と白石で雑誌の撮影をしたいとのことです」「冬城グループが連絡してきたのは、Mグループ?それとも瀬川グループ?」「……瀬川グループです」たとえ今、冬城グループの関係者に百倍の勇気があったとしても、Mグループと直接手を組む勇気はないだろう。だが瀬川グループ――過去の関係を辿って、そこに私的な情を見出そうとしているのは見え見えだった。白石は今、一線で活躍する俳優であり、誰もが認めるトップスター。ファンベースも圧倒的で、まさに男性芸能人界の頂点にいる存在だ。そんな新と雑誌で共演できれば、デビュー間もない新人タレントの価値は一気に跳ね上がる。「……冬城氏は白井に流星のような鮮烈デビューを狙わせる気ね」真奈は軽く笑っただけだった。流星のようデビューは、必ずしも良いことではない。「社長、承諾なさいますか?」「白石に直接聞いて。彼の意思を尊重して。彼がいいと言うなら、私は何も言わない」大塚は、真奈がなぜ白井にそんなチャンスを与えるのか、正直、理解できなかった。もし白井が本当にキャリアを上げるようなことがあれば、それは冬城グループにとって大きな後押しになる。そうなれば――これまで彼らが積み重ねてきた、冬城グループに対するあらゆる攻撃の努力がすべて水の泡になる。「どうしたの?私の決断を疑っているの?」「いえ、すぐに確認を取ります」中井が部屋を出て行った。真奈は窓の外に目を向ける。白井を金のなる木に育てたいのなら、それにふさわしい相手を選ぶべきだった。なぜ白石なのか?白石は表面上は無口で穏やかだが、実は腹黒い。今回、白井は損するしかないだろう。撮影現場。大塚は白石のマネージャーに連絡を入れ、マネージャーは白石のもとへと歩み寄り、真奈の意向を簡単に伝えた。それを聞いた白石は、ふっと口元に笑みを浮かべた。「共演?いいよ」マネージャーは一瞬、驚いた表情を浮かべた。「でも、今冬城グループと瀬川社長の関係って……」「構
「好きにしろ」黒澤は冷たくそう言い捨てると、その場を去った。伊藤も黒澤が去っていくのを見て、すっかり残る気をなくし、すぐにその後を追った。白井は、誰にも構われずにその場に取り残された。真奈はそれを見て、ただ背を向けて去った。幸江がそばで言った。「さっき彼らが何を言っていたか聞こえた?」「聞こえたわ」伊藤の声はあまりにも大きく、聞こえないほうが無理だった。ただ、白井は気づかぬうちに、真奈に多くの厄介を押しつけてきた。真奈の表情が暗く沈んでいるのを見て、幸江の顔にも緊張が走った。「白井が冬城グループの映画会社に入ったことで、何か面倒が起きてる?」真奈は口を閉ざしたまま黙っていたが、幸江にはその表情だけで十分だった。 「深刻なの?」「深刻じゃないことを願ってる」海外の白井家はかつて非常に栄えていた家系で、今は黒澤家が後ろ盾にいる。その存在は、周囲に警戒心を抱かせるには十分だった。そんな中で冬城氏が白井を映画会社に招いたのは――明らかに、先日の礼にまつわる騒動から目を逸らすための戦略だ。そして綾香には白井家という名のバックがある。その影響で、今後は多くの海外からの投資が期待されるだろう。どうりで、少し前に白井と黒澤が一緒にトレンド入りしていたわけだ。あれは冬城グループが、彼女を売り出すために仕掛けた流れだったのだ。こうなると、礼という厄介者で台無しになった冬城グループの映画会社も、再び息を吹き返すことになるだろう。果たして三日も経たぬうちに、白井の名前は頻繁にトレンド入りするようになった。海家名家のセレブという肩書きを持つ彼女は、すぐに世間の目に名家のお嬢様、財閥の令嬢として映るようになった。そして、そのキャラクターを白井は非常にうまく演じ切っていた。真奈がMグループの最上階のオフィスに座ると、少し疲れていた。状況は変化した。すべてが彼女の予想通り、白井の加入によって、冬城グループの映画会社は徐々に再起し始めていた。以前、礼によってもたらされた悪影響も、ゆっくりと世間の記憶から薄れていった。そのとき、大塚がドアをノックしながら声をかけてきた。「社長、急ぎの用件です」「入って」真奈は疲れたように尋ねた。「また何か悪い知らせがあるの?」「浅井が刑務所から出てきました」その一言
真奈は淡々とした声で言った。「これは黒澤と彼女の問題よ。私たちが口を出せることじゃない」「でも、遼介が好きなのはあなただし、あの白井はただのわがままだよ!遼介は彼女と結婚するなんて一度も言ってないし、好きだって言葉も一回も言ってない!」幸江は言った。「彼女はあなたに道徳的に圧力をかけて、みんなの前で可哀想なフリをしてるだけよ。さっき通りがかった人たちが、どんな目であなたを見てたか、見なかったの?」通行人の視線はまるで、真奈が白井にひどいことをしたかのようだった。しかし、これには真奈はまったく関係がない。幸江は怒りに任せて足を踏み鳴らした。「白井の父親が遼介に少しだけ恩があるから、あの子を気にしてるだけでしょ?じゃなきゃ、遼介が彼女のことなんて気にかけるわけないわよ!」真奈は気にしないと言いながらも、視線は黒澤と白井に向けていた。白井は黒澤の腕に触れようとしたが、黒澤は表情ひとつ変えず、さりげなく身を引いてそれを避けた。 白井は目を伏せた。「私に触れるの、そんなに嫌なの……?」「俺は、白井裕一郎にお前の後半生を安泰に過ごさせると約束した。だが、もしお前がそれをいいことに俺の限界を試し続けるつもりなら、その約束を破ることだってできる」白井ははっと息を呑んだ。黒澤が、外でどんな評判を持っている男なのかを、彼女は知っていた。かつて父親が生きていたころ、面倒な相手の処理を何度も黒澤に任せていたことも。黒澤は誰よりもルールを守らない男であり、約束を絶対とはしない人間なのだ。白井は分かっていた。黒澤は、本当にそういうことをする男だ。その瞬間、彼にすがりつこうとする気持ちは一気に冷めていった。「智彦、白井さんを送ってくれ」伊藤は戸惑った。「送る?どこに?」黒澤は伊藤を一瞥した。その一瞬で、伊藤はすべてを察した。「国外に?それはムリだって!」白井が眉をひそめ、伊藤が何か言おうとしたその時、白井が恥ずかしそうに目を伏せ、口を開いた。「わ、私……国外の家、売ってしまったの……」「白井家には家は一つだけじゃない。残るための口実を作る必要はない」黒澤の目はますます冷たくなった。その冷たさに気づいた白井は、唇を噛みながら言った。「私……海城で頑張りたいの」白井は黙って、真奈の続きを待った。白井は言っ