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第9話

Auteur: いくの夏花
遥香は指先を震わせ、無意識に唇の内側を噛んだ。

――痛みは正気を保たせてくれる。

「私たちはもう別れたわ」

――今の修矢に、遥香のことに口を挟む権利があるのだろうか?

義弟として?

その呼び名を思い浮かべるだけで、遥香の胸は刺すような痛みを覚える。

修矢は突然遥香の手首を強く掴み、階段の隅へと追い詰めた。

「遥香、わざわざ言わなくても分かってる。

でも別れたからって、君を傷つけるような真似はさせない……」

修矢は言葉を切り、一瞬口ごもった。

「家族を傷つけるような真似はさせない。あいつは正気の人間じゃない。君一人だけの問題では済まないんだ」

遥香は目を伏せ、自嘲の笑みを浮かべる。

今の言葉を聞いた瞬間悟った。――自分は一体何を期待していたのだろう?

3年も経って、もうとっくに分かってたはずなのに。

「ははっ、家族?ねえ修矢、川崎家の誰が私を家族として見てくれてた?」

修矢は言葉を失った。

遥香は力いっぱい手を振りほどき、手首には赤い痣が浮かぶ。

「それに、この前鴨下家に関わることで、私はあなたに助けを求めたわ」

――助けを断ったのは、あなた自身じゃないの。

遥香は階段室を後にした。その背中には決意と冷ややかな雰囲気が宿っていた。

修矢は遥香の言葉を全て理解できなかったが、この瞬間、何か大切なものが自分の指先から滑り落ちていくのを感じていた。

彼は手の平を見つめた。そこにはまだ、遥香の身体にいつも纏っている淡い金木犀の香りが残っていた。

そしてようやく気づいた――さっき自分は取り乱していたのだ、と。

階段の外では、保が「おとなしく留守番してたぞ」とでも言いたげに待ち構えていた。

屋内でタバコが吸えないので、代わりに棒付きキャンディーを咥えながら、

「どうだった?難癖つけられたの?」

「大丈夫よ。行きましょ」

二人は並んで、取引先の社長のところへ向かった。

修矢は遠くからその様子を見て、一目で悟る。――あの連中は美術素材の超大手で、ハレ・アンティークはおそらく鴨下の仕事を受注したのだろう。

だが、あの家は保も含めて全員泥沼に沈んでいるのに、遥香まで巻き込もうとするとは。

それにしても……さっき遥香は「助けを求めた」と言っていたが、あれはどういう意味だ?

その時、後ろから柚香が甘えた声で近づいてきた。「お姉ちゃんとあの人、すごく仲が良さそうだね。もしかして付き合ってるのかな?でも修矢たち別れたばっかり……」

修矢はその言葉を遮った。「おじさんたちが丸井先生を紹介してくれるんだろう?早く行っておいで」

その声は穏やかではあるが、柚香にはひどくよそよそしく感じられた。

修矢はパーティー会場を離れると、すぐに部下に今日の遥香の動向を調べさせた。

「田中社長、渡辺社長、ご無沙汰しております!」保は軽快な口調で業界の大物たちと談笑した。

社長たちの視線は自然と遥香に集まる。

保はとにかく派手好きで有名だが、今夜の同伴女性は控えめで、穏やかな雰囲気を纏っている。

「保くん、また新しいカノジョか?なかなか清楚で、上品で、いいじゃないか。

まあ、今までの女よりは、色気が足りんがこれはこれで新鮮だな、ハハハ!」

遥香は薄く眉を動かし、冷たい声で遮った。「誤解されているようですが、私は保さんの恋人ではありません」

その一言に、社長たちは顔を引きつらせた。

保が慌てて場を取り繕う。「おいおい遥香、社長たちの話は冗談だから。君はとにかく真面目すぎる」

「……皆様に改めてご紹介いたします。こちらはハレ・アンティークの彫刻アーティストで、今回の母型制作を担当される川崎遥香さんです」

「例の北極狐も、彼女の作品です」

その言葉を聞いて、社長たちの態度は一変した――あの北極狐を彫ったアーティストだと?

「いやはや、川崎さん。これは失礼いたしました。本当に見事な腕前ですね。

川崎さんの気品が北極狐の彫刻に乗り移ったようだったよ」

「お褒めに預かり恐縮です」遥香は淡々と答えた。「社長方がどのようなスタイルを好まれるか、詳しく存じ上げませんので、希望のデザインを遠慮なくお書きください。可能な限り形にしてご覧に入れます」

これを聞いて、社長たちは次々に頷き、期待を寄せて大喜びした。

他の職人たちは、あれは無理、これは無理、と難癖ばかりつけていた。それが今回、どんなリクエストでも受け付ける人物が現れたのだ。その実力は本物に違いないだろう。

保は、あっという間に社長たちの心を掴んだ遥香に心の中で親指を立てた――さすがだな。

打ち合わせ後、遥香は注文書を受け取った後、席を立った。

保はまだ挨拶が残っており、遥香は一人でその場を離れた。

「保くん、川崎さんはなかなか面白い人だね」

保は遥香の背中を見送りながら言った。「面白いどころかかなり強気です。値段も強気。この前の北極狐で僕から20億巻き上げたんですから。

でも、僕は皆様に一流の職人を紹介すべく、惜しまず投資したわけです。次に横浜で良い案件があれば、僕にも必ず声をかけてくださいよ」

社長たちは満面の笑みで答えた。「もちろんだよ。いい話があれば、保君の取り分は抜かりなく用意するから」

華やかなシャンデリアの下で、

遥香はただ心身ともに疲労困憊だった。誘拐、商談、修矢との言い争い――すべてが遥香の神経をすり減らした。

「お姉ちゃん!」

柚香が駆け寄り、遥香の手を取った。

「お姉ちゃん、パパとママがね、必死に繋いでくれた書画界の巨匠を今日ここに呼んでくれたんだよ。せっかくだから一緒に挨拶に行こうよ!」

「私、行かない」

遥香はきっぱりと断った。――今はただひたすら休みたい。これ以上、川崎家の「家族愛劇場」なんて見たくもなかった。

はたから見れば、これは柚香の好意に見えたかもしれない。

だが、こうした「好意」は、何度も突き落とされる地獄の始まりなのだ。

落とされたあげくにバキバキに折れてしまった体は、何日も何週間もかけて修復せねばならない。

かつて、川崎の家族からいくら屈辱を受けたとしても、これまでは修矢という帰る場所があった。

だが今はどこにも居場所がない。もう、こんな傷つき方をする必要もない。

「行かないって言ったでしょ」

遥香は柚香の手を振り払った。柚香はそのまま転倒した。

周囲の視線が一斉に集まる。

母はすぐに駆け寄り、怒りに満ちた目で睨みつけた。「何てことするの!」

柚香は弱々しく取り繕う。「ママ、彼女を責めないで。『友達』にとってもいい機会だと思って誘っただけなの」

柚香はわざと「友達」という言葉を強調した。周囲に川崎家の本当の娘は遥香だということを知られたくないからだ。

遥香は争わなかった。肩書きなどもはや重荷でしかない。むしろ、ない方が気楽だ。

母の顔色はますます険しくなった。――柚香の親切心を踏みにじるなんて。恩を仇で返すなんて。どこまで恩知らずな娘なのか。

「柚香ちゃん、品もない人とは関わらない方がいいわ。

こんな人に本物とは何かなんて理解できるはずがない!」

その問い、背後から白髪の老人がゆっくりと歩み寄ってきた。

老人は遥香を見て、目を丸くした。

「……遥香?本当に遥香か?

年のせいで目がかすんでしまったのかと思ったよ」

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Commentaires (1)
goodnovel comment avatar
ひろこ
もう随分前なんですが手からすべりおちたのは
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