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第1112話

Author: 似水
「私もついて行くわ」

幸美はそう言って、舞子の後を追った。舞子は無言のまま、トイレの方へ向かって歩き出した。

トイレは広く、彼女は迷わず個室に入り、すぐにドアを閉めた。

幸美は洗面台の前で待っていたが、五分経っても舞子が出てこない。眉をひそめながら声をかけた。

「まだなの?舞子?」

中から、かすかに答えが返ってきた。

「ちょっとお腹の調子が悪いの……」

「大丈夫?」

「たいしたことないよ。すぐによくなると思う」

「わかったわ。外で待ってる」

VIPルームではないため、人の出入りが多く、幸美はわずかに顔をしかめた。

そんなとき、空港のスタッフが近づいてきて、スマホの画面を見せながら訊ねた。

「すみません、こちらに壊れたスーツケースがありますが、お心当たりは?」

写真を覗き込んだ幸美は、眉をひそめた。

「それ……私のです。どうして壊れたんですか?」

「わかりません。突然バラバラになってしまって……ご確認いただけますか?」

幸美はちらりとトイレの方を振り返った。少し心配だったが、そのスーツケースには重要な物が入っている。もしなくなれば、飛行機に乗れなくなるかもしれない。

「舞子、出てきたらすぐ私のところに戻ってきてね」

「うん、わかった」

舞子はそう返事をすると、幸美はトイレを後にした。

そして二分後、個室のドアが静かに開き、舞子がトイレから出てきた。

ちょうどそのタイミングで、搭乗アナウンスが流れた。舞子は一切の迷いも見せず、まっすぐ搭乗口の方へ向かった。

少し離れたところから、幸美が舞子を見つけた。

「舞子?あなたの荷物は?」

声をかけるが、舞子は手を軽く振って答えるだけだった。手に持った小さなバッグには、明らかに彼女の身分証明書類が入っている。

それらはスーツケースには入れてなかったはずじゃ……?

呆然としながら、もう一度顔を上げたときには、舞子はすでに搭乗口を通過していた。

その後ろ姿を見つめながら、なぜか胸の奥にざらりとした不安が残った。

なぜ、あの子は振り返りもしなかったの?

怒っていたのだろうか。それとも、もうすべてを諦めていたのか。

幸美は混乱したまま空港を後にした。

三十分後、ひとりの華奢な人影が、空港ロビーから静かに出てきた。外に停まっていた一台の車の後部座席に乗り込んだ。

「ふう」

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