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第588話

Author: 似水
里香は雅之に構う気などさらさらなく、足早に階段を上っていった。だが、雅之にとって彼女を追いかけるのは造作もないことだった。二つの階段を隔てた距離で、雅之は里香に話しかけ続けた。

「なぁ、僕を招待してくれるんだろ?ねぇ、招待してよ?」

「嫌だ」

「そっか、恩知らずめ。せっかくお前を山に連れてきて、綺麗な景色を見せてやったのに、僕にはごちそうの一つもなしだなんて」

「……」

「はぁ、朝まで見張って、おまけに朝ごはんまで作ってやったのに、食べたらそれでおしまいかよ。まさか、お前がそんな冷たい女だとは思わなかったなぁ」

後ろから聞こえる彼の愚痴に、里香は眉間に皺を寄せた。

考えてみれば、雅之という男はいつもそうだ。自分が何を言おうと、聞く耳を持たず、好き勝手に振る舞う。ならば、自分も好きにすればいいだけのこと。そう思うと、少し心が落ち着いてきた。彼がどれだけ話しかけてきても、里香は一切表情を変えなかった。

今日は平日だったせいか、山を登る人はまばらだったが、それでもたまに登山客とすれ違う。

ふと、後ろから追い抜いてきたおじいさんが、息を切らしながら里香の前に立ち止まった。

「お嬢さん、旦那さんがずーっと喋り続けてるけど、なんとかしてくれないかねぇ。お嬢さんはいいかもしれないが、こっちはうるさくてたまらんよ!」

その言葉に、里香は絶句し、頬をほんのり赤く染めた。後ろで聞いていた雅之はくすっと笑いながら、里香の服の裾を掴んで引っ張った。

「奥さん、僕を家に連れて行ってくれるよね?ねぇ、ねぇってば?」

「もういい加減にして!」

ついに振り返った里香は、頬を真っ赤にしながら叫んだ。それがさっきのおじいさんの一言のせいなのか、それとも雅之のしつこさのせいなのか、自分でもよくわからなかった。

「本当にやめて!鬱陶しい!」

雅之は少し眉を上げると、平然とした表情で言った。「僕はただ、君の料理が食べたいだけさ。それってそんなに無理なお願いか?」

「そうよ、無理。あんたなんかのために料理なんて作りたくない!」

思わず口をついて出た言葉だったが、自分でも驚くくらい冷たかった。

そのまま振り返りもせず、里香は黙々と階段を上り続けた。雅之は表情を少し曇らせ、感情を抑え込むように目を伏せると歩き出した。

駄々じゃ通じないか。やっぱりあの手を使うしかない……何し
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Comments (1)
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YOKO
ウケる。二宮家意地悪父後妻が話してた雅之の幼少期の性格話てこれか⁈
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