ANMELDEN最終的に、その蓮華は一億八千万円で別の参加者に落札された。ハンマーの音が響いた瞬間、臣は膝の上でギリッと拳を握りしめた。宝生会長の目に留まらなかった。つまり、彼らの今回の目的は完全に失敗に終わったのだ。その後に続いたいくつかの品目でも、宝生会長は一度もパドルを挙げることはなく、すべて他の参加者たちの手に渡っていった。そして、ついに琉里の出品する番がやってきた。コンパニオンが恭しく運んできたのは、細長い桐箱だった。中に入っていたのは一幅の掛け軸。そして非常に特殊なことに、そこに描かれていたのは仏陀の姿だった。スクリーンにその仏画が大写しになった瞬間、宝生会長の指がピクッと動き、無意識にテーブルをトントンと叩き始めた。琉里の口角がゆっくりと上がる。彼女が用意したこの絵は、ただの仏画ではない。宝生会長なら、一目でその仕掛けに気づいたはずだ。一方で、水琴はその絵を食い入るように見つめ、思わず息を呑んだ。琉里さん……いくらなんでも大胆すぎるわ。水琴はすぐに気づいていた。その仏画に描かれている仏陀の顔が、他でもない宝生会長の顔に酷似して描かれていることに。当然ながら、他の参加者たちは誰もパドルを挙げようとしなかった。誰の目にも明らかだ。この絵は琉里が宝生会長のためだけに特注したものであり、ここで競り落とすことは、飛ぶ鳥を落とす勢いの音羽家、そして何より宝生会長の顔に泥を塗る行為に他ならない。水琴がちらりと横目で灼也を見ると、彼の目にも水琴と同じように驚きの色が浮かんでいた。これほどまでに奇抜で恐れ知らずなアイディアは、確かに琉里らしいといえば琉里らしい。だが、彼女はこの盤面で決定的な悪手を打った。仏教を深く信仰する者にとって、仏とは最も尊く、決して冒涜してはならない存在である。みだりに仏陀の顔を書き換えるなど、言語道断だ。しかも、よりによって宝生会長自身の顔を仏にすげ替えるなんて。それは宝生会長を持ち上げるどころか、彼を仏への冒涜という深い罪の淵へ突き落とすに等しい行為だった。オークションの開始が宣言された。だが、誰一人としてパドルを挙げる者はいない。予想外の展開に、琉里の顔に焦りの色が浮かんだ。彼女は縋るような目で宝生会長の横顔を見つめる。どうして?当然、真っ先に会長が落札して
紗夜は臣の腕にベッタリと絡みつきながら、これ見よがしに会場へ足を踏み入れた。有名デザイナーのオートクチュールであろう、ふんわりとしたピンクのチュールドレスに身を包んでいる。彼女はこれ見よがしに、まだ目立たないお腹へとそっと手を当てた。鷹司家の初孫を宿しているという、彼女にとっての最強の盾。水琴に向けるその視線には、明らかな優越感と挑発の色が滲んでいた。「久しぶりね、水琴さん」まるで、かつて水琴を陥れようとした数々の悪行など無かったかのように。紗夜は親しい友人にでも語りかけるような、猫撫で声で微笑みかけてきた。しかし、水琴は冷ややかな一瞥をくれただけで、一言も返すことなく重人と共に着席した。静沢家が案内されたのは、ステージの真ん前――最上座に位置するメインテーブルである。静沢家の権力はトップである高遠家には及ばないものの、臣の鷹司家ごときが座れるような席では決してないのだ。席に落ち着いた途端、エントランス付近で大きなどよめきが起きた。待機していたメディアのカメラマンたちが、獲物を見つけたハイエナのように一斉にフラッシュを焚き始める。眩い光の中心にいたのは――灼也と、琉里だった。最近メディアを騒がせている、財界トップ同士の熱愛疑惑。記者たちがこの絶好のシャッターチャンスを逃すはずもない。そして最悪なことに、灼也と琉里が案内されたのもメインテーブルであり、あろうことか水琴たちの真正面の席だった。「水琴さん、ごきげんよう」優雅に腰を下ろしながら、琉里が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。水琴は表情を崩さず、ふわりと口角だけを上げた。「琉里さんこそ。今日は随分と……楽しそうですね」「ええ、当然でしょう?本日は宝生会長の米寿のお祝いですもの。こんなに賑やかな素晴らしい日なんだから、気分も高揚するというものだわ」琉里の言葉の裏には、隠しきれない野心が透けて見えた。彼女には、絶対の自信があったのだ。今回のオークションのために、海外のルートを駆使して極上の骨董品をわざわざ取り寄せたのだから。これを宝生会長に献上し、確固たる好印象を植え付ければ、翡翠島の利権は音羽グループのものになる――そう確信している顔だった。……っ。水琴は伏し目がちに視線を落とし、膝の上でギュッと拳を握りしめた。目の
鹿耶は彼を直視できず、スッと目を伏せた。「……私たち、何もなかったことにしましょう。あれは全部、ただの誤解だったのよ……」七緒は鼻で冷たく笑い飛ばした。「誤解?アレが誤解だと?……本気でオレを怒らせたいんスか」鹿耶は呆れて言葉を失った。何よそれ。三流のオレ様社長ドラマの真似事?「ちょっと。演技が過剰よ」七緒は氷のような声で言い放つ。「とっととあいつと別れてこい。あの夜のこと、オレは隅から隅までハッキリ覚えてる。きっちり責任、取ってもらうッスよ!」鹿耶はポカンと七緒の顔を見つめ、やがて静かに、だがキッパリと問い返した。「……それで?あんたは結局、何がしたいの?ただ私に彼と別れさせたいだけ?」「……」真っ直ぐに射抜くような鹿耶の瞳に見つめられ、七緒は咄嗟に言葉に詰まってしまった。オレは……当然、ただ別れさせたいだけじゃない。「オレと付き合ってみないか」と、そう言いたかったはずだ。なのに、どうして喉の奥で言葉がつっかえるのか。鹿耶はさらに追及する。「私と付き合いたいの?私のことが好きなの?それとも……ただヤッちゃったから、義理で責任を負うフリをしてるだけ?」七緒は押し黙ったままだった。自分でも、この感情の正体が何なのか、完全に理解しきれていなかったのだ。鹿耶は落胆したように目を逸らし、彼の手をパシッと振り払った。「……疲れたから、もう休むわ」振り返ることなく、エントランスの奥へと消えていく。残された七緒は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。あんなにも衝動的に彼女を追いかけてきたというのに、いざ真正面から向き合うと、情けないほどに躊躇ってしまったのだ。運命の行く手を阻むのは、タイミングの悪さなどではない。いつだって自分自身の躊躇いなのだ――チャリティーオークションを翌日に控えた夜。水琴は、重人の帰宅をリビングで待ち構えていた。「重人お兄ちゃん。明日のオークション、私も連れて行って」その言葉に、重人は目を丸くした。これまで水琴が、静沢家のビジネスに自ら関わろうとしたことなど一度もなかったからだ。「ああ、いいとも。ちょうど出品する品を何にするか、頭を抱えていたところなんだ。一緒に考えてくれるかい?」驚きつつも、重人は嬉しそうに微笑んだ。
「待って!」男が器に口をつけようとした瞬間、異変を察知した鹿耶が止めた。彼女は自分の箸を取り上げ、そのスープの表面をちょんとすくって、そっと舐めてみる。「……しょっぱぁっ!?」鹿耶は悲鳴を上げ、慌ててグラスの水をガブ飲みした。そして、バンッ!とテーブルに箸を叩きつける。「ミコト!七緒くんのやつ、いくらなんでも最低よ!!」怒り心頭の鹿耶を見て、水琴は吹き出しそうになるのを必死に堪えながら男に告げた。「……ごめんなさい、もう飲まなくていいわ」その後、テーブルには次々と料理が運ばれてきたが、七緒は終始、鉄仮面のような完璧な営業スマイルを張り付けたまま、淡々と給仕をこなすだけだった。先ほどまでの感情の爆発が嘘のように、何一つ波風を立てることはなかった。帰りの車内。鹿耶の瞳には、言葉にできないほどの落胆と寂しさが滲んでいた。「ほらね、私の言った通りじゃない。あいつ、私のことなんか好きでもなんでもないのよ」ヤキモチを妬いたんじゃなくて、ただの腹いせであんな子供じみた嫌がらせをしただけなんだわ……すっかりしおれてしまった鹿耶に、水琴は優しく声をかける。「そう焦らないで。……たぶん彼はまだ、自分の気持ちの整理がついていないだけよ。それか、あまりにもショックが大きすぎて思考停止しちゃったのかもね」鹿耶は心ここにあらずといった様子で帰宅した。シャワーを浴びてベッドに潜り込んでも、頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、あの夜のバーでの出来事ばかり。スマホの画面に目をやると、時刻はすでに午後十一時を回っていた。目を閉じて無理にでも眠りにつこうとしたその瞬間――不意に、着信音が部屋の静寂を切り裂いた。画面に表示された名前に、心臓が跳ねる。思わずスマホを取り落としそうになった。『坂本七緒』慌てて電話に出ようとしたが、焦りのあまり指先が滑り、あろうことか【通話終了】のアイコンをタップしてしまった。ツーツーという無機質な電子音に、ヒュッと息を呑む。だが直後、再び着信音が鳴り響いた。今度は慎重に、恐る恐る通話ボタンをスライドさせる。「……何してたんスか」「な、何も……別に、何もしてないわよ」電話越しの声は、いつになく焦燥に駆られ、切羽詰まっているように聞こえた。「……下、降りてきてくださいッ
その瞳の奥に揺れる微かな寂しさを見逃すほど、水琴の目は節穴ではない。スッと彼女の手に自分の手を重ね、真剣な眼差しで告げた。「試してみましょうか」「試すって?何を?」「彼が本当に、あなたのことをどう思っているか」優しく、けれど不思議な説得力を持つ声色。「えっ?」水琴はスマートフォンを取り出すと、保存していた音声ファイルを再生した。『……鹿耶ぁ……美味しくいただいといて……責任、取らないなんて……』スピーカーから漏れ出したのは、酔い潰れた七緒の情けないうわ言だった。「昨日、灼也から送られてきたの。もし、あなたにほんの少しでもその気があるなら……確かめてみない?」鹿耶の頬が、ぽっと淡い朱色に染まる。「……じゃあ、ちょっとだけ」夕暮れ時。水琴は七緒の携帯へ電話をかけた。「七緒さん?今夜、トレジャーホテルで友人二人と食事をしたいのだけれど……お時間、いただけるかしら?」これほどの見せ場に、肝心の主役が不在では話にならない。夜七時半。水琴と鹿耶が時間通りにホテルのレストランへ足を踏み入れると、出迎えた七緒はピタリと動きを止めた。水琴の言う『友人』がまさか鹿耶だとは、夢にも思っていなかったのだろう。案内したテーブルにメニューを置こうとしたその時。鹿耶が弾かれたようにエントランスの方へ振り返り、パァッと嬉しそうな顔で手を振った。「こっちよ!」水琴はクスリと微笑み、固まっている七緒へ向けて優雅に説明した。「彼女の彼氏さんなの」メニューを握る七緒の手が、ピクリと震えた。営業用のスマイルがスッと顔から消え失せる。呆然と視線を向けた先では、見知らぬ男が歩み寄り、鹿耶がごく自然な動作でその腕にそっと手を絡ませていた。どこからどう見ても、親密でラブラブな恋人同士だ。彼氏……?鹿耶に、恋人が……?胸の奥が、ギリッと音を立てて軋んだ。胃の腑から酸っぱいものが込み上げてくるような、これまでの人生で味わったことのないドロドロとした感情が全身を支配していく。もはや、料理を作る気分など完全に吹っ飛んでいた。水琴はゆっくりと、わざとらしく言葉を紡ぐ。「ええ。とっても素敵な方でしょう?七緒さん、オーダーをお願いね。今日はこのレストランが誇るトップシェフの料理をご馳走するって、
ソファの背もたれに深く寄りかかり、灼也は一人、赤ワインを口に含んだ。青白い月光が、彼の端正な横顔を照らし出す。その姿はまるで、生命力を持たない冷たい彫刻のようだった。――午前二時。果てしなく続いたやけ酒の宴が、ようやく終わりを迎えた。灼也は七緒を引きずり起こし、ゲストルームのベッドへ放り投げた。その時、七緒の口からボソボソと何かの呟きが漏れる。「……ん?なんだって?」耳を近づけてみると、その寝言ははっきりと形を成していた。「……鹿耶ぁ……美味しくいただいといて……責任、取らないなんて……ひどいッス……」灼也の口角が、ニヤリと吊り上がった。……なるほど。お前の『女の傷』は、小林のところの令嬢か。手持ちのスマートフォンを取り出し、録音アプリを起動する。そして、未練がましく鹿耶の名前を呼ぶ七緒のうわ言を、ちゃっかりとデータとして保存した。……東雲グループを束ねる宝生会長の米寿を祝うパーティーまで、残すところあと二日と迫っていた。宝生会長は「社会への還元」と称し、自身の誕生パーティーを大規模なチャリティーオークションの形式で開催すると発表した。招待客は自慢のコレクションを一点出品し、参加者全員で競り落とす。その落札額の全額が、慈善財団へ寄付されるという仕組みだ。言うまでもなく、この規格外のオークションは南鳥市の財界を巻き込む空前の大熱狂を引き起こした。何しろ、現在誰もが血眼になって狙っている『翡翠島』の利権は宝生会長の手の中にあり、彼自身もそろそろ島を手放す腹積もりだという噂が流れていたからだ。その盛大なオークションに着ていくドレスを見立てるため、水琴と鹿耶は高級ブティックで待ち合わせをしていた。だが、顔を合わせた瞬間から、鹿耶の様子がどうもおかしい。水琴はクスッと笑いながらからかった。「どうしたの?いつもなら、ショッピングの時は目をキラキラさせて飛び跳ねてるのに。今日はずいぶん大人しいじゃない」鹿耶は唇を尖らせた。「別に……なんでもないわよ」「あっそ。まあ、あなたが本当に何も悩んでないならいいけど。後になって『やっぱり聞いてよぉ!』って泣きついてきても、知らないからね」水琴がわざと冷たく突き放すフリをすると、鹿耶は目を真ん丸に見開き、慌てて水琴の腕にしがみついてきた。
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当







