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43.錦戸の狂犬

last update publish date: 2026-08-20 06:03:04

 グラスの中で溶けかけた氷が、からりと冷たい音を立てた。

 カウンターに両肘をついた蘭華は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、長い髪を指先でくるくると弄ぶ。

「でもさー。今のそんな立派な倫理観を持った理聖が、過去の自分がどんな人間だったか知ったら、目ん玉飛び出すだろうねぇ」

 まるで昔の面白話でも語るかのような気軽な口調だった。

「おい、蘭華……。余計なことを言うな」

「事実じゃん。あ、でもさ、その〝優しい〟ところだけは昔から全然変わってないかもね」

 蘭華は雄之助の警告など意に介さず、言葉を続けた。

「相手を絶対に苦しませないようにって、いつも的確に即死させてたもん。無駄な拷問とか一切しないでさ、一撃で確実に仕留めるの」

 彼女は右手の親指と人差し指を立てて拳銃の形を作ると、理聖の胸元へと真っ直ぐに向け、片目を瞑ってみせた。

「バーン、ってね」

 その無邪気な仕草と、血に濡れた事実のコントラストが、薄暗いバーの静寂に冷たい亀裂を走らせた。

 理聖は膝の上で組んでいた大きな手をかすかに震わせ、視線を深く揺らす。

「僕は……今まで、たくさん……人を殺していたのですか……?」

 自身の罪の深
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  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   43.錦戸の狂犬

     グラスの中で溶けかけた氷が、からりと冷たい音を立てた。 カウンターに両肘をついた蘭華は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、長い髪を指先でくるくると弄ぶ。「でもさー。今のそんな立派な倫理観を持った理聖が、過去の自分がどんな人間だったか知ったら、目ん玉飛び出すだろうねぇ」 まるで昔の面白話でも語るかのような気軽な口調だった。「おい、蘭華……。余計なことを言うな」「事実じゃん。あ、でもさ、その〝優しい〟ところだけは昔から全然変わってないかもね」 蘭華は雄之助の警告など意に介さず、言葉を続けた。「相手を絶対に苦しませないようにって、いつも的確に即死させてたもん。無駄な拷問とか一切しないでさ、一撃で確実に仕留めるの」 彼女は右手の親指と人差し指を立てて拳銃の形を作ると、理聖の胸元へと真っ直ぐに向け、片目を瞑ってみせた。「バーン、ってね」 その無邪気な仕草と、血に濡れた事実のコントラストが、薄暗いバーの静寂に冷たい亀裂を走らせた。 理聖は膝の上で組んでいた大きな手をかすかに震わせ、視線を深く揺らす。「僕は……今まで、たくさん……人を殺していたのですか……?」 自身の罪の深さを問うように絞り出した声に対し、蘭華は悪びれもなく深く頷いた。「うん。間違いなく天才だったよ。殺しの才能がとにかく並外れてた。まさに〝錦戸の狂犬〟って感じでさ。親分の命令には絶対従順で、どんなに危険で汚い仕事も淡々とこなしてたんだから」「大翔さんの……狂犬……?」 その言葉が耳に届いた瞬間、理聖の脳裏に激しい痛みが走った。 まるで白紙の記憶の底に眠っていた黒い鎖が、無理やり引きちぎられたかのような感覚だった。 鈍い頭痛と共に、暗い夜の路地、鉄の錆びたような濃厚な血の匂い、そして無表情のまま銃の引き金を引く自分自身の冷徹な影が、断片的な輪郭となって脳裏をかすめる。 理聖はたまらず右手を額に当て、苦しそうに深く俯いた。「そうそう。錦戸が命の恩人だからって、それはもう狂信的なほどの忠誠心だったよぉ。あんた、背中にすんごい刺青入れてるでしょ? あれも錦戸の趣味よ」 毎日の着替えのたびに鏡に映っていた、背中に広がる鮮やかな和彫り。なぜ自分がこのような刺青を背負っているのか疑問だったが、それすらも組織と養父の所有物である証だったのだ。「蘭華……もういい加減にしろ」 雄之助が怒

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   42.目には目を、歯には歯を

     雄之助は慣れた手つきでカウンターの丸椅子を引きながら、あっけらかんと笑う女性へ笑みを向けた。「久しぶりだな。今日はちょっと頼みがあって連れてきたんだ」 そう言って、雄之助は驚きで呆気に取られている和花へと向けて彼女を紹介する。「和花さん、こちらはうちの組も贔屓にしている武器商人の天霧蘭華だ。……こう見えて今年で34歳、実は俺や理聖さんよりも年上なんですよ」 「えっ……!? さ、34歳、なんですか?」 目の前にいるのは、あどけなさすら残る童顔に、小柄な体躯の女性だ。自分より年下の今どきのギャルにしか見えず、和花は思わず目を丸くした。  そんな反応に慣れているのか、蘭華は楽しそうにピースサインを作ってみせる。「そうそう。裏稼業だし、定期的に顔いじってるからねー」 けろりと言ってのける蘭華は、そこでふと視線を雄之助の隣に立つ長身の青年へと移し、不思議そうに小首を傾げた。「つーか、あんたもしかして理聖? なんか昔と雰囲気違くない?」 かつて深凪組の若頭として、雄之助と共にこのバーを利用していた常連客の顔を、蘭華は即座に見抜いていた。言葉に詰まる理聖に代わり、雄之助が溜息まじりに説明する。「前に同じ組の者に川に落とされてな。奇跡的に命は助かったんだが……頭の怪我が原因で、いま記憶喪失になってるんだよ」 「まじで!? 記憶なくすとか、お酒の飲み過ぎ以外でも本当にあるんだー!」 重い裏社会の事情を笑い飛ばす蘭華に、雄之助が「おい、蘭華失礼だぞ!」とすかさずツッコミを入れる。  軽快なやり取りに、緊張で固まっていた和花の肩の力が少しだけ抜けた。「僕は過去の記憶がないのですが……以前はお世話になっていたようですね」 理聖が丁寧な所作で頭を下げ、隣に寄り添う和花へと優しく手を示した。「こちらは僕の恋人の、佐伯和花さんです。僕を助けてくれた恩人であり……実家で古武術を極められた、とても強くて頼もしい方なんですよ」 「へえー! 古武術なんだ、格好いいじゃん!」 蘭華は興味深そうに和花を見つめると、手際よくシェイカーを振り、美しいグラデーションを描く3つのカクテルを差し出した。「ほい、アタシからのサービス。……んで、今日は何の用で来たの?」 グラスを手に取りながら、理聖と雄之助はここへ来た目的を語り始めた。

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   41.地下の武器商人

     季節は静かに巡り、本格的な夏の訪れを告げる7月を迎えていた。  陽差しが日に日に強さを増す中、アパートのリビングのローテーブルには、美しく活けた白と薄紫のトルコキキョウが、涼しげな彩りを添えている。幾重にも重なるフリルのような花びらが、エアコンの風を受けて穏やかに揺れていた。 そのテーブルを囲むように並んだ三人分のグラスには、氷がからりと音を立てる冷たい緑茶が注がれている。  そして小皿の上には、笹の葉の上で涼しげに透き通るぷるぷるとした水まんじゅうが置かれていた。「んっ……すごく冷たくて美味しいです! 中のこし餡も上品な甘さで、いくらでも食べられそう。雄之助さん、わざわざ素敵な手土産をありがとうございます」 和花が幸せそうに頬を緩めると、向かいの座布団に腰を下ろしていた雄之助は、目を細めて嬉しそうに笑った。「喜んでもらえて何よりですよ! 駅前で見かけて、和花さんと若頭にちょうどいいかなって思ったんです」 「ええ。とても風味の良いお菓子ですね。いつも気を配ってくれて感謝しますよ、雄之助くん」 隣で同じように水まんじゅうを味わっていた理聖も、穏やかな笑みを浮かべて部下への謝意を口にする。  だが、冷たい緑茶で喉を潤した直後、雄之助の表情からいつものおちゃらけた空気がすっと消え去った。「――それで、今日お邪魔した本題なんですけど」 雄之助の真剣な声色に、和花と理聖も姿勢を正す。「以前の港での誘拐事件以来、榊原派の方に目立った動きは今のところありません。……というより、最近の裏社会は時代の流れもあって、昔みたいな派手なドンパチはそう簡単にはできないんですよ」 雄之助はグラスの表面についた水滴を指先で拭いながら、組織を取り巻く厳しい裏の現状を語り始めた。「警察の警戒がかなり強まってるんです。うちの組だけじゃなく抗争中の不破組の奴らも、殺人ですでに何人かパクられてる。組長も、いま表立って騒ぎを起こすのは得策じゃないと睨んでます」 「……つまり、相手もおいそれとは大きな襲撃を仕掛けられない状態、ということですか」 理聖の言葉に、雄之助は眉を寄せて首を横に振った。「逆です、若頭。……あいつが何も仕掛けてこないはずがない。榊原は、組の中でも誰より狡猾で底意地の悪い男です」 雄之助の言葉に、リビングの温度が少しだけ下がったような緊迫感

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   40.私の居場所

     射撃場を後にした理聖は、通り沿いにある小さなカフェのテラス席で、冷めたブラックコーヒーのカップを傾けていた。  傾きかけた太陽が街路樹の葉をオレンジ色に染め上げ、夕暮れが少しずつ街を包み込み始めている。 手元の時計に視線を落としたその時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが短く震えた。画面に表示されたのは、待ちわびていた和花の名前だった。「もしもし、和花さん? お疲れさまです」 通話ボタンを押して耳に当てた瞬間、電話の向こうからかすれるような声が聞こえてきた。『……終わりました。いま、どこにいますか?』 「近くのカフェにいますよ。すぐそちらへ向かいますので、少々待って――」 『いえ、大丈夫です。こっちから向かいますね』 一方的に告げられ、返事を待つことなくブツリと通話が切断される。  耳元に残る無機質な電子音を聞きながら、理聖の瞳から瞬時にして穏やかな温度が消えた。いつも明るく朗らかな彼女の声に、隠しきれない動揺が滲んでいたからだ。  理聖はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、席を蹴るように立ち上がった。 店を出て、彼女の実家がある方向へ向かって早足で歩き出す。  白壁の屋敷へと続く静かな一本道の中腹で、俯きながら歩いてくる和花の姿を見つけた。「和花さん!」 声をかけると、和花は弾かれたように顔を上げ、次の瞬間、まるで迷子だった子供が親を見つけたかのような勢いで駆け寄ってきた。「理聖さん……っ!」 トンッ、と胸元に華奢な身体がぶつかり、和花の細い両腕が理聖の腰へ強く巻き付く。その身体は小刻みに震えていた。  理聖は驚きながらも、すぐさま背中に両腕を回して優しく抱き締め返す。胸に押し当てられた彼女の額から、熱い息遣いと深い悲しみが伝わってきた。「……何かありましたか?」 髪を撫でながら低い声で問いかけると、和花は理聖の胸元に顔を埋めたまま、必死に首を横に振った。「……いえ、何も。ちょっと昔のこととか、色々思い出しちゃっただけです。さあ、早く帰りましょう」 強がるような声とともに身体を離した和花は、無理に作った小さな笑顔を浮かべると、理聖の大きな手をきゅっと握りしめて駅の方へと歩き出した。  言葉の裏にある嘘や隠し事など、理聖の鋭い観察眼には痛いほど見透かせていた。  実家の道場で、彼女が

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   39.最後通告

     射撃場で驚愕の視線が交錯していた頃、静まり返った佐伯家の第二道場では、耳を疑うような言葉の余韻が重く横たわっていた。 畳の上に佇む一花の着物の裾が、微かな風に揺れる。 普段はのんびりとした京都弁で場を和ませる母の顔から、温もりは完全に消え去っていた。 瞳の奥に宿っているのは、相手の底の底まで見透かすような冷徹さだけだ。「今はまだ、詳しくは話せへん。せやけど、和花ちゃん……。このままだと、あの人の記憶が戻った瞬間に殺されてしまうわよ」 あまりにも唐突で不吉な予言に、和花はショックで固まっていた身体をなんとか動かし、口を開いた。「ちょ、ちょっと落ち着いてよ……! 突然そんなこと言われても困るし、意味がわからないよ」「匂うのよ。あの人からは、濃い死臭がするんよ」 一花は一歩だけ和花へと近づき、その双肩を射抜くように真っ直ぐに見つめた。「和花ちゃん。あなたも本当は、あの人の正体がわかっとるんやろ?」「……っ!」 図星を指された心臓が、痛いほど大きく跳ねる。 ――彼がただの一般人ではなく、裏社会で生きていた人間であることは、とっくに知っている。 それでも、和花は震える声を絞り出して母を見返した。「お母さんは……理聖さんが何者なのか、知ってるの?」「ええ。雰囲気でわかるわ」「ふ、雰囲気でって……! そんなの、はっきりとはわからないってことじゃない」 和花の知っている理聖は、誰よりも誠実で、優しくて、和花のことを大切に愛してくれている。「たった一度しか会ったことがないのに、理聖さんのことをそんな風に悪く言わないでよ! 彼は花屋の仕事だって一生懸命頑張ってるし、私のことも絶対に傷つけたりしないよ!」 愛する恋人を守りたい一心で叫んだ和花に対し、一花は少しも表情を崩さなかった。そして、宣告するように事実を突きつける。「和花ちゃん。あの男は――〝裏社会〟に精通しとる人間やわ」「…………!」 明確な言葉で断言され、和花の呼吸が止まった。(どうして……? どうして、お母さんがそんなことまで知ってるの……?) ただ雰囲気を見ただけで、人の本質や隠された過去の背景まで正確に言い当てられるものなのだろうか。 和花の脳裏に、両親が突然アパートを訪ねてきた時の異様な光景が蘇る。 玄関のドアを開け、理聖の姿を認めた瞬間――源蔵と一花から放たれたの

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   38.別れなさい

     午後。 第二道場では、柔術と護身術を中心とした稽古が繰り広げられていた。 畳敷きの広い道場内に、重い胴着が擦れ合う音と、受け身を取った際の低い衝撃音が絶え間なく響き渡る。 和花にとって、柔術は剣術以上に得意とする分野だった。 幼い頃から佐伯家の娘として何より優先して叩き込まれてきたのは、いかなる危機に直面しても生きて帰るための護身術だったからだ。 その洗練された技のキレに、見取り稽古をしていた門下生たちから思わず感嘆の吐息が漏れていた。 だが、相手を務める源蔵の表情だけはかつてないほど険しかった。(確かに和花の技術は卓越している。だが……あの男と同棲している事実を考えれば、この程度の護身術では決して足りない) いつ刃を向けられても不思議ではない環境で生き抜くには、和花の技はまだ優しすぎた。「甘いっ!」 源蔵の鋭い気合いと同時に、目にも留まらぬ速さで崩し技が放たれた。 和花の体が容易く宙に浮き、数メートル後方へと凄まじい勢いで吹き飛ばされる。 畳を強く叩く鮮やかな受け身をとり、衝撃を殺して即座に膝を立てた和花だったが、息は乱れ、額からは汗が滴り落ちていた。 そんな娘を見下ろしながら、源蔵は小さくため息をつき、厳しい眼光を向けた。「……和花。そんなんじゃ、自分の身を守れないぞ」「え……?」 いつもなら「よく受け身を取った」と褒めてくれるはずの父の厳しい言葉に、和花は驚きで声を失った。 そのとき、道場の入り口から静かな足音が近づいてきた。 着物の裾を優雅に揺らして現れたのは、一花だった。「お母さん……?」 いつものふんわりとした笑顔は消え、一花の瞳には冷たく深い凄みが宿っていた。彼女は畳の上で立ち尽くす和花の前まで歩み寄ると、一切の迷いがない声で告げた。「和花ちゃん……理聖さんとは、別れなさい」「っ……!?」 思いもよらない絶縁の要求に、和花はショックに目を見張り、完全に凍りついてしまった。 同じ頃、佐伯家のお屋敷から少し離れた郊外の町外れ。 和花を待つ間、近くを散策していた理聖は、偶然目にした射撃場へと足を踏み入れていた。観光客や競技愛好家たちが集うその施設には、エアライフルやクレー射撃用の標的スペースが並んでいる。「……少し、試してみるか」 何気ない気持ちで銃を取り、標的に向けて静かに構える。 タァンッ! タ

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