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第一章:夢の色は蝶々結びで縛れない①

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-17 07:31:02

(――ッ!?)

 自室で文机に向かっていた時雨しぐれは、自分の領域が強力な何かに侵されたことに気づいて顔を上げた。その力の気配は時雨自身のものより遥かに強大だ。

「――さざなみ

 混乱を気取らせない低く落ち着いた声で、時雨は自分の右腕の名を呼ぶ。彼の声と共に小さな泡がぷくぷくと宙を泳ぐ。床の間ではカキツバタが緩やかな水の流れを受けて揺れていた。

「失礼いたします」

 障子が開き、チャコールグレーのスーツに白いスタンドカラーシャツを着た若い男が姿を見せた。その姿は淡く水の膜を帯びている。

「どうなさいましたか、時雨様。今しがたの件でしょうか」

 よく切れる刃のように冷静な漣の言葉に、時雨はそうだと頷いた。彼は言葉にしなくても自分の意を汲んでくれて助かる。

「お前も感じたか、漣」

「はい。あれだけの強大な力ともあれば、時雨様の眷属であれば誰もが感じ取れるでしょう」

 それもそうだな、と時雨は頷く。自分の眷属である水の精霊たちにはそのくらいの力はある。

「時雨様、あれをどうなさるおつもりですか。恐れながら、現在の時雨様ではあれだけの力の持ち主を祓うことは叶わないかと存じます」

 わかっている、と時雨は立ち上がると浅葱色の絽着物の裾を糺した。漣に指摘されずとも、自分自身の無力さは時雨自身が一番よくわかっているつもりだった。

「あれが悪きモノとも限らない。私が見てくるから、漣はこの屋敷と紅雨こううのことを頼む」

「お待ちください、時雨様。そのくらいのこと、私にお任せくだされば……」

 いや、と時雨は漣の言葉尻を制した。本来ならばそうすべきだということはわかっていた。だけど、今回ばかりは自分が行くべきだと時雨の直感が告げていた。

「――私が行く。行かなければならない気がするんだ」

 ですが、と漣は食い下がろうとする。それ以上言ってくれるな、と時雨は首を横に振った。漣は時雨の意思を汲める分、気を回しすぎる嫌いがある。

 すぐに戻る、と時雨は漣に背を向け、部屋を出ていった。時雨の薄藍の羽織の背中を見つめる漣はそれ以上、何も言わなかった。

 時雨が障子を閉めた音が伝播して水を揺らす。遠ざかる時雨の足音が静かに響いていた。

 時雨は沈んだ庭の石燈籠の間を抜け、早足で屋敷を出た。ちゃぽんと音を立て、頭上で水が揺れた。

 何かに急かされるようにして、彼は点々と続く川底の石の上に歩を進めていく。瞳と同じ青藍の組紐で結えた長いぬばたまの髪が揺れ、黒下駄の底が砂利を踏む音が響いた。遥か高い場所で揺蕩う川面は顔を覗かせ始めた月の光を柔らかく反射している。

 領域を侵した何者かの気配は川と川の境界にあった。時雨は墨江川すみえがわの方角へと足を向ける。川の中をオイカワやスズキが泳いですれ違っていった。

 時雨が猛川たけりがわの支流である墨江川すみえがわへと足を踏み入れると、古い水門の脚に引っかかるようにして、いささか古風な出立ちの少女が倒れていた。少女には意識がなく、青白い頬は朱色の水門と対照的だった。川藻がひらひらと少女の頬を撫でている。

(――彼女だ)

 時雨は心臓がどくんと鳴るのを感じた。強い力を発しているのは目の前の少女に他ならなかった。

 ただの人間ではない。けれども人の身である少女をこのままにすれば、遅からず命を落とすだろう。

 悪いモノには見えない。時雨は少女を一旦自分の眷属にすることを決断した。そうでもしなければ彼女はこのまま水死してしまう。

 時雨は少女の脇に膝を折ってしゃがみ込む。そして、彼は少女の額に手を触れると、低く落ち着いた声音で祝詞を唱え始めた。

「――清き流れの名の下に、此処に新たなる契りを結ばん。吾は此の水脈(みお)の主、水の祝福を汝に与えん」

 歌うようなその声は薄い水の膜となり、少女の身体を包んでいく。彼女の額に薄い水色の紋が浮かび、溶け込んでいった。

「……ん……」

 少女が身じろぎをした。気がついたか、と時雨が声をかけると、彼女はゆっくりと瞼を開いた。

「ここは……?」

「――ここは私の領域。猛川たけりがわ墨江川すみえがわの境界だ」

 少女が身体を起こすのを手伝ってやりながら、時雨は彼女の問いに答えた。そして、今度は時雨が問いを返す。

「――君は何者だ? 私の領域で何をしている?」

「わたしは、澄花……雨霧、澄花……。わたし、死のうと思って、岩停(いわぬみ)橋から身を投げて……」

 自殺? と時雨は眉を顰めた。澄花は十代後半の少女に見えるが、何がそれほど彼女を追い込んだのだろう。

「ところで……あなたは誰なんですか……?」

「――失礼した。君の名を訊く前に私が名乗るべきだったな。私は時雨。猛川たけりがわの水神だ」

「……水神、様……?」

 澄花の目が丸くなった。時雨はこれまで澄花が出会った男性の誰よりも美しい。人間ではなかったからなのかと思うと納得できる。

「それで、一体何があった? 君さえよければ聞かせて欲しい」

「――わたし、雨女なんです。今日もわたしのせいで修学旅行が中止になっちゃって」

 悲しげに澄花は目を伏せる。彼女は躊躇いがちに身の上を語り始めた。

「昔から、学校行事も家族旅行もわたしのせいでいつも雨ばかりで。皆、最初は雨女がいるから雨が降っても仕方ないねと笑っていたんです。だけど、あまりにも雨が続くうちに、皆わたしを冷ややかな目で見るようになっていきました。

 今日もそのせいで陰口を叩かれて、暴力を振るわれて。だけど、先生たちも含めて誰も庇ってなんてくれませんでした。皆わたしを疎ましく思っているから。わたしさえいなければ、って思っているから」

 彼女の声にはだんだんと涙の色が混ざりつつあった。湿り気を帯びた声で彼女は話を続ける。

「学校にわたしの居場所はありません。家族だって、本当のところはどう思っているか。

 わたしは皆と同じように普通に生きたかった。普通に友達と学生生活を送って、家族と笑い合って生きていたかった。でも……わたしのこの特殊な体質がそれを許してくれないんです。――わたしが雨女だから」

「――それは得難い貴重な力だ」

 思わず時雨は口を挟んだ。澄花が疎んじているのは雨催あまもよいの巫女の力だ。しかし、澄花は眦を吊り上げ、思わずといったふうに語気荒く反論する。その目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちていて、その雫のきらめきを綺麗だと時雨は思った。

「どこがですか!? こんなのわたしにとっては呪いと同じです。あなたに何がわかるんですか」

 わかっていないのは君の方だ、と時雨は青藍の双眸で澄花を見据えた。思わず澄花は涙が引っ込むのを感じた。時雨の双眸はどこまでも透き通っていて、澄花は吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。

「恥ずかしながら、私は水神としては無力だ。私では乾きからこの地を守り切ることはできない。君のその力は私にとって、喉から手が出るほど欲してやまないものなんだ」

「……」

「――澄花。私と取引をしないか?」

「取引き?」

「私と夫婦めおととなってくれないか。勿論、仮初の関係で構わない。望むものがあれば何だって与えるし、居場所が欲しいというのなら此処を居場所にすればいい。――私には君の力が必要なんだ」

「――え?」

 澄花は目を瞬いた。時雨は今何を口にしたのだろう。聞き間違いでなければ夫婦になって欲しいと言われた気がする。澄花は恐る恐る訊ねた。

「……あなたは、わたしを必要としてくれるんですか? こんなわたしを受け容れてくれるんですか?」

「――無論だ。我々水の神は嘘偽りは口にしない。水が穢れるからな」

 そう告げると、時雨はごつごつと骨ばった手を澄花へと差し出す。神秘的な中に混ざる男性的な色香に澄花の心臓はどくりと脈打った。

「――澄花。どうか私の手を取ってくれないか。何度でも言う。――私には君が必要だ」

 躊躇いがちに澄花は自身の右手を伸ばした。小さく白いその手を時雨は絡めとった。そして、時雨は誓いの言葉を口にする。

「――この水底にて、我は汝と神婚の契りを結ばん。この身に宿る水の理をもって、雨催あまもよいの巫女を伴侶と定め、天地あめつちを結ぶ絆を、ここに成さん。

 雨は空より降り、地を潤し、生命を繋ぐ。汝の祈りは我が理と重なり、結ばれし縁は、巡りゆく流れを変えん。

 此の契り続く限り、総ての生命に瑞雨は恵みをもたらさん」

 時雨の声は細く白い水の糸へと姿を変えていく。水の糸は絡め合った二人の手に纏わりつくと結び目を作った。それは二人の魂を契約によって結びつけるものだった。

 水の糸を通じて澄花と魂が繋がるのを感じて、時雨は歓喜で震えそうになった。彼女から漂う強い雨の匂いに酔ってしまいそうだった。

 これはこの地を守るために強いた仮初の関係だということを忘れてはならない。蝶々結びになった糸が水の中へ溶けていくのを見届けると、時雨は己に言い聞かせるかのように澄花に告げる。

「――澄花。私と君の結婚は成った。しかし、これは仮初の契約の関係だ。君が私を愛せずとも構わない。君が私にその力を貸してくれる限りは、何があっても君を守ろう」

 その言葉に嘘はないと澄花は感じた。彼はきっと自分を傷つけない。信じたいと思えるだけのものが時雨にはあった。

「そのままの格好では風邪をひく。私の屋敷に――君の家に案内しよう」

 時雨は優しい声でそう言うと、澄花をそっと立ち上がらせる。そして、時雨は澄花の手を引いて、屋敷の方へ踵を返した。澄花は抗うことなく、時雨に己を預けた。

――こうして、雨女と水神の結婚生活は幕を開けた。

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