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第一章:夢の色は蝶々結びで縛れない②

مؤلف: 七森香歌
last update تاريخ النشر: 2026-08-17 09:32:30

 かこん、と鹿おどしの音が鳴った。庭の所々に配置された岩は優しい色の苔に彩られ、水中なのに緑の世界にいるようだった。一歩歩くごとに小さなあぶくがふわふわと立ち上ってくる。

 鹿おどしの水が流れる先ではすっと伸びた茎の先にカキツバタが優美な紫色の花弁を揺らしている。月明かりが差し込んでくる水面は遥か頭上で、ここは本当に川の世界なのだと澄花に実感させた。

 石燈籠の間の飛び石の上を時雨に手を引かれて澄花が連れてこられたのは、堂々とした佇まいの見事な屋敷だった。わあ、と澄花は思わず息を漏らす。

 黒や燻銀の瓦が何層にも重なり合った重厚感溢れる瓦葺きの屋根。白い漆喰壁に黒茶に染め上げられた檜の柱。深い軒と庇が形作る陰影からは品格とこの屋敷が重ねてきた歴史の長さを感じさせた。

 がらららっと玄関の格子戸が開き、チャコールグレーのスーツに身を包んだ若い男性が姿を現した。ちょうどいい、と時雨は男性へと視線を向ける。

「澄花。紹介しよう。あれは私の右腕で……」

「――時雨様!!」

 時雨の言葉を語気鋭く遮ったのは漣だった。漣はつかつかと二人のそばへと歩み寄ってくると、開口一番に時雨を咎める言葉を口にした。

「時雨様、一体、どういうおつもりですか! また私に黙って眷属をお増やしになられましたね!」

「漣、落ち着いてくれ。彼女を助けるには私の眷属とする他なかったんだ」

「いえ、落ち着いてなどいられません! 見れば、出かけられた時と魂の有り様が変わられているご様子。それに、その娘は何なのですか!?」

「彼女は澄花。私の領域に入り込んだ者であり――雨催あまもよいの巫女だ。そして、私の妻でもある」

 な、と漣は言葉を失って固まった。一方の澄花も二人の会話の間で飛び交う聞き覚えのない単語に戸惑いを隠せなかった。

「眷属……? 雨催あまもよいの巫女って……?」

 はぁ、と漣は溜息をついた。己の主は穏やかで善良である一方、時々言葉足らずな嫌いがある。

「……時雨様。まさか、彼女に詳しいことを何も説明しておられないのですか……?」

「仕方がないだろう。あのまま放っておけば、澄花は死んでいた。それに出会ったばかりの傷ついた彼女に複雑な祭事の話をしたところで混乱するだけだろう?」

「時雨様。事情は理解しましたが、貴方は後でお説教です。心優しいのは美徳でいらっしゃいますが、度が過ぎればそれも欠点となり得ます」

「肝に銘じるよ。それより水鞠みずまりを呼んでくれ。澄花の世話をさせたい。紅雨のところからも水霜みずしもを借りてきて、澄花の部屋を用意させてくれ」

「――は。承知いたしました」

 納得いかなさげな表情を浮かべながらも、漣はこうべを垂れる。そして、土間に革靴を揃えて脱ぐと、漣は屋敷の中へ戻っていった。キィキィと時折家鳴りが響く。

 入りなさい、と時雨に促され、澄花は躊躇いがちに敷居を跨ぐ。彼女の足の動きに合わせて、水が波紋を描く。その様をまるで水の衣のようだと澄花は思った。

「……お邪魔します」

「それは適切ではないな。君は私の妻――この家の女主人だ。今日から此処は君の家になったんだ」

 お世話になります、と澄花は小さく呟く。いつか、自然とただいまと言えるようになる日が来るのだろうか。そんなことを思いながら、澄花は家の中へと上がり込む。

「――ようこそ、我が家へ。私は君を歓迎するよ」

 時雨は白皙の美貌の口元をふっと緩めた。澄花を見つめる青藍の瞳には優しい光が浮かんでいた。

 湯船に裸身を沈めると、澄花はふう、と息を吐いた。湯の温かさが冷え切った身体に染み渡っていく。澄花の視界では幾重もの水の膜が陽炎のように揺蕩っている。

(あ……いい匂い)

 うっすらと紫に色づいた湯からは甘く柔らかい花の香りがする。急にこの屋敷で暮らすことになった自分の気持ちをほぐすため、水鞠が心を砕いてくれたのだろう。

「奥様、お湯加減はいかがですか?」

 すりガラスの扉の向こう側で小柄な年嵩の女性の姿が揺れる。彼女は名を水鞠といい、時雨の指示で澄花の風呂と着替えの支度をしてくれていた。

「あ……その、丁度いい、です」

 ありがとうございます、と扉越しに澄花は水鞠に礼を言う。いえいえ、と水鞠が微笑んだ気配がした。

「奥様のお世話ができるのは光栄なことですから。――あ、そうそう、奥様のお召し物は私のほうでお洗濯しておきますね」

「いろいろご面倒をおかけしてすみません……」

「こういうときは、"ありがとう"ですよ、奥様。ところで、奥様は一人でお着物をお召しになれますか?」

「いえ……その、一人ではちょっと難しくて……」

「でしたら、上がられたらお手伝いさせていただきますね」

 ありがとうございます、と再び礼を言うと、澄花は浴室の天井を見上げた。洗ったままの髪が水の流れに誘われてふわりと広がる。

(……本当に、不思議)

 川の中のはずなのに苦しくはない。宙を水泡がシャボン玉のようにきらきらと揺蕩っている。幻想的でとても不思議な光景だった。

 思えば長い一日だった。朝、修学旅行に向かうために羽田空港へ赴いたけれど、台風で飛行機が飛ばなくなって。その後、家に帰るに帰れずに、岩停(いわぬみ)橋から川へと身を投げて。そして、猛川たけりがわと墨江川すみえがわの境界で時雨と出会い、仮初の夫婦としての契りを交わして。運命とは数奇なものだ。

 先ほど、時雨や漣が口にした"眷属"や"雨催あまもよいの巫女"といった言葉。これらについても後で改めて時雨が説明してくれるらしい。否、説明させると漣が言っていた。

 ふう、と澄花は息を吐いた。今は成り行きに身を任せる他ない。時雨も水鞠も悪い人ではない。漣も自分に向ける視線は厳しいが、悪意があるようには見えない。

(うん……大丈夫。少し、落ち着いたかも)

 湯の温もりと香りに包まれた時間が、ほんの少し澄花の心をほぐしてくれていた。あまり水鞠を待たせてはならないと、澄花は浴槽から出る。ざぷりと薄紫色の水面が揺れ、ほんの少しひんやりとした空気が裸身を撫でる。

 浴室内を満たす水がまるで生き物のように、するりと澄花の全身を包んだ。まるで水のカプセルに閉じ込められてしまったみたい。そんな感想が澄花の思考の隅を掠めていった。

「水鞠さん、そろそろ出ますね」

「替えのお下着をご用意してありますので、身につけられましたらお声がけくださいね」

 そう言うと、水鞠は脱衣所の衝立の向こう側へと姿を消した。澄花はすりガラスの扉をガラガラと開くと浴室から出て、水鞠が用意してくれたタオルで全身を拭う。そして、下着と足袋を身につけると、澄花は水鞠を呼んだ。

「それではお着物を着付けさせていただきますね。紅雨こうう様のものですので、奥様のお好みに合うかわかりませんが……」

「あの、水鞠さん。澄花でいいです。奥様って呼ばれるの、落ち着かなくて……」

「それでは、澄花様。こちらを着ていただけますか? ワンピースのように着てくださって大丈夫ですよ」

 水鞠に肌襦袢を渡され、澄花はそれに袖を通した。肌襦袢を着終えると、てきぱきと水鞠は無駄のない動作で澄花に長襦袢を着付けていく。

 衣紋を抜き、澄花の胸の下で水鞠は腰紐と伊達締めを締めた。横隔膜が押さえつけられ、呼吸が少し浅くなるが、少しだけ背筋がしゃんとするのを澄花は感じた。

 そして、慣れた手つきで水鞠は藤色に睡蓮の意匠の着物を澄花の背後から着せかせると、背中心と裾線を合わせていく。

 前幅を決め、下前を巻くと、はだけないようにまた腰紐で固定していく。あまりの工程の多さに澄花は目をまわしそうだった。

 水鞠は左右の身八つ口から手を入れ、おはしょりを整えていく。そして、再び腰紐と伊達締めで胸元を固定すると、クリームイエローの帯を取り出した。

「慣れないと少し苦しいかもしれませんけど、我慢なさってくださいね」

 そう言いながら、慣れた手つきで水鞠は澄花の胴に帯を二回巻き、蝶々結びにした。そして、彼女は帯の残りをきゅっと折りたたんで、結び目の裏に差し込んだ。柔らかな兵児帯が羽を広げ、儚げな少女の背中を控えめに彩っている。

「次はお髪ぐしを整えますね。時雨様にお目にかかるのですから、うんと可愛くしないと」

 水鞠は櫛で澄花の髪を梳ると、二本の三つ編みを作る。そのまま両の三つ編みを逆の耳元へと回してピンで固定すると、最後に白藤がしゃらしゃらと鳴る簪を右耳の上から差し込んだ。ひんやりとした金属が地肌の上を滑ると同時に、清楚で愛らしい意匠のそれを澄花は自分をここに繋ぎ止めるための楔のように感じた。

「――ほら、できましたよ」

 澄花は水鞠に手鏡を手渡され、そっとそれを覗き込む。反転した世界から、慣れない服装に身を包んだ不安げな少女がこちらを見つめ返していた。背後では淡く光る水泡がふわふわと宙を泳いでいる。

「いいですか、澄花様。笑顔はあなたを魅力的にする最強の魔法です。それを忘れないでくださいね」

 水鞠の言葉に背を押されて、澄花は笑顔を作ろうとする。しかし、口角を上げようとしても表情がまるで動かない。そんな澄花に大丈夫ですよ、と水鞠は優しく声をかけた。

「さて、時雨様がお待ちです。行きましょうか」

 こちらです、と水鞠は黒柿の板戸をすっと開ける。澄花は水鞠の後について脱衣所を出た。

 水鞠の手腕は完璧だ。しかし、澄花はまるで服に着られているような――どこか自分が噛み合っていない気がしてならなかった。

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