Masukほんわりと淡い光を放つ水泡が宙を漂いながら、廊下を照らしている。水鞠に先導され、澄花は雨戸の閉じた廊下を歩いていた。時折、板張りの床がキシキシと鳴る。
澄花の纏った着物の裾が僅かに水の抵抗を受け、足がいつもより重く感じられた。床の上に歩を進めるたび、水に逆らうような感覚がかすかに残る。
水鞠はある部屋の前に立つと、時雨様、と障子越しに声をかけた。
「澄花様をお連れいたしました」
入りなさい、と低い男性の声が静かに返ってくる。失礼します、と澄花は障子を開ける。
文机に向かっていた男性が澄花を振り返った。時雨だった。青藍の双眸は穏やかに凪いだ夜の水底を想起させた。
「待っていたよ、澄花。水鞠はもう下がりなさい。ご苦労だった」
それでは失礼いたします、と水鞠は一礼すると、時雨の部屋の障子を閉じて去っていった。
澄花は失礼にならない程度に、時雨の部屋へとそっと視線を巡らせる。
黒檀の床の間では、青磁の花瓶に庭に咲いていたカキツバタが活けられている。その後ろに飾られた掛け軸に描かれているのは龍だろうか。
イグサの優しい香りが立ち上る畳の縁は新橋色の観世水柄で彩られている。行燈の中では淡い光を纏った水泡がふわふわと泳いでいた。
床の間とは逆側の秘色色の漆喰の壁には飾り棚が設られている。飾り棚には青海波の意匠の藍鼠の香炉が置かれており煙を燻らせている。煙からは雨が降り出す寸前の香りがした。
桐の文机の上にはガラスの水盤が置かれている。しかし、そこには水がたたえられているだけで、花は活けられていない。代わりに水盤の底には時雨の屋敷を中心に、澄花にも見覚えのある地名がびっしりと書き連ねられていた。
座りなさい、と時雨は澄花に座布団を勧める。
「失礼します」
澄花は一礼すると、座布団の横に膝をついた。慣れない着物の裾をどうにかして整えると、そっと身体を座布団の上へと移す。腰を下ろしたあと、澄花は背筋をすっと伸ばした。肩に感じる重さは着物によるものか、全身を包む水によるものか。――はたまた目の前の美しい水神から放たれる存在感によるものか。
「――澄花。すまなかった。言葉が足りないと漣にこってり絞られたよ。君もこのままだとわからないことばかりだろう。きちんと順を追って話そう」
「……お願いします」
「まずは私が君を見つけたときのことだ。君は川底で気を失っていた。そのまま放っておけばすぐにでも生命を落としかねない状況だったから、君を私の眷属にさせてもらった」
「その、眷属っていうのは何なのですか?」
「君も漣や水鞠、水霜には会っただろう? 彼らは私の眷属で、水の精霊だ。君も私の眷属となったことで水の精霊となった。――だから、この川底にいても息が苦しくないだろう?」
「あ……」
澄花の口から息が漏れる。ぷくぷくと小さな泡が宙へと解けて消えた。
ずっと不思議に思っていたが、目覚めたときから呼吸が苦しくなかったのはそういうことだったのか。腑に落ちると同時に自分が人ならざるものになってしまったという事実が恐ろしくて、澄花は自分の体を掻き抱く。柔らかな水を指先が裂いた。
怖い。気持ち悪い。そんな思いが込み上げてくる。手も足も変わらずあるにもかかわらず、自分が自分でなくなってしまったようなそんな錯覚を覚える。そんな澄花を落ち着かせようと、大丈夫だ、と時雨は静かな声で告げた。
「怖がらなくても君は君――澄花のままだ。それに君が本気で望めば、私は眷属の加護を解こう――つまり、君が望むなら人間に戻ることも可能だということだ」
時雨の言葉にほっとして、澄花は胸を撫で下ろした。強張った彼女の表情が氷解していくのを見ながら、時雨は言葉を継ぐ。
「それと、
時雨の落ち着いた低い声に澄花は耳を傾ける。その声は優しく屋根を叩く雨音によく似ていた。
時雨が語ったのはこのようなことだった。
太古の昔から、雲を呼び、雨の恵みを大地にもたらす力を持つ女性が時折人の世に現れるとされている。その者は
巫女が祈りを捧げれば、日照りに苦しむ土地はたちどころに潤い、作物は勢いよく育ったという。
だが、恵みも過ぎれば人は感謝を忘れ、憎悪を覚えるようになる。
長雨により雲が天を覆い尽くす日が続けば、人々は掌を返し、悪き呪術師の仕業だと巫女へと唾を吐き、石を投げた。洪水が起きることがあれば、何の罪もない巫女を生贄として、川へ沈めることもあったという。
時は流れ、いつしか野蛮な風習こそ廃れていった。それでも人々の記憶の奥底には雨を呼ぶ女の存在が刻まれ続けた。かつては
「わたしがその、
「そうだ」
澄花は表情を曇らせた。これまで自分のせいで学校行事や家族旅行が天気に恵まれなかったのは事実だ。それどころか、何でもないときでも自分が家から出ればたちどころに雨がぱらつき始める始末だ。
「わたし……自分が時雨様の仰るような大層な人物だとは思えません。いるだけで雨が降る。ただ、それだけです」
「それは、君がこれまでの巫女に比べて遥かに強い力を持っているからだろう。だから、祈りなどという手順を踏まなくても、自然と君の周りに雨雲が集まってくる」
そのせいでどれだけ周りから疎まれてきたか。辛かった。悲しかった。この力のせいで何のイベントも楽しむことができなくて。いつのころからか人の輪に入れなくなり、言葉の暴力を向けられるようになって。今日みたいに直接的な暴力を振るわれたことだってないわけじゃない。
澄花は唇を噛む。そうでもしていないと泣き出してしまいそうだった。澄花、と時雨は青藍の透き通った双眸で、表面で涙が揺蕩う彼女の黒瞳を覗き込むと静かに言葉を紡ぐ。
「君が制御のできないその力を恐れ、疎んじていることはわかっている。しかし、私たちは先ほどの婚姻を以て契約関係となった。制御できないその力の手綱を私に預けてみないか」
「時雨様に……ですか?」
「そうだ。先ほども言ったが、これは取引だ。私は君のその力が欲しい。君のその力は私に足りない力を補って余りある素晴らしい力だ。私にその力を貸してくれるのならば、君が欲するすべて――物だって、居場所だっていくらだって与えよう。これは互いにとって有意義な話だというのは、君もわかるだろう?」
こくり、と澄花は頷いた。皆に疎まれ、行き場のない澄花にとってもこれは悪い話ではない。そして、この取引を時雨が真摯に持ちかけてきていることが魂から魂に伝わってきていた。
ふ、と時雨は口元を綻ばせた。神秘的なまでの白皙の美貌が途端に静かで柔らかな印象に変わる。
「――澄花。君に出会えたのは奇跡だ。君に出会えて本当に良かった。この地は……君のおかげで救われる」
「大袈裟な……」
「大袈裟などではない。今年に入ってから、この地には数えるほどしか雨が降っていない」
「――え?」
澄花は目を瞬かせた。そんなはずはない。今日はとんでもない大雨だったし、今月だけでも幾度となく雨は降っている。
「このままでは今年もこの地は梅雨入りすることもなく、夏場は日照りと水不足に悩まされるだろう。そうすれば作物は育たず、人々は夏の暑さで弱っていくだろう。人死にだって少なからず出る。私は今年――二〇四〇年をそんな年にしたくはない」
「にせん、よんじゅう……ねん……?」
澄花は息を呑んだ。自分が生きていたのは二〇二五年のはずだ。
「そんな……嘘、ですよね……? 今は二〇二五年のはずで……」
「いや、今は二〇四〇年だ。二〇四〇年の五月二十二日だ」
二人は顔を見合わせる。そして、なるほどな、と時雨は独りごちた。
「川に呼ばれてしまう人の中には、稀に時を超えてしまう者がいる。水難事故に遭ったまま、骸(むくろ)が見つからずに行方不明になってしまう者がいるのは君も知っているだろう? ああいった者たちは、大概が過去や未来へと飛ばされてしまっているんだ」
妙だとは思っていたんだ、と時雨は袂から何かを取り出した。それを見て、あ、と澄花は思わず声を上げる。
「わたしのスマホ……!」
「上着のポケットに入っていたからと、水鞠から預かっていた。返しておこう」
澄花の手よりも少し大きい長方形の筐体を時雨は彼女へと手渡した。スミレとカスミソウの押し花で作られたスマホケースは紛れもなく澄花のものだ。
「すまーとふぉん、だったか。随分と古風な物を持っていると思っていたんだ。今の人たちは体内に埋め込んだまいくろちっぷとやらで、個人情報や銀行口座の管理、決済やら連絡やらまですべてやってしまうというからな。そのような端末、今は博物館か骨董品店でしか見かけないと聞く」
え、と澄花は呆気に取られた。澄花にとって、スマホは老若男女すべてが持っている生活必需品だ。しかし、時雨が告げた技術の進歩は今が二〇四〇年であるという事実を裏付けするに足るものだった。
「それに、制服の着こなしも今の時代にしてはやけに古めかしかった。しかし、君が時を超えてやってきたというのなら、すべてのことに説明がつく」
時雨は淡々とそう言ってのけたが、澄花は混乱で目の前が真っ暗になりそうだった。
今が十五年後の世界だということは理解した。きっといまごろ地上では妹の
けれど、十五年前の世界では自分は一体どういう扱いになっているのか。入水自殺? それとも単なる行方不明? 家族はどう思っているのだろうか。学校は? 警察は? 自分は果たして探してもらえるのだろうか。それともいなくなってせいせいしたと言われるだけなのだろうか。
ニュースになったり、自宅に記者が詰めかけたりしないだろうか。まだ小学生の
「気分が悪そうだな。今夜はこれまでにしよう。水霜が部屋を調えてくれたはずだ。部屋まで送っていく」
時雨は顔色が悪い澄花を気遣って声をかける。澄花の華奢な背中と膝の裏に手を回して抱き上げると、時雨は立ち上がった。
彼は障子を開けると、澄花を抱きかかえたまま部屋を出た。部屋の中では無数の水泡が揺蕩っている。藍鼠の香炉からは降り出す前の雨の香りが漂い続けていた。
明かりの消えた部屋の中、澄花は格子状に組まれた天井を見つめていた。暗闇の中でも淡い光を纏った水泡がふわふわと漂っているのがわかる。ふう、と小さく息を漏らすと、シャボン玉のように宙にあぶくが生み出された。
取手に桜の意匠があしらわれた白木の桐箪笥。揃いの意匠の鏡台の上には練り香水や櫛の入った螺鈿細工の小箱が置かれている。障子にも桜の透かし彫りが施されており、白藤色の漆喰壁に掛けられた掛け軸に金魚は今にでも宙を泳ぎだしそうだった。
今は壁際に寄せられている猫脚の文机は丸みを帯びたころんとしたフォルムが愛らしい。これらすべてが今日突然転がり込んできた自分のために用意されたのだと思うと、何だか身分不相応で勿体無いような気がした。
澄花は寝返りを打った。枕と掛け布団は若紫の手毬柄で、布地に描かれた丸い模様が水泡を彷彿とさせる。背中を受け止める敷布団は水の中に沈んでいくかのような柔らかさがあった。改めてここは水神の屋敷なのだと澄花は認識する。
ここは二〇四〇年の世界で、自分は時雨の仮初の妻となった。そして、ここでは自分は
(時雨様はわたしを見つけて、必要としてくれた)
長年自分を悩ませてきた雨女としての力を誰かが必要としてくれる日が来るなど、夢にも思っていなかった。この力は自分にとって疎ましいもの以外の何物でもなかったのだから。
あのとき、時雨の手を取った自分の判断が正しかったのかどうかはわからない。流されるようにして彼と夫婦になったが、これでよかったのだろうか。
けれど、彼のことは信頼していいと自分の直感が告げていた。あんなにまっすぐな透明な目で嘘をつく人はいない。彼のことを異性として愛する日が来るかどうかはまだわからないけれど、彼のそばにいることは嫌ではないような気がした。
(ここが、わたしの居場所になればいい――)
気にかかることはいろいろある。けれど、今はそのことだけを祈りながら、澄花は目を閉じた。
真っ暗になった世界の中、さらさらと穏やかに流れていく川の音が澄花の聴覚を満たす。不安に揺れていた心がほんの少しずつ癒やされていくのを感じる。静かで穏やかな川の音はまるで時雨の有り様のようだった。
おやすみなさい、と澄花は誰に向けてでもなく口の中で呟く。そして、彼女はせせらぐ水の音に身を委ね、眠りの闇の向こう側へと意識を手放した。
(……また、水嵩が減っている)
時雨は文机に向かい、水盤を見つめていた。
上流域を司る水神からの報せを運んできた魚も言っていた。もう上流は駄目だと。河口に近いこの地域もあとどれだけ護れるだろう。
今の時雨にできるのは澄花の力に縋ることだけだ。彼女の
今日、時雨は澄花を眷属とし、妻に迎えた。しかし、二人の間には男女としての情があるわけではない。澄花を手元に置いておくためには、彼女に嫌われるようなことがあってはならない。彼女が望む言葉をかけ、望むものを与え続ける必要があった。
(この川を――この地域に生きるすべての生命を守るためなら、私はなんだってする。――私はこの地を守る水神なのだから)
澄花は一体どんなものを好むのだろうか。好きな食べ物は? 好きな色は? 好きな花は? 今の自分は彼女が
漣に言って何か気の利いたものを用意させようか。それとも水鞠に頼んで彼女が好きなものを聞き出してもらおうか。宙を揺蕩う水泡の淡い光を見つめながら、時雨はそんなことを考える。
(――いや、やめておこう)
澄花の夫は自分だ。仮初の契約上の関係とはいえ、彼女を繋ぎ止める努力は自分でするべきだ。
明日は彼女に何を贈ろうか。彼女は喜ぶだろうか。それとも戸惑うのだろうか。
先ほど、自分の部屋を訪れたときの澄花はとても愛らしかった。水鞠が
この川の現状に思い詰めてばかりいた毎日に、ほんの少し彩りが生まれた気がして時雨は口元を綻ばせる。彼の青藍の双眸にはいつの間にか優しい光が宿っていた。
(久しぶりだな……) 駅の階段を上り、地上に出ると澄花はそっと息を吐いた。目の前の幹線道路を車が行き交い、歩行者用信号が点滅している。 小さなスーパー。オレンジ色の看板が煌々と光るビジネスホテル。大きいトラックの停まるコンビニ。 スーパーの隣にあったはずの美容室はいつの間にか姿を消し、カフェへと変わっていた。そんな些細なことからも時の流れを感じる。 澄花は大学進学に伴い、地元を離れた。そして、そのまま地方で就職したため、こうしてこの辺りに帰ってくるのは久しぶりだ。 (この前来たときは秋だったっけ……リオンが亡くなったとき……) 今は七月。早めの夏季休暇を取って、澄花は九ヶ月ぶりに実家へと帰ってきていた。 もわっと湿気を帯びた風が澄花の肌を撫でる。夜になっても残る夏の暑さを感じながら、澄花は横断歩道を渡った。 宵闇に浮かび上がる看板に吸い込まれるようにして、澄花の足はコンビニへと向かった。コンビニの店内に足を踏み入れると、流行歌のBGMと空調の冷気が澄花を迎え入れた。うっすらと肌に滲んでいた汗が引いていくのを感じる。 なんとはなしに店内を歩き回るうちに、澄花の視界にとあるゴンドラが飛び込んできた。棚には河川敷で遊ぶ客向けに手持ち花火のセットが陳列されていた。 (懐かしいな……) 花火セットの中の線香花火を見ながら、澄花はあの日のことを思い起こす。――時雨と過ごした最後の夜を。 あの日見た線香花火の神秘的な青色が今でも脳裏に鮮やかに浮かぶ。煤の匂いも、時雨の着物の香も、寄せ合った肩のぬくもりも、昨日のことのようにありありと思い出せる。 あれから十五年が経った。いつの間にか、時雨と過ごしたあの時代に年齢が追いついていた。あのころは少女だった澄花も、今や三十三歳の大人の女性となっていた。 時雨と離れてからも、彼を愛する想いは変わらなかった。地元を離れてから、大学の同級生や同僚から言い寄られることはあったが、澄花は時雨への想いを貫き続けていた。どうしても、誰かを時雨よりも好きになることができなかった。――あの短い恋は、澄花にとって最初で最後の恋だった。 両親には申し訳ないが、自分は一生このまま一人なのだろうと思う。けれど、今の自分は独りではない。あの日々の思い出が澄花のことを支えてくれていた。 行ってみようか。ふい
ぴちょん、ぴちょんと水面を水滴が跳ね、波紋が広がっていく。雲で覆われた空が泣いていた。催涙雨が別たれた恋人たちの年に一度の逢瀬を阻んでいた。 (雨、か……) 今朝、時雨から贈られた着物に袖を通した澄花は下駄を履きながらそんなことを思う。かつてはあんなに憎んだ雨も、今となっては愛しいあの人の囁き声のようだ。 もうこれからは絶対に引き返せない。引き返してはならないのだ。澄花は己にそう言い聞かせると、玉砂利を鳴らし、御霊石の祀られている祠へと向けて中庭を横切っていく。 祠の前にはこの屋敷に住まう面々が勢揃いしていた。お待たせして申し訳ありません、と澄花が声をかけると時雨がこちらを振り返って口元を綻ばせた。 「――澄花。着てくれたんだな。今までに見た中で――一番綺麗だ」 華やかな着物に少し気後れしていた澄花はありがとうございます、とはにかんだ。二人は視線が交錯すると頷きあう。――それは二人にとってのさよならの合図だった。 「さて、澄花。儀式を始めよう。――私と君にとっての最後の儀式を」 「はい……時雨様」 澄花は漣と何回も確認を繰り返した通り、御霊石へと手を翳した。そして、今日この日まで頭に刻み込み続けた祝詞を誦じ始めた。 「――吾は雨に愛されし巫女、この地に恵みをもたらす存在なり。この地を守りし水の神よ、吾が手を取り、渇いた大地を潤す力を受け取り給え」 澄花の横に並び立つと、時雨も御霊石へと手を翳す。かすかに手と手が触れ合った。澄花の声に時雨の言葉が重なっていく。 「――愛しき巫女よ、清き祈りのすべてを我へ。その力の全てを以て、我はこの地を守り、水の恵みをもたらすことを誓わん」 「この力は清流のごとく、汝の身を満たすだろう。この地に繁栄が千歳(ちとせ)の間、齎されることを吾は希う。次の千年、その次の千年を水の恵みがこの地を守ることを夢見んとす」 「我に力を、この地に恵みを。汝の祈りは力となり、我の中に満ちるだろう。水を司る者の名において、この地を雨で守ることを誓わん」 二人は唇を交わし合った。雨催いの巫女と水神の間で一つの契約が成る。 御霊石が青く輝き始めた。それは澄花が見たことがないほどに眩い光を放っていた。 澄花の中を何かが走り
「――澄花、少々いいかしら?」 時雨との時間を過ごした後、澄花が自室に戻ろうとしていると、幼い少女の声に呼び止められた。振り返ると、そこには紅雨が立っていた。 「紅雨様? どうなさいましたか?」 「ねえ、澄花……あなた、本当に納得しているの?」 紅雨の透き通った空色の双眸がまっすぐに澄花を見上げた。澄花は悲しげに笑うと、紅雨の目を見返した。 「どれだけ考えても、これ以外手段がなかったんです。時雨様が幸せに健やかに生きてくれるなら……そのことを信じられるなら、わたしはお側にいられなくなっても構いません」 雨催いの巫女の力をすべて時雨の御霊石に注ぎ込み、婚姻関係も眷属としての契約もすべて解除する――それが澄花の出した結論だった。 時雨の眷属ですらなくなれば、もう澄花は川の世界では生きられない。そのことは理解していた。それでも時雨が一分一秒でも長く生きてくれるのなら、それで構わない。澄花はそう思っていた。 「だとしても澄花、あなたの心はどうなるんですの? 人とは脆いもの。お兄様と離れて、あなたは幸せに生きていけるんですの?」 「――紅雨様。時雨様の幸せがわたしの幸せです。だから、大丈夫です」 「澄花……ごめんなさい。わたくしがあなたにそんな顔をさせてしまっているんですわよね。わたくしが水神として覚醒していれば、あなたにそんな辛い思いを強いることもなかった……」 「紅雨様のせいじゃありません。これはわたしが……わたしの意志で決めたことです」 「本当に……いいんですのね? 後悔しない?」 しません、と紅雨の問いに澄花は首を横に振った。泣いた跡の残る彼女の黒瞳には、悲しみ、淋しさ、切なさ、痛み――それらが渦を巻いていたが、その中に確かな決意が宿っていた。 「時雨様がこの世からいなくなってしまうほうが、わたしは嫌です。そのほうがわたしは後悔します。時雨様さえ幸せでいてくれるなら、わたしはきっと生きていけます」 澄花は言葉を切る。自分が選んだことは間違いじゃない。そう信じたかった。 「時雨様にはたくさんのものをもらいました。誰かを好きになる気持ちも、心をこめた贈り物も、かけがえのない思い出も」 澄花は肌襦袢の内側から翡
胡麻豆腐に蕪のすり流し。お造り風にした湯葉に白味噌仕立ての茄子田楽。冬瓜の含め煮にほうれん草の胡麻和え。梅粥に、水菓子には時雨が好む葛切りの糖蜜がけを用意してある。 早朝に起き出した澄花は、秋水に相談して時雨のための朝餉を作らせてもらった。食欲の落ちている時雨でも食べやすく、なおかつ彼が好む献立にまとめた。 「澄花様、上出来です」 「いえ、秋水さんのおかげですよ。わたし一人じゃ間に合わなくって秋水さんにもたくさん手伝っていただきましたし」 「それでも、澄花様が作られたということが大切です。澄花様がお作りになったお食事ともなれば、時雨様も召し上がってくれるかもしれませんし」 厨房を主に取り仕切る秋水は日に日に時雨の食が細くなっていくことに頭を悩ませていた。そんな彼女に昨日の夕餉の後、澄花は声をかけた。――わたしが作ってみてもいいですか、と。 時雨の身体のことを考え、二人は翌朝の食事に何を作るか話し合った。そして、澄花は午前三時に起き出して、厨房に火を入れたのだった。 ごろごろと重たい戸車が鳴り、雨戸が戸袋へと収まっていく音が響く。廊下をぱたぱたと足音が行き交う。一日が始まった音だった。 「それでは秋水さん、わたし、時雨様の部屋に行ってきますね。本当にありがとうございました。後片付けお任せしてしまってすみません」 澄花が頭を下げると、早く行ってらしてくださいと秋水は微笑んだ。澄花はずっしりと重い盆を持つと、厨房を出る。藍色の暖簾が揺れる。 座敷を通り過ぎようとすると、紅雨が朝餉を摂っていた。彼女は箸を止めると、おはよう、と空色の目を細めた。 「おはようございます、紅雨様」 「澄花。先ほど秋水から聞いたけれど、お兄様のために朝餉を拵えてくださったそうですわね。特にその胡麻豆腐が美味しそうですわ。お兄様は幸せ者ね」 「お褒めいただいて嬉しいです。胡麻豆腐でしたら、まだ少し残っていたはずなので、よろしかったら召し上がってください」 「ありがとう、澄花。……っと、こんなところで呼び止めてしまって申し訳なかったわね。早くお兄様のところに行って差し上げて。今ごろ首を長くして待っていらっしゃるはずですわ。―
秋水が朝餉の盆を下げに来たのと入れ替わりで誰かが訪ねてきたのに気付き、漣は背後を振り返った。障子に映る小柄な影は時雨のものではない。漣は誰何を問うた。 「わたし……澄花です。漣さんに聞きたいことがあって来ました」 どうしたものかと漣は逡巡する。謹慎中だというのに、あまり勝手なことをしては更に時雨や紅雨の怒りを買ってしまいそうだった。 「また後日にしていただけませんか。澄花様もご存知の通り、私は謹慎中の身なので」 「わかっています。けれど、他ならない時雨様のことなんです。取り返しのつかないことになる前にどうにかしないと……」 澄花の声は切羽詰まっている。先ほど、秋水からも時雨が伏せっているということは聞いていた。 漣の顔に苦いものが浮かぶ。時雨を守るために力を貸せと先に澄花に迫ったのは自分だ。よもや、同じことを澄花にされ返すとは。自分は澄花を侮っていたのかもしれない。 「わかりました。それでは五分だけですが、時間をとりましょう」 ありがとうございます、と礼を言うと澄花は漣の部屋に足を踏み入れる。床の間には大太刀が飾られており、風雅な雰囲気の時雨の部屋との違いが感じられた。 澄花は畳に膝をつくと、抱えていた書物を置いた。彼女の目元には黒々とした隈ができている。 「眠れなかった……というわけではなさそうですね。ご用件はそれですか」 「はい。わたし、一昨日の夜に漣さんが仰っておられたことを思い出して……わたしなりに調べてみたんです」 ――雨催いの巫女の力をすべて時雨様の御霊石に注ぎ、婚姻関係も眷属の契約もすべて解消して時雨様の元を離れるか。 一昨日の一件で、自分が時雨の御霊石に働きかけることができるのはわかっている。ならば、あとは自分の雨催いの巫女の力をどう扱うかだ。時雨の弱り方を考えると、慎重にならざるを得ない。失敗するわけにはいかなかった。 「ふむ、雨催いの巫女についての書物ですか……そして、こちらは歴代の水神について……」 漣は澄花が持ってきた書物に目を通す。しかし、これでは足りない。 「正直、これでは情報不足感が否めませんね。今から言う内容の書物を蔵から探して持ってきてください」 これとこれと
「――その話、私にも聞かせてもらおうか」 玉砂利を踏む音と共に低い声が響いた。いつもは穏やかで優しい声も今は荒れた川のような激しさを内包している。 「時雨様……」 澄花はその人の名を呼ぶ。しかし、時雨は水鞠を伴って澄花の前を通り過ぎ、祠へと向かう。 「――閉じよ、一夜の夢を繋ぎし路。世界のあわいは閉じられ、別々の夢を見るだろう。水を司る者の名の元に、幸せな夢が訪れんことを祈らん」 時雨は低い声でそう唱えた。祠の御霊石から青い光がすうっと消えていく。あたりには宙を舞う水泡と蛍の光が舞うばかりだった。 ふいに時雨の身体が傾いだ。咄嗟に澄花は時雨の身体を支えようとする。大丈夫だ、と時雨は澄花の手を払った。 「お兄様、場所を移しましょう。どうやら、漣からも澄花からも話を聞かないといけないようですから」 紅雨の言葉にそうだな、と時雨は頷いた。中庭に集まっていた面々は中庭を横切り、沓脱石で下駄を脱ぐと、時雨の部屋へと向かった。 時雨の部屋に着くと、水鞠は四人分の座布団を用意した。時雨は上座のそれに腰を下ろすと、紅雨に澄花、漣に座るように言った。 「水鞠、すまなかったな。部屋に戻ってくれ」 「水霜も今日はもう部屋に戻ってちょうだい」 水神の兄妹にそう言われ、水鞠と水霜の二人は時雨の部屋を辞した。二人とも、今宵一体何が起きていたのかと思うと眠れそうになかった。 「――さて、お兄様。わたくしの部屋で待っているように言ったのに、そんなこともできないなんて犬以下なんですの? いえ、お兄様のお説教は後にいたしましょう。 ――漣。何があったのかを洗いざらい吐いてもらいますわよ」 一瞬向けられた矛先に時雨はびくりとする。しかし、今はそんな場合ではないと咳払いをして居住いを正すと、漣へと厳しい視線を向ける。 「――漣、何があった? 澄花に何をさせた?」 怒りを孕んだ二対の双眸が漣に向けられる。わたしがいけないんです、と澄花は居た堪れなくなって口を開いた。 「わたし……時雨様のために何もできませんでした。時雨様のためだからと、漣さんに頼まれたのに……できなかったんです。――妹を殺せなかったんです」 「なっ……漣、あなた、自分が澄花に何をさせようとしたかわかってるんですの!? あなた、心がないんですの!







