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第一章:夢の色は蝶々結びで縛れない③

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-17 11:55:29

 ほんわりと淡い光を放つ水泡が宙を漂いながら、廊下を照らしている。水鞠に先導され、澄花は雨戸の閉じた廊下を歩いていた。時折、板張りの床がキシキシと鳴る。

 澄花の纏った着物の裾が僅かに水の抵抗を受け、足がいつもより重く感じられた。床の上に歩を進めるたび、水に逆らうような感覚がかすかに残る。

 水鞠はある部屋の前に立つと、時雨様、と障子越しに声をかけた。

「澄花様をお連れいたしました」

 入りなさい、と低い男性の声が静かに返ってくる。失礼します、と澄花は障子を開ける。

 文机に向かっていた男性が澄花を振り返った。時雨だった。青藍の双眸は穏やかに凪いだ夜の水底を想起させた。

「待っていたよ、澄花。水鞠はもう下がりなさい。ご苦労だった」

 それでは失礼いたします、と水鞠は一礼すると、時雨の部屋の障子を閉じて去っていった。

 澄花は失礼にならない程度に、時雨の部屋へとそっと視線を巡らせる。

 黒檀の床の間では、青磁の花瓶に庭に咲いていたカキツバタが活けられている。その後ろに飾られた掛け軸に描かれているのは龍だろうか。

 イグサの優しい香りが立ち上る畳の縁は新橋色の観世水柄で彩られている。行燈の中では淡い光を纏った水泡がふわふわと泳いでいた。

 床の間とは逆側の秘色色の漆喰の壁には飾り棚が設られている。飾り棚には青海波の意匠の藍鼠の香炉が置かれており煙を燻らせている。煙からは雨が降り出す寸前の香りがした。

 桐の文机の上にはガラスの水盤が置かれている。しかし、そこには水がたたえられているだけで、花は活けられていない。代わりに水盤の底には時雨の屋敷を中心に、澄花にも見覚えのある地名がびっしりと書き連ねられていた。

 座りなさい、と時雨は澄花に座布団を勧める。

「失礼します」

 澄花は一礼すると、座布団の横に膝をついた。慣れない着物の裾をどうにかして整えると、そっと身体を座布団の上へと移す。腰を下ろしたあと、澄花は背筋をすっと伸ばした。肩に感じる重さは着物によるものか、全身を包む水によるものか。――はたまた目の前の美しい水神から放たれる存在感によるものか。

「――澄花。すまなかった。言葉が足りないと漣にこってり絞られたよ。君もこのままだとわからないことばかりだろう。きちんと順を追って話そう」

「……お願いします」

「まずは私が君を見つけたときのことだ。君は川底で気を失っていた。そのまま放っておけばすぐにでも生命を落としかねない状況だったから、君を私の眷属にさせてもらった」

「その、眷属っていうのは何なのですか?」

「君も漣や水鞠、水霜には会っただろう? 彼らは私の眷属で、水の精霊だ。君も私の眷属となったことで水の精霊となった。――だから、この川底にいても息が苦しくないだろう?」

「あ……」

 澄花の口から息が漏れる。ぷくぷくと小さな泡が宙へと解けて消えた。

 ずっと不思議に思っていたが、目覚めたときから呼吸が苦しくなかったのはそういうことだったのか。腑に落ちると同時に自分が人ならざるものになってしまったという事実が恐ろしくて、澄花は自分の体を掻き抱く。柔らかな水を指先が裂いた。

 怖い。気持ち悪い。そんな思いが込み上げてくる。手も足も変わらずあるにもかかわらず、自分が自分でなくなってしまったようなそんな錯覚を覚える。そんな澄花を落ち着かせようと、大丈夫だ、と時雨は静かな声で告げた。

「怖がらなくても君は君――澄花のままだ。それに君が本気で望めば、私は眷属の加護を解こう――つまり、君が望むなら人間に戻ることも可能だということだ」

 時雨の言葉にほっとして、澄花は胸を撫で下ろした。強張った彼女の表情が氷解していくのを見ながら、時雨は言葉を継ぐ。

「それと、雨催あまもよいの巫女についても説明しないといけないのだったな」

 時雨の落ち着いた低い声に澄花は耳を傾ける。その声は優しく屋根を叩く雨音によく似ていた。

 時雨が語ったのはこのようなことだった。

 太古の昔から、雲を呼び、雨の恵みを大地にもたらす力を持つ女性が時折人の世に現れるとされている。その者は雨催あまもよいの巫女と呼ばれ、歴史の片隅に名を連ねてきた。

 巫女が祈りを捧げれば、日照りに苦しむ土地はたちどころに潤い、作物は勢いよく育ったという。

 だが、恵みも過ぎれば人は感謝を忘れ、憎悪を覚えるようになる。

 長雨により雲が天を覆い尽くす日が続けば、人々は掌を返し、悪き呪術師の仕業だと巫女へと唾を吐き、石を投げた。洪水が起きることがあれば、何の罪もない巫女を生贄として、川へ沈めることもあったという。

 時は流れ、いつしか野蛮な風習こそ廃れていった。それでも人々の記憶の奥底には雨を呼ぶ女の存在が刻まれ続けた。かつては雨催あまもよいの巫女と呼ばれた存在は、名を変え、今は雨女と呼ばれている。

「わたしがその、雨催あまもよいの巫女なんですね?」

「そうだ」

 澄花は表情を曇らせた。これまで自分のせいで学校行事や家族旅行が天気に恵まれなかったのは事実だ。それどころか、何でもないときでも自分が家から出ればたちどころに雨がぱらつき始める始末だ。

「わたし……自分が時雨様の仰るような大層な人物だとは思えません。いるだけで雨が降る。ただ、それだけです」

「それは、君がこれまでの巫女に比べて遥かに強い力を持っているからだろう。だから、祈りなどという手順を踏まなくても、自然と君の周りに雨雲が集まってくる」

 そのせいでどれだけ周りから疎まれてきたか。辛かった。悲しかった。この力のせいで何のイベントも楽しむことができなくて。いつのころからか人の輪に入れなくなり、言葉の暴力を向けられるようになって。今日みたいに直接的な暴力を振るわれたことだってないわけじゃない。

 澄花は唇を噛む。そうでもしていないと泣き出してしまいそうだった。澄花、と時雨は青藍の透き通った双眸で、表面で涙が揺蕩う彼女の黒瞳を覗き込むと静かに言葉を紡ぐ。

「君が制御のできないその力を恐れ、疎んじていることはわかっている。しかし、私たちは先ほどの婚姻を以て契約関係となった。制御できないその力の手綱を私に預けてみないか」

「時雨様に……ですか?」

「そうだ。先ほども言ったが、これは取引だ。私は君のその力が欲しい。君のその力は私に足りない力を補って余りある素晴らしい力だ。私にその力を貸してくれるのならば、君が欲するすべて――物だって、居場所だっていくらだって与えよう。これは互いにとって有意義な話だというのは、君もわかるだろう?」

 こくり、と澄花は頷いた。皆に疎まれ、行き場のない澄花にとってもこれは悪い話ではない。そして、この取引を時雨が真摯に持ちかけてきていることが魂から魂に伝わってきていた。

 ふ、と時雨は口元を綻ばせた。神秘的なまでの白皙の美貌が途端に静かで柔らかな印象に変わる。

「――澄花。君に出会えたのは奇跡だ。君に出会えて本当に良かった。この地は……君のおかげで救われる」

「大袈裟な……」

「大袈裟などではない。今年に入ってから、この地には数えるほどしか雨が降っていない」

「――え?」

 澄花は目を瞬かせた。そんなはずはない。今日はとんでもない大雨だったし、今月だけでも幾度となく雨は降っている。

「このままでは今年もこの地は梅雨入りすることもなく、夏場は日照りと水不足に悩まされるだろう。そうすれば作物は育たず、人々は夏の暑さで弱っていくだろう。人死にだって少なからず出る。私は今年――二〇四〇年をそんな年にしたくはない」

「にせん、よんじゅう……ねん……?」

 澄花は息を呑んだ。自分が生きていたのは二〇二五年のはずだ。

「そんな……嘘、ですよね……? 今は二〇二五年のはずで……」

「いや、今は二〇四〇年だ。二〇四〇年の五月二十二日だ」

 二人は顔を見合わせる。そして、なるほどな、と時雨は独りごちた。

「川に呼ばれてしまう人の中には、稀に時を超えてしまう者がいる。水難事故に遭ったまま、骸(むくろ)が見つからずに行方不明になってしまう者がいるのは君も知っているだろう? ああいった者たちは、大概が過去や未来へと飛ばされてしまっているんだ」

 妙だとは思っていたんだ、と時雨は袂から何かを取り出した。それを見て、あ、と澄花は思わず声を上げる。

「わたしのスマホ……!」

「上着のポケットに入っていたからと、水鞠から預かっていた。返しておこう」

 澄花の手よりも少し大きい長方形の筐体を時雨は彼女へと手渡した。スミレとカスミソウの押し花で作られたスマホケースは紛れもなく澄花のものだ。 

「すまーとふぉん、だったか。随分と古風な物を持っていると思っていたんだ。今の人たちは体内に埋め込んだまいくろちっぷとやらで、個人情報や銀行口座の管理、決済やら連絡やらまですべてやってしまうというからな。そのような端末、今は博物館か骨董品店でしか見かけないと聞く」

 え、と澄花は呆気に取られた。澄花にとって、スマホは老若男女すべてが持っている生活必需品だ。しかし、時雨が告げた技術の進歩は今が二〇四〇年であるという事実を裏付けするに足るものだった。

「それに、制服の着こなしも今の時代にしてはやけに古めかしかった。しかし、君が時を超えてやってきたというのなら、すべてのことに説明がつく」

 時雨は淡々とそう言ってのけたが、澄花は混乱で目の前が真っ暗になりそうだった。

 今が十五年後の世界だということは理解した。きっといまごろ地上では妹の陽菜はるなは立派な社会人になっている。両親はまだ嘱託再雇用でまだ働いているか、年金暮らしをしているかもしれない。十五年というのはそれだけの年月だ。

 けれど、十五年前の世界では自分は一体どういう扱いになっているのか。入水自殺? それとも単なる行方不明? 家族はどう思っているのだろうか。学校は? 警察は? 自分は果たして探してもらえるのだろうか。それともいなくなってせいせいしたと言われるだけなのだろうか。

 ニュースになったり、自宅に記者が詰めかけたりしないだろうか。まだ小学生の陽菜はるなにまで、影響が及ばないとも限らない。学校で陽菜はるなが友達に何か言われたり、記者に付き纏われたりしないか心配だった。

「気分が悪そうだな。今夜はこれまでにしよう。水霜が部屋を調えてくれたはずだ。部屋まで送っていく」

 時雨は顔色が悪い澄花を気遣って声をかける。澄花の華奢な背中と膝の裏に手を回して抱き上げると、時雨は立ち上がった。

 彼は障子を開けると、澄花を抱きかかえたまま部屋を出た。部屋の中では無数の水泡が揺蕩っている。藍鼠の香炉からは降り出す前の雨の香りが漂い続けていた。

 明かりの消えた部屋の中、澄花は格子状に組まれた天井を見つめていた。暗闇の中でも淡い光を纏った水泡がふわふわと漂っているのがわかる。ふう、と小さく息を漏らすと、シャボン玉のように宙にあぶくが生み出された。

 取手に桜の意匠があしらわれた白木の桐箪笥。揃いの意匠の鏡台の上には練り香水や櫛の入った螺鈿細工の小箱が置かれている。障子にも桜の透かし彫りが施されており、白藤色の漆喰壁に掛けられた掛け軸に金魚は今にでも宙を泳ぎだしそうだった。

 今は壁際に寄せられている猫脚の文机は丸みを帯びたころんとしたフォルムが愛らしい。これらすべてが今日突然転がり込んできた自分のために用意されたのだと思うと、何だか身分不相応で勿体無いような気がした。

 澄花は寝返りを打った。枕と掛け布団は若紫の手毬柄で、布地に描かれた丸い模様が水泡を彷彿とさせる。背中を受け止める敷布団は水の中に沈んでいくかのような柔らかさがあった。改めてここは水神の屋敷なのだと澄花は認識する。

 ここは二〇四〇年の世界で、自分は時雨の仮初の妻となった。そして、ここでは自分は雨催あまもよいの巫女と呼ばれる存在で、今や人間ではない。時雨が嘘偽りを口にしていないことだけはわかったが、それでも信じられない思いだった。

(時雨様はわたしを見つけて、必要としてくれた)

 長年自分を悩ませてきた雨女としての力を誰かが必要としてくれる日が来るなど、夢にも思っていなかった。この力は自分にとって疎ましいもの以外の何物でもなかったのだから。

 あのとき、時雨の手を取った自分の判断が正しかったのかどうかはわからない。流されるようにして彼と夫婦になったが、これでよかったのだろうか。

 けれど、彼のことは信頼していいと自分の直感が告げていた。あんなにまっすぐな透明な目で嘘をつく人はいない。彼のことを異性として愛する日が来るかどうかはまだわからないけれど、彼のそばにいることは嫌ではないような気がした。

(ここが、わたしの居場所になればいい――)

 気にかかることはいろいろある。けれど、今はそのことだけを祈りながら、澄花は目を閉じた。

 真っ暗になった世界の中、さらさらと穏やかに流れていく川の音が澄花の聴覚を満たす。不安に揺れていた心がほんの少しずつ癒やされていくのを感じる。静かで穏やかな川の音はまるで時雨の有り様のようだった。

 おやすみなさい、と澄花は誰に向けてでもなく口の中で呟く。そして、彼女はせせらぐ水の音に身を委ね、眠りの闇の向こう側へと意識を手放した。

(……また、水嵩が減っている)

 時雨は文机に向かい、水盤を見つめていた。猛川たけりがわの水嵩を示す、水盤の水量が減っている。

 上流域を司る水神からの報せを運んできた魚も言っていた。もう上流は駄目だと。河口に近いこの地域もあとどれだけ護れるだろう。

 今の時雨にできるのは澄花の力に縋ることだけだ。彼女の雨催あまもよいの巫女の力は、近年悩まされ続けている日照りによる水不足を解決し得る最後の切り札だった。

 今日、時雨は澄花を眷属とし、妻に迎えた。しかし、二人の間には男女としての情があるわけではない。澄花を手元に置いておくためには、彼女に嫌われるようなことがあってはならない。彼女が望む言葉をかけ、望むものを与え続ける必要があった。

(この川を――この地域に生きるすべての生命を守るためなら、私はなんだってする。――私はこの地を守る水神なのだから)

 澄花は一体どんなものを好むのだろうか。好きな食べ物は? 好きな色は? 好きな花は? 今の自分は彼女が雨催あまもよいの巫女であるということと、その力を疎んで川に身を投げたこと以外何も知らない。

 漣に言って何か気の利いたものを用意させようか。それとも水鞠に頼んで彼女が好きなものを聞き出してもらおうか。宙を揺蕩う水泡の淡い光を見つめながら、時雨はそんなことを考える。

(――いや、やめておこう)

 澄花の夫は自分だ。仮初の契約上の関係とはいえ、彼女を繋ぎ止める努力は自分でするべきだ。

 明日は彼女に何を贈ろうか。彼女は喜ぶだろうか。それとも戸惑うのだろうか。

 先ほど、自分の部屋を訪れたときの澄花はとても愛らしかった。水鞠が紅雨こううの着物を借りてきて支度をしたのだろうが、彼女のために誂えたかのように似合っていた。そんな彼女に贈るならば――

 この川の現状に思い詰めてばかりいた毎日に、ほんの少し彩りが生まれた気がして時雨は口元を綻ばせる。彼の青藍の双眸にはいつの間にか優しい光が宿っていた。

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