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第二章:雨待つ凪に芽吹くものは①

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-17 13:49:50

 目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは知らない天井だった。ぼやけた視界にほのかな光を放つ水泡が揺れている。

 部屋を彩る調度品も見慣れないものばかりだ。ぼんやりとしていた意識の焦点があってくるにつれて、ここは水神である時雨の屋敷で、彼の妻である自分はここに住むことになったのだということを澄花は思い出す。

 桜柄の透かし彫りが施された障子越しに朝の明るさが入り込んできている。昨夜、眠る前に外した白藤の簪が文机の上で光を反射して、柔らかく色を滲ませていた。呼吸に合わせて、かすかに揺れる光は穏やかな波のようで、ここが川底の世界であることを澄花に知らせている。

 ふと、障子の向こう側に誰が立つ気配がした。澄花が身体を起こして、背後を振り返ると障子には小柄な人影が映っていた。

「澄花様、起きていらっしゃいますか? 水鞠です。朝のお支度に参りました」

 はい、と澄花が返事をすると、すっと障子を開けて水鞠が入ってきた。その腕には灰色のセーラー服が抱えられている。

「おはようございます、澄花様。昨日お召しになっておられたお洋服は、昨晩のうちにお洗濯しておきましたので、箪笥にしまっておきますね」

「ありがとうございます」

 水鞠は後手に障子を閉めると、桐箪笥のほうへ向かっていった。そして、彼女は箪笥の最下段の引き出しに澄花の制服をしまう。彼女の所作は流れる水のように滑らかで無駄がない。洗練された動きに、彼女もまた時雨の眷属であり、水の精霊なのだということを実感させられる。

 引き出しを閉めると、水鞠は何段か上の引き出しから着物と帯を取り出した。萌木色(もえぎいろ)の着物には白と桃色の撫子が散りばめられており、非常に愛らしい。対する帯は涼やかな薄荷色で、華やかな印象の着物に涼やかさを加えていた。

「もういい加減、春物が着られる季節も終わりですからね。その前に一度、澄花様にこちらに袖を通していただきたかったんです。昨日のような清楚な出立ちもお似合いになりますが、このような華やかな着物もきっとお似合いになりますよ」

 そんなことを言いながら、水鞠は澄花の着替えを進めていく。彼女は白地に空色の麻の葉模様の寝間着を脱がせると、肌襦袢の上から長襦袢と着物を着せていった。腰紐や伊達締めによって呼吸の自由を奪われていくのはまだ慣れない。うっ、と澄花の口から漏れた声が小さなあぶくを生む。

 薄荷色の帯を澄花の胴に巻いて文庫結びにし、水鞠は仕上げにガラス細工の帯締めを結んだ。きらきらと光るガラス細工は太陽の光を反射する川面のようで美しい。

「澄花様、こちらにお座りになってください」

 水鞠は澄花を鏡台の前へ誘うと、椅子に座らせる。澄花が鏡を覗き込むと、昨日よりは少しましな顔をした自分がこちらを見返していた。

 螺鈿細工の箱を開けると、水鞠は寝乱れた澄花の髪に櫛を通し始めた。すっすっと櫛が髪を滑るたび、川面を撫でる波音が聞こえるような気がした。

 水鞠は澄花の頭の両サイドの髪を手早く編み込んでいくと、後ろでシニヨンにする。最後に蝶々を模った銀の水引細工の簪を差すと、できましたよ、と彼女は微笑んだ。

「今日もとてもお可愛らしいですよ、澄花様」

「え……っと、その、ありがとうございます」

 澄花ははにかんだ。雨女の力のせいで、あまり人と積極的にかかわってこなかった澄花は、自分の容姿を褒められることに慣れていない。

「さて、澄花様。そろそろ朝餉にいたしましょう。ご案内いたします」

 こちらへ、と水鞠に誘われて澄花は部屋を出る。廊下に出た途端、澄花の聴覚を満たす水の流れが鮮明なものへと変わる。

 昨夜は雨戸に遮られて見えなかった庭では、卯の花が盛りを迎え、水の流れに白い花びらをそよがせている。遠く高い川面から差し込む柔らかい朝の光が、草木を濡らす朝露をきらきらと反射させていた。

 漆塗りの長方形の座敷机。上座には北関東の山々から東京湾へと向かって流れる川の様子が細やかな筆致で描かれた屏風が鎮座している。床の間には水蛇が象られた青磁の壺が置かれ、天袋には魚の鱗を思わせる彫刻が施されている。

「さあ、澄花様。こらちへどうぞ」

 水鞠に言われるままに澄花が座布団の上に腰を下ろすと、一人の女性が食事の乗った盆を運んできた。彼女とは昨日、廊下ですれ違っただけだが、名を秋水(しゆうすい)と言ったはずだ。

 すっと目の前に置かれた食事に澄花は目を丸くした。それは懐石料理と見紛うような立派な食事だったからだ。

 新ごぼうと豆腐の白和えにそら豆と湯葉の清まし汁。長芋の梅肉和えにアスパラの酢味噌がけ。賀茂なすの田楽に新じゃがとふきの含め煮。たけのこと空豆のかき揚げに胡瓜と若布の菊花和え。枝豆と黒米の炊き込みご飯には浅漬けが添えられ、ぷるぷるとした葛切りは清流にに果実を閉じ込めているかのように見えた。

「……あれ?」

 秋水(しゆうすい)が一礼して去っていくと、澄花は首を傾げた。どの料理も趣向が凝らされ、大変美味しそうではある。しかし、そこには何とも言い難い違和感があった。

(……あ)

 懐石料理のように華やかではあるが、実際は精進料理に近いのだと澄花は気づいた。この食事には一切魚が使われていない。

「――お気づきになられましたか」

 水鞠は食前の煎茶を淹れると、水縹の鱗紋様の湯呑みを澄花の前に置く。その手の動きは水中を泳ぐ白魚を想起させた。

「私たち、時雨様の眷属――水の精霊のほとんどは元はこの猛川たけりがわに住まう魚なんですよ。ですから、私たちは決して魚肉を口にしないようにしているんです。澄花様のような年頃のお嬢さんには物足りない内容かもしれませんが、どうかご理解ください」

「いえ、物足りないだなんて、そんな……」

 澄花は首を横に振る。そして、彼女は躊躇いがちにもう一つ気になっていたことを口にした。

「ところで、この着物に食べ物はどこから……? ここは川の世界なんですよね?」

 すると、水鞠はあらやだと口元を手で押さえた。野暮なことを聞いてしまったかも知れないと澄花は肩を縮こまらせる。世の中には知らなくてもいいことがある。

「東京湾におわす海神様が川の流れを使って、定期的に生活に必要なものを送ってくださるんですよ。海神様は水神を統べる立場のお方ですから」

 水鞠の説明に澄花はなるほどと相槌を打つ。そのとき、障子に長身痩躯の人影が映った。 すっと障子が開き、時雨が座敷に入ってきた。澄花がまだ食事に手をつけていないことに気づいた時雨は、どうした、と静かに問うた。

「――澄花。食事が口に合わなかったか? 昼餉には洋食を用意させよう」

「いえ、時雨様。そういうわけでは……」

 一向に食事に手をつけようとしない澄花に時雨は訝るような視線を向ける。こんなふうに注目を浴びていては食べづらい。夫婦であるとはいえ、一柱の神である時雨の前で粗相があったらと思うと、気が気ではなかった。

「時雨様。澄花様がお困りですよ」

「そうか。それは悪かった」

 澄花が食べづらそうにしていることを水鞠がやんわりと伝えると、時雨は素直に詫びの言葉を口にした。

「時雨様、何か御用ですか? 朝餉なら先ほど召し上がられましたよね。喉が渇いたのでしたら、漣に茶を淹れさせましょうか?」

 水鞠が遠回りに退出を促すと、時雨は袂から一輪の花を取り出した。清楚な佇まいに反して、陶然とするような濃くて甘やかな香りを放つそれを時雨はそっと手を伸ばして澄花の耳元に差し込んだ。動揺とともに、周囲の景色が揺れたような気がした。――水が揺らぐ瞬間のように。

「これは……?」

 澄花は戸惑いの声を上げる。人のものではない圧倒的な美貌が近づいてきて、澄花は自分の顔が熱くなるのを感じた。新橋色の着物から漂う雨の匂いに混じった男性的な甘い香りに鼓動が早くなっていく。耳元に差し込まれた花を朝露がしっとりと濡らしている。

「庭に咲いていた茉莉花の花だ。きっと君に似合うと思ったのだが……悪い、好みの花ではなかったか?」

 そんなことはないです、と答えるのが澄花にとっての精一杯だった。自分は今、一体どんな顔をしているのだろう。すまし汁の表面に映った自分の顔を澄花は直視できなかった。

「――澄花。君の好きな物を教えてくれ。好きな色は? 好きな食べ物は? 好きな花は? 好きな――」

「時雨様」

 水鞠が澄花を質問責めにしようとしている時雨を制した。彼女は圧のある笑顔で、再び時雨に退室を迫る。

「澄花様の朝餉が冷めてしまいます。それにそのように質問責めにしては、澄花様がお可哀想ですよ。たとえ夫婦であっても、きちんとそれなりの手順を踏むべきです」

「……悪かった」

 弱ったように時雨は眉尻を下げる。たったそれだけのことで、時雨の美貌の圧がふわっと和らいだ。

 それでは邪魔をしたな、と時雨は座敷を出て行こうとする。しかし、何を思ったか足を止めると、時雨は澄花を振り返り、こんなことを口にした。

「昨日の着物も似合っていたが……今日は今日で艶やかでいいな。若葉の瑞々しさの中にも、君らしい愛らしさがある」

「……ッ!?」

 不意を突かれた澄花の顔が見る見る紅潮していく。何かを言おうとして澄花はしばらく口をぱくぱくさせていたが、何も言えないままぷしゅううと頽れた。

 湊鼠の羽織の端が澄花の視界をちらつく。時雨の香りと言葉がぐるぐると渦を巻いて、いつまでも頭の中から離れてくれなかった。

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