Home / 恋愛 / 雨女と水神の契約結婚 / 第五章:二人の巫女と迷いの夜③

Share

第五章:二人の巫女と迷いの夜③

Author: 七森香歌
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-20 08:09:41

(――ん?)

 時雨は己の御霊石ごりょうせきに異変を感じて、手に持っていたグラスを文机に置いた。ガラスの中にはクリーム色がかった白色の液体が揺れている。

(――地上への道が開かれている?)

 この気配から察するに、中庭の祠が地上へと繋がっている。時雨が何をしたわけでもないのに、そんなことが起きているのは明確な異常だった。

 今日は儀式の日ではない。川の世界と地上を結ぶ道を開いたのが自分でないのであれば、こんなことができるのは他に一人しかいない。――澄花だ。

 時雨は自身の指へと意識を集中する。薬指に結ばれた水の糸は澄花へと繋がっている。

(澄花の気配が……遠い……?)

 一体澄花はどこにいるというのだろう。この感じでは彼女はこの屋敷にいない。彼女はどこへいったんだ。時雨はさーっと血が下がっていくのを感じた。

 居ても立っても居られなくて時雨は文机の前から立ち上がった。その拍子に足元が一瞬ふらりとする。冷や汗が背中を伝う。目の前が真っ暗になりかけたが、時雨は歯を食いしばって意識を現実へと連れ戻す。

(水鞠なら、何か知っているかもしれない)

 時雨は部屋を出ると、早足で廊下を歩く。体力が落ちているのか、たったそれだけのことではあはあと息が上がった。

「――水鞠、いるか? 澄花のことで聞きたいことがある」

 水鞠の部屋を訪ねると、時雨は彼女の部屋の外から声をかける。すぐに返事があり、すっと障子が開かれる。もう寝る前だったのか、水鞠は浅縹の寝間着に身を包んでいた。

「すまない。寝るところだったのだな」

「いえ、構いませんよ。ところで、澄花様がどうかなさったのですか?」

「澄花が今、どこにいるか知らないか?」

「澄花様ですか? そういえば、紅雨こうう様からお手紙が来ていたようですが」

 水鞠に言われ、今朝そんなこともあったと時雨は思い出す。確か、澄花との時間を過ごしている最中に、漣が紅雨こううからの手紙を持ってきたのだった。

紅雨こううにも話を聞いてみよう。水鞠、こんな夜遅くに済まなかったな」

「いえ、とんでもございません。……時雨様、よろしければ私が紅雨こうう様のお部屋までご一緒しましょうか?」

 顔色の悪い時雨に水鞠はそう声をかける。悪いな、と時雨はその申し出を大人しく受け入れた。

 水鞠は時雨の身体を支えてやりながら、ゆっくりと廊下を歩く。二人はそのまま紅雨こううの部屋へと向かった。

「――紅雨こうう、いるか。聞きたいことがある」

 華やかな椿の透かし彫りが施された障子の前で時雨は足を止めた。開けなさい、と紅雨こううが水霜に命じる幼くも気高い声が響く。

 どうぞお入りください、と澄花と同じくらいの年齢の少女が障子を開けた。時雨は水鞠に支えられながら、妹の部屋へと足を踏み入れた。

「澄花は来ていないのか? 今朝、手紙を送っていただろう?」

 手紙? と紅雨こううは幼く愛らしい顔に訝しげな表情が浮かぶ。

「澄花宛の手紙を漣に預けただろう?」

「そんなことしていませんわよ。――あら?」

 紅雨こううは最近愛用している便箋を取り出すと、違和感に気がついた。昨日に比べて便箋が一枚減っている。揃いの意匠の封筒もだ。

 紅雨こううは今朝の出来事を思い出す。朝餉の後、時雨の体調について相談があると漣が部屋を訪ねてきていた。しばらく話をした後、漣は時雨の部屋に戻っていったはずだったが、まさか自分の便箋と封筒を盗み出していたとは思わなかった。

「お兄様、澄花を呼び出したのは漣ですわ。今朝の手紙はわたくしではなく、漣が書いたものです」

「漣が? 漣が澄花に地上への道を開かせたというのか? 何のために?」

「地上への道って……まさか、お兄様、澄花は今この家にいないんですの? どうしてそんな大事なことを先に言わないんですの!」

 紅雨こううは声を荒らげた。しかし、裏腹にその思考はひどく冴えていた。

 時雨の体調不良。連日の酷暑。時雨の忠実な右腕である漣は、時雨を守るためならきっと手段を選ばない。――そのために、漣が澄花に何かをさせようとしているのだとしたら。

「――お兄様。漣を探してきますわ。きっと、漣は何かを企んでいます。澄花に何かをさせようとしているのです。早く漣をとっ捕まえて、何を考えているのか洗いざらい吐かせないといけませんわ」

 紅雨こううはそう言って立ち上がる。空色の双眸には憤(ふづく)みの色が揺れていた。

「お兄様はこちらで休んでいらして」

「そんなわけにはいかない。他ならぬ澄花のことだ」

 紅雨こううの後に続こうとした時雨の足元がふらついた。それを見た紅雨こううは駄目ですわ、と首を横に振る。

「お兄様はここにいてちょうだい。水鞠、お兄様を頼みますわよ。勝手に漣を探しに行かないように見張っておいて」

「承知いたしました、紅雨こうう様」

 水鞠は頭を下げる。行きますわよ、と水霜を伴って紅雨こううは部屋を出ていった。時雨はその小さな背中を頼もしく思いながら見送った。

 澄花は今、一体どこで何をしているのだろうか。漣は一体澄花に何をさせようとしているのだろうか。今の時雨には澄花の無事を祈ることしかできなかった。

 ひたひたと足音を消して階段を上り切ると、澄花は妹の部屋の扉を静かに開けた。窓際のベッドではどことなくあのころの妹の面影を残す若い女が布団に包まってすうすうと寝息を立てている。

 本棚にはびっしりとお菓子作りに関する本が詰まっていた。子供のころから使っている勉強机の上にはメイク道具が散らかっている。陽菜はるなの部屋の中もまた、着実に十歳の少女を二十五歳の女に変えただけの年月を重ねていた。

(――陽菜はるな)

 澄花は陽菜はるなが眠るベッドへ近づくと、腰を下ろした。澄花の年齢を大きく通り越した彼女は、この十五年の間、何を思い、何を見て生きてきたのだろうか。

 澄花はそっと眠る陽菜はるなの首筋に手を這わせた。とく、とく、と頸動脈が鼓動を刻んでいる。控えめにかけられた冷房に晒された肌は少しひんやりとしていた。

 きっと陽菜はるなは何も知らないのだろう。自分が日輪の巫女であることを。自分がこの地に仇なす存在であることを。――澄花の最愛の人を脅かしているという事実を。

 この手が陽菜はるなの首を絞めれば、どうなるか。彼女は苦しみ抜いた挙句、生命を落とすだろう。否、彼女の生命を確実に奪わねばならないのだ。――それが時雨のためなのだから。

 ぽた、と澄花の目から涙が滴り落ちた。それは雨のようにシーツの上にぽつぽつとシミを作っていく。

――陽菜はるなが母のお腹にいることがわかったのは、小学二年生のゴールデンウィークのことだった。お姉ちゃんになるのだと聞かされて、嬉しいような悲しいような不思議な気持ちだった。

 ごめんね、と呟きながら、澄花は陽菜はるなの頸動脈を指先で圧迫する。時雨のためとはいえ、こんなことをしている自分が嫌だった。

――陽菜はるなが生まれたのはクリスマスを前にした十二月の下旬の朝。病院から帰ってきた父が、生まれたよ、妹だよ、と嬉しそうに告げたのを覚えている。まだ、そのときは自分が姉になったのだという自覚は薄かった。

 ごめんね、陽菜はるな。ごめんね。こうするしかないの。わたしにはこうすることしかできないの。澄花はひくっ、ひくっ、としゃくり上げ始める。どうして自分たち姉妹だけが、こんな運命を背負わなければならないのだろう。――愛しい人のため、姉が妹を殺すという運命を。

――陽菜はるなはよく泣き、よくミルクを飲み、すくすくと育っていった。気がつけば、少しずつ離乳食を食べるようになって。いつの間にか、掴まり立ちをするようになって。

 澄花は手に力を入れようとする。自分がやろうとしていることの恐ろしさに、手が震える。やっぱり嫌だ。こんなこと、したくない。

――陽菜はるなが幼いころは、よく彼女に付き合って流行りの女児向けアニメを見た。陽菜はるなを喜ばせたいと、澄花は毎年変わる主人公たちのイラストを自室でこっそり練習した。澄花が描いたイラストを陽菜はるなにあげたら、喜んで部屋に飾っていた。

 ごめんなさい。ごめんなさい。澄花は嗚咽を繰り返す。それは陽菜はるなに向けてのものなのか、両親に向けてのものなのか、はたまた時雨に向けてのものなのか――澄花自身にももうわからなかった。

――陽菜はるながはじめてお菓子を作ったのはいつのことだったか。確かに絵本に載っていたカステラのレシピがきっかけだったと澄花は記憶している。そのお菓子はひどく拙い出来だったが、とても美味しかったのを覚えている。

 陽菜はるなとの記憶が絶え間なく胸へと去来する。彼女の笑顔を、声を思い出す度に、自分には無理だという感情が思考を染めていく。

「う……」

 ふいに陽菜はるなが寝苦しそうに顔を歪めた。はっとして、澄花は陽菜はるなの首から手を離す。

 無理だ。やっぱり自分には無理だった。自分には陽菜はるなの生命を奪うなんてことはできない。だって、世界にたった一人の大切な妹なのだから。

 普通の姉妹に比べて距離があったことは否めない。家の中が陽菜はるなを中心に回ることを疎んじたこともあった。それでも陽菜はるなは自分にとって大切な妹であることは変わらない。

「おねえ、ちゃん……?」

 眠たげな声にそう呼ばれ、澄花はびくりとした。いつの間にか陽菜はるなはうっすらと目を開けていた。

 一瞬、二人の視線が交錯した。一秒、二秒、三秒。それだけの間が澄花にはやけに長く感じられた。

 寝ぼけていただけだったのか、陽菜はるなは再び目を閉じると、すう、すうと寝息を立て始めた。澄花はおやすみ、と呟く。その声の響きにはごめんねとさよならが混ざり合っていた。

 澄花はあの後、どうやって時雨の屋敷まで帰ってきたのかよく覚えていない。安堵と後悔が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。これでよかったのかと、どうして陽菜はるなを殺せなかったのかと、ずっと自問自答し続けていた。

「――お戻りになられましたか」

 澄花が中庭の祠から姿を現すと、漣が待っていた。よく切れる刃物のような漣の声音に、澄花は俯いた。漣の顔をまともに見られない。澄花は蚊の鳴くような声で詫びの言葉を口にする。

「漣さん、ごめんなさい。わたしには、無理でした。陽菜はるなを殺すなんて、わたしにはどうしてもできませんでした。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」

 澄花はごめんなさい、と何度も繰り返す。その声にはだんだんと涙の気配が混ざっていく。

 時雨のために何もできなかった自分が情けなかった。だけど、自分が陽菜はるなの生命を奪うことにならなくてよかったとも思っていた。時雨にも陽菜はるなにも幸せに健やかに生きてほしいと思ってしまう自分は、どうして役立たずのくせにこんなに欲張りなのだろう。

 そんな澄花を尻目に、漣は嘆息する。澄花を見る目は氷の冷たさを帯びていた。

「――澄花様。貴女には失望しました。時雨様への貴女の想いはその程度のものだったのですね」

「そんなっ……ちがっ……わたしは、時雨様のことを、愛して……っ!」

「ならば、どうして貴女は選ぶことができなかったのですか? 時雨様か、妹か。時雨様を心から愛していらっしゃるというのなら、考えるまでもないことのはずでしょう?」

 それは、と澄花は口籠る。漣の指摘は正鵠を得ていた。澄花の眼窩を涙が溢れ出る。鼻の奥がつんとした。

「時雨様を愛しているのは本心です。だけど……時雨様も、陽菜はるなも、わたしにとってはどちらも大切なんです……どちらも、失くしたくないって思ってしまったんです……」

 お話になりませんね、と漣は肩をすくめる。うわああああっと、澄花は子供のように声を上げて泣いた。

 このままだときっと、遠くない未来に時雨はいなくなってしまう。自分たちを死が別つのだ。

 耐えられないと思った。けれど、陽菜はるなの生命を奪うのも嫌だ。もう一度陽菜はるなの殺害を試みるなど、自分にはできそうにない。

 ざっざっと玉砂利を蹴るようにして誰かが近づいてきていた。その足音の主は漣と澄花の姿を認めると、棘のある声を放つ。その声は幼い少女の姿からは想像もつかないほど鋭いものだった。

「――漣、そこで何をしているの? いえ、質問が違うわね。――あなた、澄花に一体何をさせたの?」

 しゃくり上げながら澄花が顔を上げると、愛らしい顔を怒りに染めた紅雨こううが立っていた。その背後には水霜が控えている。

 夜空は分厚い雲に包まれたままで、川底に月の光は届かない。重苦しくひりついた空気が深夜の中庭に立ち込めていた。

Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 雨女と水神の契約結婚   終章:呼び合う想いは星空の下に

    (久しぶりだな……)  駅の階段を上り、地上に出ると澄花はそっと息を吐いた。目の前の幹線道路を車が行き交い、歩行者用信号が点滅している。  小さなスーパー。オレンジ色の看板が煌々と光るビジネスホテル。大きいトラックの停まるコンビニ。  スーパーの隣にあったはずの美容室はいつの間にか姿を消し、カフェへと変わっていた。そんな些細なことからも時の流れを感じる。  澄花は大学進学に伴い、地元を離れた。そして、そのまま地方で就職したため、こうしてこの辺りに帰ってくるのは久しぶりだ。 (この前来たときは秋だったっけ……リオンが亡くなったとき……)  今は七月。早めの夏季休暇を取って、澄花は九ヶ月ぶりに実家へと帰ってきていた。  もわっと湿気を帯びた風が澄花の肌を撫でる。夜になっても残る夏の暑さを感じながら、澄花は横断歩道を渡った。  宵闇に浮かび上がる看板に吸い込まれるようにして、澄花の足はコンビニへと向かった。コンビニの店内に足を踏み入れると、流行歌のBGMと空調の冷気が澄花を迎え入れた。うっすらと肌に滲んでいた汗が引いていくのを感じる。  なんとはなしに店内を歩き回るうちに、澄花の視界にとあるゴンドラが飛び込んできた。棚には河川敷で遊ぶ客向けに手持ち花火のセットが陳列されていた。 (懐かしいな……)  花火セットの中の線香花火を見ながら、澄花はあの日のことを思い起こす。――時雨と過ごした最後の夜を。  あの日見た線香花火の神秘的な青色が今でも脳裏に鮮やかに浮かぶ。煤の匂いも、時雨の着物の香も、寄せ合った肩のぬくもりも、昨日のことのようにありありと思い出せる。  あれから十五年が経った。いつの間にか、時雨と過ごしたあの時代に年齢が追いついていた。あのころは少女だった澄花も、今や三十三歳の大人の女性となっていた。  時雨と離れてからも、彼を愛する想いは変わらなかった。地元を離れてから、大学の同級生や同僚から言い寄られることはあったが、澄花は時雨への想いを貫き続けていた。どうしても、誰かを時雨よりも好きになることができなかった。――あの短い恋は、澄花にとって最初で最後の恋だった。  両親には申し訳ないが、自分は一生このまま一人なのだろうと思う。けれど、今の自分は独りではない。あの日々の思い出が澄花のことを支えてくれていた。  行ってみようか。ふい

  • 雨女と水神の契約結婚   第六章:見えない銀河に幸せを祈る⑤

     ぴちょん、ぴちょんと水面を水滴が跳ね、波紋が広がっていく。雲で覆われた空が泣いていた。催涙雨が別たれた恋人たちの年に一度の逢瀬を阻んでいた。 (雨、か……)  今朝、時雨から贈られた着物に袖を通した澄花は下駄を履きながらそんなことを思う。かつてはあんなに憎んだ雨も、今となっては愛しいあの人の囁き声のようだ。  もうこれからは絶対に引き返せない。引き返してはならないのだ。澄花は己にそう言い聞かせると、玉砂利を鳴らし、御霊石の祀られている祠へと向けて中庭を横切っていく。  祠の前にはこの屋敷に住まう面々が勢揃いしていた。お待たせして申し訳ありません、と澄花が声をかけると時雨がこちらを振り返って口元を綻ばせた。 「――澄花。着てくれたんだな。今までに見た中で――一番綺麗だ」  華やかな着物に少し気後れしていた澄花はありがとうございます、とはにかんだ。二人は視線が交錯すると頷きあう。――それは二人にとってのさよならの合図だった。 「さて、澄花。儀式を始めよう。――私と君にとっての最後の儀式を」 「はい……時雨様」  澄花は漣と何回も確認を繰り返した通り、御霊石へと手を翳した。そして、今日この日まで頭に刻み込み続けた祝詞を誦じ始めた。 「――吾は雨に愛されし巫女、この地に恵みをもたらす存在なり。この地を守りし水の神よ、吾が手を取り、渇いた大地を潤す力を受け取り給え」  澄花の横に並び立つと、時雨も御霊石へと手を翳す。かすかに手と手が触れ合った。澄花の声に時雨の言葉が重なっていく。 「――愛しき巫女よ、清き祈りのすべてを我へ。その力の全てを以て、我はこの地を守り、水の恵みをもたらすことを誓わん」 「この力は清流のごとく、汝の身を満たすだろう。この地に繁栄が千歳(ちとせ)の間、齎されることを吾は希う。次の千年、その次の千年を水の恵みがこの地を守ることを夢見んとす」 「我に力を、この地に恵みを。汝の祈りは力となり、我の中に満ちるだろう。水を司る者の名において、この地を雨で守ることを誓わん」  二人は唇を交わし合った。雨催いの巫女と水神の間で一つの契約が成る。  御霊石が青く輝き始めた。それは澄花が見たことがないほどに眩い光を放っていた。  澄花の中を何かが走り

  • 雨女と水神の契約結婚   第六章:見えない銀河に幸せを祈る④

    「――澄花、少々いいかしら?」  時雨との時間を過ごした後、澄花が自室に戻ろうとしていると、幼い少女の声に呼び止められた。振り返ると、そこには紅雨が立っていた。 「紅雨様? どうなさいましたか?」 「ねえ、澄花……あなた、本当に納得しているの?」  紅雨の透き通った空色の双眸がまっすぐに澄花を見上げた。澄花は悲しげに笑うと、紅雨の目を見返した。 「どれだけ考えても、これ以外手段がなかったんです。時雨様が幸せに健やかに生きてくれるなら……そのことを信じられるなら、わたしはお側にいられなくなっても構いません」  雨催いの巫女の力をすべて時雨の御霊石に注ぎ込み、婚姻関係も眷属としての契約もすべて解除する――それが澄花の出した結論だった。  時雨の眷属ですらなくなれば、もう澄花は川の世界では生きられない。そのことは理解していた。それでも時雨が一分一秒でも長く生きてくれるのなら、それで構わない。澄花はそう思っていた。 「だとしても澄花、あなたの心はどうなるんですの? 人とは脆いもの。お兄様と離れて、あなたは幸せに生きていけるんですの?」 「――紅雨様。時雨様の幸せがわたしの幸せです。だから、大丈夫です」 「澄花……ごめんなさい。わたくしがあなたにそんな顔をさせてしまっているんですわよね。わたくしが水神として覚醒していれば、あなたにそんな辛い思いを強いることもなかった……」 「紅雨様のせいじゃありません。これはわたしが……わたしの意志で決めたことです」 「本当に……いいんですのね? 後悔しない?」  しません、と紅雨の問いに澄花は首を横に振った。泣いた跡の残る彼女の黒瞳には、悲しみ、淋しさ、切なさ、痛み――それらが渦を巻いていたが、その中に確かな決意が宿っていた。 「時雨様がこの世からいなくなってしまうほうが、わたしは嫌です。そのほうがわたしは後悔します。時雨様さえ幸せでいてくれるなら、わたしはきっと生きていけます」  澄花は言葉を切る。自分が選んだことは間違いじゃない。そう信じたかった。 「時雨様にはたくさんのものをもらいました。誰かを好きになる気持ちも、心をこめた贈り物も、かけがえのない思い出も」  澄花は肌襦袢の内側から翡

  • 雨女と水神の契約結婚   第六章:見えない銀河に幸せを祈る③

     胡麻豆腐に蕪のすり流し。お造り風にした湯葉に白味噌仕立ての茄子田楽。冬瓜の含め煮にほうれん草の胡麻和え。梅粥に、水菓子には時雨が好む葛切りの糖蜜がけを用意してある。  早朝に起き出した澄花は、秋水に相談して時雨のための朝餉を作らせてもらった。食欲の落ちている時雨でも食べやすく、なおかつ彼が好む献立にまとめた。 「澄花様、上出来です」 「いえ、秋水さんのおかげですよ。わたし一人じゃ間に合わなくって秋水さんにもたくさん手伝っていただきましたし」 「それでも、澄花様が作られたということが大切です。澄花様がお作りになったお食事ともなれば、時雨様も召し上がってくれるかもしれませんし」  厨房を主に取り仕切る秋水は日に日に時雨の食が細くなっていくことに頭を悩ませていた。そんな彼女に昨日の夕餉の後、澄花は声をかけた。――わたしが作ってみてもいいですか、と。  時雨の身体のことを考え、二人は翌朝の食事に何を作るか話し合った。そして、澄花は午前三時に起き出して、厨房に火を入れたのだった。  ごろごろと重たい戸車が鳴り、雨戸が戸袋へと収まっていく音が響く。廊下をぱたぱたと足音が行き交う。一日が始まった音だった。 「それでは秋水さん、わたし、時雨様の部屋に行ってきますね。本当にありがとうございました。後片付けお任せしてしまってすみません」  澄花が頭を下げると、早く行ってらしてくださいと秋水は微笑んだ。澄花はずっしりと重い盆を持つと、厨房を出る。藍色の暖簾が揺れる。  座敷を通り過ぎようとすると、紅雨が朝餉を摂っていた。彼女は箸を止めると、おはよう、と空色の目を細めた。 「おはようございます、紅雨様」 「澄花。先ほど秋水から聞いたけれど、お兄様のために朝餉を拵えてくださったそうですわね。特にその胡麻豆腐が美味しそうですわ。お兄様は幸せ者ね」 「お褒めいただいて嬉しいです。胡麻豆腐でしたら、まだ少し残っていたはずなので、よろしかったら召し上がってください」 「ありがとう、澄花。……っと、こんなところで呼び止めてしまって申し訳なかったわね。早くお兄様のところに行って差し上げて。今ごろ首を長くして待っていらっしゃるはずですわ。―

  • 雨女と水神の契約結婚   第六章:見えない銀河に幸せを祈る②

     秋水が朝餉の盆を下げに来たのと入れ替わりで誰かが訪ねてきたのに気付き、漣は背後を振り返った。障子に映る小柄な影は時雨のものではない。漣は誰何を問うた。 「わたし……澄花です。漣さんに聞きたいことがあって来ました」  どうしたものかと漣は逡巡する。謹慎中だというのに、あまり勝手なことをしては更に時雨や紅雨の怒りを買ってしまいそうだった。 「また後日にしていただけませんか。澄花様もご存知の通り、私は謹慎中の身なので」 「わかっています。けれど、他ならない時雨様のことなんです。取り返しのつかないことになる前にどうにかしないと……」  澄花の声は切羽詰まっている。先ほど、秋水からも時雨が伏せっているということは聞いていた。  漣の顔に苦いものが浮かぶ。時雨を守るために力を貸せと先に澄花に迫ったのは自分だ。よもや、同じことを澄花にされ返すとは。自分は澄花を侮っていたのかもしれない。 「わかりました。それでは五分だけですが、時間をとりましょう」  ありがとうございます、と礼を言うと澄花は漣の部屋に足を踏み入れる。床の間には大太刀が飾られており、風雅な雰囲気の時雨の部屋との違いが感じられた。  澄花は畳に膝をつくと、抱えていた書物を置いた。彼女の目元には黒々とした隈ができている。 「眠れなかった……というわけではなさそうですね。ご用件はそれですか」 「はい。わたし、一昨日の夜に漣さんが仰っておられたことを思い出して……わたしなりに調べてみたんです」 ――雨催いの巫女の力をすべて時雨様の御霊石に注ぎ、婚姻関係も眷属の契約もすべて解消して時雨様の元を離れるか。  一昨日の一件で、自分が時雨の御霊石に働きかけることができるのはわかっている。ならば、あとは自分の雨催いの巫女の力をどう扱うかだ。時雨の弱り方を考えると、慎重にならざるを得ない。失敗するわけにはいかなかった。 「ふむ、雨催いの巫女についての書物ですか……そして、こちらは歴代の水神について……」  漣は澄花が持ってきた書物に目を通す。しかし、これでは足りない。 「正直、これでは情報不足感が否めませんね。今から言う内容の書物を蔵から探して持ってきてください」  これとこれと

  • 雨女と水神の契約結婚   第六章:見えない銀河に幸せを祈る①

    「――その話、私にも聞かせてもらおうか」  玉砂利を踏む音と共に低い声が響いた。いつもは穏やかで優しい声も今は荒れた川のような激しさを内包している。 「時雨様……」  澄花はその人の名を呼ぶ。しかし、時雨は水鞠を伴って澄花の前を通り過ぎ、祠へと向かう。 「――閉じよ、一夜の夢を繋ぎし路。世界のあわいは閉じられ、別々の夢を見るだろう。水を司る者の名の元に、幸せな夢が訪れんことを祈らん」  時雨は低い声でそう唱えた。祠の御霊石から青い光がすうっと消えていく。あたりには宙を舞う水泡と蛍の光が舞うばかりだった。  ふいに時雨の身体が傾いだ。咄嗟に澄花は時雨の身体を支えようとする。大丈夫だ、と時雨は澄花の手を払った。 「お兄様、場所を移しましょう。どうやら、漣からも澄花からも話を聞かないといけないようですから」  紅雨の言葉にそうだな、と時雨は頷いた。中庭に集まっていた面々は中庭を横切り、沓脱石で下駄を脱ぐと、時雨の部屋へと向かった。  時雨の部屋に着くと、水鞠は四人分の座布団を用意した。時雨は上座のそれに腰を下ろすと、紅雨に澄花、漣に座るように言った。 「水鞠、すまなかったな。部屋に戻ってくれ」 「水霜も今日はもう部屋に戻ってちょうだい」  水神の兄妹にそう言われ、水鞠と水霜の二人は時雨の部屋を辞した。二人とも、今宵一体何が起きていたのかと思うと眠れそうになかった。 「――さて、お兄様。わたくしの部屋で待っているように言ったのに、そんなこともできないなんて犬以下なんですの? いえ、お兄様のお説教は後にいたしましょう。 ――漣。何があったのかを洗いざらい吐いてもらいますわよ」  一瞬向けられた矛先に時雨はびくりとする。しかし、今はそんな場合ではないと咳払いをして居住いを正すと、漣へと厳しい視線を向ける。 「――漣、何があった? 澄花に何をさせた?」  怒りを孕んだ二対の双眸が漣に向けられる。わたしがいけないんです、と澄花は居た堪れなくなって口を開いた。 「わたし……時雨様のために何もできませんでした。時雨様のためだからと、漣さんに頼まれたのに……できなかったんです。――妹を殺せなかったんです」 「なっ……漣、あなた、自分が澄花に何をさせようとしたかわかってるんですの!? あなた、心がないんですの!

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status