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第五章:二人の巫女と迷いの夜②

Author: 七森香歌
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-19 20:22:58

 その日の夜、屋敷の裏にある蔵へと澄花は呼び出されていた。紙と墨の匂いが漂う薄暗い蔵の中で、澄花はとある人物を待っていた。

 午前中に漣が澄花の元へ持ってきた手紙。その差出人は紅雨こううではなかった。あの手紙を書いた主――今ここに澄花を呼び出しているのは漣だった。

――時雨様についてお耳に入れたい話があります。今夜、夜十時に蔵に来てください。水鞠は連れずに、お一人で。

 可愛らしい便箋の意匠に反して、内容はひどく簡潔だった。一人で、というのが気に掛かりはしたが、まさか漣が自分に危害を加えることもないだろう。漣は時雨の右腕――時雨が澄花のことをどう思っているか誰より知っている人物なのだから。

 ギィと蝶番が軋む音と共に、青銅の扉が開いた。扉の隙間から、宙を舞う水泡と蛍の二色の光が淡く差し込んでくる。

 すっとチャコールグレーのスーツに身を包んだ男は扉の隙間に身体を滑り込ませると、静かに扉を閉める。蔵の中がどうにかお互いの顔が確認できるくらいの仄暗い闇に包まれると、漣は口を開いた。

「澄花様、お待たせして申し訳ありません」

「いえ、わたしも先ほど来たところですので。それより、時雨様についてお話があるとのことですけど、どのような――」

「澄花様はこの先も、時雨様と共にいたいですか?」

 直球な漣の質問に顔が熱くなった。午前中の様子を漣に見られてしまった手前、彼とうまく目を合わせられない。

「あっ……当たり前です。わたしは……時雨様を誰より大切に思っているんですから」

「あなたは時雨様のためなら、なんだってできますか?」

 それが自らの手を汚すようなことであっても。その言葉は漣は自分の口の中に閉じ込めておく。余計なことを言って澄花を躊躇わせたくない。今は言質を取るのが先だ。

「もちろんです。わたしは時雨様のためなら、生命だって差し出せます。――時雨様が望むのなら」

 それは漣にとって充分な答えだった。かかった、と漣は怜悧な笑みを浮かべる。

「時雨様が最近体調がよろしくないことは澄花様もご存じですね。それを夏バテだと仰っておられることも」

 ええ、と澄花は頷いた。漣は話を続ける。

「澄花様は中庭の御霊石ごりょうせきがだんだんと小さくなってきているのをご存じですか?」

「――え?」

 唇が震えるのを澄花は感じた。御霊石ごりょうせきは時雨の力の源だ。それが小さくなっているということは、時雨の力が弱っているということを意味している。

 事態を理解したらしい澄花の顔が強張っていくのが暗がりでもわかった。漣は哀れな少女へと現実を突きつけていく。

「猛暑による旱魃からこの地を守るため、時雨様は身を削っていらっしゃいます。しかし、このままでは時雨様は力を使い果たして消えてしまいます。――それを防ぐため、澄花様には選んでいただきたいのです」

 澄花に取れる選択肢は二つ。しかし、漣は確信していた。――彼女は後者を選ぶであろうことを。

雨催あまもよいの巫女の力をすべて時雨様の御霊石ごりょうせきに注ぎ、婚姻関係も眷属の契約もすべて解消して時雨様の元を離れるか。契約結婚も眷属を抱えることも、時雨様にとって神力を削ることなのです。――あるいは、澄花様がこの猛暑の原因となっているものを排除するか」

「猛暑の原因、ですか?」

「はい。日輪の巫女という存在がこの地にはいます。そのものは太陽を呼び、大地に恵みをもたらす存在です。しかし、その者の力が強まったことによって、時雨様は苦しんでおられます。――澄花様には、日輪の巫女を殺してほしいのです」

「えっ……殺、す……?」

 衝撃的なその単語を思わず澄花は反芻する。自分に誰かを殺すことなどできるだろうか。仮にできたとして、何も感じずに時雨の側で今後も生きていけるだろうか。

「先ほど、澄花様は時雨様のためなら生命だって差し出せると仰いました。それならば、人ひとり殺すことくらい、造作もないことでしょう。――それが他ならぬ時雨様のためであるともなれば」

 時雨のため。時雨が消えていなくなってしまうくらいなら、自分が手を汚すほうがまだマシだ。あの穏やかな笑みが、優しい声が、触れ合った温もりがなくなってしまうくらいなら。

「……わかりました」

 澄花は蚊の鳴くような声で返事をした。どこの誰とも知らない誰かに、心の中で詫びながら。

「ありがとうございます。そうそう、澄花様にはもう一つお伝えしておかなければならないことがありました」

 漣は一度言葉を切る。そして、次に口を開いた彼から飛び出した言葉はひどく冷たい響きを纏っていた。

「日輪の巫女の名は、雨霧陽菜はるな。――あなたの妹です」

 澄花は目の前が真っ暗になるのを感じた。冷たく静かな表情で自分を見下ろす漣が悪魔のように感じられた。澄花は己の運命を呪わないではいられなかった。

「――我、水を治めし者。此の地を潤さんがため、あわいの境へ踏み入ることを希わん。祈りに応え、一夜の路を開け」

 中庭の祠の前で澄花はそう誦じた。それは雨乞いの儀式の際、地上への道を開くために時雨がいつも唱えている祝詞だった。

 この祝詞を唱えるように言ったのは漣だった。時雨の力を補って余りある力の持ち主である澄花ならば、川の世界と地上のあわいへ働きかけることも可能だろう、と。

 その石は澄花が初めて目にしたときよりも、明らかに一回り以上小さくなっている。漣がこのような強硬策に出た理由も納得はできなくても理解はできる。

(時雨様……)

 今朝、抱きしめてくれた身体はいつの間にか澄花が知っているものよりも痩せてしまっていた。時雨の身を案じているのは澄花だって同じだった。

 今、時雨のことを守れるのは自分しかいない。時雨のことを思うなら、自分がやるしかないのだ。――それが実の妹を手にかけることだったとしても。

(陽菜はるな、ごめん……ごめんね……。お父さんも、お母さんもごめんなさい……こんなことしかできない、親不孝な娘で……)

 陽菜はるなのことを思うと、胸がぎゅっと締め付けられる。時雨のためとはいえ、陽菜はるなを殺めることには躊躇いがあった。

 両親にだって申し訳ない。娘が二人ともいなくなってしまうなんて。しかも、陽菜はるなを殺めたのがいなくなったはずの自分だなんて、両親が知ったら心を病んでしまうかもしれない。

 何で自分が、と思う。けれど、自分でなければできないことなのだとも思う。苦悩のあまり、澄花は唇を噛む。

 あまりここでぐずぐずしていて、誰かに見咎められてしまってはいけない。これから澄花が行なおうとしていることは漣と自分しか知らないのだ。

 誰にも見られないうちに早く行かなくては。けれど、誰かに止めて欲しいと思っている自分が心の中に同居していた。

 閉じた雨戸の内側で、廊下を誰かがこちらに向かって歩いてくる音がした。澄花ははっとして、祠の石へと急いで手を伸ばす。彼女が御霊石ごりょうせきへと触れると青い光が溢れだした。

 水の匂いを放つ石は時雨の肌のようにひんやりと冷たい。その石はいつの間にか澄花の両手にすっぽりとおさまる大きさになってしまっていた。そのことが澄花にとっては悲しく切なかった。――優しいあの人が、誰にも何も言わずにこんなになるまで自分をここまですり減らしていたことが。

 澄花の身体を包む水の膜が青い光を放ち始める。一瞬の後、澄花は祠の中へと吸い込まれていった。

 二色の淡い光が飛び交う中庭では、竹垣に蔓を這わせた朝顔が蕾の中に顔を隠している。青い光を放つ御霊石ごりょうせきだけが、つい先程までここに少女がいたことを知らしめていた。

 水神社の鳥居を出た澄花は空を見上げた。空は灰色の分厚い雲に覆われ、月は顔を隠している。夏の星座を形取る星々も今は見えない。

(水の匂いがしない……今夜は雨は降らなさそう)

 それは雨催あまもよいの巫女である澄花の力よりも日輪の巫女の力の方が強いということを意味していた。昔は澄花がちょっと外に出ただけで、天はたちどころに泣き出したというのに。

 境内の外の川沿いの道を車が走っていった。それを見送ると、そっと鳥居を出て澄花は水神社のある八霧神社の境内を歩き始める。

 この神社には、夏祭りの度に陽菜はるなと訪れた記憶がある。そぼ降る雨の中、暖かい色に光る電球。赤と白の提灯に立ち並ぶ屋台。陽菜はるなはベビーカステラが好きで、夏祭りの度に一緒に分け合って食べたのを覚えている。

(――そうだ、あの子、いつもりんご飴も欲しがってたな。絶対に食べ切れないのに)

 澄花は人気のない神社の境内に、幼い妹の面影を見た。きらきらと光る飴に包まれた赤い果実。いつもそれを家に持ち帰っては陽菜はるなはどうにか食べようと格闘していた。大抵三分の一も食べないうちにギブアップすることになり、残りを澄花が引き受けてきたが。そんな些細なことも今の澄花にとっては昨日のことのように思い出せる大切な記憶だ。

 鳥居をくぐり、澄花は八霧神社を出る。神社を出てすぐの家は変わらずまだそこにあった。しかし、澄花の視界に入る限りでも、何軒かの家が姿を消し、新しいものへと建て替えられている。澄花が中学生のころの大型台風によって地価が上がったこの地域には、元々古い家が新しい家へと建て替えられる動きはあったものの、これだけ風景が様変わりしていると十五年という年月を感じざるを得ない。

 こつこつ、と夜の静寂に下駄の音を響かせて澄花は記憶にある道を辿る。

 駐車場に電柱。中学生の同級生の家に右手に見える曲がり角。古くからの家の門扉の側に佇む地蔵尊。そして、カーブミラーのある曲がり角に、三十三番地を示すプレート。

 澄花はその角を曲がる。むわっとした空気を孕んだ夜風が楝色(おうちいろ)の着物を肌に張り付かせた。

 辺りにあった古い家々はもうない。代わりにコンパクトなサイズの新しい戸建てが密集するように建っていた。

(ああ……あの家、もうないんだ)

 前はこの辺りにリオンと同じブラックタンのミニチュアダックスフントを飼っている家があった。ミニチュアダックスフントらしくよく吠える犬だったが、見かける度に微笑ましく思ったものだ。

 寝静まった住宅街を澄花は歩く。右側には細い路地が続く。左側には十五年の年月を重ねた姿のアパートが佇んでいた。

 少し先に見覚えのある赤い自販機が見えた。しかし、自販機の横にあったはずの古い民家は姿も形もない。

(ここ……だよね)

 路地の入り口にある駐車場の、草が伸び放題な姿は記憶にあるままだ。慣れない家々に複雑な思いを覚えながら、澄花は路地へと足を踏み入れる。

 あの家がもうないということは、陽菜はるなのことを孫のように可愛がってくれたあのおばあさんはもうこの世にはいないのかもしれない。

 駐車場の先、路地の右側に家が三軒見えた。そのうちの二軒目――白い壁の家が澄花の実家だ。

 もう夜も更けている。家族全員が眠りについていることを祈りながら、袂に忍ばせた家の鍵へと澄花は手を伸ばす。

「――あれ?」

 澄花は玄関のドアの鍵が変わっていることに気づいた。ドアに取り付けられているのは、かつてのシリンダー錠ではなく、指紋認証による電子錠だった。

 どうしよう、と澄花は眉尻を下げた。しかし、これで陽菜はるなを殺さずに済む理由ができたと安堵しかけた――そのとき。

 澄花は鍵に零から九までの数字が刻印されたボタンがあることに気づいた。もしかして、と思いながら澄花は脳裏を過った四桁の数字を入力した。――それは両親が銀行口座やタブレットの暗証番号などによく使っていた語呂合わせのあの数字。

 がちゃん、と音が響き鍵が開いた。そんな、と思いながらも澄花は音を立てないようにドアハンドルを引くと、十五年ぶりの我が家へと足を踏み入れる。玄関で下駄を脱ぐと、リオンに気づかれないように足音を忍ばせて澄花は二階への階段を登ろうとした。

 そのとき、ふわりと線香の煙の匂いが一階を静かに満たしているのに澄花は気がついた。なんだろう、と思いながら澄花はリビングへと足を運ぶ。

(あ……)

 リビングの一角に仏壇が設えられていた。その側には今と同じ顔の自分の写真とリオンの写真が遺影として置かれていた。

(そっか……あの子、死んじゃったんだ……)

 リビングの隅にあったリオンのケージはもうない。あるのはほのかな気配と染みついた獣の匂いだけだった。

 自分が死んだことになっているのはまだいい。川に飛び込んで遺体が見つからなかったとなれば、そう結論づけられるのは当然のことだ。

 しかし、可愛がっていた愛犬の死には、静かな悲しみが込み上げてきた。十五年というのは犬が老いて死んでいくのには充分すぎる年月だ。

 目の奥を熱いものが込み上げてくるのを感じた。リオン。愛犬の名を心の中で呼びながら、澄花は指先で目元を拭った。

 ここで悲しみに浸っている場合ではない。両親に見つからないうちに目的を遂行せねばならない。

 仏壇の前で澄花はそっと手を合わせた。そして、彼女はリビングを出ると、静かに二階への階段を登っていった。――今夜の陽菜はるながせめて、幸せな夢を見ていることを願って。

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