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第四章:初めての恋に祈りを込めて①

Author: 七森香歌
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-18 20:07:52

「――何だって言葉にしてくれないとわからないじゃないですか!」

「言葉……」

 声を荒らげる澄花に、時雨はそう反芻した。澄花の声が渦を巻いて水を伝播していく。そうですと頷くと、澄花は言葉を続けていく。

「わたしは時雨様が何を考えているか、話してほしいです! なんで時雨様がわたしを避けているのかだって、この前のお菓子が口に合ったかどうかだって、ちゃんと全部、知りたいです!」

 澄花、と彼女の名を呼んだ声が掠れた。彼女はこうして自分の気持ちを言葉にしてくれた。ならば、自分もその想いに応えるべきだ。漣にも自分の心に正直になるようにと諭されたばかりだ。

「――笑わないで聞いてほしい。それに、私は君が思っているような男ではないかもしれない。……きっと、君はがっかりする」

「笑いませんよ。それに、時雨様についてのお話は紅雨こうう様からいろいろと伺っていますから、今更何を聞いたところでがっかりしたりなんてしません。――だから、話してください。他でもない時雨様ご自身の言葉で」

 わかった、と時雨は首を縦に振った。こんなことを口にするのは情けないし、居心地が悪い。それでもと意を決すると時雨は口を開いた。

「雨乞いの儀式のとき、必要なことであったとはいえ、君の唇を奪ってしまっただろう。好きでもない男とそんなことをするなど、嫌だったんじゃないかと気にかかっていた。しかし、敢えて蒸し返す気にもなれなくて、君にどう接したものかとわからなくなってしまっていたんだ」

「え……」

 思ってもいなかった時雨の言葉に澄花は言葉を失った。かあっと顔が熱くなっていくのを感じる。澄花は魚のようにしばらく口をぱくぱくさせていたが、どうにか蚊の鳴くような声で言葉を絞り出す。

「事前にお話をいただいていましたし、そういう儀式だって理解していましたから大丈夫です。それにわたしは……時雨様のなさることなら何だって嫌じゃありません」

 それはどういう、と時雨は怪訝そうな表情を浮かべる。はっとして澄花は手で口を覆った。しかし、一度発してしまった言葉はこぼれ落ちてしまった水と同じで元には戻らない。あわあわする澄花につられて、自分の耳が熱くなっていくのを時雨は感じた。ぱちっと水泡が弾ける。

「……それはそうと、先日のお菓子はお口に合いましたか? 紅雨こうう様から時雨様は葛がお好きだと伺ったので、秋水しゅうすいさんに教えていただいて作ったんですけれど……」

「美味かった。澄花は料理が上手いな。是非また作ってほしい」

「喜んで。わたし、他にも時雨様がお好きなものがあれば知りたいです。――教えてくださいますか?」

「構わない。澄花が好きなものも教えてくれるか。――知りたいんだ、君のことを」

 時雨と澄花の視線が交錯する。知りたいという熱が二人の双眸には宿っている。ふわふわと舞う水泡に照らされた二人の頬はうっすらと紅色に色付いていた。

「――時雨様。わたしの家では家族全員でご飯を食べる習慣があるんです。平日は毎食は無理でも、朝だけは揃って食べるようにしているんです。

 だから、わたしたちも一緒に食事を摂ることから始めませんか? 食卓を囲んで話すうちに、きっとお互いのことを自然と知っていけると思うんです」

 澄花の提案になるほどな、と時雨は頷いた。食事と会話。それは澄花の言う通り、互いのことを知るいいきっかけになりそうだと思った。

「食事、か。それはいいかもしれない。食事を通して君の好きな食べ物や茶が知れるしな」

「それでは、ご都合が悪くなければ、明日の朝から食事をご一緒いたしませんか?」

 構わない、と時雨は頷いた。明日の着物の色は何色にしよう。帯は? 羽織の色は? 時雨は心が浮き立つのを感じた。部屋に戻ったら早速漣に相談しよう。

「もう遅い。部屋まで送っていこう」

 そっと時雨は澄花の手を握る。彼女は驚いたような顔をしたが、そっと時雨の手を握り返してきた。

 じゃりじゃりと玉砂利を鳴らしながら二人は中庭を横切っていく。水面から差し込んでくる月の光はその角度を僅かに変えていた。

「――へ?」

 翌朝、座敷に姿を現した時雨の姿を見て、澄花は目を瞬いた。時雨の姿はどこかの結婚式にでも参列するのかと言わんばかりの紋付袴姿だ。対する澄花は花緑青の亀甲柄の着物に薄桃色の帯という普段と大差ない姿だった。

「おはよう、澄花。梅雨空の下に咲く撫子のように可憐だな。待たせてしまってすまない」

「え、ええ……その、時雨様、おはようございます……」

 流れるような賛美の言葉に頬を赤らめながら澄花は時雨へと挨拶を返す。時雨が上座に腰を下ろすと、澄花はちらりと疲れた様子の漣へと視線を向けた。

「あの……漣さん、今日って何かある日でしたっけ……? わたし、水鞠さんからは特に何も聞いていないんですけど……」

 いえ、と漣は力なく首を横に振る。うんざりとした表情を浮かべた目元をくっきりと黒い隈が彩っている。いつもはきっちりと着こなしているチャコールグレーのスーツにも今日はところどころシワが見えた。

「時雨様は澄花様と朝餉を召し上がるのが楽しみで仕方なかったんですよ。昨日、お部屋に帰っていらっしゃるなり、何を着ようかと大騒ぎで……。挙げ句の果てには朝の三時から禊をお始めになられて……今に至ります」

「そ、それは……お疲れ様です……」

 つまりは寝ていないということか。そう悟った澄花は漣に労いの言葉をかけた。澄花は目の前に座る美貌の男神へと視線を移す。漣の話を信じるなら時雨も一睡もしていないことになるが、なぜかいつも以上にやたらと肌ツヤがいい。何やらきらきらとした後光すら纏わり付かせている気がする。

 昨日までの自分なら、時雨が自分との朝餉を楽しみにしてそんなことをしていたなど信じなかっただろう。しかし、今日の澄花はこれまでに紅雨こううから聞かされていた話や先ほどの漣の話が真実だと信じられた。

「漣さん。よろしければお座りになられてください。顔色が悪いですよ」

「すみません、澄花様。お言葉に甘えます」

 よっぽど疲れていたのか、漣は頽れるようにして畳に座り込んだ。「すみませんが、熱い珈琲を淹れてくれませんか。目が覚めるように、濃いやつを」漣は水鞠へと話しかける。水鞠はにこにこと頷くと、厨房へと消えていった。

「……すみません、失礼します」

 そう前置きをすると、漣はスーツの内ポケットから茶色い小瓶を取り出した。瓶の蓋を開けると、漣はそれを一気に飲み干す。瓶のラベルには「最強元気」などと印字されており、漣の苦労と疲れが見て取れた。

 やがて、秋水しゅうすいが朝餉の盆を持って厨房から姿を現した。今日は二人前だというのにその両の細腕は軽々と盆を支えている。

 生クリームと角切りにした桃が添えられたスフレパンケーキ。半熟卵がとろとろとしたベーコンエッグ。季節の野菜を取り入れたサラダにコンソメスープ。そして、グラスの中で黒い水玉を描くタピオカミルクティー。時雨と澄花の前に置かれた朝食は洋風を通り越してカフェで摂る食事のようだった。二〇二五年の世界を生きていたころ、澄花もSNSでこういった写真を何枚も見たことがある。

紅雨こううに聞いて、澄花の時代で流行っていた食べ物を教えてもらった。それを秋水しゅうすいに朝食に取り入れてもらったんだがどうだろうか?」

「お気遣いいただいて嬉しいです。パンケーキ、好きなんです」

「それなら、朝餉は毎日パンケーキにするか?」

「いえ、それではわたしばかりで申し訳ないです。時雨様の好きなものも取り入れましょう。時雨様は何がお好きですか?」

「洋食なら餡バタートーストが好きだ。合わせる珈琲はキリマンジャロがいい。和食ならば、ほうれん草の胡麻和えが好きだな」

 いただきます、と二人は手を合わせると、ナイフとフォークを手に取った。そのとき、水鞠が厨房から戻ってきて、珈琲の入った青海波柄のマグカップを漣に渡した。「朝から甘ったるいですねえ……」漣は半眼で時雨と澄花を見遣りながらエスプレッソと紛うほどに濃い珈琲を啜った。この分ではこの水域の水がすべて砂糖水になってしまいそうだ。夫婦だというのに付き合いたての恋人のような雰囲気を醸し出す二人を彩るように、辺りをハート型の水泡が飛び回っている。

「あんなに甘々なのに、お二人にはご自覚がまるでないんですよね。不思議なものですよね、漣」

「まったく……付き合わされるこっちの身にもなって欲しいところです。糖分過多で胸焼けしそうです……水鞠、胃薬を持っていませんか?」

「胃薬よりも私にいい案がありますよ。これで漣も今夜からは安眠できるはずです」

 水鞠は漣へと何事かと囁きかけた。それはいい、と漣は膝を打った。それなら今夜からの自分の安眠は確約されたも同然だ。

「あれ、時雨様はお肉を召し上がられるんですか? 水鞠さんから、時雨様の眷属は元は魚だから、魚は召し上がらないと聞いたんですけど」

「確かに私や眷属たちは魚は食べない。けれど、肉は普通に食べるぞ。そうだ澄花、翠雨殿からいただいた良い肉があるのだが――」

 時雨と澄花は穏やかに会話を交わしながら、フォークとナイフを動かしていく。和やかだけれど、甘酸っぱく朝の時間は過ぎていった。ずずず、と時雨が太いストローでタピオカミルクティーを啜る音が響く。

 甘。内心で呟きながら漣は珈琲を飲み干す。初々しいやりとりを繰り広げる水神と少女の姿を水鞠は優しい目で見守っていた。

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