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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面⑤

Author: 七森香歌
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-18 15:57:32

「澄花は妹さんと仲がよろしかったんですのね」

 澄花の話を聞き終えた紅雨こううはそう口にした。しかし、澄花は自分が陽菜はるなと仲が良かったのかどうかよくわからなかった。自分と陽菜はるなは八歳も歳の差があり、家族でありながらもどこか遠い存在に感じていた。――とりわけ、陽菜はるなが生まれて、家族の中心が彼女になってしまってからは。

 躊躇いながら澄花がそう言うと、あら、と紅雨は可愛らしく小首を傾げてみせた。

「わたくしとお兄様は千と数百年の歳の差がありますが、そのようなことはあまり感じたことがありませんわ。わたくしたち神と人間では違うのかしら?」

「……そうかもしれません。歳の離れた妹にわたしはどう接したらいいのかわからなくて……」

 陽菜はるなを疎んじたこともあった。テレビは妹の陽菜はるなが優先だった。食べたいものだって、行きたいところだって陽菜はるなが優先された。そのことに澄花が異議を申し立てようとしても、お姉ちゃんでしょ、の一言で全ては片付けられた。

 とはいえ、澄花だって陽菜はるなが可愛くなかったわけではない。陽菜はるなが好きなアニメがあると言えば、見様見真似で画用紙にキャラクターの絵を描いてあげた。陽菜はるなが出先でお気に入りのぬいぐるみを失くしてしまったときは、家にあったフェルトでクマのぬいぐるみを作ってあげた。母の留守の際に、一緒に炊飯器でケーキを作ったりもした。どれもお世辞にも良い出来だったとは言えないが、それでも陽菜はるなはいつだって喜んでくれた。

――おねえちゃん、ありがとう!

 そんなことを澄花が話すとふふ、と紅雨こううは微笑んだ。幼い顔立ちに似合わない慈愛に満ちた笑みだった。

「澄花はちゃんと、"姉"をしていますわよ。わたくしも欲しかったですわ。澄花のようなお姉ちゃんが」

 そんなふうに言われたのは初めてだった。今まで誰かに姉としての自分を肯定してもらえたことはない。ただそれが当たり前だと言う態度を両親は取り、自分もそれを当たり前だと諦めていた。

「それにしても、わたくし、無神経でしたわね。いつもいつもお兄様の話ばかりして。妹さんと離れ離れになって、さぞ寂しいでしょう?」

「わかりません。それに、時雨様のお力がなければどのみち地上にはいけませんから。もし仮に会いに行きたいとしたって、そんなことのために時雨様の手を煩わせれれませんし」

「……そうですわね」

 澄花は淡い笑みを浮かべた。胸を苦いものが過る。

 自分がいなくなったその後の陽菜はるながどうしていたか気にならないといえば嘘になる。彼女は怒っただろうか。それとも泣いたのだろうか。

 自分が逆の立場なら悲しいと思う。泣いて泣いて泣いて――それでも泣き続けるだろう。どうして止めてあげられなかったのか。家族なのに気づいてあげられなかったのか、と。この世にたった一人の大切な妹なのに、と。

 澄花は無意識のうちに唇を噛んでいた。そんな彼女へと、それを寂しいと言うのですわよ、と紅雨こううは諭した。

「伝えたいことがあるのに伝えられない――それは寂しいということですわ。それが届きそうで届かないところにあるともなれば、余計にですわ」

 今の澄花には自分の想いを陽菜はるなに伝えることはできない。けれど、ここで一緒に暮らす時雨はそうではないはずだ。せめて、時雨には今思っていること、感じていることを伝えたい。――今度こそ、取り返しのつかないことにならないうちに。

紅雨こうう様。わたし……時雨様とお話しがしたいです。もう、何日も時雨様とまともに顔を合わせていないんです。わたしに何か至らない点があったなら、きちんと謝りたいんです」

 はあ、と紅雨こううは溜息を吐いた。どうして澄花はこんなに謙虚でいられるのだろう。時雨が澄花を避けているのはそんな理由ではない。思春期を拗らせに拗らせた口に出すのすら憚られる理由だというのに。

「澄花。お兄様はいつも夕餉の後、庭を散歩されるの。夕餉の後は気が抜けていることが多いから、そうそう逃げられることもないと思いますわ」

 お兄様の夕餉が終わったら水霜を遣わせますわ、と紅雨こううは空色の目を片方、茶目っけたっぷりに閉じてみせた。ありがとうございます、と澄花は頭を下げる。

「そうなれば、作戦会議ですわよ。絶対にお兄様が逃げられないようにいたしましょう。まずはわたくしが漣をお兄様から引き剥がして――」

 紅雨こううの無垢な唇から、時雨を逃さないように追い込むための策が告げられていく。これほどまでに自分のためにお膳立てをしてくれる紅雨こううに感謝を覚えながら、澄花はざわざわと波立つ鼓動を感じていた。自分に本当にできるだろうかという不安を手のひらに爪を立てて封じ込める。

 茶器と菓子に囲まれた作戦会議を金魚が葛饅頭の中で涼しい顔で聞いている。茶の入った冷えたグラスの表面を雫がすうっと伝い落ちていった。

 鹿おどしがかつんと音を立てたのが、聴覚の隅に聞こえた。じゃりじゃりと玉砂利を下駄の底で踏みながら、時雨はのんびりと中庭を歩く。水がするすると身体を撫でていくのが心地よかった。

 いつもはそばにいる漣は紅雨こううに呼び出されたとかで今はいない。こうして一人で庭を歩くのは久しぶりだった。

 花の時期が過ぎた卯木の樹。青々と葉を茂らせた楓。柔らかな色の苔に包まれた岩。時折り、夜想曲を奏でるように声嚢を震わせるカエル。ぴちょん、と水が滴り落ちる音がする。

 ふわふわと発光する水泡がクラゲのように宙を漂っている。月はまだ細く、川面から差し込む光はゆらゆらと儚げで遠い。

 時雨は中庭の紫陽花の前で足を止めた。花は盛りを迎え、紫から薄青のグラデーションを描いている。それは先日、澄花が自分のために拵えてくれた菓子を彷彿とさせた。

(――あれは美味かったな。今まで食べた何よりも)

 控えめな甘さの葛ゼリー。そして、その上を飾る青と紫の甘酸っぱい味わいの寒天。

 時雨はあのとき胸を占めた感情に悩まされ続けていた。澄花の作った菓子のように優しいのに、どこか苦しく切ない感情は何千年も生きてきた時雨がまだ知らないものだった。

(――澄花に礼を言わないと)

 勿論、あの直後に澄花に菓子の礼に手紙と品を贈った。しかし、そのことが知れると、そうではないと紅雨こううが部屋に乗り込んできた。

――お兄様は乙女心をまったくわかっておられませんわ! 澄花はお兄様のために勇気を出したのです。その勇気にはお兄様も勇気で応えなければなりませんわ。漣に運ばせるのではない、他の誰でもないお兄様自身の言葉で。

 礼を言うなら直接言えと紅雨こううにはこっぴどく叱られてしまった。けれど、先日の儀式のことを考えると、顔を合わせにくい。

 自分は儀式で必要だったとはいえ、澄花の唇を奪ったのだ。嫌われてしまってはいないだろうか。あるいは接吻の仕方が下手だとか。

 紫陽花を前に悶々と考え込む時雨の背後で玉砂利が鳴った。振り返ると薄浅葱の着物に身を包んだ少女がこちらに近づいてきていた。着物では青色の金魚が泳いでおり、その涼やかさに目を惹きつけられる。

 とくんと時雨の心臓が鳴った。水が揺れる。

「――時雨様」

「……澄花」

 時雨は少女の名を呼んだ。少女は近づいてくると、躊躇うように話し始める。

「こうして……顔を合わせてお話しするのは、お久しぶりですね。お忙しかったんですか?」

「それは……」

 忙しかったなどと嘘をついてしまえればどんなに楽だっただろう。しかし、水神である時雨は嘘がつけない。水が穢れるからだ。

「わたし……時雨様に何か、してしまいましたか? たとえば、わたしのせいであの日の儀式に実は失敗していただとか……」

 そんなことはない、と時雨は首を振った。あの日の儀式は期待以上のものだった。これが雨催あまもよいの巫女の力か、と身が昂りさえもした。

「澄花に問題があるわけではない。すべては……私の問題だ」

 澄花に伝えたいことはたくさんある。はにかんだような可憐な笑顔が好きだとか、この前の菓子が美味しかっただとか。けれど、それが照れ臭くて上手く伝えられないのは時雨自身の問題だ。

 時雨の言葉に澄花は突き放されたような気分がした。澄花は唇を噛む。ああ、また自分は間違ってしまった。時雨はそう悟る。

「契約上の関係とはいえ、わたしたちは夫婦です。時雨様に何か問題があるなら、それを一緒に背負わせてください。時雨様が抱えていらっしゃる問題が原因で、避けられ続けるのは……もう、辛いです」

「澄花……」

 彼女の夫として相応しくありたい。けれど、自分のこんな情けない姿を彼女に見せてもいいのだろうか。彼女に嫌われたくない。

「わたしには時雨様の気持ちがわかりません。人と人ですら、言葉にしなければ伝わらないことも多いんですから、わたしと時雨様であれば尚更です。時雨様――神様の価値観はわたしのような者には図れません。だから――」

 澄花は時雨の目を強く見つめる。その目は今にも泣き出しそうに潤んでいた。

 澄花は息を詰め、指先が着物の袖を握りしめたまま震えていた。そして、そのまま声を絞り出すように、時雨へとありったけの思いをぶつけた。静けさに満ちた中庭を稲妻のように彼女の声が切り裂く。

「――何だって言葉にしてくれないとわからないじゃないですか!」

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