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第3話

Author: 灯ちゃん
絵蓮は普段あまり外出せず、ほとんどの時間をアトリエで過ごしていた。

そんな彼女が、雪の降る日に出かけると聞いて、梓は少し意外そうに首をかしげた。

「絵蓮、彼氏もいないのに、こんな天気なのに、どこ行くの?」

この家を離れるつもりだとは言えず、彼女はとっさに言葉を濁した。

「ちょっと……用事があるの」

どうせ大使館に着けば、そのうちふたりにもわかることだ。

梓はそれ以上は深く聞かず、すぐに今日のデートの予定を衡稀と話しはじめた。

二人の会話は楽しげで、まるで後部座席に彼女がいることなど忘れてしまったかのようだった。

赤信号で車が止まったとき、梓はリップを取り出して、メイクを直してほしいと甘えた。

衡稀は断りもせず、丁寧にリップを塗った。

顔と顔が近づくその様子を見て、絵蓮は黙って視線をそらし、窓の外に舞う雪を見つめた。

目的地まであと少しというところで、梓が突然「上着を忘れたから取りに戻りたい」と言い出した。

ナビには残り2キロと表示されていたが、衡稀は一切迷わず絵蓮に言った。

「自分でタクシー拾って行け」

絵蓮は苦笑し、何も言わず静かに車を降りた。

黒いカイエンが雪煙を巻き上げながら走り去っていった。

道には人影も車の気配もなく、絵蓮は雪を踏みしめ、2キロ先の大使館を目指して歩き出した。

必要書類を提出し、手続きを済ませた。

外へ出ると、偶然、高校時代の担任の先生と出くわした。

ふたりはしばし近況を交わし、彼女が海外に移住するつもりだと話すと、先生は目を丸くした。

「外国に行ったきり、もう戻ってこないの?京極さんは、それを許してくれたの?」

どうして突然叔父さんが出てきたのかわからず、絵蓮は少し戸惑いながらも、平静を装って答えた。

「ええ、許してくれました。私たちには血のつながりもありませんし、もう大人ですから、これ以上ご迷惑をおかけするわけにもいきません。海外で少し視野を広げるのも、悪くないと思いまして」

先生はしみじみと頷き、感慨深げに言った。

「血のつながりがなくても、京極さんは本当に君を大切にしてたわよね。昔、君がコンクールで他校の生徒に盗作だと非難されたとき、彼、盲腸の手術を終えたばかりなのに、現場に駆けつけて庇ってくれたでしょう?

それに、学校で転んだときも、数億円の契約を断って病院に連れて行ってたし、チンピラに絡まれたときも、真っ先に駆けつけてくれたじゃない」

先生が語る一つ一つの出来事に、絵蓮の記憶も自然と過去へ引き戻されていった。

最後に、先生は彼女の手をそっと握り、優しく語りかけた。

「京極さんの恩は、決して忘れちゃだめよ。ちゃんと感謝して、報いてあげなさいね」

絵蓮は静かに頷いた。

彼女はもう決めていた。出発する前に、彼への長年の恩を返すと。

彼にとって何よりの恩返しは……自分がこの家を出ることだろう。

そうすれば、彼はもう彼女に縛られることなく、自由に、新しい人生を歩いていける。

家に戻ると、絵蓮は濡れた服を着替え、机に向かって計算をはじめた。

京極家で暮らした年月のなかで、彼女は毎月の支出をある程度把握していたため、すぐにおおよその金額を見積もることができた。

目に見える費用だけでなく、見えない心配や気遣いも含めて、その三倍もの額を返すつもりでいた。

午前中にはすでに、彼からもらったすべてのプレゼントを整理し、フリマサイトに出品していた。

さらに、不動産会社にも連絡を取り、森清家の旧宅を売りに出した。

すべてが終わると、彼女は小さくため息をつきながら、ベッドへと身を投げ出した。

そのとき、スマートフォンが数回震えた。

画面を開くと、梓から十数枚の写真と一つのメッセージが届いていた。

【絵蓮、私と京極さんはハワイに遊びに行くの。絵蓮はお留守番、いい子にしててね♡】

写真は見なくても、内容は想像がついた……衡稀と梓が仲睦まじく写っているのだろう。

彼らの交際を公にしてから、梓はデートのたびにこうして大量の写真を送りつけてきていた。

かつての彼女なら、そのたびに胸が張り裂けそうになり、涙を流していたかもしれない。

でも……今は違った。

彼女はもう、衡稀を家族として心の中で整理していた。

梓の挑発に、いちいち心を乱されることもない。

それが故意か無意識かすら、もはやどうでもよかった。

絵蓮は淡々と、一言だけ返信した。

【うん、楽しんで】

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