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第5話

Auteur: 黒崎 燕
翌朝、琴音が階段を下りると、紗英がダイニングテーブルで食器を並べていた。

彼女はついに使用人の制服を脱ぎ捨て、首筋のラインが際立つ和服に着替えていた。その姿は女性らしい雰囲気を醸し出した。

しかも、その顔立ちはどこか琴音と似ていた。それで光希が彼女を選んだのも無理はないと思えた。

琴音の姿に気づいた紗英は、親しげに声をかけた。「琴音様、起きたんですね。早く朝ごはんを召し上がってください」

彼女は何気なく体を傾け、首筋に残ったキスマークを見せつけた。その細い手首には、鮮やかな緑色の翡翠のブレスレットが光っていた。

琴音は一目でそれが結衣がかつて身につけていた、黒澤家に代々伝わってきた宝物だと分かった。

以前、結衣からその話を聞いたことがあった。光希も欲しがっていたが、結衣は「子供を産めないから」ということを理由に断ったという。

それが今、紗英の腕にある。

琴音は拳を握りしめた。これまで守ってきたもの全てが急に空しく思えた。

彼女は家同士の関係を大事にしてきたし、問題を大きくしたくなかった。だが結局、結衣に義理の娘と認められたのは、紗英だった。

昨日の病院でも、光希の親友は紗英の存在を知っていた。

琴音だけが何も知らず、光希の甘い誓いに振り回されていた。

思わず苦笑がこぼれた。もし光希が最初から子供が欲しいと決めていたなら、自分だって覚悟を決めて、身を引けたはずだ。こんな泥沼に巻き込まれることもなかった。

昨夜の書斎での出来事を思い出すたび、胸はズキズキと痛み、光希を思いきり叩きたくなる衝動が湧き上がった。

だが、それは自分が望む結末ではなかった。自分は光希に一生後悔させてやりたかった。

そのとき、光希が階段を下りてきた。彼は一晩中何もなかったかのように爽やかな顔をしていた。

紗英のそばを通る時、二人の間にははっきりと甘い空気が漂い、紗英は恥じらうようにうつむいた。

光希は振り返ると、ようやく琴音の顔色が悪いのに気づき、不安げに声をかけた。「琴音、昨日雨に濡れて風邪でも引いちゃったのか?今日は会社休んで、一緒に家にいようか」

今の琴音は一刻も早くこの家から出て行きたかった。光希と同じ空間にいるだけで息が詰まり、心の底から汚らわしく思っていた。

「そんなことする必要はやめて」琴音は冷たく答えた。「会社のほうが大事なんじゃない?私は家でゆっくりするから」

光希は眉をひそめ、得体の知れない不安に駆られた、いつもなら、琴音は一緒にいられることを喜んだはずなのに、今は全然違った。

それでも琴音の意志の強さを知っている光希は、それ以上は何も言わず、使用人たちに言った。「家では琴音のことをしっかり頼むよ」

周囲の使用人たちは顔を見合わせ、二人の仲睦まじい様子にすっかり慣れているようで、誰も何も言わずにうなずいた。

そのとき、紗英が突然立ち上がり、光希のもとへ行き、自分から彼の服を直し始めた。

「襟元が崩れています。私が直しますね」

光希も自然と頭を下げて、彼女の手を受け入れていた。

その何気ない仕草が、いちばん琴音の胸に突き刺さった。

使用人たちはみな驚いて息を呑み、琴音の方を見て、場の空気が一瞬で凍りついた。

そのときになって、ようやく光希は状況の異常さに気づき、慌てて一歩下がって紗英と距離をとり、軽く礼を言った。

「俺は会社へ行ってくるよ」そう言って琴音のそばに来ると、彼女の額にキスを落とし、優しくささやいた。「いい子で待ってて」

その甘い声は、昨夜の書斎で聞いたものと同じだった。

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