Masuk大学病院を出ると、外はすっかりオレンジ色に染まっていた。 夕暮れの空気はどこか温かく、さっきまで胸の奥に残っていた緊張と興奮が、ゆっくりとほどけていく。 教授との再会、病院見学――すべてが想像以上に濃密で、楓の心に深い影を落とした。 不安が完全に消えたわけではない。 それでも――胸の奥にほのかな明かりが灯ったような気がしていた。(……戻るんだ、外科に) 改めてそう思うと、怖さよりも期待が勝っていた。 マンションに帰ると、楓は服を着替えて、机の上に教授から渡された資料を広げた。 3つの病院の名前が載っている。 どれも外科に強く、症例数も多い。 ページをめくりながら、楓は顎に指をあてた。(ここは仕事が厳しいって聞いたことがあるし…… こっちは人数が多くて埋もれちゃいそうだし……) どの病院にも、それぞれの色があった。 どれを選べば自分が成長できるのか、それとも自分の性格に合うのか――。 資料を読み込みながら、ひとつひとつ比較していくうちに、あっという間に時間が過ぎていた。 ふと、スマホが震えた。 慎一からだった。『今日はお疲れさま。父さん、嬉しそうだったよ。ありがとう』 その短いメッセージが、不思議と胸にしみた。 彼の気遣いは、昔から変わらない。 楓はしばらく文字を打つ指を迷わせる。 そして、できるだけ素直に返した。『こちらこそ、ありがとう。慎一のお父さん、本当に優しかった』 送信したあと、スマホを置こうとした瞬間、再び振動した。『楓、悩んでるだろ? どの病院か決められないなら、明日も手伝うよ。 選ぶのはお前だけど、力にはなりたい』 その言葉に、楓は胸がぎゅっとなる。(……慎一は、やっぱり優しい) どれだけ時間が空いても、距離があいても。 彼は変わらず楓を支えようとしてくれる。 自然と、口元に笑みが浮かんだ。『じゃあ……お願いしてもいい?』 送った瞬間、スマホを胸に抱きしめてしまっていた。 こんな気持ちになるのはいつ以来だろう。 翌日、慎一と再び落ち合うことになった。 二人で病院リストを前に広げ、ひとつずつ話し合う。「ここは手術件数が多い分、体力が必要だ。楓ならやれなくはないけど……負担は大きいかもしれない」「うん、そこがちょっと気になる」「もう一つのここは、チー
翌朝、楓は早めに家を出た。 前夜、慎一と話し込んだせいで少し寝不足だったが、胸の奥は妙に軽い。 今日は――慎一の父であり、名高い外科教授・後藤一成と再会する日だった。 カフェで相談した後、慎一はすぐに父に連絡を入れてくれたらしい。 返事は驚くほど早く、しかも一成自身から「楓さん、ぜひ話がしたい」と電話が来たのだ。(教授から直接電話をもらうなんて……久しぶりすぎる) 大学病院の玄関に立つと、かつて自分が白衣を着て働いていたころの記憶が一気に胸に広がった。 消毒液の匂い、緊張感、そして手術に臨む時のあの高揚感。 楓は軽く息を吸い込み、胸を張って歩き出した。 教授の個室前に立つと、扉の向こうから誰かが話す声が聞こえた。 看護主任らしき女性が出てきて、楓の顔を見るなり「あら、楓先生?」と驚いた表情を浮かべた。「ご無沙汰してます」「まあ……戻ってきてくれたら嬉しいわよ。本当に」 主任の言葉に、胸の奥がじんと温かくなる。 ノックし、扉を開けると――。「待っていたよ、楓さん」 白衣を着たまま立ち上がった後藤一成が、穏やかな笑みを浮かべていた。 58歳という年齢より若々しく見えるが、その目には厳しい外科医としての鋭さが宿っている。 それでも楓を見るまなざしは、昔と変わらず温かかった。「お久しぶりです、教授」「来てくれて嬉しい。そこに座ってくれ」 促され、楓はソファに腰を下ろした。 教授はデスクから資料の束を持ってきて、楓の前に広げた。「慎一から連絡を受けてね。外科に戻る決心をした、と」「はい……そのつもりです」「表情がいい。迷いが吹っ切れた顔だ」 教授の言葉は鋭いが、優しかった。「正直に言おう。君が辞めたのは、非常に惜しかった。外科的センスは突出していた。戻ってきてくれたら、こちらも全力で支えたい」「教授……ありがとうございます」 胸が熱くなる。 こんなふうに言ってくれる人がいる――それだけで、今までの迷いが薄れていく気がした。「そして、君が悩んでいる“どの病院に行くべきか”だが……いくつか候補がある」 教授は病院リストを取り出し、楓の前に置いた。「ここ、そしてここ。どちらも技術重視だ。君の性格には合っていると思う」 楓は資料に目を通しながら唇を噛んだ。「……でも私、本当にやっていけるのかな」
落ち着いたカフェの空気の中で、楓と慎一はゆっくりと会話を続けていた。 夕暮れの光が窓から差し込み、テーブルの上に置かれたコーヒーカップの影を長く伸ばしている。「それで……外科に戻ろうと思ったんだね」 慎一がそう言いながら微笑むと、楓は照れたように弱く頷いた。「うん。正直、不安もあるけど……自分がどうして医者になったのか、もう一度思い出したいって思ったの」「楓らしいよ。逃げずに向き合おうとするところ、昔から変わらない」 慎一の言葉は柔らかく、しかし不思議と胸の奥をまっすぐに揺さぶった。「慎一……」「教授、つまり親父のことだけど――話してみる価値はあると思うよ。楓のことは今でも高く評価してる。むしろ、戻ってこなかったことを惜しんでたくらいだ」「本当に……?」「本当。あの人は厳しいけど、実力のある人間は必ず認める。楓の手術のセンスは他の誰よりも買ってたから」 慎一の言葉に、楓の胸の奥がじんわりと温かくなった。 自分の選んだ道、自分の能力――それらをもう一度信じてもいい気がした。「……なんだか心強いな。ありがとう、慎一」「礼なんていらないよ。楓がまた白衣を着て手術室に立つ姿、見たいと思ってたし」 その一言は、胸の奥の重たいものをそっと溶かしてくれた。「じゃあ、教授に相談してみようかな」「うん。連絡先、今でも変わってないし、俺から話しておくよ。きっと喜ぶ」「えっ……いいの?」「もちろん。楓のためなら、いくらでも」 昔と変わらないまっすぐな優しさ。 少し皮肉屋で、でも結局どこまでも思いやってくれる――慎一はそんな人だった。 楓がうっかり見とれていると、目が合った慎一が少し照れたように視線を逸らした。「……そんな顔で見られると困るよ」「え? どんな顔?」「昔から変わらないんだよ。人を信じ切るみたいな、まっすぐな眼で」「そ、そんなこと言われても……!」 楓は慌てて視線をそらし、頬を赤らめる。 慎一は小さく笑った。 こんなやり取りを、いつぶりにしているのだろう――と、ふいに胸が締め付けられる。 懐かしくて、少し切なくて、でもあたたかかった。「楓、これからどうするつもり?」 慎一の問いかけに、楓は真剣な顔で答える。「まずは、気になる病院をいくつかピックアップして、見学させてもらおうかなって。外科でも、どの領
翌日。 外科医に戻ると決めた楓は、朝から黙々と行動していた。 まずは体力を取り戻すためのトレーニング。 久しぶりのランニングは、肺が焼けるように苦しかったが、むしろその痛みが心地よかった。(ちゃんと戻るためには、まず身体) 汗を拭き取りながら、楓は呼吸を整える。 そのあとシャワーを浴び、軽い食事を摂り、午後は机に向かった。 散らかった医学書と、最新の外科論文。 医学雑誌を読み返し、マーカーで線を引きながら、専門知識を頭に叩き込む。 ――どこに戻るか。 ――どの領域をもう一度極めたいのか。 ページをめくる指は真剣そのもので、いつもの「外科医・楓」の顔に戻っていく。 夕方になり、ふと手が止まった。 昨日の真琴の言葉が、胸の奥で小さく再生される。『慎に相談してみたら?』 楓はゆっくりため息をつき、スマホを手に取った。 連絡先のアプリを開き、過去に消したはずの男友達の名前は確かにもう残っていない。 亮の嫉妬がひどく、楓は当時、泣く泣く全員の連絡先を消したのだ。 けれど――。「あ、あった」 一つだけ、奇妙な名前が残っていた。 『朝倉奈美』。 楓が勝手につけた“偽名”だ。 この番号の正体が慎一であることは、ばれないようにするための小さな抵抗だった。(……こんなの残したままだなんて、私も相当バカだったなぁ) けれど、そのバカさが今は少しだけ嬉しかった。 楓はスマホを握りしめ、深呼吸した。 慎一に連絡するのは2年ぶり。 彼は怒っているだろうか。 突然の連絡に戸惑うだろうか。(でも、もう一歩踏み出さないと) 画面に表示された番号をタップし、指が震える。 発信音が鳴り始めた瞬間、胸の鼓動が痛いほどに大きくなる。 ――プルルル。 ――プルルルル……。「……もしもし」 懐かしい、穏やかな声。 変わらない、少し低くて優しいトーン。 楓の胸がきゅ、と鳴った。「……慎一?」 一瞬の沈黙のあと、驚いたような声が返ってきた。「……楓? 本当に楓?」「うん……久しぶり」「久しぶりどころじゃないよ。二年近く音信不通だったじゃないか」 怒った口調ではない。 ただ、少し寂しそうで、少し安心したような声だった。 それが楓の胸をじんわり温かくする。「ごめんね、いろいろあって……」「彼
しばらくの間、ふたりの会話は楓自身の話ばかりだった。 冬真とのこと、亮との決別、そして外科に戻る決意――。 ワインを少しずつ飲みながら笑い合っていると、ふと楓は真琴の顔をじっと見つめた。「……そういえばさ。昨夜、真琴はあのあとどうしたの?」 楓がそう問いかけると、真琴は一瞬だけわざとらしく目をそらし、唇の端を上げてニヤッと笑った。「ナイショ」 その言い方があまりに含みがありすぎて、楓はすぐに察した。「ねぇ、その“ナイショ”って……。あの、凛夜って子。連れて帰ったの?」 探るように視線を細めると、真琴はワイングラスをつまみ、優雅にくるりと回した。「想像にお任せします」 あくまで余裕の表情。 楓はむくれた顔つきで身を乗り出す。「ずるいなー! 自分のことは言わないつもりなのね!!」「ふふっ、ほんとかわいいね、アンタ」 真琴は大笑いしながら肩を揺らしたが、次の瞬間、ふっと真剣な顔に戻った。 表情の切り替えが早いのが、彼女らしい。「ねえ、それで……外科に戻る決心はついたの?」 その問いに、楓も自然と背筋を伸ばした。 彼女の瞳に宿る真剣さに、楓は真正面から向き合う。「うん。もう、決心はついてる。あと2週間は休暇だから、その間にどこの病院にお願いするか考えるつもり」「そっか……」 真琴は満足そうにうなずいたあと、ふと「あっ」と何か思いついた顔をした。「ねぇ、慎は?」「慎って……慎一?」「そう。ほら、慎一のパパって大学病院の教授かなんかじゃなかったっけ?」 真琴が首を傾げながら言うと、楓の脳裏に、ある記憶がゆっくり浮かび上がってきた。後藤慎一(ごとう しんいち) / 32歳 企業法務・医療訴訟を得意とする弁護士。 落ち着いた声。 少し皮肉屋で、でも誰より優しかった横顔。 大学2年の頃、友人に誘われて参加した他大学との合同コンパ。 人混みの中で、妙に落ち着いている男性がいて、それが慎一の最初の印象だった。 恋愛感情はお互いに薄々あったのに、踏み出せなかった。 お互いが冷静すぎて、タイミングを逃した。 楓が亮と付き合い始めたときも、慎一は責めず、ただ距離を置いた。(……連絡すら、ほとんどしなくなったんだよね) でもそれは怒っていたからではなく、彼の優しさゆえだった。 そして――。(慎一の父、
料理が少し減った皿を前に、真琴はワインを揺らしながら、にやにやした視線を楓へ送ってきた。 その表情で、次に何を聞かれるのか楓はもうわかっていた。「で? 冬真くんと、あのあとどこへ行ったのよ?」 ついに核心に触れてきた。 真琴の声音は軽いのに、その目はまるで獲物を逃がさない獣のように鋭い。 楓はグラスを指でなぞりながら、ふと昨夜の感触を思い出していた。 昨夜――胸の奥に熱が灯り、呼吸もままならなくなった夜のこと。 冬真に抱きかかえられるようにしてホストクラブを出た瞬間、 外の冷たい空気に触れる間もなく、二人の唇は再び激しく求め合っていた。 ドアが閉まる音すら、もう耳に入ってこなかった。 冬真の手は楓の腰をしっかりと抱き寄せ、 楓の背中まで熱が流れ込むようだった。 唇が離れたとき、楓は自分がどこに立っているのか、一瞬わからなかった。(……私、どうなっちゃってるの?) 呆然としたまま冬真に支えられ、彼が止めたタクシーへ半ば引き込まれるように乗り込んだ。 ドアが閉まると、世界がふたりだけになった。 けれど――タクシーの中では、奇妙なほど何も話さなかった。 沈黙。 暗闇。 近すぎる距離。 触れれば再び崩れ落ちてしまいそうなほどの熱。 冬真はただ、楓の手を離さなかった。 タクシーが停車したとき、楓ははっと我に返る。「ここは……?」 窓の外には、高層の豪華マンションがそびえていた。 ライトアップされたエントランスが、ホテルのように華やかだ。「俺の家」 冬真はそう言って、ドアを開けた。 その横顔は、甘くも鋭くも見えて、楓の心臓が跳ねた。 エレベーターへと導かれ、乗り込む。 静かにドアが閉まる――その瞬間。 冬真は楓を力強く抱きしめ、唇を重ねてきた。 息を奪われるような、深くて熱いキス。 背中に回された腕の温かさに、楓の心が完全に溶けていく。 部屋のドアが開くと同時に、すべての理性が崩れた。 部屋に入った記憶は曖昧だ。ただひたすら、お互いを求めた。 キスをしながら廊下を歩き、 肌に触れる指先が熱くて、 お互いの服を急くように脱がせ合い―― ベッドに倒れ込んだ。 何度も、何度も。 まるで離れたくないと証明するかのように、激しく愛し合った。 楓は自分がこんなふうに誰かを求