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第2話

Author: 最上慎
空中で止まった手が小刻みに震え、指先から冷気が這い上がってきた。

琴音は土気色の顔で立ち尽くし、焦点の定まらない目で残酷な真実を受け止めていた。

七年前のあのナイフは琴音の顔の皮膚を裂いただけではなかった。時を超え、今まさに言葉という刃となって、彼女の心臓を執拗に刺し貫いていた。

胸の奥から激痛が走った。

反応する間もなく、廊下の向こうから大勢のメディアが押し寄せてきた。

同時に部屋のドアが開き、琴音は婚礼衣装に身を包んだ蒼真と鉢合わせた。

視線が交錯した瞬間、蒼真の瞳の奥に微かな動揺と焦りが走ったように見えた。

琴音は唇を血が滲むほど噛み締め、涙をいっぱいに溜めた絶望的な瞳で、七年間枕を共にした男を睨みつけた。

不倫現場を押さえるつもりだったが、まさか自分が愛人のような扱いだったとは。

蒼真は最初から最後まで、琴音のことなど眼中にすらなかったのだ。

「なんだこの清掃員は!邪魔だ、どけ!社長の結婚式を遅らせる気か、責任取れるのか!」

カメラを担いだ男が琴音を乱暴に突き飛ばした。

琴音は体勢を崩し、足をもつれさせて床に倒れ込んだ。

その直後、下腹部に激痛が走った。体の痛みと裏切られた絶望が彼女を暗闇へと引きずり込んでいった。

立ち上がろうともがいたが、次の瞬間、鉄錆のような血の匂いが鼻をつき、股下から生温かい鮮血がどっと溢れ出した。

周囲から悲鳴が上がった。人垣越しに見える蒼真の目は心配そうに彼女を追っていた。

助けを求めようと口を開きかけたその時、蒼真は眉をひそめ、冷酷に言い放った。

「すぐにこいつを摘み出せ。今日は摩耶の晴れ舞台だ。血を見せて縁起を悪くするな」

その言葉が終わるや否や、周囲からは羨望の声が上がった。

周囲の歓声とは裏腹に、琴音の心には、ただ寒々とした荒野だけが広がっていた。

意識が急速に遠のき、視界が暗転した。彼女は完全に気を失った。

鼻をつく消毒液の匂いで、琴音はゆっくりと目を開けた。

薄暗い病室の天井を見つめ、琴音は全ての執着を手放した。

いいだろう、彼らの望み通りにしてやる。三人での結婚生活など、窮屈すぎて息が詰まるだけだ。

琴音は迷うことなく、あの電話番号をかけた。

「五日後、私を蒼真から逃がして」

喉の奥からせり上がる嗚咽と全身を苛む激痛を必死に押し殺し、琴音は毅然と言った。

相手は少し驚いたようだが、相変わらず気だるげな口調で答えた。

「お嬢様、俺は蒼真の宿敵だぞ?本気で俺に頼む気か?なんだ、ようやく自分の顔を潰したのが俺じゃないって信じる気になったのか?そもそも、君を助けて俺に何の得がある?」

電話の相手は葛城響介(かつらぎ きょうすけ)。蒼真のビジネス上の天敵である。

事あるごとに蒼真と対立し、かつての結婚式でも花嫁を奪おうと乱入してきた男だ。

蒼真の幼馴染であり、七年連れ添った妻である琴音がそれを知らないはずがない。

「黒崎グループの第二筆頭株主になれるとしたら?」

「……いいだろう。だが条件が一つある。俺と結婚しろ」

琴音は一瞬息を飲んだが、数秒の逡巡の後、すぐに承諾した。

「交渉成立ね」

電話を切ると同時に、蒼真が慌ただしくドアを開けて入ってきた。

充血した目には心配と気遣いが溢れていた。

「琴音、やっと目が覚めたか。どこか痛まないか?

どれだけ心配したと思っているんだ、もう二度と会えないかと思った」

蒼真は震える声でそう言い、琴音に触れようとするが、琴音は反射的に避けた。

「私は愛人だったのね、そうでしょ?」

琴音は異常なほど静かに、目の前の偽善的な男を見つめた。その瞳は虚ろで、魂が抜け落ちたようだ。

蒼真は一瞬表情を硬くしたが、すぐに口を開いた。

「彼女とはただの政略結婚だ。

琴音、聞き分けのいい子でいてくれ。君はもう深窓の令嬢じゃないんだ。わがままを言うな」

蒼真のそのあまりに平坦な口調が琴音の心に無慈悲な死刑宣告を下した。

彼女が口を開く前に、蒼真の携帯が鳴った。

「蒼真……苦しいの、熱があるみたい……」

か細い甘えた声。摩耶だ。

蒼真は躊躇うことなく、説明ひとつ残さずに背を向け、病室を出て行った。

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