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6.敬語の壁

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2025-11-23 16:00:10

控室の隅は、他の参列者たちの小声とは隔てられた、わずかに陰の濃い場所だった。

冬の光が障子を透けて、淡く白い影を床に落としている。

聞こえてくるのは湯呑みの置かれる微かな音、誰かのため息、衣擦れの気配。

そのどれもが、二人のあいだに渦巻く空気とはまるで別の世界の音だった。

浩人は、壁際に立つ隆寛を見つめていた。

僧衣の黒と、剃髪した頭の滑らかな線が、控室の薄い光に溶け込んでいる。

話しかけるべきか、黙るべきか。

五年という空白よりも、さっきの「野上さん」という呼び方の方が、胸に強く残っていた。

一度深く息を吸い、浩人は無理に笑顔を作った。

「元気…だったのか?」

自分でも驚くほど、声は硬くなっていた。

かつて名前を呼び合って、寝起きのかすれ声で笑い合っていたはずなのに、今はこんなにも距離がある。

隆寛は、呼吸を整えるように静かに目を伏せ、僧侶の顔でゆっくりと口を開いた。

「はい。おかげさまで。野上さんこそ、ご健勝そうで。」

その声は澄んでいて、整っていて、表情の揺れがどこにもない。

余計なものを削ぎ落としたような落ち着きだった。

だが、浩人にはその穏やかさが、かえって胸を締め付けた。

野上さん。

そう呼ばれるのが、どうしようもなく苦しい。

眉がわずかに寄る。

視線が隆寛の口元に釘付けになる。

「……お前さ。そんな喋り方すんなよ」

声が低く、荒く濁った。

抑え込んでいた感情が、ひっそり表面に浮かび上がる。

その瞬間、隆寛の睫毛が一度だけ震えた。

目線が動きかけて、しかしすぐに元の位置へ戻る。

僧衣の下の肩が、ごくわずかに強張ったようにも見えた。

「……ここでは、僧侶ですから」

息のような声だった。

誰にも気づかれないよう、最低限の音量だけで。

けれど浩人の耳には、刃のように鋭く突き刺さった。

ここでは。

そう言われた瞬間、胸の奥がざっくりと裂かれたように痛む。

ここでは、お前に近づけない。

ここでは、かつての自分に戻らない。

ここでは、触れ合った夜の続きを思い出すことすら許されない。

その全ての意味が、短い言葉に凝縮されていた。

浩人は喉の奥でゆっくり息を吸い、どうにか感情を押し込める。

怒りではない。

苛立ちよりも、もっと深く、冷たいもの。

寂しさだった。

五年経っても消えていない感情が、いま初めて痛みとして表に出てきた。

「……ここでは、ねえ」

吐き出すような声が漏れた。

隆寛は、わずかに目を伏せる。

そのまつげの影が、小さく震えた。

けれど、すぐに元の静かな僧侶の顔に戻る。

ほんの一瞬だけ、隆寛の胸で何かが揺れた。

罪悪感か、懐かしさか、あるいは恐れか。

しかしそのどれも、僧衣という鎧の内側に沈められていく。

「僧侶であること」が、彼の最後の防波堤。

そうしなければ、心が戻ってしまう。

破りたくない誓いが、そこにある。

浩人は静かに笑うふりをした。

笑っているのに、表情は深く沈んでいる。

「五年経って、そんな壁作るようになったのかよ」

隆寛は返事をしない。

できなかった。

僧衣を握る指が、一瞬だけ強く力をこめる。

抑えた感情が身体のどこかに流れ出ることを恐れるように。

控室には、他の参列者たちの声が遠く響いている。

けれど二人の間だけ、音が薄く、色が落ちた世界が続いていた。

浩人は、ふと隆寛の横顔を見つめた。

剃髪した頭の線、整った首筋、僧衣の襟元。

どれも美しく、どれも遠い。

距離は一歩ぶんしかない。

なのに、その一歩がどうしても埋まらない。

隆寛の胸の奥には、別の痛みが滲んでいた。

浩人の声の荒さも、言葉の端に混じる寂しさも、本当は全部聞こえている。

それを拾ってしまえば、心が揺れてしまう。

揺れれば、戻れなくなる。

だから――見ない。

聞かない。

立っているだけで、精一杯。

まるで自分の呼吸が罪になるような感覚が胸に満ちていた。

浩人は視線を逸らし、小さく息を吐いた。

「……まあ、いいけどよ」

いいわけがない。

しかし、それ以上言えば彼が困る。

それが分かってしまった自分にも腹が立つ。

冬の薄光が二人の間を白く照らし、見えない壁が形を持ち始めていた。

触れられない壁。

言葉で壊せない壁。

五年分の距離を象徴する壁。

沈黙が落ちるたび、その壁は高くなる。

隆寛は、静かに一礼した。

僧侶としての、完璧な礼。

「失礼いたします、野上さん」

その言葉を残して、隆寛はさらに控室の奥へと歩いていった。

背筋は崩れず、歩幅は一定。

僧侶としての姿を何一つ乱さずに。

浩人の胸は、重く沈んでいた。

苛立ちと寂しさの混ざった重さだった。

(そんな距離…作るなよ)

呼び止めることはできなかった。

ただ、拳の中で指がゆっくりと震え続けていた。

二人の間に、確かに壁があった。

その壁は、まだ壊せない。

けれど――残したままにできるほど薄い感情でもなかった。

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  • 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年   82.暗黙の公認

    油のはぜる音と、味噌汁の湯気が、庫裏の台所にやわらかい膜を張っていた。千草は、揚げ網の上でころころと転がるコロッケをひとつひとつ箸でならしながら、鍋の火加減に目をやる。白い蒸気が、蛍光灯の明かりに照らされて、ふわりと天井近くにたなびいた。まな板の上には刻んだ葱、流しには洗いかけの青菜。味噌汁の鍋からは、わずかに煮干しと豆腐の匂いが立ちのぼる。寺らしい、どこか控えめで、でも確かに「家の匂い」がする夕方だ。廊下のほうから、足音が近づいてくる。木の床板が、一枚一枚かすかに鳴った。聞き慣れた足音だった。歩幅と、足を運ぶときの重さの置き方で、誰かはすぐに分かる。千草は、揚げ油から少しだけ顔を上げた。「母さん」扉口から顔を覗かせた隆寛が、控えめに声を掛ける。僧衣の上に、紺色のダウンジャケットを羽織っている。いつもの寺の姿と、外の世界に出ていく準備をした姿が、半分ずつ重なった格好だ。「今夜も、少し出てきます」以前よりずっと自然な調子だった。申し訳なさの色を薄めたような、穏やかな言い方。「はいはい」千草は、手を止めずに返事をする。「浩人さんによろしくね」揚げたてのコロッケを一つ持ち上げ、油を切りながら口にしたその言葉は、もう、ほとんど挨拶と同じくらい決まりきったものになっていた。隆寛が、わずかに目を瞬く。「…分かってるのか」そんなことを口に出すはずもなく、代わりに小さく笑った。「分かりました」「遅くなりすぎないようにね」「気をつけます」短いやりとりの間にも、油は淡々と音を立て続けている。寺の生活は、誰がどこへ出かけようと、いつもどおりの時間を刻んでいた。隆寛が廊下に戻る足音が遠ざかり、玄関のほうで靴を履く気配がする。千草は油の火を少し弱めてから、ふと手を止めた。菜箸の先から、油がぽたりと一滴落ちる。「浩人さん」自分がさっき、どれほど自然にその名前を口にしたかを、ようやく意識する。

  • 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年   67.週末だけの合意

    目を開けたとき、最初に目に入ったのは、天井ではなかった。カーテンの隙間からこぼれる、薄い灰色の光。夜の濃さが抜けきらない朝の光は、白でも青でもなく、どこか曖昧な色をしていた。細く開いた隙間から差し込んだその線が、壁と天井の角に淡い帯を作っている。布団の中は、ほんのりと温かい。シーツはところどころ皺になり、肌に貼り付いている。昨夜の汗が完全に引ききっていないのだろう。わずかに湿った布地に、石鹸と、互いの身体の匂いが混ざっている。耳の奥に、かすかな音が届いた。シャワーの音だと気づくまで、少し時間がかかった。

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-31
  • 髪を剃った君の左耳~ピアスホールに残った俺たちの十年   65.雨のあとの、眠れない夜

    雨は、まだやまなかった。庇の下、外灯の白い光の輪の中で、耳を舐められ、名前を呼んでしまったばかりの隆寛は、自分の足が震えていることにようやく気づいた。柱に預けた背中から、じわじわと力が抜けていく。さきほどまでそこで支えていた「僧侶としての自分」という何かが、静かに剥がれ落ちていく感覚があった。額を外されると、冷えた夜気が一気に顔を撫でた。雨に濡れた空気の匂いと、土の湿り気。その中に、浩人の呼吸と、かすかな香水の残り香が混ざる。「…ここじゃ、駄目だな」低い声が耳の近くで落ちた。何が

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    額を押しつけ合ったまま、しばらく二人は動かなかった。雨音だけが途切れずに降り注いでいる。庇の先から落ちる水の筋が、石段に当たって細かな飛沫をあげる。その規則的な音が、胸の中で乱れている鼓動とは別のリズムで続いていた。浩人の息は、まだ近い。吐くたびに、湿った温かい空気が頬や唇のあたりをかすめる。さっきまで重なっていた場所が、そこにあった熱の記憶をじんじんと残している。隆寛は、額をぶつけられている感覚から目を逸らすように、まぶたを軽く閉じた。ここは寺の玄関だ。外灯の下、庇の下。土間と石段の境目。外から見れば、誰にでも見える場所。

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