淫都――ラストルム。それはかつて王国の首都であったが、堕落と欲望に呑まれた末、今では“魔の都”と恐れられる場所だった。カインとリリスは、薄いベールのような結界を抜けて、町の入り口に足を踏み入れる。「空気が……甘い?」カインの鼻腔をくすぐったのは、香水のように妖艶な匂い。それだけで脳が熱を帯び、皮膚の感覚が敏感になる。「ここにあるのよ。契約核のひとつが」リリスが艶やかに微笑む。胸元の谷間から覗いた魔力の光が、わずかに震えた。通りを歩く者たちは皆、艶めいた衣装に身を包み、男も女も淫靡な視線で他人を舐めるように見ている。裸に近い娼婦たちが、路地で男の指に舌を這わせる。交尾を求めるような吐息とあえぎが、日常の一部のように混ざり合っていた。「ここにある試練は、“快楽”よ。人の理性を溶かし、本性を暴く」リリスは、カインの腕に絡みつき、囁く。「今のあんたじゃ、きっと堕ちるわ……♡」「……試してみろ」カインは凛とした目を向けるが、リリスの指が太ももを撫で上げた瞬間、喉がごくりと鳴った。「うふふ……かわいい反応。さあ、行きましょう? 淫都の主が、待っているわ」――蠱惑の都の試練が、今、始まる。ラストルムの中心にあるのは、まるで巨大な劇場のような建物だった。絢爛な光が無数に揺れ、壁には男女が交わる彫像がびっしりと刻まれている。その中央に立つのは、一人の女――「ようこそ、迷える者たちよ。わたくしはラヴィニア。この淫都の“管理者”にして、試練の導き手」しなやかな動作で近づくラヴィニアの肌は金色に輝き、胸元は大胆に開かれ、裾は足のつけ根まで裂けている。その視線は獣のように甘く、毒のように濃い。「おまえが……契約核を?」「ふふ、それを望むなら、こちらの“悦び”を味わってもらわねばね」ラヴィニアの指先が、リリスの顎を撫で上げる。魔女が微笑を崩さずに応じたその瞬間、淫靡な魔力が空気ごと歪ませた。「試練の第一段階は、“触れること”。自らの欲を見せずして、核は得られない」次の瞬間、リリスの身体を包む黒衣が、するりとほどける。カインの視線が思わず吸い寄せられる。「見ていいのよ、カイン。今は……特別に許してあげる♡」胸元を隠すこともなく、リリスはゆっくりとラヴィニアに接近する。指と指が絡まり、唇と唇がすれ違うたびに、魔力が蠢く。――契約核は
肌を撫でる風が、徐々に冷たさを増していた。断崖地帯──そこは、かつて帝国の追放者たちが最後に息絶えたという、忌まわしい土地だった。瓦礫と岩肌、黒く焦げた樹々の残骸が、眼下に広がる。「……ここ、嫌な気配がするわね」リリスが立ち止まり、手で空をなぞるように魔力を撫でる。その所作は、まるで見えぬ糸を艶めかしく指先で弄ぶ仕草のようだった。「魔力が……熱っぽい?」カインが険しい顔で周囲を見渡す。彼の背には剣──それはもう“リリスの眷属”である証の黒い魔印に、少しずつ染められていた。「契約核の影響。おそらく“目覚め”かけているわ」リリスは深く吸い込み、吐息を吐いた。甘やかに濡れたその吐息が、霧となってカインの首筋にかかり、彼の鼓動がわずかに跳ねる。「おまえ……わざとやってるだろ」「ふふ。こんな殺風景な場所でも、貴方を昂らせるのは、女の義務でしょう?」そう言ってリリスは腰をくねらせ、裾の深いスリットから太ももをのぞかせる。砂利の地を踏み出すたび、柔らかな脚がちらつき、契約者であるカインの理性を試すような動きだった。「……真面目に警戒しろよ」「してるわよ。魔力の濁りは濃くなってる。ここから先は、“自我を持つ瘴気”が出る可能性もあるわ」その言葉の直後──「ぐうぅぅっ……!!」小動物のような魔物が飛び出してきた。だが、その姿は明らかに異常だった。皮膚は裂け、血に似た黒い液体を垂らし、全身が膨れ上がっていた。「魔力で“変質”してる……! 契約核の波動が、動植物の生態を狂わせてるんだ」リリスが冷静に手をかざす。その指先には、うっすらと紫の契約紋様が浮かび上がる。「少し“悦び”を教えてあげるわ。快楽に溺れたら、攻撃する気もなくなるでしょう?」──その瞬間、地に這うような紫の光が魔物を絡め取る。蠢くような紋が皮膚に浮かび、魔物がよろめく。だがそのとき、さらに異様な殺気が断崖の奥から飛来する。「来たわね……“黒影”」リリスの声が、一瞬で妖艶から戦士のものへと変わった。カインは剣を抜く。風が止まり、空気が張り詰める。「さあ──本番よ」断崖の奥。黒い岩肌の裂け目から、ゆらりと“それ”は現れた。漆黒の外套。仮面のような面布。そして、全身から漏れ出す濁った魔力。「貴様が……“黒契王”の名を継ごうとする者か」その声は低く、感情
崩れかけた玉座の上で、ファルネアは微かに瞼を震わせた。割れた大理石の床には、赤黒い血が広がっている。体の芯から力が抜けていく。「……ああ……負けた、のね……」掠れた吐息が唇を震わせる。かつて悦楽と力で満たされていたその眼差しは、今や虚ろに濁っていた。胸元には、焼け焦げた“契印”の痕──リリスに奪われた核の痕跡が残っている。その傷跡を指でなぞりながら、ファルネアはふっと、かすれた笑みを零した。「それでも……美しかったわ……あなたは……最後まで……」涙が一筋、血の中を滑って落ちる。崩れた廊柱の隙間から、冷たい風が吹き抜け、彼女の銀髪をかすかに揺らした。そのとき──足音が響く。複数の影が、ゆっくりと玉座の間へ踏み入ってきた。「核は奪われたが……まだ“残響”は消えていない」「解析対象としては上等だ」仮面をつけた人物が、ファルネアの前に立つ。漆黒のローブを纏い、その表情は一切読み取れない。彼の背後には、装束を揃えた魔術兵たちが数名、静かに立っていた。「──連れていけ」その一言で、ファルネアの体は浮かび上がり、黒い繭のような結界に包まれる。彼女はもはや、抵抗すらできなかった。「リリス……」崩れかけた声が、空虚に響いた。名を呼んだその刹那、彼女の意識は闇の奥深くへと沈んでいった。──終わりではなかった。ただ、別の“契約”の序章が始まったにすぎない。パチ……パチ……焚き火の音だけが、静かに夜を刻んでいた。燃える薪のオレンジが、魔女の頬を揺らす。カインは濡れたリリスの髪をそっと拭き、マントを掛けてやる。彼女は言葉もなく、その仕草を見つめていた。「……なんだよ、おまえ。黙り込んで」カインがわざと軽く笑うと、リリスは細く目を伏せた。「優しすぎるのよ、あなた。……そんなこと、されると……困るの」「は? 困るって言われても、今さらだろ」カインは火を見つめながら肩をすくめた。「契約とか関係なく、俺は……おまえを放っておけない。なんか……離しちゃいけない気がしたんだ」リリスはしばらく沈黙したまま、その言葉を咀嚼するように目を閉じた。やがて、かすかに笑みを浮かべる。「ほんとに……愚かな騎士様。でも……」リリスはカインの肩に、そっと頭を預けた。その柔らかな重みと熱に、カインの喉がごくりと鳴る。「私はね、カイン。人間に触
その場所は、地上からは隠されていた。表向きは古びた劇場跡──だが、地下へと続く石造りの階段を下ると、空気が一変する。熱い。濡れている。甘い。湿った吐息のような匂いが漂い、壁には艶やかな女たちの絵が描かれていた。喘ぎ声のような音が、どこからか断続的に響いてくる。「ここが……悦楽の檻……」カインが思わず喉を鳴らす。服の下の契印が、さっきから熱を持って疼いている。まるで、ここが“発情の巣”であることを肌が察知しているかのように。「覚悟して。ここは、ただの売春宿じゃない。魂を蕩けさせる、“堕落の霊廟”よ」リリスは薄く微笑みながらも、瞳は鋭かった。紫のドレスは、胸元を大胆に開き、太腿までスリットが入っている。だがここではそれすら“普通”に見えるほど、女たちも男たちも──肌を晒し、愛撫し合っていた。 「ようこそ、悦楽の檻へ♡」迎えに現れたのは、金髪のエルフ風の女。全身を透けるシルクで包み、胸の先端すら隠しきれていない。くすりと笑って、カインにぴたりと寄り添う。「ずいぶんと若くて……固そうなお客様♡ いろんな“初めて”、お教えできますよ?」「ッ……触るな」カインは無意識に睨み返す。しかし女の指先が首筋をなぞった瞬間──「く……っ!」契印が熱を放ち、膝が崩れそうになる。「ほぉ……中々、いい契約してる♡」エルフ女が舌なめずりする。「……手を引きなさい」リリスの声が響いた。その瞬間、空気が震え、周囲の客たちが一瞬だけ動きを止める。リリスが薄く笑っていた。「この男は、私の“所有物”よ。手を出せば、その舌ごと引き抜くわ」「ひっ……し、失礼しましたぁ♡」女が飛び退き、周囲の客たちがささやき始める。──“ネクタリア”だ。──あの“黒契王”が……戻ってきた。 リリスはその視線を無視し、カインの腕を取った。「……我慢できる? ここからが本番よ」「当たり前だ……ッ」熱を帯びたままのカインの目に、決意の光が宿る。ふたりが進んだ先には、豪奢な回廊。壁には赤黒い絨毯が敷かれ、天井からは紫の香が絶えず垂れていた。──淫香。それを吸うだけで理性が緩み、欲望の底へ引きずり込まれる。「リリス……ここ、空気が……」「気を抜かないで。今のあなたは、“欲”を感じるたび、契印が疼く体になってるのよ」リリスの言葉が終わるよりも早く
砂嵐の向こう、蜃気楼のように滲む町並み──カインとリリスが辿り着いたのは、砂漠の辺境にある小都市《リュマラ》だった。「灼けるな……」陽の光に照らされ、カインは額の汗を拭った。肌にまとわりつく熱気は重く、ただ立っているだけで体力が奪われる。「ふふ……暑いの、苦手?」隣のリリスが、どこか楽しげに微笑んだ。いつの間にか、彼女は装いを変えていた。透けるほど薄手の砂漠衣──背中の大きく開いたデザインに、胸元も大胆に晒されている。紫の刺繍が妖艶に揺れ、肌がほのかに輝いていた。「お前、その格好……」「砂漠では、風を通す服が基本。濡れたら透けるくらいがちょうどいいのよ」腰に巻かれた紐帯がゆるく垂れ、太腿まで露出している。歩くたびにちらつくその肌に、カインの喉が鳴った。「……おい、視線が熱いわよ?」「だ、誰が見とるかっ!」慌ててそっぽを向くカインを、リリスはクスリと笑って追い抜いた。リュマラは、砂漠の旅人たちの中継地で、露店や宿が立ち並ぶ小さな繁華街だ。だが、空気の奥にどこか奇妙な“甘さ”がある。「ここ、妙じゃないか?」「ええ……感じるわ。魔力よ。甘く、蕩けるような気配──ファルネアの匂い」宿屋に荷を置いたあと、リリスは窓を開け、遠くの砂漠を見つめた。「この町、すでに“侵されてる”かもしれないわね」「侵されてる……?」「ええ。ファルネアの魔術は“快楽の香気”。この町の空気にはもう、魔女の吐息が染みついてる」カインは町を歩く人々に目を向ける。とある男が、誰もいない空間に向かって囁いた。「……誰か……誰でもいいから、触れてくれ……」目は虚ろで、頬は上気している。「──ヤバいな、これは」「今夜が本番よ。覚悟しておきなさい、カイン」夜が来た。砂の町リュマラは、月光に照らされて艶やかに沈黙していた。風は止み、空気は重く、妙に生ぬるい。「……なんか……変な匂いが……」カインは宿の外に出た瞬間、鼻先をくすぐる香気に立ち止まった。香水のような、しかし花でも果実でもない……もっと本能的で、直接的な“匂い”。「ッ……」視界がぐにゃりと歪んだ。世界が波打つ。肌が勝手に熱を帯び、脳が痺れるような甘さに浸食されていく。──リリスが、いる。目の前に、裸同然の彼女が現れた。「……やっと、二人きりになれたわね」甘い声。濡れた唇。まるで夢の
カインが目を覚ましたのは、薄明かりの差す山間の隠れ家だった。木の軋む音と、鼻をくすぐる花の匂い。寝台の隣には──肌の白い、艶やかな肢体がある。「……もう、起きたの?」リリスが仰向けのまま、緩やかに微笑んだ。昨夜、契約の“供給”と称して身体を重ねた。その余韻が、まだ体にじんわりと残っている。「夢かと思った……。でも、リアルすぎる痛みと、快感で……」カインが額に手を当てると、リリスはゆっくり身体を起こし、シーツの端を滑らせた。乳房があらわになるが、まるで気にしていない。彼女の肌はうっすらと汗を帯び、触れたくなるような光沢を放っていた。「魔女との契約は、夢より甘く、現実より毒よ。忘れないで。あなたは、もう“ただの人間”じゃない」言いながら、リリスはカインの胸に指を這わせる。そこには、魔力の刻印──“契印”が、うっすらと赤く浮かんでいた。「契約者としての器が、少しずつ育ってる。昨夜の“供給”で……だいぶ進んだみたい」リリスの唇が、指先に触れ、カインの耳へと近づく。「もう少し……続けてあげてもいいけど?」「ま、待て……っ、朝だぞ……!」「ふふ。朝の方が、興奮するじゃない」そう囁いたリリスの舌が、カインの首筋に軽く触れた──その一瞬で、全身の神経が震える。快感が、毒のように神経を侵食していく。カインの息が乱れた時、リリスはふいに離れて立ち上がった。「……でも、今はそれどころじゃない。そろそろ“説明”しておかないとね」彼女は薄衣を羽織り、窓辺に立つ。視線の先には、薄曇りの空が広がっていた。「この旅の目的。あなたにも知っておいてほしいの」「“黒契王”って、聞いたことある?」窓際で腰掛けながら、リリスはカインに問いかけた。薄衣越しに浮かぶ肢体の線が艶めかしいが、その表情はどこか遠い過去を見ていた。「……なんとなく。魔女の中でも、特別な存在だってくらいは」「そう。私よ」リリスは迷いなく断言した。その声に嘘の響きはなかった。「すべての契約魔女を統べる頂点。それが“黒契王”。欲望を代償に力を得る、最も禁忌な契約体系の象徴」「……でも、今のあんたは……」「落ちぶれたわ。裏切り、封印、喪失。あの頃の力の大半は、もう失われた」リリスは唇を噛み、胸元に指を当てる。そこに“黒き契印”が淡く輝いた。「私の力は、7つの《契約核》に分かれて世界に封じら