帝都の魔導庁──その最深部に位置する制圧指令室には、緊張と沈黙が満ちていた。
巨大な魔痕探知機の魔導盤に赤い光点が浮かび上がっている。北東の外縁、帝国から25キロ。周囲に村も拠点もない森の中で、かつて“黒契王”と呼ばれた魔女の魔力反応が検出された。 「確定しました。リリス=ネクタリア……およそ十年ぶりの大反応です」 若い魔契官の声に、室内の空気がぴんと張り詰める。だが、中央に立つひときわ鋭い眼差しの男は、一切動じることなく短く命じた。 「即時出撃。第五制圧部隊に魔封結界装備を持たせろ。戦闘ではない。これは“拘束”だ」 クラウス・イェーガー。かつてリリスと共に戦場を駆けた男。今は魔導庁直属の“狩人”として、魔女封殺の先鋒に立つ。 クラウスは地図を睨んだまま、懐から一枚の古びた写真を取り出す。 そこには戦時中の仲間たちと──その中心で薄く笑う、黒髪の女の姿があった。 「……生きていたなら、それでいい。だが次は、逃がさん」 その呟きは、かつての情ではなく、任務の刃として吐き出された。 「十年も姿を見せなかった理由はなんだ? 今更姿を現すとは……」 隣にいた副官が問うた。クラウスは答えなかった。ただ、机の上に並べられた戦闘記録の束を指で弾いた。 「力を蓄えていたのか、あるいは……次の契約者を選んだのかもしれん」 「まさか、再び“魔契”を?」 「可能性はある。相手が男ならなお悪い。あの女は“支配”と“快楽”で心を壊す魔女だ。理性を砕き、魂に呪印を刻む」 副官が息をのんだ。 「……では、その者もろとも……?」 「ああ。全てを、潰す」 クラウスの眼光が一瞬、深い哀しみを湛えたのは──誰にも気づかれなかった。 森の奥。朝靄が立ちこめ、木々の隙間から差す光が肌を撫でるように柔らかい。 その中でリリスは、木の根に腰を下ろし、カインの膝を枕に横たわっていた。昨夜の淫靡な契約の余韻は、まだ肌に残っている。彼女の唇がそっと動いた。 「……優しくしてくれて、ありがとう。痛くなかったわよ」 「おい、やめろ。そういうことは……」 「ふふ、照れるの? でも“契約”なんだから、遠慮はいらないでしょ?」 リリスの指がカインの腿をなぞる。布越しに感じる体温と、女の吐息。彼女の髪が揺れ、唇が少しずつ、彼の太腿に近づいていく。 「おまっ……おいっ!?」 「ねぇ、感じてるの、ここ……♡」 リリスの舌が、布越しに触れた。その熱と濡れた感触に、カインの全身が跳ねる。 「冗談よ。でも、こうしてると力が満ちるの。私にとって、あなたの体液は……栄養なの」 「……お前、ほんとに魔女だな」 「褒め言葉として受け取るわ」 リリスは起き上がり、唇を近づける。軽く触れたその口づけは、また新たな契約の儀式。熱く、甘く、そして毒のように官能を滲ませていた。 だが──その甘美な時間は、唐突に裂かれる。 「接近反応、東から……!」 リリスの表情が凍った。カインも立ち上がる。風の流れが変わった。森が、ざわついている。 空気が一変した。風が逆流し、枝葉がざわめき、ただならぬ気配が押し寄せてくる。 ──ドン、と地を揺らして現れたのは、黒銀の装甲に身を包んだ魔契兵たちだった。魔力抑制結界を纏った重装歩兵。手には魔術銃と、封魔の符。 「リリス=ネクタリア……我らは帝国の名の下に、貴様を拘束する!」 先頭に立つ男が叫ぶ。その顔を見た瞬間、リリスは微かに目を見開いた。 「……クラウス」 「生きていたな。だが次は逃がさん」 「どうしてあなたが……いえ、そうね。あなたなら、来ると思ってたわ」 リリスの唇が微かに歪む。それは微笑とも、諦めとも、懐かしさとも取れる表情だった。 カインはクラウスの声に反応し、前に出ようとするが、リリスが手で制した。 「ここからは……私の戦い」 そう言いながら、リリスは指を噛んだ。流れた血を舌で舐めとり、そのままカインの唇へ押し付ける。 「お前……!」 「私の魔力は、快楽と血に宿る。今、あなたの中にもそれが流れてる。だから……乱れて、昂って、暴れてきて」 強制的なキス。唾液と血が混ざり合い、熱を帯びて身体に流れ込む。 「……うあっ……な、なんだ……これ……!」 カインの中で、何かが跳ねた。熱い、痺れる、眩暈のような感覚。身体が勝手に震える。 クラウスが手を挙げた瞬間、戦闘が始まる。 「カイン、お願い。私を、犯してでも守って──!」 その叫びは、戦場の空気すら裂いた。 リリスの言葉は、戦場に放たれた呪いのようだった。 ──犯してでも、守って。 その響きが脳髄にこびりつき、カインの中で理性と本能が交錯する。 「ふざけんな……お前は、俺をなんだと思って……!」 だが、叫びとともに拳が握られる。震える指先から、黒い魔紋が滲み出る。体内に流れ込んだリリスの血と魔力が、カインの魔核を熱く染め上げていた。 「力が……溢れる……っ!」 魔封結界の中にありながら、カインの身体だけが異様に輝きはじめる。熱、鼓動、欲望。すべてが渦を巻き、彼の肉体を蝕むように強化する。 「そんな馬鹿な……! 魔封結界の中で発動だと!?」 クラウスの驚愕の声をかき消すように、カインが地を蹴った。その速度は、もはや目視すら困難だった。 次の瞬間、魔契兵の一人が吹き飛び、木々をなぎ倒して森の奥へと転がった。 「まだ、いける……!」 さらに一歩、踏み込む。拳がうなる。鎧が砕け、叫びが響く。 リリスが微笑む。 「それでいい……欲望を、怒りを、すべて力に変えて……それが、私と契った証よ」 彼女の瞳は陶酔に濡れていた。美しく、淫靡で、狂おしい。 クラウスが銃を構える。その瞳に宿るのは、かつての戦友への哀しみか、それとも── 「貴様に……もう一度、引き金を引かせるな!」 カインが咆哮とともに拳を振り抜いた。 爆ぜるような衝撃が、森を揺らす。 契約魔術、第二段階覚醒──完了。 罪人と魔女、その背徳の力が、帝国に反旗を翻した瞬間だった。肌を撫でる風が、徐々に冷たさを増していた。断崖地帯──そこは、かつて帝国の追放者たちが最後に息絶えたという、忌まわしい土地だった。瓦礫と岩肌、黒く焦げた樹々の残骸が、眼下に広がる。「……ここ、嫌な気配がするわね」リリスが立ち止まり、手で空をなぞるように魔力を撫でる。その所作は、まるで見えぬ糸を艶めかしく指先で弄ぶ仕草のようだった。「魔力が……熱っぽい?」カインが険しい顔で周囲を見渡す。彼の背には剣──それはもう“リリスの眷属”である証の黒い魔印に、少しずつ染められていた。「契約核の影響。おそらく“目覚め”かけているわ」リリスは深く吸い込み、吐息を吐いた。甘やかに濡れたその吐息が、霧となってカインの首筋にかかり、彼の鼓動がわずかに跳ねる。「おまえ……わざとやってるだろ」「ふふ。こんな殺風景な場所でも、貴方を昂らせるのは、女の義務でしょう?」そう言ってリリスは腰をくねらせ、裾の深いスリットから太ももをのぞかせる。砂利の地を踏み出すたび、柔らかな脚がちらつき、契約者であるカインの理性を試すような動きだった。「……真面目に警戒しろよ」「してるわよ。魔力の濁りは濃くなってる。ここから先は、“自我を持つ瘴気”が出る可能性もあるわ」その言葉の直後──「ぐうぅぅっ……!!」小動物のような魔物が飛び出してきた。だが、その姿は明らかに異常だった。皮膚は裂け、血に似た黒い液体を垂らし、全身が膨れ上がっていた。「魔力で“変質”してる……! 契約核の波動が、動植物の生態を狂わせてるんだ」リリスが冷静に手をかざす。その指先には、うっすらと紫の契約紋様が浮かび上がる。「少し“悦び”を教えてあげるわ。快楽に溺れたら、攻撃する気もなくなるでしょう?」──その瞬間、地に這うような紫の光が魔物を絡め取る。蠢くような紋が皮膚に浮かび、魔物がよろめく。だがそのとき、さらに異様な殺気が断崖の奥から飛来する。「来たわね……“黒影”」リリスの声が、一瞬で妖艶から戦士のものへと変わった。カインは剣を抜く。風が止まり、空気が張り詰める。「さあ──本番よ」断崖の奥。黒い岩肌の裂け目から、ゆらりと“それ”は現れた。漆黒の外套。仮面のような面布。そして、全身から漏れ出す濁った魔力。「貴様が……“黒契王”の名を継ごうとする者か」その声は低く、感情
崩れかけた玉座の上で、ファルネアは微かに瞼を震わせた。割れた大理石の床には、赤黒い血が広がっている。体の芯から力が抜けていく。「……ああ……負けた、のね……」掠れた吐息が唇を震わせる。かつて悦楽と力で満たされていたその眼差しは、今や虚ろに濁っていた。胸元には、焼け焦げた“契印”の痕──リリスに奪われた核の痕跡が残っている。その傷跡を指でなぞりながら、ファルネアはふっと、かすれた笑みを零した。「それでも……美しかったわ……あなたは……最後まで……」涙が一筋、血の中を滑って落ちる。崩れた廊柱の隙間から、冷たい風が吹き抜け、彼女の銀髪をかすかに揺らした。そのとき──足音が響く。複数の影が、ゆっくりと玉座の間へ踏み入ってきた。「核は奪われたが……まだ“残響”は消えていない」「解析対象としては上等だ」仮面をつけた人物が、ファルネアの前に立つ。漆黒のローブを纏い、その表情は一切読み取れない。彼の背後には、装束を揃えた魔術兵たちが数名、静かに立っていた。「──連れていけ」その一言で、ファルネアの体は浮かび上がり、黒い繭のような結界に包まれる。彼女はもはや、抵抗すらできなかった。「リリス……」崩れかけた声が、空虚に響いた。名を呼んだその刹那、彼女の意識は闇の奥深くへと沈んでいった。──終わりではなかった。ただ、別の“契約”の序章が始まったにすぎない。パチ……パチ……焚き火の音だけが、静かに夜を刻んでいた。燃える薪のオレンジが、魔女の頬を揺らす。カインは濡れたリリスの髪をそっと拭き、マントを掛けてやる。彼女は言葉もなく、その仕草を見つめていた。「……なんだよ、おまえ。黙り込んで」カインがわざと軽く笑うと、リリスは細く目を伏せた。「優しすぎるのよ、あなた。……そんなこと、されると……困るの」「は? 困るって言われても、今さらだろ」カインは火を見つめながら肩をすくめた。「契約とか関係なく、俺は……おまえを放っておけない。なんか……離しちゃいけない気がしたんだ」リリスはしばらく沈黙したまま、その言葉を咀嚼するように目を閉じた。やがて、かすかに笑みを浮かべる。「ほんとに……愚かな騎士様。でも……」リリスはカインの肩に、そっと頭を預けた。その柔らかな重みと熱に、カインの喉がごくりと鳴る。「私はね、カイン。人間に触
その場所は、地上からは隠されていた。表向きは古びた劇場跡──だが、地下へと続く石造りの階段を下ると、空気が一変する。熱い。濡れている。甘い。湿った吐息のような匂いが漂い、壁には艶やかな女たちの絵が描かれていた。喘ぎ声のような音が、どこからか断続的に響いてくる。「ここが……悦楽の檻……」カインが思わず喉を鳴らす。服の下の契印が、さっきから熱を持って疼いている。まるで、ここが“発情の巣”であることを肌が察知しているかのように。「覚悟して。ここは、ただの売春宿じゃない。魂を蕩けさせる、“堕落の霊廟”よ」リリスは薄く微笑みながらも、瞳は鋭かった。紫のドレスは、胸元を大胆に開き、太腿までスリットが入っている。だがここではそれすら“普通”に見えるほど、女たちも男たちも──肌を晒し、愛撫し合っていた。 「ようこそ、悦楽の檻へ♡」迎えに現れたのは、金髪のエルフ風の女。全身を透けるシルクで包み、胸の先端すら隠しきれていない。くすりと笑って、カインにぴたりと寄り添う。「ずいぶんと若くて……固そうなお客様♡ いろんな“初めて”、お教えできますよ?」「ッ……触るな」カインは無意識に睨み返す。しかし女の指先が首筋をなぞった瞬間──「く……っ!」契印が熱を放ち、膝が崩れそうになる。「ほぉ……中々、いい契約してる♡」エルフ女が舌なめずりする。「……手を引きなさい」リリスの声が響いた。その瞬間、空気が震え、周囲の客たちが一瞬だけ動きを止める。リリスが薄く笑っていた。「この男は、私の“所有物”よ。手を出せば、その舌ごと引き抜くわ」「ひっ……し、失礼しましたぁ♡」女が飛び退き、周囲の客たちがささやき始める。──“ネクタリア”だ。──あの“黒契王”が……戻ってきた。 リリスはその視線を無視し、カインの腕を取った。「……我慢できる? ここからが本番よ」「当たり前だ……ッ」熱を帯びたままのカインの目に、決意の光が宿る。ふたりが進んだ先には、豪奢な回廊。壁には赤黒い絨毯が敷かれ、天井からは紫の香が絶えず垂れていた。──淫香。それを吸うだけで理性が緩み、欲望の底へ引きずり込まれる。「リリス……ここ、空気が……」「気を抜かないで。今のあなたは、“欲”を感じるたび、契印が疼く体になってるのよ」リリスの言葉が終わるよりも早く
砂嵐の向こう、蜃気楼のように滲む町並み──カインとリリスが辿り着いたのは、砂漠の辺境にある小都市《リュマラ》だった。「灼けるな……」陽の光に照らされ、カインは額の汗を拭った。肌にまとわりつく熱気は重く、ただ立っているだけで体力が奪われる。「ふふ……暑いの、苦手?」隣のリリスが、どこか楽しげに微笑んだ。いつの間にか、彼女は装いを変えていた。透けるほど薄手の砂漠衣──背中の大きく開いたデザインに、胸元も大胆に晒されている。紫の刺繍が妖艶に揺れ、肌がほのかに輝いていた。「お前、その格好……」「砂漠では、風を通す服が基本。濡れたら透けるくらいがちょうどいいのよ」腰に巻かれた紐帯がゆるく垂れ、太腿まで露出している。歩くたびにちらつくその肌に、カインの喉が鳴った。「……おい、視線が熱いわよ?」「だ、誰が見とるかっ!」慌ててそっぽを向くカインを、リリスはクスリと笑って追い抜いた。リュマラは、砂漠の旅人たちの中継地で、露店や宿が立ち並ぶ小さな繁華街だ。だが、空気の奥にどこか奇妙な“甘さ”がある。「ここ、妙じゃないか?」「ええ……感じるわ。魔力よ。甘く、蕩けるような気配──ファルネアの匂い」宿屋に荷を置いたあと、リリスは窓を開け、遠くの砂漠を見つめた。「この町、すでに“侵されてる”かもしれないわね」「侵されてる……?」「ええ。ファルネアの魔術は“快楽の香気”。この町の空気にはもう、魔女の吐息が染みついてる」カインは町を歩く人々に目を向ける。とある男が、誰もいない空間に向かって囁いた。「……誰か……誰でもいいから、触れてくれ……」目は虚ろで、頬は上気している。「──ヤバいな、これは」「今夜が本番よ。覚悟しておきなさい、カイン」夜が来た。砂の町リュマラは、月光に照らされて艶やかに沈黙していた。風は止み、空気は重く、妙に生ぬるい。「……なんか……変な匂いが……」カインは宿の外に出た瞬間、鼻先をくすぐる香気に立ち止まった。香水のような、しかし花でも果実でもない……もっと本能的で、直接的な“匂い”。「ッ……」視界がぐにゃりと歪んだ。世界が波打つ。肌が勝手に熱を帯び、脳が痺れるような甘さに浸食されていく。──リリスが、いる。目の前に、裸同然の彼女が現れた。「……やっと、二人きりになれたわね」甘い声。濡れた唇。まるで夢の
カインが目を覚ましたのは、薄明かりの差す山間の隠れ家だった。木の軋む音と、鼻をくすぐる花の匂い。寝台の隣には──肌の白い、艶やかな肢体がある。「……もう、起きたの?」リリスが仰向けのまま、緩やかに微笑んだ。昨夜、契約の“供給”と称して身体を重ねた。その余韻が、まだ体にじんわりと残っている。「夢かと思った……。でも、リアルすぎる痛みと、快感で……」カインが額に手を当てると、リリスはゆっくり身体を起こし、シーツの端を滑らせた。乳房があらわになるが、まるで気にしていない。彼女の肌はうっすらと汗を帯び、触れたくなるような光沢を放っていた。「魔女との契約は、夢より甘く、現実より毒よ。忘れないで。あなたは、もう“ただの人間”じゃない」言いながら、リリスはカインの胸に指を這わせる。そこには、魔力の刻印──“契印”が、うっすらと赤く浮かんでいた。「契約者としての器が、少しずつ育ってる。昨夜の“供給”で……だいぶ進んだみたい」リリスの唇が、指先に触れ、カインの耳へと近づく。「もう少し……続けてあげてもいいけど?」「ま、待て……っ、朝だぞ……!」「ふふ。朝の方が、興奮するじゃない」そう囁いたリリスの舌が、カインの首筋に軽く触れた──その一瞬で、全身の神経が震える。快感が、毒のように神経を侵食していく。カインの息が乱れた時、リリスはふいに離れて立ち上がった。「……でも、今はそれどころじゃない。そろそろ“説明”しておかないとね」彼女は薄衣を羽織り、窓辺に立つ。視線の先には、薄曇りの空が広がっていた。「この旅の目的。あなたにも知っておいてほしいの」「“黒契王”って、聞いたことある?」窓際で腰掛けながら、リリスはカインに問いかけた。薄衣越しに浮かぶ肢体の線が艶めかしいが、その表情はどこか遠い過去を見ていた。「……なんとなく。魔女の中でも、特別な存在だってくらいは」「そう。私よ」リリスは迷いなく断言した。その声に嘘の響きはなかった。「すべての契約魔女を統べる頂点。それが“黒契王”。欲望を代償に力を得る、最も禁忌な契約体系の象徴」「……でも、今のあんたは……」「落ちぶれたわ。裏切り、封印、喪失。あの頃の力の大半は、もう失われた」リリスは唇を噛み、胸元に指を当てる。そこに“黒き契印”が淡く輝いた。「私の力は、7つの《契約核》に分かれて世界に封じら
夜明け前の森は、しんと静まり返っていた。薄靄の中を歩くふたりの足音だけが、濡れた地面をかすかに踏みしめている。先を行くリリスの背中は、いつになく寂しげに見えた。髪は濡れたように艶やかで、月光を受けて紫がかすかに滲む。ドレスは相変わらず過激だったが、今はそれを見てもカインの気は逸れなかった。「……本当にここで、いいのか?」問いかけると、リリスはふと立ち止まり、ゆっくりと振り返った。「この奥に、“聖域”の残響があるわ。私たち魔女が、かつて最後に集った場所よ」その声は、どこか遠くを見つめていた。普段のような艶やかさはなく、ただ静かで──悲しかった。カインは歩み寄ると、彼女の手を取った。リリスの手は熱い。それは魔力の熱か、それとも感情か。「……少し、補給してもいい?」唐突な言葉に目を見開いたカインだったが、答える間もなくリリスの唇が近づいた。「んっ……ん……ふ、ふふ……ありがとう、カイン」甘い吐息が頬を撫で、舌が首筋を這う。ドレスの隙間から覗いた柔肌が、湿った空気に震えた。「力が、溢れてくるわ……あなたといると、どうしてかしら」彼女が首筋に軽く噛みつき、魔力を吸い上げる。背筋をぞくりと走る快感に、カインは思わず息を呑んだ。その背後で──木々の葉が、わずかに揺れた。気のせいだろうか。誰かの視線を、ほんの一瞬感じた気がした。森を抜けた先にあったのは、廃墟のような広場だった。苔むした石柱、崩れた祭壇、今はもう使われていない魔術陣の痕跡。そこだけが、時の流れから切り離されたような静寂に包まれていた。「……ここが、かつての“聖域”の残響」リリスが呟いた瞬間、石畳に埋め込まれた古い契約石碑が、ぼうっと紫の光を放ち始めた。「魔女の契約は、魔力と記憶を繋げる。過去の誓いは、こうして残響として蘇るの」彼女が手を伸ばし、石碑に触れた──すると、空気が震えた。風もないのに木の葉が揺れ、辺りが紫の霧に包まれていく。やがて霧の中央から、ひとりの少女の幻影が現れた。「……久しぶりね、リリス」その声に、カインは思わず身構えた。現れたのは、華奢な金髪の少女。瞳は翠、笑みを浮かべているが──その奥には鋭い怒気が潜んでいる。「……メルティナ」リリスの声が、わずかに震えた。かつての仲間。七魔女のひとりであり、契約によって深く繋がったはずの存在