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黄昏に告げるさよなら
黄昏に告げるさよなら
作者: ご飯ちょうだい

第1話

作者: ご飯ちょうだい
吉永正人(よしなが まさと)の目に映る私は、妻ではない。彼が処理すべき「不良資産」の一つに過ぎない。

体調を崩して助けを求めても、彼は疎ましそうに言い放った。

「それは君自身で処理すべき些細なミスだ。いちいち報告する必要はない」

私が絶望して涙を流すと、彼は叱った。

「感情をコントロールできない姿を晒せば、我々の同盟がいかに弱いかを相手に悟られてしまう。後で広報チームに感情マネジメントの講習を受けさせるよう手配しておこう」

それどころか、交通事故に遭い、必死で助けを求める電話さえ、彼は一蹴したのだ。

「君のどんな事情も、僕が今進めている数十億規模の取引を中断させる理由にはならない」

私はICUで七日間、生と死の狭間を彷徨った。

退院して帰宅した初日、私が目にしたのは、腰をかがめて見知らぬ若い女の子に優しく薬を飲むよう促す正人の姿だ。

彼は何かを説明しようと口を開いた。

私は自嘲気味に微笑みながら、あらかじめ用意していたものを彼に差し出した。

その口調は、驚くほど彼に似ている。

「吉永社長、私たちの婚姻プロジェクトについて、総合評価の結果、投資収益率が著しく低いと判断した。よって、本日をもって正式に提携を解消するわ。

これが離婚届よ。署名お願い」

正人は立ち上がり、離婚届に一瞥をくれたものの、受け取ろうとはしない。

「この二ヶ月、どこへ行っていたんだ?

秘書の村上からも、電話もメッセージも繋がらないと報告を受けていた。次に断りもなく姿を消す時は、事前に報告するように言ったはずだぞ」

心配の言葉は一欠片もない。彼が口を開けば、事情を知らない理不尽な叱責が飛んでくる。

正直に言うと、これほど長い年月の中で、彼の顔を見て嫌悪感を抱いたのは、今回が初めてだ。

彼が受け取らないのなら、無理強いはしない。

私は離婚届を無造作にテーブルの上に置いた。

「吉永社長、異論がなければ署名だけで結構よ」

私は伏し目がちに、傍らの車椅子に座る女の子を視界に捉えた。

怒りに震え、問い詰める気力すら、今の弱った私の体には残っていない。彼女を避けるようにして、休むために二階へ向かおうとした。

私のあまりに静かな反応が異常だと思ったのか、正人は珍しく言葉を重ねて説明した。

「……彼女は友人の妹だ。世話を頼まれている。生活の利便性を考慮し、この家に住まわせることにした。事前にメッセージで説明したはずだが、見ていなかったようだな。

……その手はどうした?」

唐突に話題を変えた正人の視線を追い、私は自分の手元を見た。

離婚届という遮るものがなくなった私の右手は、灯りの下で露わになっている。

痩せこけ、血の気のない肌。手首には二重に巻かれた包帯があり、手の甲には救急搬送中の点滴による内出血の跡がどす黒く残っている。

「病気なのか?」

彼はようやく私の異変の原因に気づいたようだが、呼びかける声はフルネームだ。

それは気遣いというよりも、まるで部下のミスを叱りつける上司のような響きだ。

「吉永一葉(よしなが かずは)。病気に乗じて感情的な決断を下すな。離婚届は持ち帰れ」

そんな言葉には、もう耳が慣れてしまっている。

私は一瞬足を止めたが、振り返らずに階段を上り、二階へと直行した。

部屋のドアを閉める余裕すらない。極めて弱い体は支えを失い、壁に手をつきながらずるずると床へと崩れ落ちた。激しい目眩が視界を乱した。

階下からは、楠木琴美(くすのき ことみ)の甘ったるい声が聞こえてきた。

「正人さん、一葉さんは私のことで怒ってるんじゃないの?

いっそ……私を家に帰して。一人でも、少し不自由なだけで、なんとかなるから」

正人は腰を落とし、なだめるような声で答えた。

「そんなわけないだろう。安心してここにいなさい。彼女はもともとああいう性格だ。二、三日もすれば自分から機嫌を直すさ。

さあ、薬を飲みなさい。温度もちょうどいい。

苦くないのだ。ちゃんと口直しの飴も用意してあるから」

正人の声は低く、それでいて私がこれまで一度も向けられたことのない穏やかさに満ちている。今の彼の表情が、手に取るように想像できてしまう。私が千回、万回と乞い願った、あの優しさと一途な眼差し。

彼はそれを、見ず知らずの女に惜しげもなく与えている。

胃の底から鋭い吐き気が込み上げてきた。私は慌てて口を押さえ、何度もえづいた。何も出てこない。ただ、胆汁の苦みだけが喉を焼き尽くしている。

――正人、あなたは生まれつき冷たい人間だったわけじゃない。

ただ、私を愛していないだけ。

自分の愚かさと天真爛漫さが可笑しくて、笑いがこみ上げてくる。

死線を彷徨ったにもかかわらず、この結婚に一縷の惨めな幻想を抱いているなんて。

階下からは、正人の穏やかで、それ故に残酷な声が途切れ途切れに響いてくる。その一言一言が、私の血の滲む傷口に塩を塗り込んでいく。

ブー、ブー、ブー。

いつの間にか床に落ちていたスマホが震えた。私は焦点の定まらない目で着信画面をなぞり、震える手で通話ボタンを押した。

受話器の向こうから、気だるげでしっとりとした男の声が、楽しげに響いてきた。

「君が結婚してからメッセージをくれるなんて珍しいな。どうした?俺と浮気でもしたくなったのか?」

私は少し咳き込み、弱々しい声で答えた。

「……いいわよ。でも、浮気なんて面倒なことはしないわ。私、離婚するから。

値段をつけなさい。私が養ってあげるわ」

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