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第2話

Auteur: ご飯ちょうだい
電話の向こうで男は一瞬絶句したが、やがてさらに楽しげな笑い声を漏らした。その声には、隠しきれない興味と挑発が入り混じっている。

「住所を送れ。迎えに行く」

翌朝、正人は隣の空席を一瞥し、家政婦に声をかけた。

「伊藤、彼女を呼んできてくれ。朝食の時間だ」

伊藤美保(いとう みほ)は伏せていた顔を上げ、戸惑いながら答えた。

「奥様は今朝早くにお出かけになりましたよ。スーツケースをお持ちでした」

正人は箸を動かす手を止めた。

「出て行った?」

「正人さん、やっぱり私を家に帰して。一葉さんがきっと怒って、それで……」

正人は冷ややかな表情で、琴美の言葉を遮った。

「あいつが家出の真似をするのは、今に始まったことではない。外で数日頭を冷やせば、どうせ戻ってくる。

気にするな。しっかり食べなさい」

言い終えると、正人は温かい味噌汁を琴美の前へ押しやった。

彼女はうつむいて少し啜ると、幸せそうに微笑んだ。

正人は再び箸を取り、食事を続けようとした。

だが、脳裏には昨日の私の姿が嫌でも焼き付いて離れない。透き通るほど蒼白な顔、冷酷なまでに決然とした拒絶の言葉。そして、テーブルに置きっぱなしの離婚届。

「チッ」

正人はごく小さな舌打ちを漏らした。

一瞬にして食欲が失せ、彼は椅子から立ち上がった。その動きは、これまでにないほど苛立ちを帯びている。

「片付けてくれ。

運転手、会社へ出すぞ」

その頃、退院したばかりの私は、再び鳰川啓司(におかわ けいじ)に病院へ担ぎ込まれていた。弱い体で無理をして退院したのが祟ったのだろう。彼の車の中で高熱を出し、そのまま意識を失ってしまったのだ。

夢うつつのなかで、誰かが私の右手の内出血のところを優しく揉んでくれているのを感じた。

「交通事故?三度も危篤状態と診断されただと?これがその後遺症か?」

「腹部の傷が感染を起こしてる。俺は出る。看護師に急いで消炎剤と薬の交換をさせてくれ」

「エアコンの温度をもっと上げろ。点滴の加温器はどうなった?」

必死に目を開けると、そこには焦燥に駆られた瞳があった。

「……一葉?

俺がここにいる。もう少し寝てろ、目が覚める頃には楽になってるから」

彼は冷え切った私の右手を握りしめ、手のひらから温もりを伝えてくれた。高熱にうなされている私は、もはや彼が誰なのかさえ判別できない。

ただ、その手が、たまらなく温かいと感じた。

プルルル、プルルル。

正人は私に八回も電話をかけたが、ずっと無視され続けた。

かつては、二、三回の電話で私から折れて、彼の機嫌を伺いながら戻ってきたものだ。

「村上、彼女の居場所を調べてくれ……」

正人が言いかけたその時、受付のスタッフが来客を連れてドアをノックした。

「吉永社長、こちらの橘先生がどうしてもお会いしたいと……奥様からのご依頼だそうです」

眼鏡の位置を直した来客の男は、淡々と自己紹介を始めた。

「吉永社長、はじめまして。弁護士の橘俊昭(たちばな としあき)と申します。吉永一葉様よりご依頼を受け、離婚に向けた協議のために参りました」

正人は数秒間、呆然とした。やがて鼻で笑い、「やはりそうか」と言わんばかりの冷ややかな笑みを浮かべた。

「橘先生、今度一葉はこんな手を使って僕を試すつもりか?あいつはどこにいる?

僕は忙しいんだ。家出ごっこに付き合っている暇はない。さっさと戻るように伝えろ。琴美は繊細で、あいつの不在を気に病み、リハビリに支障をきたしている。戻ったら、琴美にしっかり謝罪させることだ」

まるで聞き分けのない子供のわがままをあしらうかのような、軽薄な口調だ。

俊昭は何も言い返さず、カバンから一通の書類を取り出した。

「一葉様より、もし吉永社長が信じないようならこれを見せなさいと言付かっております」

それは離婚届ではなく、印刷された声明文だ。

「一葉様のご意思に基づき、彼女が筆頭株主を務める投資会社および関連全社は、本日午前10時、広報担当を通じてメディア各社および提携企業へこの声明を発表しました。

一葉様は、吉永社長との離婚手続きを開始したことを、正式に公表しました」

正人の顔から余裕の笑みが消え、瞳孔が激しく縮んだ。

白紙に記された黒い文字と、鮮やかな押印。

それは、彼自身がかつて最も得意とし、好んで用いる対応方法そのものだ。

この瞬間、正人はついに思い知ったのだ。

――そうか、一葉は冗談を言っているのではない。

本当に、僕を捨てようとしているんだ。

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