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4話 大天使の物語と授けられた名

last update Fecha de publicación: 2026-08-08 03:02:14

​「……ルシエラ。あなたのお名前は、今日から『ルシエラ』よ」

​静まり返った離れの部屋で、マルタは腕の中の赤子にそっと微笑みかけた。

​「昔、おばあちゃんから聞いたおとぎ話があるの。昔々、世界が大きな闇に包まれそうになった時、たった一人でその身を犠牲にして天界と世界を救った、強くて気高かった大天使様のお話」

​マルタの記憶に鮮明に残っているのは、幼い頃に絵本で読んだその悲しくも圧倒的な英雄の姿だった。

​「その大天使様はね、元々は眩しいくらいの綺麗な金髪と翼を持っていたの。けれど、凶悪な悪魔を己の身に封印するために自ら『堕天』を選んで……髪は夜のように黒く、瞳は血のように赤く、そして翼は漆黒へと変わってしまったのよ」

​本邸の公爵や使用人たちは、この子の黒髪や赤瞳を見て「悪魔の落とし子」だと蔑み、恐れて遠ざけた。

けれど、幼い頃からそのおとぎ話に強い憧れを抱いていたマルタにとって、その特徴は恐怖の対象などでは断じてなかった。

​「私、そのお話に出てくる『ルシエラ様』が、ずっとずっと大好きで、誰よりもかっこいいって憧れてたの。みんなは不吉だなんて言うけれど……私にはね、世界を救うためにすべてを背負った、あの誇り高き大天使様と同じ姿に見えるわ」

​胸に抱かれた赤子は、まるで自分の本当の名を呼ばれたことを理解しているかのように、深紅の瞳をうっすらと見開き、マルタの指を小さな手できゅっと握り返した。

​「だから……誰からも名前を呼んでもらえないなら、私が世界で一番素敵でかっこいいお名前をあげる。いつかあなたも、あの大天使ルシエラ様みたいに、強くて気高い女の子になれますようにって……」

​◇

​――そして、翌日のことだった。

​静かな離れの部屋に、ブウンと不快な羽音を響かせて、一匹の大きな羽虫が迷い込んできた。

幼い赤子の肌を刺されてはたまらないと、マルタは焦って手近にあった箒を手に取り、立ち上がる。

​「もう、どこから入ってきたの……! ルシエラちゃん、じっとしていてね」

​マルタが気合いを入れて箒を構え、必死に羽虫を追い回す。しかし、羽虫は素早く部屋の天井近くを飛び回り、なかなか仕留めることができない。

​その時だった。

​ベッドの上でパチパチと深紅の瞳を見開いていたルシエラが、その羽虫をじっと目線で追いかけた。

赤子の小さな瞳に、ほんの一瞬、漆黒のマナが揺らめく。

​直後――ボッ!

​「えっ……!?」

​けたたましい音とともに、空中で羽虫が突如として黒い炎に包まれた。

叫ぶ間もなく、羽虫は一瞬にしてチリ一つ残さず焼き尽くされ、黒い灰すら残さずに空間から消失してしまったのだ。

​ポカンと箒を構えたまま立ち尽くすマルタ。

部屋の中には、かすかな熱気と静寂だけが残されている。

​(いま……何が起きたの……?)

​マルタ自身は魔法が使えない。平民であり、魔力とは無縁の人生を送ってきた。

けれど、世間の常識としてこれくらいは知っている。魔法とは呪文を唱え、マナを練り上げて初めて発動するものだということを。

ましてや、呪文も身振りもなしに現象を引き起こす『無詠唱魔法』など、並の魔法使いでも不可能な、相当な鍛錬と天賦の才を持った者にしか成し得ない高等技術であることを。

​ベッドに視線を戻すと、ルシエラは何事もなかったかのように、小さなあくびをしてマルタを見つめ返していた。

​(この子は……生まれながらにして、こんな恐ろしいほどの力を秘めている……?)

​もし、本邸の公爵や使用人たちがこの現象を目撃したらどうなるか。

ただでさえ「不吉な黒髪と赤瞳」と蔑んでいるのだ。間違いなく「人を害する悪魔の力」だと恐れ、この小さな命を奪おうとするだろう。

​恐ろしさに背筋が凍りついた。

――けれど、マルタが感じたのは恐怖ではなかった。

​「……大丈夫よ、ルシエラちゃん」

​マルタは箒を置き、ベッドへ駆け寄ると、まだ小さなルシエラの身体を壊れ物を扱うように、けれど力強く抱きしめた。

​どれほど絶大な力を秘めていようと、この子は自分に可愛い笑顔を見せてくれる、愛おしい赤ちゃんだ。そして、世界を救うためにすべてを背負った、あの気高き大天使と同じ名を持つ子なのだから。

​「私があと先を考えずに暴走させたりしない……私が絶対に、あなたを世界から守ってみせるからね」

​腕の中で温かな体温を返すルシエラのおでこに、マルタはそっと誓いのキスを落とした。

公爵家の冷酷な視線からも、理不尽な運命からも、この手で絶対に守り抜く――そう心に固く誓いながら。

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