LOGIN学園の最奥に位置する『大聖堂』。悪魔の気配が霧散した今も、この場所にはどこか張りつめた冷気が漂っていた。放課後の誰もいない聖堂内で、静かに膝を折り、胸の前で手を組んで祈りを捧げる一人の少女がいた。3年生――セレス・オーガスト。かつて聖職者の頂点に君臨し、そしてルシエラを前世の『大天使』であると見破った男、故オーガスト枢機卿のひとり娘である。「神よ……どうか、父の魂に安らぎを……。そして、私の犯した愚かな罪に……お裁きを……」震える声で紡がれる祈り。セレスの瞳からぽろぽろと零れ落ちた涙が、冷たい石畳を濡らした。彼女の記憶には、今もなお鮮明に刻まれている。父であるオーガスト枢機卿が、ルシエラを名乗るおぞましい悪魔の手によって命を奪われた、あの凄惨な光景が。そして――父を失い、絶望の淵に叩き落された己の隙を突かれ、悪魔の甘美な洗脳に深く呑み込まれてしまった屈辱と恐怖が。(私は……父様を殺した悪魔の傀儡となり、ルシエラ様やライネル殿下を追い詰める片棒を担いでしまっていた……!)正気を取り戻した今、セレスの胸を苛むのは凄絶な罪悪感だった。3年生として、本来ならば後輩たちを導き、学園の秩序を守るべき立場にありながら、悪魔の毒に侵され、偽りの平穏の中で虚ろに笑っていた己の弱さ。どれほど涙を流そうと、犯した過ちも、父が還ってこないという現実も変わりはしない。「セレス先輩」澄んだ声が、静かな聖堂内に響いた。セレスがハッと息をのんで振り返ると、そこには聖堂の扉を開けて入ってきた人物――学園に戻っていたルシエラの姿があった。「ル、ルシエラ様……っ! ライネル殿下……!」セレスは慌てて立ち上がろうとしたが、罪の重さに耐えかね、その場に崩れ落ちるように再び膝をついた。「申し訳……申し訳ございませんでした……! 私……私は、父を殺した悪魔の手先となり、貴女様方を追い詰めるような真似を……! どのような処罰でも受けます! どうか……どうか私にお裁きを……っ!」床に額を押し付け、悲痛な叫びを上げるセレス。そんな彼女の元へ、ルシエラは静かな足取りで歩み寄り、優しくその肩に手を置いた。「顔を上げてください、セレス先輩」「っ……ルシエラ様……」「貴女が謝る必要など、どこにもありません。先輩もまた、大切なご家族を奪
王都へ向かう馬車が風を切る頃。学園の裏手に広がる静かな厩舎(きゅうしゃ)には、夕闇の静寂が降り積もっていた。「よしよし……良い子で待っていましたね」手慣れた手つきで馬の毛並みをブラシで整えているのは、ルシエラ専属メイドのマルタだった。ブラシが通るたび、愛馬は気持ちよさそうに短い鼻鳴らしを上げる。手入れを終えたマルタは、乾いた藁を補充し、桶に澄んだ水を汲んでやると、そっと馬の額を撫でた。ルシエラが生まれてから今日に至るまで、その成長のすべてを一番近くで見守ってきたのは、他の誰でもないマルタだった。幼少期の冷遇、冷たかったヴァルハイト公爵邸の空気、そして学園での過酷な孤立。どんな時も、ルシエラの小さな手を握り、涙を拭い、気高き令嬢としての誇りを失わないよう大切に育て上げてきた。マルタにとって、ルシエラは単なる主状を超えた、命を代えても守るべき宝物そのものだった。「お嬢様……どうかご無事で」ぽつりと漏らした呟きは、夜の風に溶けて消える。ライネル殿下と共にヴァルハイト公爵邸へと向かった主を想い、マルタは胸元に手を入れた。そこには、ルシエラから託された小さな御守りが収まっている。「……マルタさん?」静かな厩舎の入り口から、遠慮がちな声が響いた。振り返ると、そこには薄暗がりの中に立つエルミナの姿があった。まだどこか病み上がりの儚さを残した佇まいで、申し訳なさそうに身を縮めている。「エルミナ様……。このような夜更けに、いかがされましたか?」マルタは即座に居住まいを正し、隙のない洗練されたメイドの礼を捧げた。「あの……ルシエラちゃんが、公爵邸へ向かったとお聞きして……。私、どうしても心配で……」エルミナは胸元で小さな手を固く握りしめた。その瞳には、かつて悪魔に侵食されていた頃の禍々しさはなく、友を真摯に案じる純粋な光が宿っている。「私のせいで……ルシエラちゃんに、あんなに酷い思いをさせてしまったのに。私が悪魔に隙を見せたから……っ。なのにルシエラちゃんは私を許してくれて、また微笑みかけてくれた……。私、ルシエラちゃんのために何もしてあげられないのが、悔しくて……」ぽろぽろと零れ落ちるエルミナの涙。それを見つめるマルタの眼差しは、冷たくもあり、どこか包み込むような温かさも含んでいた。「エルミナ様」マルタは
崩れ去った極彩色の巨塊と、灰となった煙の匂いが残る地下聖堂。 倒れ伏していた護衛騎士や執事たちは、悪魔の精神干渉から解き放たれ、ただの深い眠りへとついていた。命に別条はない。公爵邸を覆っていた直接的な恐怖の毒気も、一旦は去った。 しかし、ライネルとルシエラを包む静寂は、勝利の喜びとは程遠い、重く冷ややかな緊張感に満ちていた。 「学園での出来事も、このヴァルハイト公爵家での失踪も……すべては僕たちの目を逸らし、膨大な負の感情と魔力を集めるための『仕掛け』だったというのか」 ライネルは握りしめた『アルヴァ=クレイド』の柄を固く締め直した。 父から託された神聖剣の輝きは今も白銀に冴え渡っている。だが、敵の正体はその一閃の届かないどこか遠く――いや、もっと身近で巨大な闇の奥に隠れ潜んでいるのだ。 「ええ……」 ルシエラは枯れ果てた蔦の残滓を見つめ、静かに、けれど痛切に胸の内を明かした。 「学園でエルミナを通じて放たれた魔力も、この地下で人々から吸い上げられていた生命力も……この場所で消費されていたわけではないわ。まるで、目に見えない巨大な導管(ライン)を通じて、王国のどこかへ『転送』されていたような感覚があったの」 「魔力の転送……」 ライネルの頭の中で、点が線へとつながっていく。 国王である父レオンハルトが語っていた言葉。 『教会の聖職者どもが不審な全滅を遂げた』という事実。 聖職者が消え、神聖な防壁が瓦解した王国。その陰で、学園や大公爵家という主要な拠点で集められた不浄な魔力。それらがすべて、ひとつの目的地へと集約されているのだとしたら――。 「王都……! 悪魔の狙いは、王国の心臓部か!?」 ライネルの叫びに、ルシエラも深紅の瞳を大きく見開いた。 「ええ、その可能性が極めて高いわ、ライネル君。この大都市全域に根を張り巡らせ、私たちが拠点(公爵邸)の異変に気を取られている隙に、集めた魔力で何か致命的な術式を完成させようとしている……!」 「くっ……! どこまでも僕たちの先を行こうというのか……!」 ライネルは悔しさに歯を食いしばった。 学園での平和も、公爵家での安息も、すべて悪魔の手のひらの上での踊りに過ぎなかったのだ。 ◇ 地下から地上へ戻った二人は、まだ現実を受け止めきれず震えているアレクシ
地下聖堂に充満する極彩色の胞子。操られた無数の人間たちが肉の壁となって立ちふさがる中、ライネルとルシエラは背中を合わせ、刃と神聖魔力を構え続けた。「ライネル君、人間たちを傷つけずに無力化するわ! 合わせて!」「了解だ!」ルシエラが大天使の威光を解き放ち、広範囲に慈愛の聖光を降らせる。光に包まれた護衛騎士や執事たちは、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、一時的な昏睡状態へと陥った。肉の壁が取り払われたその一瞬。ライネルは地を蹴り、神聖剣『アルヴァ=クレイド』に己の限界を超える白銀のマナを流し込んだ。「切り裂け……『アルヴァ=クレイド』ッ!!」閃光の一閃。白銀の刃が、ついに花開こうとしていた巨大な蕾の核を真っ二つに断ち割った。ズバァァァンッ!!爆発的な聖光が地下空間を埋め尽くす。極彩色の汁液が撒き散らされ、巨塊は悲鳴のような破砕音とともに崩れ落ち、黒い煙を上げて灰へと変わっていく。周囲を覆っていた粘着質な蔦も次々と枯れ果て、不快な圧迫感が引いていった。「やったのか……?」息を荒らげるライネルが、剣を構えたまま警戒を解かずに呟く。倒れ伏した人間たちは息をしており、命に別条はない。公爵邸を侵食していた異様なマナも、潮が引くように消え去っていた。だが――。「……違うわ」ルシエラは駆け寄ることなく、ただ硬直したまま、灰となった蕾の跡地を見つめていた。深紅の瞳に宿るのは、討伐の達成感ではない。底知れぬ寒気と、凍てつくような絶望だった。「ルシエラ……? どうしたんだい?」「ライネル君……これじゃないわ。これも……悪魔の本体なんかじゃない」「な……なんだと!?」ルシエラは己の胸にそっと手を当て、絞り出すように言葉を繋いだ。「前世の私が覚えている……あの悪魔の本質は、こんな手応えではないわ。いま倒したのは、公爵家の絶望や恐怖を集めて作られた、単なる『巨大な魔力の貯蔵庫』に過ぎない……!」「貯蔵庫……!?」「ええ。本隊は……悪魔の意志の核は、最初からここにも、学園にもいなかったのよ」ライネルの背筋に冷や汗が伝った。学園での騒動も、この公爵邸での失踪事件も、すべてはただの「撒き餌」であり「集魔器」に過ぎなかったのだ。自分たちが学園で勝利に酔い、公爵邸の事件に足止めされている裏で、蓄
地下へ続く石造りの階段を下りるにつれ、湿り気を帯びた冷気が肌を刺した。階段の壁面には、ぬらぬらと怪しい光を放つ極彩色の蔦が網の目のように張り巡らされている。それはまるで巨獣の血管のように規則正しく脈動し、吸い上げた生命力を館の最深部へと送り届けているかのようだった。「ひどい……。館全体の血を吸い上げるように、マナが地下へ集まっているわ」ルシエラは足元をかすめる極彩色の蔦を鋭い視線で睨みつけた。大天使としての知覚が警鐘を鳴らし続けている。学園で遭遇した悪魔の気配とは比較にならないほど、濃密で巨大な「悪意の核心」がこの真下に眠っているのだ。「焦るな、ルシエラ。奴の狙いは僕たちの冷静さを奪うことだ」ライネルは神聖剣『アルヴァ=クレイド』を低く構え、慎重に歩みを進める。剣身から放たれる白銀の光が、階段を覆う不快な毒気と極彩色の蔦をジワジワと焼き払い、二人の前方にささやかな道を作り出していた。やがて階段が途切れ、広大な地下大聖堂のような空間へと躍り出た。かつてヴァルハイト公爵家が密かに神聖な儀式や秘宝の保管に使っていたとされるその場所は、いまや禍々しい「密林」へと変貌を遂げていた。頭上からは無数の極彩色の蔦が垂れ下がり、中央の祭壇には、巨大な肉塊のような「蕾(つぼみ)」が不気味に脈動している。そして――その蕾の周囲には、これまで公爵家から失踪したはずの護衛騎士や執事たちの姿があった。「あ……あれは……!」ルシエラが息をのむ。失踪者たちはまるで人形のように虚ろな目で壁際に並び、その背中や首筋からは細い蔦が伸びて蕾へとつながっていた。彼らは生きながらにして意識を奪われ、絶え間なく魔力と生命力を蕾へと供給させられているのだ。『フフフ……よくぞ来てくださいました、ルシエラ様。そしてライネル殿下』地下聖堂全体に、重層的で不気味な声が響き渡った。声の主はどこにもいない。いや、空間を満たす極彩色のマナそのものが言葉を発しているのだ。「姿を現せ、悪魔! 人々をそのような惨状に陥れて、一体何を企んでいる!」ライネルの一喝に対し、中央の巨大な蕾がぐにゃりと歪み、嘲笑うような波動を放った。『企む? いいえ、これは「回収」ですよ。学園という小さな庭園で蒔いた種が実り、こうして芽吹く時が来たのです。あの愚かな聖女エルミナを傀
静まり返った廊下に、メイドの浅い呼吸音だけが微かに響いていた。ライネルは膝をつき、メイドの脈拍と魔力残量を確かめる。「……命に別条はないが、精神と魔力を極限まで削られている。自力で起き上がるには時間がかかるだろう」「悪魔の残滓を植え付けられ、傀儡として使われていたのね……」ルシエラはメイドの青白い顔を見つめながら、拳を強く握りしめた。あの日、学園で討伐したはずの悪魔。その悪魔がエルミナを操っていた時に放っていた、あの毒々しく不快な極彩色のマナ。それが今、目の前のメイドの体を蝕み、まるで使わなくなった人形を捨てるかのように打ち捨てられた。(あの時……学園で感じた違和感は正しかったのね。あの悪魔は、単なる端末の一つに過ぎなかった……)学園という隔離された環境で事件を起こし、自分たちの注意をそこに引きつけている間に、本隊はすでに都市全体、そしてこのヴァルハイト公爵家へ着実に根を張り巡らせていたのだ。「ライネル君、公爵家だけじゃないわ。この都市に生きる人々の中に、どれだけの『犠牲者』が潜んでいるか分からない……」「ああ。学園の警備を強固にしたところで、街全体がすでに敵の巣窟になっているとすれば……俺たちの手は圧倒的に足りない」ライネルの表情に苦悶の色が走る。二人が学園での平和に安息を見出そうとしていたその裏で、暗黒の侵食は確実に進んでいたのだ。その時――。カツン、カツン、と。廊下の奥、暗がりのさらに先から、不自然なほど整った足音が近づいてきた。二人は即座に身構えた。ライネルは神聖剣を鋭く構え、ルシエラもまた背後にメイドを庇うように立ち塞がる。「誰だ……ッ! 姿を見せろ!」ライネルの一喝が廊下に響き渡る。暗闇の中からゆっくりと現れたのは――「……おや、おや。せっかくの『再会』の場だというのに、そんなに物騒なものを向けないでおくれよ、ライネル殿下」そこに立っていたのは、ヴァルハイト公爵家の執事長――いや、その皮を被った「何か」だった。彼の瞳は光を失い、完全に濁りきっている。しかしその口元には、薄気味悪い笑みが貼りついていた。その体表からは、先ほどのメイドとは比較にならないほど濃密な、ドロリとした極彩色のマナが揺らめいている。「執事長……! あなたまで悪魔の傀儡に……!」「傀儡? ふふ、







