日当たりの良いアパートの、小さなバスルームで、私と子猫の新しい生活が始まった。
ちなみに子猫の名前はまだ決まっていない。そろそろ決めてあげないとと思うのだが、どうにもいいのが思い浮かばないのだ。「ねえ、あなた。名前は何にしようか?」
私は子猫に話しかける。
「黒い毛並みだから、クロ? 安直すぎるかな。んーと、フランス語で黒の意味のノワールとか?」
子猫はちらりと私を見上げて、興味なさそうに前足を舐めた。お気に召さないようだ。
「仕方ない、名前は後で考えよう。その前にお手入れをしようね」
獣医さんに診察してもらって、虫下しを飲ませてワクチンも打った。最初の夜はお風呂も入れてあげた。
でも、それだけじゃあ足りない。ノミなどの虫がいないか、目の細かいクシでよく梳かして確かめないといけないし、皮膚の荒れている場所をケアする必要がある。私はこれから始まる、あの子の本格的なお手入れを前に、慎重に準備を整えていた。
お湯の温度は、熱すぎず、ぬるすぎず。
子猫の体に負担がないように、何度も手で確かめる。案の定、お湯を見た子猫は「シャーッ!」と威嚇して、体を強張らせた。
最初の夜こそ大人しくお湯に入ったけれど、今は駄目。でもそれはこの子が元気になった証だから、嬉しかった。「やっぱり、怖いよね。大丈夫、無理やりは絶対しないから。トラウマになっちゃうもの」
「うにゃぁ……」
私はトリマーとしての知識を総動員して、猫に無害なハーブを思い出した。
そうだ、カレンデュラ。皮膚を健やかにしてくれるし、カモミールはリラックス効果があるし。 猫ちゃんが口にしても安全なものは、常にストックしてあった。乾燥ハーブを少量お湯に溶かして、まずはその蒸気で心を落ち着かせる作戦に出た。
温かいタオルで体を拭くことから始め、少しずつ、少しずつ。 「大丈夫だよ」「気持ちいいね」と、絶えず優しい声をかける。 私の根気強いお世話に、子猫は少しずつ警戒を解いていった。◇
子猫の体がきれいになっていく一方で、私の心は曇っていた。
タワマンに残してきた、マロンへの心配でいっぱいだったのだ。(マロン、元気にしているかな……。ちゃんとお散歩、連れて行ってもらってる?)
考えるほどに不安になる。拓也はマロンの世話を私に丸投げして、何もしていなかった。やり方が分かるだろうか。
「駄目だ。一度様子を見に行こう」
居ても立ってもいられなくなり、私は拓也のマンションを訪ねることにした。
子猫に留守番を頼んで、かつての家だったタワマンへ向かう。「なに、あなた。なんか用?」
エントランスのインターホンに出たのは、クルミだった。私の代わりに部屋に居座っているようだ。
「マロンが心配で来たの。拓也はちゃんと世話、やってる?」
「うるさいな。あんたに関係ないでしょ」
エントランスは開かず、インターホンは切れてしまった。
諦めきれず、日を改めてもう一度。
「また来たの? ホントしつこい!」
「マロンの様子を見せて。元気ならそれでいいから」
私が食い下がると、クルミは渋々エントランスを開けた。それでも部屋には入れてくれず、玄関先で話を聞く。
「犬なら元気にしてる。もう二度と来ないでくれる?」
わずかに開いた玄関の隙間から、マロンが懸命に鼻先を出している。手を伸ばせばペロペロと舐めてくれた。
「もういいでしょ。帰って」
追い出されるように締め出される。バタンとドアが閉められた。
立ち尽くす私の耳に、クルミの声が聞こえてくる。「ちょっと、邪魔! あんたがいると毛が飛ぶでしょ! あっち行ってなさいよ!」
苛立った声と、ドンと何かがぶつかる音。マロンの「キャン!」という悲痛な鳴き声がした。
私の手は怒りで震えた。
とっさにスマホを取り出し、一連のやり取りを録音した。「うるさい犬! あんたのおかげで、あの女が来るし! 蹴り倒してやる!」
「キャイン!」
(……許せない。マロンにしたこと、絶対に、許せない……! マロン、必ず助けるからね!)
◇
拓也たちへの怒りは、忘れたわけじゃない。でも、目の前の子猫への愛情はもっと大事。
あの子もすっかり私に懐き、今では気持ちよさそうにお風呂に入ってくれる。
猫は水が嫌いだけど、この子は温まるのが好きみたい。 今日は、最後のお手入れだ。シャンプーとリンスを終え、ドライヤーで優しく乾かしていく。
かつて泥と汚れに隠されていた本来の毛並みが、その姿を現した。(すごい。こんなに綺麗で、艶のある黒だったんだ。光が当たると、艶々していて。夜空のような、ベルベットのような……)
最後に、胸のあたりの毛玉を丁寧にほぐしていく。
もつれた毛が解けた、その下から――。思わず、息をのんだ。
漆黒の毛並みの中に一筋。三日月のような形をした、神秘的なシルバーの毛が現れたのだ。
それはまるで、月の光をすくい取って、そっと編み込んだかのように輝いていた。「きれい……」
私は思わず手を止めて、神秘的な美しさに見入ってしまう。
(夜空みたいな、黒い毛並み。そこに浮かぶ、三日月……)
手を伸ばして喉元を撫でれば、子猫はうっとりと目を細めた。
(月。そうだ、この子の名前は――)
子猫をそっと抱き上げて、美しいサファイアブルーの瞳をまっすぐに見つめる。
「あなたの名前は、『ルナ』。これから、あなたが私の家族だよ」
自分の名前を理解したかのように、ルナは「にゃあ」と柔らかく鳴きいた。私の頬にすり寄ってくれる。
その愛らしい仕草に、心が喜びと幸せで満たされるのを感じた。込み上げる衝動を、もう抑えきれなかった。
(この子の美しさと愛らしさを、私だけが知っているなんて、もったいない。世界中に自慢しなくちゃ!)
私は迷うことなくスマホを手に取ると、SNSアプリを開き、「新しいアカウントを作成」のボタンを、強くタップした。
日当たりの良いアパートの、小さなバスルームで、私と子猫の新しい生活が始まった。 ちなみに子猫の名前はまだ決まっていない。そろそろ決めてあげないとと思うのだが、どうにもいいのが思い浮かばないのだ。「ねえ、あなた。名前は何にしようか?」 私は子猫に話しかける。「黒い毛並みだから、クロ? 安直すぎるかな。んーと、フランス語で黒の意味のノワールとか?」 子猫はちらりと私を見上げて、興味なさそうに前足を舐めた。お気に召さないようだ。「仕方ない、名前は後で考えよう。その前にお手入れをしようね」 獣医さんに診察してもらって、虫下しを飲ませてワクチンも打った。最初の夜はお風呂も入れてあげた。 でも、それだけじゃあ足りない。ノミなどの虫がいないか、目の細かいクシでよく梳かして確かめないといけないし、皮膚の荒れている場所をケアする必要がある。 私はこれから始まる、あの子の本格的なお手入れを前に、慎重に準備を整えていた。 お湯の温度は、熱すぎず、ぬるすぎず。 子猫の体に負担がないように、何度も手で確かめる。 案の定、お湯を見た子猫は「シャーッ!」と威嚇して、体を強張らせた。 最初の夜こそ大人しくお湯に入ったけれど、今は駄目。でもそれはこの子が元気になった証だから、嬉しかった。「やっぱり、怖いよね。大丈夫、無理やりは絶対しないから。トラウマになっちゃうもの」「うにゃぁ……」 私はトリマーとしての知識を総動員して、猫に無害なハーブを思い出した。 そうだ、カレンデュラ。皮膚を健やかにしてくれるし、カモミールはリラックス効果があるし。 猫ちゃんが口にしても安全なものは、常にストックしてあった。 乾燥ハーブを少量お湯に溶かして、まずはその蒸気で心を落ち着かせる作戦に出た。 温かいタオルで体を拭くことから始め、少しずつ、少しずつ。「大丈夫だよ」「気持ちいいね」と、絶えず優しい声をかける。 私の根気強いお世話に、子猫は少しずつ警戒を解いていった。
深夜のペットサロンは、しんと静まり返っていた。 ここは私の職場のサロン。 最近は拓也のために仕事をセーブして、以前ほど働いていなかったけど、まだ籍は置かせてもらっている。 オーナーに電話して事情を話したら、「落ち着くまで泊まっていいよ」と優しく言ってくれた。その温かい言葉が、凍えた心にじわりと染みる。 ペットサロンだから、猫のための設備も一通り揃っている。猫用のミルクにキャリーケースなど。 オーナーは備品を使っていいと言ってくれた。とてもありがたかった。「大丈夫だよ。もう怖くないからね」 子猫用のミルクを用意して、指先に乗せた。鼻先に近づけてやれば、子猫はためらいながらも、小さな舌でぺろりと舐めてくれた。 猫用のバスタブにお湯を張って、子猫の汚れを洗い落としていく。猫は本来はお風呂が嫌いなのに、この子はされるがままだ。きっと抵抗するだけの体力がもう残っていないのだろう。 明日の朝一番で獣医さんに連れて行って、手当してもらわなければ。(……本当に、追い出されちゃったんだ) 子猫をタオルで丁寧に拭き上げ、毛並みをブラッシングしていると、今さらながら実感が押し寄せてくる。 住む場所がなくなってしまった。これからどうしよう……。 ふと、タワマンに残してきたマロンのことが頭をよぎり、胸が締め付けられた。(マロン、大丈夫かな。拓也、ちゃんとお世話してあげてよクルミさんが、いじめたりしないといいけど……) 心配は尽きない。これからの先行きが不安で、思わず涙がじわりとにじんだ、その時。 ――ゴロゴロ…… 腕の中から小さくか弱い振動が伝わってきた。か弱いけれど、確かなもの。 子猫が喉を鳴らしている。 その小さな音に、私はハッとした。(ううん、泣いてる場合じゃない。私が、この子を守らなきゃ)◇ 翌朝、私はなけなしの貯金を下ろし、子猫を連れて動物病院へ
「おかえり。ずいぶん遅かったじゃないか」 嵐の音だけが響く部屋に、拓也の冷たい声が落ちた。 フロアランプの灯りが彼の顔に深い影を作り、その表情は読めない。「た、ただいま……拓也。すごい嵐で、大変だったから」 平静を装って答える私の声は、自分でも情けないほど震えていた。 腕の中の子猫を隠すように、コートをぎゅっと抱きしめる。「……ふぅん。で、腕に隠してるソレ、何?」 ――ミャ…… 私の祈りもむなしく、コートの中からか細い鳴き声が漏れた。 その瞬間、拓也の顔があからさまな嫌悪感で歪む。「は? 猫? 捨て猫を拾ってきたのか。お前、正気かぁ? ゴミでも拾ってきたのかよ」(バレた。最悪のタイミングで!) 心臓が氷水に浸されたみたいに冷たくなった。(でも、この子を見捨てるなんて、もうできない) 何とか拓也を説得して、猫の世話をしないと。小さな体は冷え切っている。今すぐに温めなければ。 私が説得の言葉を考えていると、リビングの奥から知らないはずなのに聞き覚えのある、甘ったるい声がした。「拓也さーん、どうしたのー?」 現れたのは、人気インフルエンサーの坂田クルミだった。 完璧なメイクに、あざとく体のラインを強調する服。ずぶ濡れで立つ私とは、あまりにも対照的な姿だった。(坂田クルミ!?) 頭が真っ白になる。(なんで。どうして、この人が、この部屋にいるの……?) クルミは私を値踏みするように上から下まで眺めると、腕の中の子猫に気づいて、大げさに顔をしかめた。「うわ、何それ、ドブネズミみたい! 汚い! 拓也さんの綺麗な部屋が、バイ菌だらけになっちゃう!」 クルミは媚びるように拓也の腕にしがみついた。拓也に向ける顔は、あくまで可愛らしい。けど私に対しては、同一人物か疑いたくなるほどに見下した表情をしてくる。 拓也はそんな彼女を庇うように、私を睨みつけた。「大丈夫だよ、クルミちゃん。こいつが拾ってきたゴミは、俺が今すぐ処分させるから」(ゴミ……) この子も、私も、あなたにとってはもう、ただのゴミなんだ。 投げつけられた言葉が、心に突き刺さった。 クルミは勝ち誇ったように、私を見下して拓也に囁く。「ねぇ、拓也さん。トップインフルエンサーのあなたが、こんな薄汚い女と婚約してるなんて、イメージダウンだよ? ブランド価値、だだ下がりじゃ
ゴウゴウと空が唸りを上げている。 分厚い窓ガラスを、横殴りの雨がバチバチと叩いていた。「すごい雨……」 テレビのニュース速報が「不要不急の外出は控えてください」と、もう何度も繰り返している。 足元ではマロンが私の足に体を寄せて、不安そうに小さく震えていた。「大丈夫だよ、マロン」 そのふわふわの頭を撫でてあげていると、ソファでスマホをいじっていた拓也が、心底つまらなそうに声を上げた。「あー、最悪。俺が毎晩飲んでる、あの高級スパークリングウォーター、切らしたんだった」「え? でも、この嵐だよ? 明日にしたら?」「はぁ? 今夜のナイトルーティン動画で使うんだよ。俺の『丁寧な暮らし』の象徴なんだから、ないと締まらないだろ。ほら、行ってきて」(ウソでしょ……?) 私の問いかけは、いとも簡単に一蹴される。(この暴風雨の中、買い物に行けって言うの?)「でも、本当に危ないって……」 食い下がってみるけど、拓也は舌打ちをして私を睨んだ。「俺のフォロワーは、俺の『一貫性』を求めてるわけ。それがブランド価値だから。タクシーでも捕まえて、さっさと買ってきてよ」(ブランド、ブランドって……あんたのブランドのために、私は命を張れと?) 心のなかで悪態をつく。 でも、ここで断って彼を怒らせる方が、もっと面倒なことになる。 私はぐっと言葉を飲み込んで、立ち上がった。「……分かった。行ってくる」 マロンが「クゥン」と心配そうに鳴いた。私を心配してくれるのは、この子だけだ。「大丈夫だよ。お留守番していてね」 マロンの頭を撫でてから、私はレインコートを羽織って玄関のドアを開けた。◇ 外は想像を絶する嵐だった。 傘はマンションのエントランスを出た瞬間に、ひっくり返って骨が折れた。 洪水のように水が流れる道は、タクシーなんて一台も走っていない。 ずぶ濡れになりながら、私は近所の高級スーパーまで歩いた。店が閉まっていたら最悪だな、と思っていたけれど、幸いなことに開いていた。 拓也に言われた、一本数千円もするスパークリングウォーターを買って、重い買い物袋を抱えて帰路につく。 少しでも風を避けようと、ブランドショップが並ぶ裏通りに入った、その時だった。 ――ミャ…… 風の音に混じって、か細い鳴き声が聞こえた。(今の……猫?) まさかね、と思い
都心を見下ろす、タワーマンションの最上階。 そこが今の私の家だった。 ……ううん、家っていうより職場かな。 白とガラスで統一されたリビングは、モデルルームみたいに無機質で、人の暮らす温かみみたいなものはどこにもない。「ん……よし、きれいになったね」 その生活感のない空間の片隅で、私は膝の上に乗せた愛しい存在に声をかけた。 腕の中にいるのは、婚約者である拓也の愛犬、トイプードルのマロン。 スリッカーブラシを優しく動かすたびに、白色のふわふわな毛が、空気をふくんでまぁるくなっていく。 マロンはうっとりしたように目を細めて、私の手に頭をこてんと預けてきた。(今日もマロンは天使だなぁ……) この子の世話をしている時間だけが、今の私の唯一の癒やしだ。 人気トリマーだった頃の腕を、こんな形で発揮することになるとは思わなかったけど。「はい、マロン。今日のごはんは特別だよ」 ブラッシングを終えた私は、マロンのために用意したドックフードに、茹でたササミと細かく刻んだ野菜を彩りよく乗せてあげる。 マロンは嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振って、小さな口で夢中になって食べ始めた。(本当は、もっとトリマーの仕事、したいんだけどな) 昔からの常連さんからの予約も、ほとんど断ってしまっている。「俺のサポートとマロンの世話に集中してほしい」 ――それが、婚約者である彼の望みだから。「おはよ。みのり」リビングのドアが開いて、あくびをしながら拓也が出てきた。今年で27歳になる彼は、人気インフルエンサー。今日も髪は完璧にセットされていて、ハイブランドの部屋着姿ですら、雑誌の切り抜きみたいだ。「……あ、マロン、いい感じじゃん。今日の動画、映えそう」「おはよう、拓也。マロン、今日は特に毛艶がいいのよ」 私はにっこり笑って返す。(はいはい、マロンへの挨拶はそれだけね) 心のなかで、そっと毒づく。(おはようのついでに『今日の撮影道具』のコンディション確認、ご苦労様です) 拓也はマロンを撫でようともせず、スマホをチェックし始めた。 私との会話も、視線は画面に落としたままだ。「あ、今日のランチだけどさ。俺のイメージに合う、オーガニック系のデリ、予約しといて。あとでストーリーに上げるから」「うん、もう手配してあるよ」(知ってますー。どうせ食べるのはこって