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last update Last Updated: 2025-09-03 20:02:01

 日当たりの良いアパートの、小さなバスルームで、私と子猫の新しい生活が始まった。

 ちなみに子猫の名前はまだ決まっていない。そろそろ決めてあげないとと思うのだが、どうにもいいのが思い浮かばないのだ。

「ねえ、あなた。名前は何にしようか?」

 私は子猫に話しかける。

「黒い毛並みだから、クロ? 安直すぎるかな。んーと、フランス語で黒の意味のノワールとか?」

 子猫はちらりと私を見上げて、興味なさそうに前足を舐めた。お気に召さないようだ。

「仕方ない、名前は後で考えよう。その前にお手入れをしようね」

 獣医さんに診察してもらって、虫下しを飲ませてワクチンも打った。最初の夜はお風呂も入れてあげた。

 でも、それだけじゃあ足りない。ノミなどの虫がいないか、目の細かいクシでよく梳かして確かめないといけないし、皮膚の荒れている場所をケアする必要がある。

 私はこれから始まる、あの子の本格的なお手入れを前に、慎重に準備を整えていた。

 お湯の温度は、熱すぎず、ぬるすぎず。

 子猫の体に負担がないように、何度も手で確かめる。

 案の定、お湯を見た子猫は「シャーッ!」と威嚇して、体を強張らせた。

 最初の夜こそ大人しくお湯に入ったけれど、今は駄目。でもそれはこの子が元気になった証だから、嬉しかった。

「やっぱり、怖いよね。大丈夫、無理やりは絶対しないから。トラウマになっちゃうもの」

「うにゃぁ……」

 私はトリマーとしての知識を総動員して、猫に無害なハーブを思い出した。

 そうだ、カレンデュラ。皮膚を健やかにしてくれるし、カモミールはリラックス効果があるし。

 猫ちゃんが口にしても安全なものは、常にストックしてあった。

 乾燥ハーブを少量お湯に溶かして、まずはその蒸気で心を落ち着かせる作戦に出た。

 温かいタオルで体を拭くことから始め、少しずつ、少しずつ。

「大丈夫だよ」「気持ちいいね」と、絶えず優しい声をかける。

 私の根気強いお世話に、子猫は少しずつ警戒を解いていった。

 子猫の体がきれいになっていく一方で、私の心は曇っていた。

 タワマンに残してきた、マロンへの心配でいっぱいだったのだ。

(マロン、元気にしているかな……。ちゃんとお散歩、連れて行ってもらってる?)

 考えるほどに不安になる。拓也はマロンの世話を私に丸投げして、何もしていなかった。やり方が分かるだろうか。

「駄目だ。一度様子を見に行こう」

 居ても立ってもいられなくなり、私は拓也のマンションを訪ねることにした。

 子猫に留守番を頼んで、かつての家だったタワマンへ向かう。

「なに、あなた。なんか用?」

 エントランスのインターホンに出たのは、クルミだった。私の代わりに部屋に居座っているようだ。

「マロンが心配で来たの。拓也はちゃんと世話、やってる?」

「うるさいな。あんたに関係ないでしょ」

 エントランスは開かず、インターホンは切れてしまった。

 諦めきれず、日を改めてもう一度。

「また来たの? ホントしつこい!」

「マロンの様子を見せて。元気ならそれでいいから」

 私が食い下がると、クルミは渋々エントランスを開けた。それでも部屋には入れてくれず、玄関先で話を聞く。

「犬なら元気にしてる。もう二度と来ないでくれる?」

 わずかに開いた玄関の隙間から、マロンが懸命に鼻先を出している。手を伸ばせばペロペロと舐めてくれた。

「もういいでしょ。帰って」

 追い出されるように締め出される。バタンとドアが閉められた。

 立ち尽くす私の耳に、クルミの声が聞こえてくる。

「ちょっと、邪魔! あんたがいると毛が飛ぶでしょ! あっち行ってなさいよ!」

 苛立った声と、ドンと何かがぶつかる音。マロンの「キャン!」という悲痛な鳴き声がした。

 私の手は怒りで震えた。

 とっさにスマホを取り出し、一連のやり取りを録音した。

「うるさい犬! あんたのおかげで、あの女が来るし! 蹴り倒してやる!」

「キャイン!」

(……許せない。マロンにしたこと、絶対に、許せない……! マロン、必ず助けるからね!)

 拓也たちへの怒りは、忘れたわけじゃない。でも、目の前の子猫への愛情はもっと大事。

 あの子もすっかり私に懐き、今では気持ちよさそうにお風呂に入ってくれる。

 猫は水が嫌いだけど、この子は温まるのが好きみたい。

 今日は、最後のお手入れだ。

 シャンプーとリンスを終え、ドライヤーで優しく乾かしていく。

 かつて泥と汚れに隠されていた本来の毛並みが、その姿を現した。

(すごい。こんなに綺麗で、艶のある黒だったんだ。光が当たると、艶々していて。夜空のような、ベルベットのような……)

 最後に、胸のあたりの毛玉を丁寧にほぐしていく。

 もつれた毛が解けた、その下から――。

 思わず、息をのんだ。

 漆黒の毛並みの中に一筋。三日月のような形をした、神秘的なシルバーの毛が現れたのだ。

 それはまるで、月の光をすくい取って、そっと編み込んだかのように輝いていた。

「きれい……」

 私は思わず手を止めて、神秘的な美しさに見入ってしまう。

(夜空みたいな、黒い毛並み。そこに浮かぶ、三日月……)

 手を伸ばして喉元を撫でれば、子猫はうっとりと目を細めた。

(月。そうだ、この子の名前は――)

 子猫をそっと抱き上げて、美しいサファイアブルーの瞳をまっすぐに見つめる。

「あなたの名前は、『ルナ』。これから、あなたが私の家族だよ」

 自分の名前を理解したかのように、ルナは「にゃあ」と柔らかく鳴きいた。私の頬にすり寄ってくれる。

 その愛らしい仕草に、心が喜びと幸せで満たされるのを感じた。

 込み上げる衝動を、もう抑えきれなかった。

(この子の美しさと愛らしさを、私だけが知っているなんて、もったいない。世界中に自慢しなくちゃ!)

 私は迷うことなくスマホを手に取ると、SNSアプリを開き、「新しいアカウントを作成」のボタンを、強くタップした。

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