Share

6

last update publish date: 2026-09-12 01:47:05

私がこの家に来て六年、日々は驚くほど単調で平和だった。父母は静かな愛情を注いで私を育ててくれた。そうして私は、15歳になった。

その日、父はいつも通りに畑に向かった。テーブルの上に私のための書き取りと計算が用意してあったのもいつも通り。母は、これから洗濯場に持って行くための洗濯物を仕分けていた。

全くすべてがいつも通りに、何事もなくその日がすぎるのだと、私は信じていた。

昼をすこし過ぎたころ、父が突然帰ってきた。私と母は夕飯の仕込みをしているところだったが、この父の帰宅に驚いて窓から空を見上げた。

「雨でも降ってきたの?」

私たちが最初に雨を疑ったのは、父の洋服がぐっしょりと濡れていたから——その日、父はグレーのTシャツを着ていたのだが、これが濡れて濃いグレーに見えた。

だが、空は雲一つない晴天で、雨の気配すらない。

「いったい、どうしてそんなに濡れてるの?」

振り向いた母は、「あ」と小さく叫んで声を飲んだ。私も振り向いて、そして、父が尋常ではないことに気づいた。

父の顔は真っ青で、その体は真冬の寒い中に放り出されたかのようにガタガタと震えていた。

「あなた」

母の呼びかけに応えよう
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • Pleasing days よろこばしき日々   8

    母が死んで数年後、ついに最後のニンゲンが死んだという話を聞いた。地球上にニンゲンという種族はいなくなり、今、ニンゲンが遺した文明はすべて私たち人工生命体に引き渡された。それでも、田舎に住む私の生活が大きく変わるようなことはなかった。毎日家事をして、時には夫の畑仕事を手伝い、子供の相手をする。何も欠けることのない静かな日々だ。ふと洗濯の手を止めて見上げれば、小川の水面すれすれをトンボが滑るように飛んでゆく。空は青く、ここでの暮らしは驚くほど変化がない。ニンゲンは私たち人工生命体を文明の後継者として作りだした。その思惑通り、地球に残されたニンゲンの『街』は人工生命体によってかつての——パンデミックの前と変わらぬ暮らしを取り戻しつつある。しかし、そんなことは田舎に住む私には関係のないことだ。数年前、私は二人目の子供を産んだ。少しやんちゃな男の子だ。私は二人の子供のために漢字練習帳を買い求め、その一段目に見本の文字を毎日書き込む。もう少し文字を覚えたら、父と通ったあの図書館に連れて行こうと思っている。あの頃の父がしてくれたように、私は静かに本を読むだろう。上の娘はおとなしいから、きっと私の隣に座って、かつて私が胸躍らせた数々の物語や図鑑を喜んで眺めることだろう。しかし下のやんちゃ坊主は、もしかしたら本を読むなんておとなしいことには飽きてしまうかもしれない。そうしたら、川へトンボを捕りに行こう。父が、そして母がかつてしてくれたように、私はこの子たちのそばに寄り添い、静かに暮らしてゆく。ここには、私をいつくしみ、育ててくれたあの二人の『ニンゲン』の遺産が、きちんと今も遺されている。

  • Pleasing days よろこばしき日々   7

    父が死んで、私と母の生活は少しだけ変化した。目が覚めて食卓に着いても、そこには私のための書き取りノートは、もう置かれていない。私はそれが悲しくて、テーブルに着くたびにため息をこぼした。母はそんな私を気遣って、『街』に引っ越すことを提案してくれた。もはや残り少ないニンゲンは、その大半が『街』に集まっている。広い地球の上で滅びゆく身を寄せ合って、パンデミック以前の『ニンゲンらしい暮らし』を守ろうとしていたのである。だが私は、たった二か月暮らしただけだというのに、『街』にいい思い出がない。電気や水道といったインフラは最優先で『街』に回されて暮らすには便利だったけれど、あそこには美しい小川も、ふかふかの土を抱いて横たわる畑もない。何より食事がおいしくない。初めてこの家に来た時の温かいシチューの味を覚えている私は、『街』へ引っ越そうという母の提案をすぐに断った。私は父の代わりに畑を耕し、この土地を守ることを選んだ。女手一つで土を耕し、草を引いて出来上がった作物を刈り取ることは重労働だったが、食料供給の乏しいこの時代、畑で採れたものはいくらでも売れた。かつて父がそうであったように昼は黙々と土を耕し、休日には図書館に潜り込んで本を読み漁る。ここでの生活は静かで、なんの変化もない。ただ、私の書き取りノートに武骨で几帳面な父の、角ばった文字が増えないことを除いては。もっともその間に、世界は大きく変化していた。ニンゲンはいよいよその数を減らし、その代用として作られた人工生命体が政府の中枢を担うようになったのである。人工生命体同士での結婚、出産が成功し、私たちが『第一世代』と呼ばれるようになったのもこの頃だ。人工生命体による新政府は食料供給の礎となる農地の整備を急務とし、私の農場にも街育ちの青年が送り込まれてきた。もちろん彼も、人工生命体の第一世代である。私はこの小さな変化を喜んで受け入れた。女手では十分な畑仕事はできないし、少しは家事も手伝って母の負担を減らしたかったからだ。彼はこの田舎の暮らしにすぐに慣れた。無口で武骨な……父に少し似た人だった。私はいつしか二十歳になっていた。私はこの青年と結婚し、子供を産んだ。母はこの頃まで元気であったが、ある日、やはりソドシックを発症して死んだ。その最期は父のように壮絶なものではなく、脱水で弱りきった体をベッドに横たえ

  • Pleasing days よろこばしき日々   6

    私がこの家に来て六年、日々は驚くほど単調で平和だった。父母は静かな愛情を注いで私を育ててくれた。そうして私は、15歳になった。その日、父はいつも通りに畑に向かった。テーブルの上に私のための書き取りと計算が用意してあったのもいつも通り。母は、これから洗濯場に持って行くための洗濯物を仕分けていた。全くすべてがいつも通りに、何事もなくその日がすぎるのだと、私は信じていた。昼をすこし過ぎたころ、父が突然帰ってきた。私と母は夕飯の仕込みをしているところだったが、この父の帰宅に驚いて窓から空を見上げた。「雨でも降ってきたの?」私たちが最初に雨を疑ったのは、父の洋服がぐっしょりと濡れていたから——その日、父はグレーのTシャツを着ていたのだが、これが濡れて濃いグレーに見えた。だが、空は雲一つない晴天で、雨の気配すらない。「いったい、どうしてそんなに濡れてるの?」振り向いた母は、「あ」と小さく叫んで声を飲んだ。私も振り向いて、そして、父が尋常ではないことに気づいた。父の顔は真っ青で、その体は真冬の寒い中に放り出されたかのようにガタガタと震えていた。「あなた」母の呼びかけに応えようと開いた口からは、だらだらと大量のよだれが流れ落ちた。これがソドシックの初期症状である。人体の60パーセントは水でできており、それを細胞中にとどめておくには塩分が必要である。ところが、この塩分が急速に失われるのだから、水分は人体内にとどまることができず排出される。だから塩の柱の中心はミイラ化し、生前の面影など何もない枯れ木のような悲しい姿になるのだ。父は水分の排出が始まってすぐ、畑から家に向かって這ってきたのだろう。ズボンは泥に塗れていた。もはや自分が助からないことを知っていながら、最後に一目でいいから家族の姿を見たいと願ったのだろう。この時の父の気持ちを考えると、私はひどくむなしい気持ちになる。父は死後の世界というものを信じていなかった。最期にどれほどの想いで家族の姿を瞼の裏に焼き付けようとも、死んで灰になればそれまでなのだということを、よく知っていたはずである。それでも父は私たちに会いたいと願った。それを思うだけでもむなしくて、涙がこぼれる。父はまず母を見て、よだれの垂れた口元から「ありがとう」と言葉をこぼした。母はこの時もやはり、泣いていた。それから父は私を見て……何か

  • Pleasing days よろこばしき日々   5

    ——いったい、私たち『人工生命体』は何のために作られたのだろう。もしも亡くした子の代用であるなら、姿かたちだけが似ていれば十分に事足りる。発注時に提出された遺伝子をもとに普通のクローン人間を作ればいいだけの話だ。ところがニンゲンは、自分たちが滅びた後も私たち『人工生命体』が残ることを望んだ。だから物質的には人間と違う組成で体を作り、外見のみを『亡くした子』に似せて作ったわけだ。そして単なるニンゲンの遺産の管財人であるならば感情など不要であるはず、にもかかわらず私たちはニンゲンの父母のもとに送られてニンゲンの感情というものを学ばされる。この答えを、私の父母は明確に持っていた。ある時、私の母が私の手を取って泣きながら言ったことがある。「ごめんね、私たちのわがままで、ごめんね」そう、私たちはニンゲンのエゴで作られた。本当に受け継ぐべき遺産は文明やインフラといった物的なものではない。父母は、日々の暮らしの中でそれを教えてくれた。『ユウコ』が遺したものの中で、私が一番心惹かれたのは教科書であった。何しろ子供という存在が失われて久しいのだから、教育制度というものは残っていない。それでも、何度も教科書を広げてはそこに書かれた文字をなぞる私を見て、父は言った。「勉強、好きか?」「うん、好き」私の答えにも、寡黙な父はただ頷いただけで、特に何かを語ったりはしなかった。しかし次の日の朝、食卓の上にノートが広げておいてあった。ノートは青いインクでマス目を印刷した『漢字練習帳』というもので、父はその一段目に見本の文字を書きこんでくれたのだ。「あらあら、書きとりね」それを見た母が、見本と同じ文字をぎっしりノートに書きこむ方法を教えてくれた。もう一冊、こちらは簡単な足し算をぎっしりと書き込んであったが、これも母が昼の間に解き方を教えてくれた。こうして父が出した宿題を私が解き、それに母が丸を付けてくれるという日課が出来上がった。私は毎日楽しく勉強しているだけだったが、父母にはきっと負担だったに違いない。父は朝早く起きて畑仕事の前にノートを作ってくれるのだし、母も昼間の家事の時間を削って私の相手をしてくれたのだ。それでも父母は、これが手間だとも大変だとも、一度として言わなかった。こうして私は文字を覚え、計算を覚えた。私が一通り文字を覚えると、父は週に一回、畑仕

  • Pleasing days よろこばしき日々   4

    そんな幸せに影が差し始めたのは、私がこの村に来て二年目の春−−この頃には私はニンゲンのような喜怒哀楽を獲得し始めていて、母のように泣いたり、父が飴玉をくれるたびににっこり笑ったりと、簡単な感情の表現ができるようになっていた。そして、父母に深い愛情のようなものを抱き始めてもいる、そんな時だった。「お葬式へ行くよ、黒い服を着てらっしゃい」私にそう言った母は、どれほど泣いたのか、目を腫らしていた。死んだのは、洗濯場でよく顔を合わせる少し太ったおばさんだった。おばさんのお葬式には村中の人が来ていたけれど、誰も棺を覗き込もうとはしなかった。その理由を教えてくれたのは、私より二つ年上の人工生命体の少年だ。「ソドシックだったんだってさ。死体は塩になってしまって、ふためと見られたもんじゃないらしいぜ」ソドシックとは、これこそがニンゲンを滅亡させた恐ろしい病だ。これが発症すると、ニンゲンは塩の柱になって死んでしまう。本当に体の芯まで塩になってしまうのではなく、本来なら血液中や細胞内に収まっているはずの塩分が体表に吹き出してしまう病なのだが。体の表面を塩で覆われた姿は、たしかに塩の柱に見える。そして、体内から塩分の全てを失ったニンゲンは、当然死に至る。病理は解明されておらず、ワクチンも、治療法もない。ニンゲンが人口の三分の二を失ったのはこの病の感染爆発のせいである。この時の私は、そうした情報に疎かった。だから、少年に聞いた。「ソドシックの流行は、もう終わったんじゃないの?」少年は得意そうに小鼻を膨らませた。いかにも得意そうな、嫌な顔だと私は思った。「ばっかだなあ、お前は」ぴくん、ぴくんと小鼻をうごめかせて、少年は胸を張る。「終わったのはソドシックの大流行、ソドシック自体は根絶されたわけじゃないのさ」私はなんだか嫌な気分になって、話を早く切り上げようとした。「ふ〜ん、そうなんだ」適当に相槌を打ってその場を去ろうとするが、その少年は私の前に立ちはだかって行く手をふさいだ。「なあ、知ってるか、ソドシックってのは体の小さな子供の方がかかりやすい、だから、もう地球には、ニンゲンの子供は残ってないんだってよ」これが私たち人工生命体が作られた理由——私たちはニンゲンとはわずかに違う物質で作られており、ソドシックを発症することはない。地球上にニンゲンがいなくなった

  • Pleasing days よろこばしき日々   3

    ある日の夜、私は床に入って眠りに落ちるのを待っていた。隣のベッドではすでに父が大きないびきを立てて眠っている。反対のベッドに眠る母は寝つきが悪いのだろうか、先ほどから何度も寝返りを打っていた。眠気で閉じそうになる目を何度もしばたたかせて、私は母に声をかける。「お母さん」どうやら彼女は泣いていたようだ。返された声はかすれて震えていた。「どうしたの?」私は返すべき言葉を見失って、無言だった。母は涙をぬぐったのだろうか、掛け布団が大きく揺れる。「どうしたの? 眠れないの?」眠れずにいるのは母の方だろう。それでも彼女の声は私に対する愛情と気遣いにあふれていた。「眠れないなら、子守歌でも歌ってあげようか?」私は暗闇の中で小さくつぶやく。「ううん、いらない。それより、お母さん……」母の声が少し沈んだ。「ごめんね、うるさかった?」「ううん、うるさくはないけど、眠れないの?」母はバサッと大きく動いて掛け布団を頭の上まで引き上げる。その下から聞こえたのはしゃくりあげるような嗚咽の声だった。「お母さん、ねえ、お母さん」心配になってベッドから降りた私は、母の体を布団の上からさするのだけれど、母の泣き声はなかなか止まなかった。それでも、しばらく泣くと少し落ち着いたのだろうか、母が鼻をすすりながら言った。「ユウコ、あんたはいい子だね」私は首をかしげて考える。「いい子じゃないよ、今日もお洗濯の途中でトンボとりに行っちゃったし」「そうじゃなくて、あんたは優しい、いい子だよ」鼻をすすりあげる音と、続きの言葉。「こういう夜は、つい、昔のことなんか考えちゃってね。いまは夜っていうのはこんなに暗いけれど、十年くらい前までは、ちゃんと夜も電気がついて、家ももっといっぱい立っていて、コンビニなんかもあったんだよ」「コンビニ?」「夜もあいているお店だよ。そういう明かりがいっぱいあって、夜はもっと明るかったのよ」「夜なのに、明るいの?」「そう、夜でも明るいの。ああ、あの光景を見せてあげたかったわねえ」そんなたわいもない話をしているうちに、母はどうやら落ち着いたようであった。「ごめんね、寝るの邪魔しちゃったわね」母の優しい声が聞こえる、それだけで私は安心して、自分のベッドに向かおうとした。その時だ、母がそれを聞いたのは。「ねえ、ユウコ、私が死んだら、

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status