All Chapters of 植物人間の社長がパパになった: Chapter 1061 - Chapter 1070

1101 Chapters

第1061話

美穂は、子どもたちに首を絞められたと言っただけで――あの動画を見せたことについては、最初から完全に黙っていた。雅彦に問い詰められると、彼女は逆切れした。「なによ、だって悪いのは桃でしょ? あの子たちだって、まるで狂ったように私に反抗して……『ママのところに帰る!』って叫んで、全然言うこと聞かないのよ。私にどうしろっていうの?」それを聞いた永名も、すぐに美穂をかばうように言った。「そうだ。お前の母さんも、やり方が少し強引だったかもしれんが、そもそもの問題は桃にあるんじゃないか?あんな恥さらしなことをしておいて。しかも、母さんは怪我までしてるんだぞ?それなのに、お前は心配するどころか、こんな口調で責め立てるなんて……私の育て方が悪かったのか?」その言葉を聞いた雅彦は、もうこのふたりとはまともに話ができないと悟った。深いため息をつき、そのまま背を向けて去っていった。心の中は疲れ切っていた。桃の件、子どもたちの拒絶、そして両親からのプレッシャー――どれも重く、のしかかってくる。ホテルの部屋に戻った雅彦は、タバコに火をつけた。かつて桃がタバコの匂いを嫌がったこともあり、もう長いこと吸っていなかったが、今はただ、何もかもを忘れたくて、少しでもこの痛みを麻痺させたくて、火をつけた。気がつけば、煙草の箱はもう空っぽになっていた。煙に包まれた部屋の中で、雅彦はまるで何も感じていないかのようにベッドへ倒れ込み、目を閉じた。……その夜、安らかに眠れた者はいなかった。翌朝。香蘭は早朝から身支度を整え、菊池グループ本社ビルの前で張り込みを始めた。桃とも連絡がつかず、雅彦に電話をしても出ない――ならば、もう自分で動くしかない。長時間待ち続け、ようやく雅彦の車がビルに入ってくるのが見えた。香蘭は急いで駆け寄ったが、車から降りてきたのは、雅彦ではなく美穂だった。実は雅彦は、昨夜からずっと部屋にこもって一歩も外に出てこず、見かねた美穂が、会社に緊急の用がないか確認するために代わりに出てきたのだった。車から降りた美穂は、目の前の香蘭に気づくと、眉をひそめた。そしてすぐに、この中年女性が桃の母親だと気づいた。どうやら、ここで待っていたのは雅彦に話があるからに違いない。美穂は香蘭の全身を上から下まで値踏みするように見た。香蘭は、一晩中娘と孫の
Read more

第1062話

香蘭は一瞬きょとんとしたが、すぐに挨拶しようとしたそのとき――美穂が、冷たく言葉を叩きつけてきた。「あなたがここに何の用かわかりませんが……もう二度と、うちの息子に近づかないでいただけます?それに、その哀れっぽい格好で同情を誘おうとしても無駄よ。あなたの娘があんな破廉恥なことをした以上、母娘揃って少しは恥を知って、静かに身を引くのが筋ってものじゃないかしら?」その言葉とともに、美穂は見下すような視線を香蘭に向けた。その目には、軽蔑がはっきりと浮かんでいた。香蘭の顔は、怒りで真っ赤に染まった。「何を言ってるんですか!?桃が、いったい菊池家にどんな迷惑をかけたっていうんです?そんな言葉で侮辱される筋合いはありません!」美穂は鼻で笑った。どうやら、菊池家が今回の件をうまく隠していたせいで、桃の母親さえも何も知らなかったようだ。「知らないの?あなたの娘、男といかがわしい関係にあって――しかも現場を押さえられたのよ。記者に撮られて、それはもう酷い有様だったわ。もしうちがすぐに手を打たなければ、今ごろネット中にあなたの娘の恥ずかしい映像が出回っていたでしょうね?」「……ふざけないでっ!桃がそんなことをするわけない!!」香蘭は激しく反発した。まるで怒れる獣のように美穂に向かって突っ込んでいく。娘を侮辱されることだけは、決して許せなかった。それを見て、後ろにいた海がすぐに香蘭を引き留めた。彼は目の前のこの状況に、ただただ頭を抱えるしかなかった。「海、私のスマホは昨夜あの子たちに壊されて、使えなくなったけど……あなたは証拠のデータ、持ってるわよね? 見せてあげたら?」美穂が横から言う。美穂の強い促しに、海は少し戸惑いながらも、前に出た。「おばさん……申し訳ありませんが、桃さんと雅彦様がもうやり直すことはありません。そして、お子さんたちは菊池家で責任を持って育てていきます。もう、無理な抵抗はおやめください」「つまり……雅彦も、その考えに同意してるってこと……?」この海という男のことは、香蘭もよく知っている。雅彦の一番近くにいて、誰よりも信頼されている存在だ。そんな彼が口にした言葉なら――それはつまり、雅彦自身の意思と同じことだ。「はい。……それと、昨日お子さんを連れて行くとき、嘘をついてしまったことは謝ります。でも、あれが正しい判断だった
Read more

第1063話

美穂は、血だまりに倒れた香蘭を見て、顔面が真っ青になった。「わ、私は……そんなつもりじゃなかったのよ!」美穂はパニック気味に口走る。海はすぐに状況を把握し、慌てて香蘭のもとへ駆け寄った。すでに意識はなく、顔色は紙のように白い――命が危ういのは明らかだった。海は何も言わず、すぐに彼女を抱き上げて車へと運び、病院へ向かおうとした。「ま、待って! 海、あなたが送らなくてもいいでしょ? 他の人に任せなさい!その前に、ここにいた人たちへの対応をきちんとやってちょうだい!」美穂が我に返って叫ぶ。自分が人を突き飛ばした場面を、周囲の人間に見られていた。このまま放っておけば、うわさが広まり、自分の立場に悪影響が出かねない。それが何よりも、今の彼女にとって恐ろしかった。だが海は、そんな彼女の言葉に眉をひそめた。こんな状況で、まだ自分の評判のことしか考えられないなんて……「大丈夫です。ここのことは手配します。でも、今は命が優先ですから」海は呆れ果てて、結局はただこう言うしかなかった。海は車のドアを閉め、アクセルを踏み込んだ。車は全速力で病院へと走り出す。最速で病院へ到着し、香蘭を緊急処置室へと運び込んだ。手術室へと運ばれていく彼女の背中を見送りながら、海はやっと一息つく。だが、ふと視線を落とすと、自分の服にべっとりと付いた血の跡が目に入り、心臓がぎゅっと縮まる。どうか無事でいてくれ、と願うしかなかった。しばらくして、手術室から医師が出てきた。手には危篤通知書を持っていて、手術を進めるには家族の署名が必要だという。海は困ったような表情を浮かべ、事情を説明したが、医師は首を横に振るだけだった。家族の同意がなければ、これ以上の処置はできないという態度は変わらなかった。少し考えたのち、海は仕方なく、桃が入院している病院に連絡を入れることにした。一方――桃は、病室のベッドで突然、言いようのない不安感に襲われて目を覚ました。「……っ!」胸が苦しく、息もまともにできない。あまりの胸騒ぎに、思わず身体を起こしたその瞬間、あちこちの傷が痛み出す。けれど、それすらどうでもよかった。この息苦しさと胸のざわつき……何? どうにもならない不安が、じわじわと心を締めつけていた。いったい、何が起きているのだろう。どうして、こんなにも胸がざわめくの?
Read more

第1064話

桃の声は、震えてかすれていた。タクシーの運転手もそれ以上は何も聞かず、ただアクセルを踏み込み、可能な限りのスピードで車を走らせた。けれど、桃にとってはそれでも遅すぎる。「もっと……もっと早く……お願い、急いで……」繰り返し口にしながら、その顔には不自然な紅潮が浮かんでいた――血の気のない蒼白な肌に浮かぶ赤みは、むしろ不気味にしか見えなかった。やがて車が病院に到着すると、桃は料金も払わずドアを開けて飛び出した。運転手はようやく彼女が無賃で降りたことに気づいたが、あまりの様子に何も言えず、そのまま車をUターンさせて走り去った。虚ろな身体を無理やり引きずるようにして、桃は病院のロビーから救急処置室へと向かって走る。自分でも信じられないほどのスピードだった。まるで、全身の限界を振り絞っているかのように。走り抜けたその先で、彼女は海の姿を見つけた。「……どうして、どうして母が!? 昨日は、昨日までは元気だったのに!」桃は彼の腕をつかんで、泣き出しそうな声で詰め寄った。海は一瞬言葉に詰まった。確かに、自分は桃に少なからず怒りやわだかまりを抱えていたことがある。けれど、今回の件は――間接的とはいえ、自分にも責任があるのだ。「今は……説明してる時間はない。とにかく、早く署名して。手術に入らないと、命が危ない!」医師もすぐに手術同意書と危篤通知書を差し出した。桃は、手を震わせながらその書類を受け取る。危篤通知書、その文字を見た瞬間、目に涙が溢れた。その瞳は血のように真っ赤に染まり、今にも涙ではなく血がこぼれ落ちそうだった。「急いでください! 今すぐ手術に入らなければ、たとえ命が助かっても後遺症が残る可能性が高い!」医者は数えきれないほどの生と死を見てきた。桃の今の苦しみも理解しているが、それでもやはり人の命が最優先だ。「わ、私が書きます!」桃は唇を強く噛み、血がにじむほどにぎゅっと噛みしめた。その痛みによってようやく思考が少しだけ戻り、震える手で、手術同意書に自分の名前をサインした。医師はそれを受け取り、すぐに手術室へと駆け戻っていった。閉ざされた手術室のドア。手術中と赤く光る表示灯。それを見た瞬間、桃の全身から力が抜けていった。ガクン――崩れ落ちるように倒れそうになったその瞬間、海が彼女の体を支えた。桃はやっと我に返り、彼を見
Read more

第1065話

どれくらい待ったのか分からない。ようやく――手術室の扉が、静かに開いた。ストレッチャーに乗せられた香蘭が、顔面に血の気もなく、ぐったりと横たわったまま運び出されてきた。桃はふらつきながらも駆け寄り、必死に声を上げた。「お母さん……お母さんは、どうなったんですか?」「ひとまず、命の危険は脱しました。ただ、後頭部への衝撃が強くて……今後、後遺症が残る可能性もあります。あるいは……」「あるいは?」桃は息を呑んだ。言葉を飲み込もうとする医師の態度に、不安が増すばかりだった。「……このままずっと目を覚まさず、植物状態になることも考えられます」その瞬間、桃の脚から力が抜け、床に倒れそうになったのを、医師がとっさに支えた。――植物人間?頭の中に浮かんだのは、いつも優しく微笑んでくれた母の姿だった。子どもの頃から、いつもそばにいてくれて、悩みを聞いてくれて、何より彼女のことを一番に想ってくれた――そんな母が、もう二度と目を覚まさないなんて。身体の奥から冷たいものが一気に広がっていく。全身が震え、呼吸さえも苦しかった。桃は涙をこらえながら、必死に問いかけた。「でも……きちんと治療して、リハビリを続ければ……よくなる可能性はありますよね?」「そればかりは、誰にも分かりません。まずはしばらく様子を見てみましょう。あまり気を落とさないように」医師の言葉に、桃は小さくうなずくしかなかった。――そう、今この家で、ちゃんと立っていられるのは自分だけ。自分まで崩れたら、もう本当に終わってしまう。だからこそ、どれほど心が痛んでも、泣きたくても、踏みとどまるしかない。香蘭が病室に運ばれると、桃もすぐそばに付き添った。海がすでに入院の手続きを済ませており、医療費の前払いも完了していたため、彼女は他のことに気を取られることもなく、ただ香蘭のそばに座って見守ることができた。「お母さん、あなたがいないなんて……そんなの、考えられない。ねえ……ねえ、絶対に私をひとりにしないで……お願い……」桃は母の手を両手で包み込み、そっと頬を寄せながら、祈るように語りかけた。……そのころ。香蘭が手術を終えて一命を取り留めたという知らせは、病院から海にすぐ伝えられた。とりあえず命は助かった。昏睡状態とはいえ、最悪の事態は避けられた。それを知って、海も少しだ
Read more

第1066話

部屋の中は、相変わらず静まり返っていた。美穂はため息をつきながら口を開いた。「二人とも、ずっとごはんを食べようとしないのよ。もう一日中、何も口にしてないわ。あなた、本当にそれでいいの?ちょっとくらい、様子を見てきたらどう?」言い終えるやいなや、部屋の中から「ガンッ」と何かが床にぶつかる音が響いた。しばらくして、重い足音が近づいてくる。やがて、雅彦がゆっくりとドアを開けた。扉が開かれると、内側から濃厚な煙草の匂いが立ちこめた。思わずむせ返りそうになるほどの刺激臭に、美穂と海は咳き込んだ。その扉の向こうに現れたのは、ひどくやつれた雅彦の姿だった。美穂は、胸が締めつけられるような痛みを感じた。こんな姿の息子を見るのは久しぶりだった。最後に見たのは、桃が死んだと偽って海外へ逃げたとき――そう、雅彦がここまで崩れた時は、いつだって桃が関わっていた。「……あの子たち、まだ食べようとしないのか?」部屋に籠って一晩中、雅彦は考え続けていた。疲れきったときだけ、ほんの少しだけ眠れたが――その夢の中でも、何度も桃が現れて、過去の思い出が次々と浮かんできた。どうしてこんな細かい記憶まで覚えているんだろうと、自分でも不思議に思うくらいだった。ろくに眠れていないせいで、顔色は悪く、まるで何年も年を取ったようだった。もし美穂が子どもたちのことを言い出さなければ、彼はずっと部屋に閉じこもっていたかもしれない。「子どもたちの性格は、あんたそっくりよ。親のあんたが好き勝手にふてくされて食事もしないでいて、どうしてあの子たちが素直に言うこと聞くと思うの?」そう言われて、雅彦はため息をついた。「……わかった、行ってみる」そう言って立ち上がろうとしたが、海に止められた。「雅彦様、そのままじゃ煙草の臭いがきつすぎます。お子さんたちにとっても辛いでしょうし、まずはシャワーを浴びて着替えてください」自分では気づいていなかったが、海と美穂の顔に明らかに耐えているような表情が浮かんでいて、雅彦は黙ってうなずいた。仕方なく部屋へ戻り、シャワーを浴びて着替えることにした。雅彦が部屋から出てきたのを見て、美穂はようやく少しだけ安心した。とはいえ――少し切ない気持ちも湧いてきた。どれだけ自分が声をかけても、雅彦は動こうとしなかった。けれど、「あの子たち」の一言で、
Read more

第1067話

「もし無理やり連れ戻されて、ママやおばあちゃんに会えなくなるなら……僕たちは、死んでも従わない」翔吾は一歩前に出て、少しふらつきながらも、きっぱりとした口調で言った。効果があるかどうかは分からない。でも彼らはまだ子どもで、あまりにも無力だった。だからせめて、覚悟だけでも示そうとした。太郎も後ろから翔吾の手を握り、同じ気持ちを伝える。「僕も……もし無理やり連れて帰るつもりなら、絶対に従わないから」二人の顔は雅彦にそっくりだった。だが、そこにあったのは、かつての信頼や親しみではなかった。今はただ、強い警戒と拒絶の色だけが浮かんでいた。その顔を見て、雅彦はふと、自分が父親としてどれほど失敗してきたかを思い知った。確かに――彼はこれまで、この子たちのために何かしてやれたことがあっただろうか。命を懸けて彼らを産んだのは桃だった。育ててきたのも彼女で、自分はその過程にほとんど関われていなかった。もし、そこに佐俊がいなかったら――雅彦は、彼らを桃のもとに戻していたかもしれない。たとえ、自分がどれほど寂しく感じても、それを選んだだろう。だけど……自分の子どもが、別の男をパパと呼ぶ未来を想像すると――以前のように無邪気に甘える姿を、その人に甘える姿を想像すると、胸の奥にどうしようもない怒りが湧いてくる。「……死んでも従わない?結構な覚悟だな。でも、もしお前たちが死んだら、いちばん大事に思ってる人たちはどうなる?」雅彦の声は低く、冷たかった。「絶食で脅せば何とかなると思ってるんだろ?だったら俺が本気になって、お前たちに栄養剤を打ってでも生かしておくって言ったらどうする?それでも帰ることは許さないって言ったら?」その言葉を聞いた翔吾は、一瞬で顔色を変えた。これまでは、雅彦が自分たちのことを大切に思ってくれていると信じていたからこそ、絶食なんて方法で抵抗する覚悟も持てた。でも今、目の前の父親は、あまりにも冷たかった。翔吾と太郎は目を合わせた。これ以上やったら、自分たちの身体が壊れるだけで、何の意味もなくなってしまうかもしれない――そんな不安が、二人の胸に広がっていった。「じゃあ、本気で……僕たちにそんなことするの?僕たちに恨まれてもいいってこと?」雅彦は苦笑した。恨まれる?桃は、もう俺を心の底から憎んでるだろう。「
Read more

第1068話

そう言い残すと、雅彦は部屋を出て行った。翔吾と太郎は、どちらも賢くて聡い子どもだから――きっと彼の言葉の意味を理解できるはずだ。絶食というのは、相手の情に訴える一種の賭けにすぎない。しかし、それは結局、弱者の手段だ。もし本当に、自分の意思で生きたいなら。誰にも縛られたくないなら。――あとは強くなるしかない。彼が言った通りに。雅彦自身も、そうやってここまで来た。だが、部屋を出たあと、彼は自嘲するように肩をすくめた。どれだけ権力や地位を手に入れても、どれほど多くの人間の運命を動かせるようになっても、――彼にとって、どうしても手に入らないものがあった。それは、人の「心」。もし、桃の心を自分だけで満たせていたなら。あるいは、自分の中から桃を完全に追い出せていたなら。きっと今のように、こんなにも苦しむことはなかっただろう。だが――どちらも、叶うはずのない願いだった。……雅彦が去ったあと、翔吾は太郎に目をやった。さっきの言葉が、胸に深く突き刺さっていた。悔しかった。けれど、認めざるを得なかった。彼の言うことは、すべて正しかった。今の自分たちは、何もできない。ただの子どもだ。ふたりがかりでも、雅彦の片手に敵わなかった。もし今回、奇跡的にうまく逃げられたとしても、次はどうだろう?また同じように、どうしようもない壁にぶつかるかもしれない。そのとき、自分たちは――何もできないまま、また誰かに奪われるのだろうか。「翔吾……ごはん食べよう。もしこのまま菊池家に戻ることになっても、できるだけ早く強くなろう。誰にも邪魔されずに、やりたいことができるように。守りたい人を、自分で守れるように」太郎が決意に満ちた声で言った。翔吾は黙ってうなずいた。太郎がテーブルに置かれたハンバーガーを手に取り、ひとつを翔吾に渡す。ふたりとも、本当はハンバーガーが大好きだった。でも家では、体に悪いからと滅多に食べさせてもらえなかった。今日は、食べられる。けれど――少しも嬉しくなかった。会いたい人に会えない悲しみ。何もできない自分たちへの悔しさと情けなさ。それが、胸の奥から溢れて止まらなかった。それでも翔吾は、年上らしく少しだけ早く涙を拭いた。ティッシュを取り出して、隣の太郎の涙もそっと拭ってやる。「大丈夫。今はどうにもならないけど、チャン
Read more

第1069話

今では二人ともちゃんと食事を取るようになっていた。このまましばらく手元で丁寧に育てていけば、いずれ桃への執着も薄れていくだろう――美穂はそう思っていた。久しぶりに見せたその穏やかな笑顔に、そばにいた永名もようやく安堵の息をつく。もう何年も、彼女のこんな顔を見ていなかった。永名はその機嫌を壊さぬよう、そっとその場を離れ、雅彦のいる場所へと向かった。雅彦は食事の席にいたが、料理にはほとんど手をつけていない。つい先ほど、使用人が話していたこと「二人がようやくご飯を食べた」――その理由を、雅彦もよく分かっていた。それは決して菊池家に戻ることを受け入れたからではない。母親を取り戻せなかった悔しさが、そうさせただけだった。雅彦は自分のしたことが、あの無垢だった子どもたちの心を壊してしまったと分かっていた。だから、素直に喜ぶ気持ちにはなれない。永名は、そんな雅彦の様子を見て、桃のことを悩んでいるのだろうと思い、またため息をついた。「雅彦、人にはどうしても結ばれない縁というものがある。おまえがどれだけ心を尽くしても、報われないこともあるんだ。今はもう、気持ちを切り替えるときじゃないか?二人の子どもたちも、おまえを必要としている。それに、お母さんも……ずっとおまえを待っていた。海外に行ってから、ろくに連絡もしていなかっただろう?彼女は、おまえに嫌われたくなくて、ずっと会いに行くのを我慢してたんだ」永名は、少しだけ声を落としながら続けた。「だからこそ、今は一度帰国して、しっかり家族と向き合ってやれ。子どもたちも、お前と一緒ならそれほど反発もしないだろう。ここの案件は、しばらく私が預かっておくから安心しろ」永名は、あらゆる可能性を考えていた。菊池家は海外のプロジェクトに多大な労力と資金を投じてきたのだ。だからこそ、ここで簡単に手を引くわけにはいかない。だが、雅彦を引き続き海外に残しておけば、そこには桃もいる。もしかすると、また余計な問題が起きるかもしれない。そう考えると、一度彼を帰国させるのが最も手っ取り早い――時間が経てば感情も薄れていくだろうし、気持ちが落ち着いてから再びプロジェクトに取り組めばいい。雅彦も、永名の言葉の意図くらいはすぐに察した。けれど――たとえ断りたい気持ちがあっても、今の彼にはそれを口にする理由すらなかった。
Read more

第1070話

桃は、医師の腕を掴んでいた手を、力なく下ろした。もう、分かっている。医師がここまで言うということは、もう目を覚ます可能性は限りなく低いということ。どんなに信じたくなくても、現実は残酷だった。医師はそんな彼女の表情を見て、業務的ながらも優しい声で言った。「でも、まだすべてを諦める必要はありません。きちんとお世話を続けていけば、そばにいられるだけでも意味があります。医学は日々進歩していますから、いつか奇跡が起きる可能性も……ありますよ」その言葉に、桃はかすかにうなずき、涙を堪えながら「ありがとうございます」と頭を下げ、医師を見送った。部屋に残されたのは、桃と、ベッドに横たわる香蘭だけ。その途端、こらえていた感情があふれ出した。彼女は母の手を強く握りしめ、泣き続けた。昨日からずっと、願い続けてきた。「どうか、目を覚まして」と。もし叶うのなら、自分の命を削ってでも代わってほしいと、そう願っていたのに――神様は、結局、彼女の願いに耳を貸してはくれなかった。桃は香蘭の手をしっかりと握り、声を殺して泣いた。どれだけ泣いたか分からない。気づけば瞼は真っ赤に腫れ、目の周りはまるでクルミのように膨らんでいた。ようやく涙が止まったとき、桃は深く息を吸い込んだ。このままじゃダメだ。医師の言う通り、泣いてるだけでは何も変わらない。これからどうすべきか、ちゃんと考えなければならない。まず、母の看病。絶対に手を抜けない。そしてもうひとつ、大事な問題がある。母のこの怪我は、本当にただの事故だったのだろうか?海があんなに急いで去ったのも気になる。もし本当に偶然通りかかっただけなら、彼があそこまで焦る必要なんてなかったはず。桃の直感が告げていた――これは絶対に「事故」なんかじゃない。誰かが故意にやったのだと。もし犯人を突き止めたら、どんな手を使ってでも、絶対に許さない――そう心に誓った。……一方その頃。麗子は、すべてが終わったあと、すでに国外を離れ、国内に戻っていた。遠くから菊池家が大混乱に陥っていく様子を眺めながら、彼女は思わず笑みをこぼした。かつては、雅彦に手玉に取られ、何度も惨めな思いをさせられた。だが今は違う。ようやく自分が、あの連中に同じ痛みを味わわせる番になったのだ。あの裏切り者のカップルが、もう二度と仲良くできないと考え
Read more
PREV
1
...
105106107108109
...
111
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status