どれくらい待ったのか分からない。ようやく――手術室の扉が、静かに開いた。ストレッチャーに乗せられた香蘭が、顔面に血の気もなく、ぐったりと横たわったまま運び出されてきた。桃はふらつきながらも駆け寄り、必死に声を上げた。「お母さん……お母さんは、どうなったんですか?」「ひとまず、命の危険は脱しました。ただ、後頭部への衝撃が強くて……今後、後遺症が残る可能性もあります。あるいは……」「あるいは?」桃は息を呑んだ。言葉を飲み込もうとする医師の態度に、不安が増すばかりだった。「……このままずっと目を覚まさず、植物状態になることも考えられます」その瞬間、桃の脚から力が抜け、床に倒れそうになったのを、医師がとっさに支えた。――植物人間?頭の中に浮かんだのは、いつも優しく微笑んでくれた母の姿だった。子どもの頃から、いつもそばにいてくれて、悩みを聞いてくれて、何より彼女のことを一番に想ってくれた――そんな母が、もう二度と目を覚まさないなんて。身体の奥から冷たいものが一気に広がっていく。全身が震え、呼吸さえも苦しかった。桃は涙をこらえながら、必死に問いかけた。「でも……きちんと治療して、リハビリを続ければ……よくなる可能性はありますよね?」「そればかりは、誰にも分かりません。まずはしばらく様子を見てみましょう。あまり気を落とさないように」医師の言葉に、桃は小さくうなずくしかなかった。――そう、今この家で、ちゃんと立っていられるのは自分だけ。自分まで崩れたら、もう本当に終わってしまう。だからこそ、どれほど心が痛んでも、泣きたくても、踏みとどまるしかない。香蘭が病室に運ばれると、桃もすぐそばに付き添った。海がすでに入院の手続きを済ませており、医療費の前払いも完了していたため、彼女は他のことに気を取られることもなく、ただ香蘭のそばに座って見守ることができた。「お母さん、あなたがいないなんて……そんなの、考えられない。ねえ……ねえ、絶対に私をひとりにしないで……お願い……」桃は母の手を両手で包み込み、そっと頬を寄せながら、祈るように語りかけた。……そのころ。香蘭が手術を終えて一命を取り留めたという知らせは、病院から海にすぐ伝えられた。とりあえず命は助かった。昏睡状態とはいえ、最悪の事態は避けられた。それを知って、海も少しだ
桃の声は、震えてかすれていた。タクシーの運転手もそれ以上は何も聞かず、ただアクセルを踏み込み、可能な限りのスピードで車を走らせた。けれど、桃にとってはそれでも遅すぎる。「もっと……もっと早く……お願い、急いで……」繰り返し口にしながら、その顔には不自然な紅潮が浮かんでいた――血の気のない蒼白な肌に浮かぶ赤みは、むしろ不気味にしか見えなかった。やがて車が病院に到着すると、桃は料金も払わずドアを開けて飛び出した。運転手はようやく彼女が無賃で降りたことに気づいたが、あまりの様子に何も言えず、そのまま車をUターンさせて走り去った。虚ろな身体を無理やり引きずるようにして、桃は病院のロビーから救急処置室へと向かって走る。自分でも信じられないほどのスピードだった。まるで、全身の限界を振り絞っているかのように。走り抜けたその先で、彼女は海の姿を見つけた。「……どうして、どうして母が!? 昨日は、昨日までは元気だったのに!」桃は彼の腕をつかんで、泣き出しそうな声で詰め寄った。海は一瞬言葉に詰まった。確かに、自分は桃に少なからず怒りやわだかまりを抱えていたことがある。けれど、今回の件は――間接的とはいえ、自分にも責任があるのだ。「今は……説明してる時間はない。とにかく、早く署名して。手術に入らないと、命が危ない!」医師もすぐに手術同意書と危篤通知書を差し出した。桃は、手を震わせながらその書類を受け取る。危篤通知書、その文字を見た瞬間、目に涙が溢れた。その瞳は血のように真っ赤に染まり、今にも涙ではなく血がこぼれ落ちそうだった。「急いでください! 今すぐ手術に入らなければ、たとえ命が助かっても後遺症が残る可能性が高い!」医者は数えきれないほどの生と死を見てきた。桃の今の苦しみも理解しているが、それでもやはり人の命が最優先だ。「わ、私が書きます!」桃は唇を強く噛み、血がにじむほどにぎゅっと噛みしめた。その痛みによってようやく思考が少しだけ戻り、震える手で、手術同意書に自分の名前をサインした。医師はそれを受け取り、すぐに手術室へと駆け戻っていった。閉ざされた手術室のドア。手術中と赤く光る表示灯。それを見た瞬間、桃の全身から力が抜けていった。ガクン――崩れ落ちるように倒れそうになったその瞬間、海が彼女の体を支えた。桃はやっと我に返り、彼を見
美穂は、血だまりに倒れた香蘭を見て、顔面が真っ青になった。「わ、私は……そんなつもりじゃなかったのよ!」美穂はパニック気味に口走る。海はすぐに状況を把握し、慌てて香蘭のもとへ駆け寄った。すでに意識はなく、顔色は紙のように白い――命が危ういのは明らかだった。海は何も言わず、すぐに彼女を抱き上げて車へと運び、病院へ向かおうとした。「ま、待って! 海、あなたが送らなくてもいいでしょ? 他の人に任せなさい!その前に、ここにいた人たちへの対応をきちんとやってちょうだい!」美穂が我に返って叫ぶ。自分が人を突き飛ばした場面を、周囲の人間に見られていた。このまま放っておけば、うわさが広まり、自分の立場に悪影響が出かねない。それが何よりも、今の彼女にとって恐ろしかった。だが海は、そんな彼女の言葉に眉をひそめた。こんな状況で、まだ自分の評判のことしか考えられないなんて……「大丈夫です。ここのことは手配します。でも、今は命が優先ですから」海は呆れ果てて、結局はただこう言うしかなかった。海は車のドアを閉め、アクセルを踏み込んだ。車は全速力で病院へと走り出す。最速で病院へ到着し、香蘭を緊急処置室へと運び込んだ。手術室へと運ばれていく彼女の背中を見送りながら、海はやっと一息つく。だが、ふと視線を落とすと、自分の服にべっとりと付いた血の跡が目に入り、心臓がぎゅっと縮まる。どうか無事でいてくれ、と願うしかなかった。しばらくして、手術室から医師が出てきた。手には危篤通知書を持っていて、手術を進めるには家族の署名が必要だという。海は困ったような表情を浮かべ、事情を説明したが、医師は首を横に振るだけだった。家族の同意がなければ、これ以上の処置はできないという態度は変わらなかった。少し考えたのち、海は仕方なく、桃が入院している病院に連絡を入れることにした。一方――桃は、病室のベッドで突然、言いようのない不安感に襲われて目を覚ました。「……っ!」胸が苦しく、息もまともにできない。あまりの胸騒ぎに、思わず身体を起こしたその瞬間、あちこちの傷が痛み出す。けれど、それすらどうでもよかった。この息苦しさと胸のざわつき……何? どうにもならない不安が、じわじわと心を締めつけていた。いったい、何が起きているのだろう。どうして、こんなにも胸がざわめくの?
香蘭は一瞬きょとんとしたが、すぐに挨拶しようとしたそのとき――美穂が、冷たく言葉を叩きつけてきた。「あなたがここに何の用かわかりませんが……もう二度と、うちの息子に近づかないでいただけます?それに、その哀れっぽい格好で同情を誘おうとしても無駄よ。あなたの娘があんな破廉恥なことをした以上、母娘揃って少しは恥を知って、静かに身を引くのが筋ってものじゃないかしら?」その言葉とともに、美穂は見下すような視線を香蘭に向けた。その目には、軽蔑がはっきりと浮かんでいた。香蘭の顔は、怒りで真っ赤に染まった。「何を言ってるんですか!?桃が、いったい菊池家にどんな迷惑をかけたっていうんです?そんな言葉で侮辱される筋合いはありません!」美穂は鼻で笑った。どうやら、菊池家が今回の件をうまく隠していたせいで、桃の母親さえも何も知らなかったようだ。「知らないの?あなたの娘、男といかがわしい関係にあって――しかも現場を押さえられたのよ。記者に撮られて、それはもう酷い有様だったわ。もしうちがすぐに手を打たなければ、今ごろネット中にあなたの娘の恥ずかしい映像が出回っていたでしょうね?」「……ふざけないでっ!桃がそんなことをするわけない!!」香蘭は激しく反発した。まるで怒れる獣のように美穂に向かって突っ込んでいく。娘を侮辱されることだけは、決して許せなかった。それを見て、後ろにいた海がすぐに香蘭を引き留めた。彼は目の前のこの状況に、ただただ頭を抱えるしかなかった。「海、私のスマホは昨夜あの子たちに壊されて、使えなくなったけど……あなたは証拠のデータ、持ってるわよね? 見せてあげたら?」美穂が横から言う。美穂の強い促しに、海は少し戸惑いながらも、前に出た。「おばさん……申し訳ありませんが、桃さんと雅彦様がもうやり直すことはありません。そして、お子さんたちは菊池家で責任を持って育てていきます。もう、無理な抵抗はおやめください」「つまり……雅彦も、その考えに同意してるってこと……?」この海という男のことは、香蘭もよく知っている。雅彦の一番近くにいて、誰よりも信頼されている存在だ。そんな彼が口にした言葉なら――それはつまり、雅彦自身の意思と同じことだ。「はい。……それと、昨日お子さんを連れて行くとき、嘘をついてしまったことは謝ります。でも、あれが正しい判断だった
美穂は、子どもたちに首を絞められたと言っただけで――あの動画を見せたことについては、最初から完全に黙っていた。雅彦に問い詰められると、彼女は逆切れした。「なによ、だって悪いのは桃でしょ? あの子たちだって、まるで狂ったように私に反抗して……『ママのところに帰る!』って叫んで、全然言うこと聞かないのよ。私にどうしろっていうの?」それを聞いた永名も、すぐに美穂をかばうように言った。「そうだ。お前の母さんも、やり方が少し強引だったかもしれんが、そもそもの問題は桃にあるんじゃないか?あんな恥さらしなことをしておいて。しかも、母さんは怪我までしてるんだぞ?それなのに、お前は心配するどころか、こんな口調で責め立てるなんて……私の育て方が悪かったのか?」その言葉を聞いた雅彦は、もうこのふたりとはまともに話ができないと悟った。深いため息をつき、そのまま背を向けて去っていった。心の中は疲れ切っていた。桃の件、子どもたちの拒絶、そして両親からのプレッシャー――どれも重く、のしかかってくる。ホテルの部屋に戻った雅彦は、タバコに火をつけた。かつて桃がタバコの匂いを嫌がったこともあり、もう長いこと吸っていなかったが、今はただ、何もかもを忘れたくて、少しでもこの痛みを麻痺させたくて、火をつけた。気がつけば、煙草の箱はもう空っぽになっていた。煙に包まれた部屋の中で、雅彦はまるで何も感じていないかのようにベッドへ倒れ込み、目を閉じた。……その夜、安らかに眠れた者はいなかった。翌朝。香蘭は早朝から身支度を整え、菊池グループ本社ビルの前で張り込みを始めた。桃とも連絡がつかず、雅彦に電話をしても出ない――ならば、もう自分で動くしかない。長時間待ち続け、ようやく雅彦の車がビルに入ってくるのが見えた。香蘭は急いで駆け寄ったが、車から降りてきたのは、雅彦ではなく美穂だった。実は雅彦は、昨夜からずっと部屋にこもって一歩も外に出てこず、見かねた美穂が、会社に緊急の用がないか確認するために代わりに出てきたのだった。車から降りた美穂は、目の前の香蘭に気づくと、眉をひそめた。そしてすぐに、この中年女性が桃の母親だと気づいた。どうやら、ここで待っていたのは雅彦に話があるからに違いない。美穂は香蘭の全身を上から下まで値踏みするように見た。香蘭は、一晩中娘と孫の
けれど――翔吾がどれだけ必死に訴えても、雅彦はその場から一歩も動こうとはしなかった。その様子を見ていた太郎は、ふと何かに気づいたように雅彦の顔を見つめた。幼いころから危険な環境に晒されてきた太郎は、人の感情の機微にとても敏感だった。そっと近づき、太郎が小さな声でたずねた。「パパ……もしかして、あの動画のこと、本当に信じちゃったの?」その言葉に翔吾もハッとしたように顔を上げ、雅彦の表情をじっと見つめた。……そうか。たしかに昔だったら、家に何かあったと知ったら、雅彦はすぐさま飛んで帰ってきたはず。今のこの態度、あの動画を信じている以外に、理由が見つからない。雅彦は、ふたりの傷ついた表情を見て、思わず言葉に詰まった。「……動画って……お前たち、見たのか?」この手の話は、本来なら子どもたちに知られるべきではない。彼らはまだ幼く、こんなにも早く大人の世界の汚さに触れてしまえば、心に大きな影を落とすことになる。翔吾は静かに、でもはっきりと言った。「……あの女が見せてきたんだ。僕たちが知らないわけ、ないでしょ」そして、ぽとりと手を離し、うつむいたまま後ずさった。雅彦は思わず追いかけようと手を伸ばしたが、翔吾はするりと離れ、触れられない距離までさっと逃げた。「……結局、パパもママを信じてないんだね。だったら、もう話すことなんてないよ」そう言った翔吾の声は、あまりにも静かで、それでいて深く傷ついていた。ほんの少し前まで、彼は願っていた。パパが戻ってきたら、何かが変わるかもしれない。ママの誤解も解けるかもしれない。でも、それはただの夢だった。どれほどの想いを積み重ねても――たった一つの、前後も分からない動画だけで、すべてを否定されてしまうのだ。雅彦は何か言いかけたが、ふたりはもう顔を上げようともしなかった。並んで座り、彼に目を向けることさえしない。雅彦は拳を固く握りしめた。「……お腹がすいたり、何か欲しいものがあれば、呼んでくれ。俺は外にいるから」そう言い残して、ゆっくりと部屋を出た。ドアが閉まる音がしたあと――太郎が翔吾の袖をそっとつかんだ。「……どうしよう。パパまでママの味方じゃないなら……もう、僕たち、本当に戻れないかも」「どうなってたって、僕たちはママを信じないと!ママがそんなこと、するはずない」「うん