All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話

車は、重厚で威厳のある屋敷の前に静かに止まった。運転手が先に降り、私たちのためにドアを開ける。静香は黒のローヒールをコツコツと鳴らしながら、背筋をまっすぐ伸ばして玄関へと進んだ。幼い頃からしっかりとした教育を受けてきたことが、一目でわかる所作だった。「今日は、清水さんにお願いがあってお連れしました」「お願い?」「見ていただければ、すぐに分かります」彼女の言葉に少し疑問を覚えたけれど、それ以上詮索する気にはならなかった。好奇心というものが、私にはあまり備わっていないらしい。そう思っていたのに――彼女に導かれて庭を抜け、一枚のガラス越しに仏間の中を覗いた瞬間、私は言葉を失った。山田先輩が、板張りの床にひざまずいていた。背中には鞭で打たれたような生々しい傷跡が浮かび上がっている。なのに彼の表情には、苦悶も怒りもない。まるで、死んだ水面のように静まり返っていた。中年の貴婦人が、怒りに震えながら鞭を振るう。「山田時雄、今さら私をどうにかできると思うな!あんたが死んだって、養子を迎えれば済む話よ。山田家の跡継ぎなんて、その程度で足りるの!」「それなら、どうぞご自由に」時雄はぴくりとも動かず、静かに、しかし唇を噛み締めてその痛みに耐えていた。その声は一見丁寧だが、どこか冷ややかな響きも含んでいた。私は自分の背中までじわりと痛むような気がして、つい駆け寄ろうとした。けれど、静香にそっと腕を止められる。思わず声を落として尋ねた。「……あれ、彼の……お母さん?」でも――彼、私には「母親は亡くなった」って言ってたはず……!「私の母です」静香は淡々と答えた。まるでこの光景にすっかり慣れているかのように。声も、彼女の弟と同じように凪いでいた。「彼はここ何年も、山田家の力を一切使わずに生きてきました。でも昨日、あなたのために初めて頭を下げて、母に頼んだんです。九頭たちに、きっちりと落とし前をつけさせた」「……え?」私は一気に混乱した。昨夜、私は拉致されたあと、山田先輩と連絡を取っていない。なのに、なぜ……?静香は続けた。「私たち山田家は、もう長いこと泥に足を取られないようにしてきました。けれど彼は、昨日の一件で自らその泥へと戻ったのです」彼女の言い方は控えめだ
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第162話

ぼんやりと、私は思っていた。山田家というのは、おそらく一筋縄ではいかない関係を抱えているのだろうと。でも、それを山田静香という、会ったばかりの相手に問いただすのは違う気がした。少し迷ったあと、私は首を振った。「ごめんなさい。約束はできないかも。彼には、どうしても譲れないものがある。私は友達として、それを支えるだけです」二十年も一人を想い続け、いつだって冷静で落ち着いていた彼のことだ。その間にきっと、損得もすべて天秤にかけたはずだ。もう誰かが口を出す段階じゃない。静香は眉ひとつ動かさず、穏やかな声で言った。「彼が誰を好きなのか、気にならないんですか?」「言いたくなったら、自分で話してくれると思います」まだ私に話してくれてないってことは、今は知られたくないってことだろう。私自身、友達同士だからってすべてをさらけ出す必要はないと思ってる。お互い、秘密の一つや二つ、あってもいい。それは、悪いことじゃない。話題が突然切り替わった。「彼、大学を卒業したあと、うちの祖母は彼に、江川宏さんのように家業を継いでほしいと望んでいました。でも、彼はそれを断って、留学し、それからMSに入りました……どうしてそうしたのか、あなたにはわからないんですよね?」中年の婦人が怒りのままに鞭を投げ捨てた瞬間、私はようやく仏間の方を向いていた視線を戻した。「きっと……山田家と関わりたくなかったんじゃないですか?」その言葉に、静香はわずかに眉を上げた。私の率直さに驚いたようだったが、否定はしなかった。「確かに、それも理由の一つです。彼が一番憎んでいるのは山田家。でも、彼の中には山田家の血が流れています。どれだけ憎んでも、どうにもならないんですよ」「……」私が言葉を継ぐ前に、背後から足音がして、ぐいっと腕を引かれた。気づけば、山田先輩が私の前に立っていた。その表情は警戒と陰りに満ち、声も低く冷たかった。「誰が、彼女をここに連れてきていいって言った?」静香は眉をひそめ、淡々と返す。「食べたりしないわよ」「お前はな。でも、お前の母親なら話は別だ」山田先輩は皮肉な笑みを浮かべて言った。そのまま低く声を落とし、「これ以上、彼女を巻き込むようなことがあれば……お前にも容赦しない」「もともと容赦された覚えなん
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第163話

「俺が山田家に引き取られた時、みんな俺のことを私生児だって罵ったんだ」山田先輩はしばらく沈黙し、美しい瞳に複雑な感情が渦を巻く。「でも……あれは、父が母さんを騙した結果だった。母さんは、自分が外の女にされてるなんて知らなかったんだ」私は初めて知った。穏やかで優しげに見える山田先輩にも、こんなに辛く、長い過去があったなんて。彼の父は、彼の母の初恋だった。けれど父は家のために、母に真実を告げぬまま、別の女性と結婚した。その事実を母が知ったのは、もう彼を身ごもった後のことだった。「母さん、俺を連れて遠くへ逃げたんだ。でも……山田定子の報復からは逃れられなかった」「彼女は……」そう口にしたとき、山田先輩の瞳に苦しみと、長く押し殺してきた憎しみが滲んだ。けれどそれもすぐに押し込め、声だけがかすかに震えていた。「……死んだよ」足元に垂れた拳は、関節が白くなるほど強く握りしめられていた。私の胸も、ずしりと重くなった。彼が8歳のとき、母親はまだ30歳前後だったはずだ。ただ、ひとを信じたというだけで、あまりにも重すぎる代償を払わされた。山田先輩はふっと唇を歪め、呟くように言った。「定子の計画では、俺も一緒に始末されるはずだった。でも――彼女には子どもが産めない。そのせいで、山田家の祖母が手を出すなって止めたんだ」「……」このとき、私はようやく思い知った。名家にとって、命はあまりにも軽い。そこにあるのは、打算と利害、そして計算だけ。私は唇をきゅっと結んだ。「じゃあ……静香さんは?」「俺が山田家に戻る前に、定子が養子として迎えたんだ」山田先輩の声に、うっすらと嘲りが混じる。「孤児院に行って、山田牛雄に一番顔立ちの似てる子を選んだらしい」山田牛雄――先輩の父親。山田定子――あの仏間で、彼を鞭打った中年女。「……そりゃあ、山田家と関わりたくなくなるよね」私は静かに頷き、そして少し間を置いて尋ねた。「静香さんが言ってたんだけど……昨日、九頭多摩雄たちをやっつけたの?」「本当は、君を助けに行くつもりだったんだ」彼の目に、ふっと寂しさが浮かぶ。「でも間に合わなくてさ。代わりに外で、君の叔父さんと出くわした。あいつが言うには、九頭多摩雄が……君にひどいことをしたって
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第164話

この問いに、私は答えを返せなかった。だって――あの女性、結婚したってことを、私は覚えていたから。私はエンジンをかけ直し、唇の端をゆるめて言った。「叶うといいね」「……うん」山田先輩は、素直にそう答えた。私は彼を自宅前まで送り届け、迷いながら口を開いた。「……その、怪我、大丈夫?」「静香の言うこと、真に受けなくていいよ」彼はすっと手を伸ばして薬を取り、私の気まずさをさらりと受け流してくれる。「伊賀が家にいるから。あいつに塗ってもらえば十分だよ」「そっか……」私は、少しほっと息をついた。彼の怪我の手当てをしたくないわけじゃなかった。けど、背中となれば服を脱がなきゃいけないし――私がするのは、やっぱり違う気がしていた。彼だって、きっと困るだろうと思った。車の鍵を返そうとしたそのとき、山田先輩がふとこちらを見て言った。「……今日、怖かったでしょ?」私は手のひらをそっと握りしめた。正直言えば――あの仏間で、定子にあれほど強く打たれていた彼の姿は、確かに衝撃だった。鞭が振り下ろされて、皮膚が裂けるのがはっきりと見えた。でも私は、何を思ったのか、首を横に振っていた。「……大丈夫だったよ」「そっか」彼は鍵を受け取らなかった。「今日は週末だから、この辺じゃタクシーもつかまらないし。車、使って。俺はもう一台あるから」私は無理に遠慮せずに頷いた。彼が降りた後、伊賀に怪我の手当ての注意点を何通か送信し、それから車をゆっくりと走らせた。土屋じいさんが手配してくれた指紋鑑定の報告書は、すでに海絵マンションの玄関にある収納キャビネットの上に置かれていた。私が家の暗証番号を伝えていたからだ。封筒を開き、中身を確認すると、しっかりと指紋照合の結果が添えられていた。――江川アナのものと一致している。バスルームで髪と身体を洗い、さっぱりと着替えた私は、その報告書を手に病院へと向かった。到着すると、宏が静かにこちらを見ていた。「……ずいぶん、遅かったな」「ちょっと用事があって」もうすぐ離婚するというのに、何もかも細かく説明する義理はない。私は手に持った書類袋をひらひらと振ってみせた。「ちゃんと、サプライズは持ってきたよ」「へえ?何だそれ」宏が興味深
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第165話

アナは私を一瞥すると、口元にうっすら笑みを浮かべて言った。「もちろん都合はいいけど……母はずっと宏を待ってたの。ただね、南は最初は控えたほうがいいと思うの。お医者様も言ってたけど、母は長く昏睡してたから、記憶が混乱してる可能性があるの。まずは顔なじみの人とだけ会わせたほうが、身体にも神経にも負担が少ないって」まるで私が病人の回復を妨げる有害人物か何かみたいな言い方だった。そこまで言われて、さすがに私も空気は読める。宏を見て、淡々と口を開いた。「……じゃあ、あなたが入って。私は先に失礼するね」「そうだな」宏は冷たい視線をアナに向けたまま、私の肩をすっと抱き寄せる。「だったら……温子さんが少し落ち着いてから、また改めて来よう」私は驚いて彼を見上げ、反射的に肩の腕を払おうとした。けれど、彼はまるで気づいていないふりをして、その腕を解こうともしなかった。「宏……」アナは顔を歪め、うっすら涙を滲ませながら訴えた。「昨日は私を追い返したくせに……こんなときまで……」「アナ、いい加減にしなさい」病室の中から、かすかに弱々しい女性の声が響いた。「宏さんも、清水さんも、早く入っていらっしゃい」アナはその一言でようやく折れたように、しぶしぶと身を引いた。「……どうぞ」江川温子は、長い昏睡状態だったにもかかわらず、トップクラスの医療体制のもと、見た目には比較的良好な状態だった。宏が病室に入ると、温子は彼の手を強く握りしめ、ぽろぽろと涙を流し始めた。もし私が真実を知っていなければ――あの姿に、少しは胸を打たれていたかもしれない。「……無事でよかった……宏が元気なら、それだけで、私が何年も昏睡していたことにも意味があるわ……宏、アナから聞いたわよ。あなた結婚したのね?あなたのおじいさんは、アナとの結婚を許してくださらなかったんですってね……――あらやだ、こんな話、私ったら……清水さん、ごめんなさいね。宏とアナは昔から仲が良くて……私、つい惜しいなって思っちゃって」私はにこりと笑って返した。「いえ、お気になさらず。おかげさまで、私と宏はもうすぐ離婚しますから」……このこと、アナが先に伝えていたのは明白だった。それでもこの人、見事なまでの女優っぷりを披露してくる。驚いたふうに目を見
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第166話

宏の漆黒の瞳が、じっと私を見た。まるで、私に一歩譲ってほしいと願っているかのように。私は静かに微笑んでから、はっきりと言った。「彼女の言ったことは本当です。遅くとも明日の夜には、彼女を海外に送ります」「私は……あなたの言葉なんて信じないわ」江川温子は私の言葉を完全に無視し、ただ宏の顔だけを見つめていた。まるで真実を受け入れたくない、とても辛そうな表情で――「宏、教えて。ねえ、おばさんに本当のことを言って」私の視線があまりに強くて避けようもなかったのだろう。宏はやや苦しげな表情を浮かべながら、それでも低く重い声で言った。「……本当だ」「お母さん、聞いたでしょ!」アナは泣きながら訴えるように叫んだ。「宏は私のこと、大事にすると約束してくれたのに……今は私を見捨てて、他人の味方なんて!」宏の顔が冷たく引き締まった。「南は俺の妻だ。――他人なんかじゃない」「でも、もう離婚するんでしょ!」アナは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、正義を振りかざすように声を張る。まるで自分が裏切られた被害者だと信じて疑っていない。宏は不快そうに眉を寄せた。「正式な離婚手続きが終わるまでは、彼女は俺の妻だ」私は驚いた。彼が、あの江川アナの前で、はっきりと私との関係を口にするなんて。「……ねえ、もうやめて」温子が静かに割って入り、病的な顔にわずかな哀願の色を浮かべた。「宏……清水さんとあなたの関係がどうであれ、アナとあなたは家族でしょ?アナは女の子だし、小さい頃から私とあなたのお父さんに甘やかされて育ったのよ……そんな彼女を、海外に追いやるなんて――彼女の命を奪うのと同じじゃない!私にはアナしかいないのよ……アナに何かあったら、私は……生きていけない……」今にも涙をこぼしそうな顔で、そう訴える。見ているだけで、胸の奥がざわついた。宏は少しのあいだ黙り込み、やがて迷うように言った。「……この件、南ともう一度よく相談してみる」「――何を相談するの?」私は真っ直ぐに彼を見つめ、声を強めた。譲って、譲って、譲って……私はどれだけ引き下がれば気が済むの?今回はもう、譲らない。「江川宏。これは、昨日あなたが私に約束したことよ」私に言ったことなら、簡単にひっくり返しても構わないっ
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第167話

宏の母、祖父、そして私たちの子ども――三代にわたる命が、あの母娘の手で奪われた。「清水南!あんた、一体何を言ってるの!?」アナが怒りに任せて私に詰め寄り、力任せに肩を押してきた。その目には怒りと恐れが入り混じっている。「名誉毀損で訴えられたいの!?」少しばかり容態が落ち着いていた温子も、不思議そうな顔で私を見つめる。「清水さん、さっき言った『親子』って、どういう意味かしら?」私は冷笑して返した。「本当に、わからないんですか?」宏の顔は暗く、張りつめた空気が病室を支配していた。私は温子を真っすぐ見つめ、言葉を一つひとつ噛みしめるように吐き出した。「あなたは江川家の奥様になるために、当時妊娠していた宏のお母さんを、階段から突き落としたじゃないですか。お忘れですか?」「……話をするなら、まず証拠を出しなさい!」温子は眉を吊り上げ、語尾を強めて私を睨んだ。その怒りは演技か、本心か。けれど確かに、動揺は見える。――祖父が言っていた通り、彼女は「監視カメラを壊せば証拠も消える」と高をくくっていた。アナもその言葉に便乗し、すかさず詰め寄ってきた。「そうよ、南。口だけじゃ人は裁けないの。証拠がなきゃ、ただの妄言でしかないわ!」「……証拠、ですか」私は無言でスマホを取り出し、加藤に電話をかけた。「さっき宏に渡した書類、すぐにこっちに持ってきて」彼はすぐに応じてくれて、数分後には書類を持って現れた。私は中から指紋鑑定書を抜き取り、まっすぐ宏に差し出す。「これが、おじいさんの死とアナの関与を示す証拠よ」その瞬間、アナの表情がピクリとこわばった。だが飛びかかる寸前、温子が鋭い視線でそれを制した。――さすがは長年の「奥様」。焦って奪えば、それが「動かぬ証拠」になる。宏は一枚一枚、慎重に書類をめくっていった。そして指紋の一致を示すページに目を通した時、彼の瞳に鋭い光が宿る。「……どうして、おじいさんの薬に君の指紋がついている?」「わ、私の指紋……?」アナは戸惑うふりをしながらも、背後で強く手を握り締めていた。温子がすかさず口を挟む。「アナ、よく思い出して。おじいさんが倒れる前、あなた……お薬を渡そうとして触ったんじゃないの?」「……あっ、そうかも!」ア
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第168話

おじいさんが亡くなったあの日──「宏はいつか必ず真実を知る。あの親子に一生騙され続けることなんて、できるわけがない」そう言っていた。だから、遅れて知るくらいなら、早く知った方がいい。宏がこれ以上、あの母娘に欺かれ続けないように。……なのに。予想外だったのは、電話の向こうで、土屋じいさんがまるで他人事みたいに口を開いたことだった。「若奥様……そのお話、どちらで聞かれましたか?」目の前が暗くなった気がした。宏の、氷のように冷たい視線が私を射抜いていた。「……おじいさんが言ってたのよ」私は、一瞬、自分の記憶を疑った。けれどすぐに首を振った。違う、間違えてなんかいない。「土屋じいさん、覚えてないの?あの日、書斎で……おじいさんが――」「……それは、若奥様の思い違いでは?」食い気味に、土屋じいさんが遮った。言葉を失った。信じられなくて、思わず口を開いた。「そんな、大事なことを……私が、間違えるわけない……」「清水南!」横からアナが口を挟んできた。さっきまであんなに不安そうだったくせに、急に勝ち誇ったような笑みを浮かべて。「まさか、土屋さんに嘘の証言をさせようとしたわけ?でも残念だったね。彼はおじいさんが一番信頼してた人よ。あなたみたいな人間と、グルになったりなんかしない!」「土屋じいさん……」私は諦めきれず、もう一度問いかけようとした。だが次の瞬間、宏が無言で私のスマホを取り上げ、そのまま病室を出て行った。何を話しているのかはわからない。でも──彼が戻ってきた時の目は、嵐の前の深海のように暗く、冷たかった。「まだ……言いたいこと、あるか?」「宏……」温子が、どこか理解ある大人のような表情で口を開く。「清水さんはね、きっとあなたがアナを特別に扱うのが不満なのよ。それで、私たちを引き裂こうとして……でもね、それも女心。あんまり怒らないであげて?」ああ――気づいた。私は完全に、仕組まれた詰みの中にいた。最悪の場所で、最悪の形で。私は手のひらをぎゅっと握りしめ、ただ宏を見た。「……信じなくてもいい。でも、私が言ったことは、本当よ」「もういい加減にしろ!」怒鳴り声が飛んできた。「これだけ揉めて、まだ足りないのか?」私の話を信じるどころか
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第169話

「つまり、彼の母親の死の真実を話すことで、また彼の心を傷つけるのが怖かったんだね?」「……ええ」土屋じいさんは静かに頷いた。「カウンセラーの先生からは、若様の状態がもう少し落ち着くまで、この件には触れないよう勧められました」「分かった」私は淡々と答えた。心の中は、もう何の感情も湧いてこない。もし、おじいさんの遺言がなければ、江川家のことになんて、最初から関わりたくなかった。家に戻ってからも、宏のことを考えると、少しだけ……同情が芽生えた。けれど、病室であの冷たい声で怒鳴られた記憶がよみがえると、そのわずかな情すら、すぐにかき消えた。私は、自分の詰めの甘さが本当に嫌になった。……ソファにだらんと寝転び、虚ろに天井を見つめていると、突然ドアをノックする音がした。私はのそのそと立ち上がり、ドアを開けた。「……指紋で入ればよかったんじゃない?」来依は軽やかに腰をくねらせながら部屋に入ってきて、ヒールを脱いでおなじみのルームスリッパに履き替えた。私を一瞥すると、すぐに言い当てる。「で?どうしたの、そんな顔して?」「今日はね、本当なら一発で仕留めるつもりだったの」私は彼女にジュースを投げ渡し、またソファに沈み込む。乾いた笑みを浮かべながら、自嘲気味に言った。「でも――逆に警戒させちゃったみたい」「なにそれ、カッコつけすぎ」来依はキャップを開けて一口飲み、にやりと顔を寄せてきた。「ごめん、意味わかんない。ちゃんと説明して?」「江川アナの母親が、目を覚ましたの」私は深く息を吐き出す。「本当はね、彼女が宏の母親を殺した証拠を出して、アナを海外に追い出す予定だった。でも――」「失敗したのね」私は黙って頷き、簡単に経緯を話して聞かせた。「若い腹黒女を追い出せなかったと思ったら、今度は老獪なのが出てきたってわけね」来依は大げさに目を剥いてから、ジュースを啜って鼻を鳴らした。「でもさ、江川があんたを信じなかったって?それ、まったく驚かないけど」「……なんでよ?」「逆に聞くけど、あの人、いつあんたのこと信じたの?」その一言で、私は言葉を失った。思い返しても――ない。私はしばらく沈黙していたが、ふと気づいた。来依の今日のテンション、いつもとちょっと違う。普段
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第170話

「……ほんとだ、似ているね!」来依は私の視線を追って見て、興奮気味に声を上げた。「ちょっと、早く行こう!」シートベルトを外すと、彼女はさっと車を飛び出した。私も急いで後を追い、二人でホテルのロビーに駆け込んだ。けれど――すでに、あの男女の姿はどこにもなかった。仕方なく、私たちはフロントへと歩み寄る。来依は声色をやわらげて、にっこり微笑む。「お姉さん、さっき入っていった男女なんだけど……年の差って、結構ありました?」美人が笑って話しかければ、誰だって気を許してしまう。若い方の受付スタッフが、あっさりと口を開いた。「うーん、たしかに……結構歳離れてたかも……」「は?なに言ってんの、頭のネジ外れてんの?」もう一人のベテランスタッフが、ピシャリと遮る。「申し訳ありませんが、お客様の情報は一切お答えできません」「でもあのオヤジ……もしかしたら、私の父かもしれなくて!」来依は瞬時に切り替え、目に涙まで浮かべて声を震わせる。「お母さんと一緒に苦労してやってきたのに……お金ができた途端、若い女に手を出すなんて、あり得ないでしょ……!」私はその瞬間でもまだ、彼女の演技力に舌を巻いていた。若いフロントはすっかり感情移入してしまい、「ひどっ……最低、クズ男!」と憤慨。でも情報を持ってるのはもう一人の方だとわかってる来依は、すぐにそちらへ向き直る。「ねぇ、お姉さん、お願い。さっき入ってったのって、『江川文仁』と『江川アナ』じゃない?」「いいえ、違いますよ」即答だった。嘘をついている様子もない。「ほら、お嬢さん、安心したでしょ?たぶん、見間違いだよ」来依がこちらを見た。私は首を振った。「……いや、あれは絶対に見間違いじゃない」アナが着てた服は、昼間病院で見たものとは違ったけど――見覚えがあった。前に着ていた服だった。そして義父の方の、いつも同じ「年甲斐もない若作りスタイル」。あの二人を同時に見間違えるなんてありえない。来依がスマホを取り出したのを見て、私はすぐに手を伸ばして止めた。「通報なんて無駄だよ。売春とかで警察呼んでも、何も証明できない」「親子」っていう建前がある。あの義父はアナを溺愛してるし、部屋にいたって理由なんていくらでも作れる。証拠がなけれ
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