All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

「南さん、今回の件は、全然違うのよ」温子は理屈をこねるように言いながらも、あくまで声は穏やかだった。「あなたが昨日持ってきた証拠は、ただアナが一度、お義父さんの薬に触れたってだけでしょ?それで何が分かるの?飲ませようとしただけかもしれないじゃない。けど今回は……男と女の二人きりで部屋の前に立ってたのよ?しかも大人同士。あとは、もう言わなくても分かるでしょ?」その瞬間、私は目の前のグラスを掴み、彼女の顔めがけて中の水を一気にぶちまけた。「温子さん、もう一言でも余計なこと言ったら……今度は水じゃ済みませんよ?」冷たく笑いながら言い放つと、すぐにアナが飛び出してきた。「……お母さんに向かって何してんのよ!頭おかしいんじゃないの!?」その言葉に私はすぐさまもう一杯のグラスを手に取り、今度はアナの顔にも同じように水を浴びせた。「……もう一回、言ってみなよ?」アナのきっちりと整えられていたメイクは、私の手で一瞬にして崩され、彼女は信じられないというような目で私を睨んだ。「……清水南……」まさか私がこんな手に出るとは思っていなかったのだろう。温子の目が瞬時に赤く染まり、泣き出しそうな声で宏に縋った。「宏……あなた、もう他人の肩ばかり持つのね?私はあなたのお父さんがちゃんと迎えた正妻なのに。なのに、あなたは見て見ぬふりをして、あんな子に好き放題させるつもり?」宏の表情は暗く、目の奥には底知れない冷気が宿っていた。その視線が私に向けられた瞬間、ぞくりと背筋が震えた。……まさか、宏まで信じたの?おかしくて笑いそうだったのに、どうしても笑えなかった。そのとき、私の手からつるりと滑り落ちたグラスが、床にぶつかって粉々に砕けた。私は動揺しながら一歩後ずさる。そして宏は、手に持っていた数枚の写真を無言で四つに破り、ぼそりと低い声を落とした。「温子さん、あなたは年長者だから、本来なら俺がとやかく言う立場じゃないけど……どうしても言わせてもらう」その声は低く、冷え切っていた。「あなたは俺の父の妻だ。家族には違いない。けど……南は俺の妻だ。俺にとって一番大事な人なんだよ。他人の肩を持つとか、そういう言い方……おかしくないか?」抑えた怒りが、彼の声の底に滲んでいた。その言葉に、温子もアナも、そして私自身も―
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第182話

私は、彼が何を考えているのかまったく分からなかった。思わず一歩、後ずさる。「……どういう意味?」「――離婚、やめよう。な?」宏が私の手首を掴んで、脈のあたりを親指でなぞるように撫でた。「これから先、何があっても、俺は君だけを選ぶ。他の誰もいらない」「……温子さんとアナも含めて?」「含めて、だ」「宏……」私は、あまりのことに可笑しくなった。「……それ、自分で言ってて信じてるの?」もし目が覚めたってことなら、あまりにも遅すぎる。彼が今日、私を信じるとは思っていなかった。それでも――たったこれだけで、過去のあらゆる亀裂が帳消しになるとでも?宏の声は沈んでいた。「……まだ、嫌なのか?」私は彼の目をまっすぐ見て、はっきりと告げた。「うん、嫌だ」もし、子どもを失っていなかった頃に彼がそう言ってくれたなら――きっと私は、迷わずうなずいていたと思う。でも今は、もう何ひとつ、それを受け入れる理由が浮かばなかった。私が車に轢かれたあの日、彼は私を見捨てて、別の女を抱えに行った。私が流産したとき、彼が張ったあのビンタ――あれでもまだ足りなかった?……私たちの関係には、もう戻る道なんて残っていない。宏は長い沈黙の末、私の手をぎゅっと強く握りしめた。そして低く、どこか乾いた声で呟いた。「……あんな写真ですら、なかったことにしてやれる。それでもまだ足りないのか?」その瞬間、私はまるで真冬の夜に氷水をぶちまけられたような気分だった。背筋が凍りついて、血の気が一気に引いていくのを感じた。口角がぴくりと引きつる。けれど、涙のほうが先にこぼれた。私はその場で彼の手を振り払った。「じゃあ、最初から……信じてなんか、なかったんだね?宏。あなたの目には、私って――そういう女に映ってたんだ」「南……っ」彼は明らかにうろたえ、私に手を伸ばしてきた。けれど私はそれを避けるように後ずさりしながら、笑って、首を振った。「他の男とホテルに行くような女に見えてたんでしょ?そんな汚れた私に触れて、平気なの?」宏は言葉を失ったように、目を見開いた。「……俺は、そんなつもりじゃ――」「宏、いい加減にして!」そう怒鳴って、私は踵を返し、階段を駆け上がった。ドアを閉める音が、乾いた空気に響
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第183話

ベッドに戻って本を読み始めたけれど、どれだけ時間が経ったのかも分からなくなるほど集中できず、ふと気づけば、本が逆さまになっていた。なんだか落ち着かない。宏の身体は、本当のところどうなってるんだろう。もしあの銃創が原因なら――あれは、本来私が受けるはずだったものだ。そわそわして本を閉じ、気分転換にベランダに出ようとしたその時、扉がノックされて、程さんの声が聞こえた。「若奥様」その声を聞いた瞬間、私の足は無意識に速くなっていた。ドアを開けると、私はほとんど条件反射のように尋ねていた。「土屋じいさん、宏……宏は、大丈夫?」「……若様、熱を出されまして」一瞬だけ安堵した。てっきり風邪か何かだと思った。けれど、土屋じいさんは続けた。「数日前の銃創が悪化し、感染したようです。今は誰にも触らせようとせず、薬も受けつけません。おふたりは離婚されるご予定ですし、本来なら私からお願いすべきことではないのですが……さきほど眠っていた時に、若様が若奥様のお名前を何度も呼んでいまして……」私は手のひらをぎゅっと握りしめた。「……見てくる」私が原因なのだから。感情的にも、道理としても、放っておくわけにはいかなかった。熱のせいか、宏の頬には不自然な赤みが差し、長いまつ毛に隠された目は閉じられ、呼吸は静かで規則的なのに、眉間には深く皺が寄っていた。まるで夢の中でも苦しんでいるように。土屋じいさんが枕元のテーブルを指差す。「こちらはさきほど医師が処方したものです。解熱と抗炎症の薬です」私は頷いた。「分かった」「では私は失礼いたします。何かありましたら、すぐにお呼びください」土屋じいさんが出ていき、広い部屋には私と宏、二人きりになった。私はそっとベッドの縁に腰かけ、額に手を当てた。……熱い。38度後半はあるはず。その手を引っ込めようとした、その瞬間だった。宏が反射的に私の手首を掴み、熱にうかされた声でつぶやいた。「……南……なんで離婚なんかするんだ……離婚なんて……しないで……」静かな部屋に、彼の寝言がはっきりと響く。私はその場に立ち尽くし、しばらくしてから、そっと彼の頬を叩いた。「宏、起きて。薬、飲まなきゃ」ぼんやりと目を開けた彼は、私の顔を見て、少し戸惑ったような顔をしたかと
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第184話

しばらく呆然としたまま、私は目の前の男を見つめていた。哀れだと思った。そして、同じくらい――憎たらしかった。彼の気持ちが本物なのか偽りなのか、私にはもう分からなかったし、分かりたくもなかった。どうせ、あと少しで私たちは完全に――終わる。私は鼻をすんとすすり、宏をぐいっと揺さぶって起こす。「……薬、飲んでから寝なさい」私だと気づいたのか、薬を口元に持っていくと、素直に飲み込んだ。抵抗もなく、まるで従順な子どものように。薬を飲み終わると、そのまままた静かに眠ってしまった。相変わらず身体は熱く、すぐに熱が下がる様子はなかった。私は土屋じいさんに頼んで火傷の薬を持ってきてもらい、宏の手首の内側――あの黒ずんだ火傷痕に、ひとつひとつ薬を塗った。彼の熱がようやく落ち着いてきたのを見届けて、私はようやく自室に戻った。さすがに日頃から体は丈夫だし、まだ若いだけある。翌朝、土屋じいさんから「完全に熱が下がりました」と報告を受けた。ただその日の午後、使用人が数着の高級ドレスを抱えてやってきた。「若様が、今夜一緒にパーティーへ出席していただくようにとのことです」「パーティー?」私は思わず眉をひそめた。結婚してからこの三年、私たちは「秘密婚」だったから、江川家の身内以外の場に私が出たことは一度もない。彼はいつも一人で出て行っていた。「……どこの?」「山田家の大奥様、八十歳の誕生祝いだそうです」「……」その瞬間、彼の意図がはっきりと分かった。――山田家の人たちに、「私は既婚者だ」という印象を植えつけるためだ。私が山田家に近づくことを、完全に諦めさせるつもりなんだ。……ほんと、神経質。熱出してたときの方が、よっぽどまともだった。「……彼、今どこにいるの?」「書斎に」土屋じいさんが答えきる前に、私は既に大股で歩き出していた。書斎の扉を勢いよく開け放つ。「宏、あんた頭おかしいんじゃない!?だから言ったでしょ、私と彼は何の関係もないって――!」言いかけたその瞬間、私は息を呑んだ。彼は――ビデオ会議の真っ最中だった。完全に正論だったはずの私が、あの黒く深い瞳に見据えられた瞬間、言葉がすべて喉の奥で詰まった。……なにこれ、死ぬほど恥ずかしい。「おお、社長の奥さん
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第185話

「俺があいつを悪く言った?」宏の目に、メラメラと火が灯ったような怒気が浮かぶ。その顔を見て、私はふいに胸の奥がすっとした。簡単に怒るようになったんだね、と思う。「違う?何事も証拠が大事だって言ったの、あんたでしょ?」そう吐き捨てて、私は踵を返し、部屋へと向かう。背後から、彼が怒りをかみ殺すような声で、短く言った。「……6時だ」「わかってる!」振り返りもせずに、私はそのまま歩き去った。行くと決めたのは、宏のためじゃない。あの日、仏間で山田先輩が理不尽に殴られた姿が脳裏に浮かんだから。もし今夜もまた、あの女が先輩に何か仕掛けるつもりなら――今度は、私が彼を助けてあげたいと思った。そう、今度は私の番。江川家の「若奥様」という名札、どうせもうすぐ捨てるのなら、最後に使わせてもらう。シャワーを浴び、髪を乾かし、化粧をする。派手すぎず、けれど手を抜かないように。選んだのは、刺繍が入った膝丈のブラックドレス。控えめながらも、すらりと伸びた脚が綺麗に映える。六時ちょうど。私はハイヒールを履いて、階下に姿を現した。物音に気づいた宏が、ソファから視線を向けてきた。その目に一瞬だけ、驚きの色が差す。「行こうか」「うん」運転手は既に玄関先で車を待たせていた。私たちが出てくると、慌てて車から降りて、ドアを開ける。私は無言で乗り込み、窓際に寄って外を眺めた。車内に会話はなかった。冷え切った沈黙だけが、ゆっくりと流れていく。山田家に近づいた頃、宏がふいに宝石箱を差し出してきた。「これを」受け取って開けてみると、そこには深い緑のエメラルドのネックレスが入っていた。高価な品だと一目でわかるし、今のドレスにもよく合っていた。私はためらいもせず、もともと首につけていたネックレスを外し、それと付け替えた。だが、手探りで留め具を合わせようとしても、なかなかうまくいかない。そこへ、大きくて乾いた手がそっと私の手からネックレスを取り、私のうなじのあたりで、静かに動き始めた。――ゾクッ。一瞬、鳥肌が立った。くすぐったさじゃない。もっと、感覚の奥に触れるような何か。「……まだ?」「……もうついたよ」宏が手を引くと、エメラルドが私の鎖骨の上で静
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第186話

振り返るまでもなく、声を聞いた瞬間、アナだとわかった。宏は無言で腕を引き抜き、冷たく問いかける。「何の用だ?」「パパが連れてきたのよ」アナは柔らかい声で続ける。「パパがね、私がいずれ宏の仕事を手伝うことになるって。だから今のうちに顔を覚えてもらいなさいって言ってたの」心の中で冷笑するしかなかった。宏の声がまた冷たく落ちる。「だったら父さんのところへ行けよ。なんで俺についてくる?」「なによ、最近冷たすぎない?」アナは不機嫌そうに口を尖らせたかと思うと、媚びるような声で囁いた。「この前の写真のことなら、私、もう気にしてないのに。まだ怒ってるの?それに浮気したのは南でしょ?私じゃない」「アナ!」宏の声が鋭く響く。今にも彼女を振り払わんとする勢いだ。そこへ突然、江川文仁が現れ、親父面で言ってきた。「友達を何人か見つけてな、挨拶しに行ってくる。アナはこういう場所に慣れてないんだから、そばについていてやれ。変な奴に絡まれないようにな」私は大股で歩き去った。宏がどう答えたかなんて、耳に入らなかった。どうでもよかった。返事なんて、「わかった」と言うしかないのだ。ただ一つ、彼が覚えていないだろうことがある。私だって、こういう上流の宴席は、今日が初めてだった。「南」ちょうど玄関に差しかかったとき、山田先輩が一人の客との挨拶を終え、まっすぐこちらへとやってきた。私の素足を見下ろしながら、柔らかく微笑む。「行こう。中は暖かい。ここは冷えるから」「うん」うなずいて一緒に階段を上がりかけたその時、不機嫌な表情のまま定子が口を開いた。「あなたが、あの子を夢中にさせた女ね?まぁ、確かに綺麗だものね。だからこそ、うちの息子も、我慢できなくなったわけだ」彼女は、私を山田先輩が好意を抱いている相手だと勘違いしていた。私は軽く眉をひそめ、言葉を発しかけたが、先に山田先輩が冷たく釘を刺す。「怒りを向けるなら、相手を間違えるな」定子は毛皮のショールを直し、眉をつり上げた。「何をそんなに焦ってるの?彼女に一言言っただけじゃない」その物言いは感じが悪いながらも、あの日──仏間で彼を見下ろしながら殴った時の態度とは、まるで別人のようだった。あの時の定子は、まるで犬でも扱うような目で彼を見て
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第187話

山田先輩は微かに目を細め、前方を見据えたまま「うん」とだけ返した。「じゃあ、なんで警察に通報しなかったの?」「……バカだな」時雄は少し笑って言う。「今日80歳になるあの人が、俺が通報することに同意すると思う?物事ってのはな、やり方を変えても同じ結果にたどり着くことがあるんだよ」その言い回しはどこか含みがあって、私は思わず彼を見つめた。「……先輩、なんだか、前に知ってた先輩とちょっと違う気がする」「どういう意味?」彼は少し驚いた顔をして私のほうを向き、それからおずおずと尋ねてきた。「もしかして……今の俺のこと、あまり好きじゃないの?」「そんなことないよ!」私はすぐさま否定し、真剣な声で続けた。「むしろ、前よりもっと尊敬してる。山田先輩って、こんなに頭の切れる人だったんだなって。すごく冷静で、よく考えてる。私、そういうところ、とても尊敬してる」私たちみたいな立場の人間には、後ろ盾なんてない。頼れるのは、自分自身だけだ。まして、彼はあの山田家のような魑魅魍魎が渦巻く場所にいる。策を巡らさなければ、即死あるのみ。先輩は一瞬ぽかんとして、それからふっと目を和らげた。「……本当に?」「もちろん」私はしっかり頷いた。そのときだった。彼がほんの少しだけ、息を吐き出した気がした。安堵というより、緊張から解き放たれたような、そんな空気を纏っていた。それが私の質問によるものだったとしたら、なんだかくすぐったい気持ちだった。宴会場に入ってみると、そこには鹿児島の上流階級だけでなく、初めて見る顔ぶれもちらほら混じっていた。山田先輩は私に料理を取りに行ってくれた。「ちょっと外してくるけど、ここでゆっくりしてて。何かあったらすぐ電話して」「うん、ありがとう」私は笑って西洋料理の皿を受け取り、ひとまず一息。ここでは誰にも気に留められない。私は、ちょうど良く存在感のない人間だった。軽く食事を済ませたあと、トイレへ行き、用を済ませて戻ってくる途中、アナが見知らぬ令嬢に詰められているのを目にした。私は角の柱の影に立ち、傍観を決め込んだ。無駄に巻き込まれるのはごめんだった。令嬢は、頭の先から足の先まで、いかにも高い服で身を包んでいた。年の頃は二十三、四。整った顔立ちには、余裕と自信が
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第188話

一人の愛人が、もう一人の愛人を罵っている──思わず吹き出した私の笑い声にかぶさるように、すぐ背後から小さく低い笑い声が聞こえた。驚いて振り返ると、壁に片肩を預けた男が、口元に悪戯な笑みを浮かべてこちらを見ていた。革のジャケットに、気だるげな態度。その唇の端には、どこか不良じみた余裕が滲んでいた。「江川夫人の趣味って、なかなか独特だね」人の会話を盗み聞きしていたくせに、堂々と言ってのける彼に私は一瞬たじろぎかけたが、すぐに切り返した。「そっちこそ。人の趣味に口出す前に、自分の立ち位置を考えたら?」「いやいや、邪魔しちゃ悪いと思ってね」「でも結果的に邪魔してるでしょ?」そう言って睨むように視線を向けると、彼は肩をすくめて名乗った。「服部鷹」そして気の抜けた雰囲気を一転させ、背筋を伸ばすと軽く会釈してきた。「江川夫人、ではごきげんよう」そのままスタスタと歩き去り、さっきまで傍若無人だったお嬢様の頭をポンと掴んで言い放った。「藤原星華。正妻が誰かも見抜けない程度の知能なら、愛人業なんてやめといたほうがいい」星華は顔を真っ赤にして睨み返す。「なにそれ、兄さん!どういう意味?」「もう一回、その気色悪い呼び方したら、今夜中に実家に送り返すぞ」彼女の手を振りほどきながら、服部はふとこちらに意味ありげな視線を送った。もしかして、本当のことを教えるのか?と思った瞬間、彼は軽く手を叩きながら言った。「バカだって言ってるだけさ」……そのあまりにストレートな物言いに、私は不覚にも少し笑ってしまった。江城の名の知れた御曹司たちの顔ぶれを思い浮かべたが、服部鷹の名は記憶にない。でも──あの山田家の宴会に、ラフな格好で堂々と出入りしていることを思えば、並の人間ではないことは明らかだった。そう考えていた矢先、ポケットの中のスマホが震えた。「どこにいる?」電話の向こうから聞こえてきたのは、宏の冷ややかな声。私はふっと笑みを浮かべた。「一階のトイレよ。ちょうどあなたの愛人がもう一人の愛人に絡まれてるとこ見てたとこ」「訳の分からんことを。今すぐ行く」声の調子がさらに冷え込んだと思えば、あっという間に宏がやってきた。「電話、もうちょっと早ければよかったのにね。もう喧嘩、終わっちゃった。間に合っ
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第189話

宏の表情がますます不機嫌になる。「君、本当に気にしてるんだな?」「違うわよ」私は笑みを浮かべた。「さっきアナを捕まえてた愛人2号、あの子だよ。江川宏、あなたの初婚、再婚、三度目の婚約まで、もう全部スムーズに接続できるわね」「……は?」彼の眉間がきつく寄った。「そんなわけない」「どうして?信じられないなら、アナに聞いてみたら?」言い終えた時には、すでにアナの姿はなかった。ロビーをぐるりと見渡すも、義父の姿もない。嫌な予感が走った私は、咄嗟に言った。「お腹が痛い、ちょっとトイレ行ってくる!」そう言い残して、私はその場を飛び出した。山田家の旧邸は広く、トイレ付近を探しても人の気配はない。ならばと私は裏庭の方へ向かった。二階は家主の私的エリア、普通の客が上がることはない。つまり彼らが消えたなら、きっとこの庭のどこかに──外は冷たい風が吹き抜け、人々は皆、暖かい宴会場で人脈作りに忙しい。庭には誰の姿もなかった。足音を忍ばせてしばらく歩いてみるも、自分の考えが突飛だったことに気づき、少し笑ってしまう。──まさか、他人の家の祝いの席で、そんな真似をするとは思えない。そう思い、踵を返しかけた時だった。ふいに猫の鳴き声が耳に入る。誰かが飼い猫を外に逃がしたのだろうかと思い、抱いて戻そうと歩み寄ると、今度は低くくぐもった声が木立の向こうから聞こえてきた。男性の、やけに荒く熱を帯びた吐息──「大丈夫、誰も来やしない。すぐに終わる」それは、義父の声だった。そして、か細く押し殺したような女性の声が続く。「……お父さん、やめて。ここはまずいよ。もし宏にバレたら……私たち、終わっちゃう……」その声を聞いた瞬間、私は息を飲んだ。間違いない。アナだ。初めて、こんな現場を目撃することになった私は、心臓の音がうるさいくらいに高鳴り、息を殺してスマホを取り出し、震える手で録画を始めた。「そんな格好で来ておいて……心配いらない、寒いし誰も出てこないさ。こういうのが、一番……興奮するんだよ」義父はそう言って、彼女に口を寄せたようだった。「……わからないのか?あのバカは、離婚する気なんかないんだ。最初から、君を妻にするつもりなんか──」「んっ……」アナの吐息が混じり、明らかに拒む気配と
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第190話

その口ぶりから、彼がからかっているのはすぐにわかった。木漏れ日の下、服部は肩を片方の木に預けて立っていた。額にかかる短い前髪、わずかに上がった目尻。どこか無邪気で、しかし同時に不遜な色も混じるその姿は、まるで空気の読めない悪戯っ子のようだった。──いや、もしかしたら彼は分かっていてやっているのかもしれない。この冷たい風の中、わざわざ外に出てくるなんて、どこかおかしい。私は携帯をそっとしまいながら、少し警戒心を込めて訊いた。「……あんた、なんでこんなところに?」「安心して。尾行なんてしてないから」服部は気だるげに肩をすくめた。「中が息苦しくてさ。ちょっと外で空気吸おうと思っただけ。まさかこんな面白いもんに遭遇するとはね。鹿児島の社交界って、意外と開放的なんだな」「開放的なのは、あの人たちだけよ」そう返しながら、私はこの男がただの変わり者ではないと確信した。深入りすべき相手ではない。軽く唇を引き結び、ストレートに切り出す。「……今見たこと、他の人には言わないでくれる?」私には、この出来事を利用する必要があった。今ばらされたら、水の泡になってしまう。「いいよ」思いのほかあっさりと返ってきた。──と思いきや、次の瞬間には口調を変えた。「で、見返りは?」「……見返り?」眉を寄せると、彼は当然だろうと言わんばかりに肩を揺らした。「俺ってさ、損なことはしない主義なんだよね。得にもならないこと、今まで一度もやったことない」「……」こんなところで手間取ってると、江川アナが私の姿がないことに気づくかもしれない。そうなれば、さっきの現場を見られたかもと勘付かれる。それだけは避けたい。「……何が欲しいの?」焦りを隠さず訊くと、彼は少し口角を上げた。「まだ決めてない。とりあえず、ひとつだけ頼みを聞いてくれるってことでどう?」「……いいわよ」深く考えもせずに承諾した。どうせ今日限りの顔合わせ。明日にはもう二度と会わない可能性もあるし、言質も何もない──心配するほどのことじゃない。彼はようやく体を起こし、私の薄い黒のワンピースに視線を落とした。「……寒くないの?」「少しね」そう答えると、彼は「タフだな」とぽつりと言って、自分の革ジャケットを引き寄せた。そして、まるで余計
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