All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

動きは、やたらと早かった。三十分も経たないうちに、下ごしらえまで全部済んでいた。ただ、私はじゃがいもの炒め物を食べたいって言ったのに、どう見ても彼はフライドポテトを作る気満々だった。……まあ、ポテトなら何でも美味しいからいいけど。ソファに寝転がってスマホをいじっていると、エプロン姿の鷹が出てきた。普段はどこか偉そうな若様が、頭をかきながら妙におずおずと口を開いた。「なあ、先に風呂入らね?」「ご飯食べてからでいい」「風呂入ってからのほうが、スッキリして美味しく食べられるぞ?絶対そっちがいいって」真剣な顔で勧めてくるもんだから、こっちはますます怪しい。「……」何を企んでんのかは知らないけど、そこまで言うなら譲ってやってもいいか。飯作ってもらってる立場だし。私は部屋に戻って着替えを取り、バスルームへ。風呂から出た頃には、食卓にはもう料理が並んでいた。鷹はキッチンで何かをゴソゴソしていて、私の気配に気づいた瞬間、ちょっとだけ動きがぎこちなくなった。それでもすぐ平静を装って出てきた。「飯、できたぞ」「うん!」席についた私は思わず感心した。「……意外。あんた、こんなに料理できるとは思わなかった」四品にスープ一品。見た目はレストラン顔負けだった。なんでこんなに何でもできるんだろう、この人。椅子を引いてくれる彼が、得意げに眉を上げる。「ちゃんと見とけよ。俺の長所、前の旦那より全然多いからな」「……」私は苦笑いしつつ、ふと顔を上げて訊いた。「……あれ?フライドポテトは?まだ揚がってないの?」鷹は隣にだらっと腰を下ろしながら言った。「……は?フライドポテト?」「さっきポテト切ってたじゃん。てっきりポテト揚げるのかと」「……チッ」彼は舌打ちしながら、あごでテーブルを指し示した。「見りゃわかるだろ、ポテトの千切り炒めだ」「?」私はチラッとキッチンのゴミ箱を見て、すぐに合点がいった。――なるほどね、すり替えたな。それでさっき、風呂入れってやたら推してきたのか。私は素直に褒めた。「……いや、すごいね」このレストラン、味も最高だった。どの料理も味加減も火の通し方もパーフェクトで、食べていて心地よかった。私の満足げな様子を見て、鷹は
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第372話

彼は私の心を見透かしたように言った。「本当のことを聞かせてほしい」私は腹を括って答える。「少し、考える時間が欲しい」彼はポケットに手を突っ込み、うなずいた。「もちろん。ゆっくりでいいよ」……翌日、私は鷹と約束して、以前佐々木さんが藤原夫人のもとから連れてきた人物に会いに行くことになっていた。その人物が何かを白状したらしい。「お前自身の耳で聞いたほうがいい。俺の口から言うと、どうしても誰かを陥れてるように聞こえてしまう。せっかく築いた正義のイメージが台無しだからな」そう鷹は笑って言った。私は服を選び、化粧の準備をしていた。そのとき――突然、玄関のチャイムが鳴る。スマホを確認すると、待ち合わせの時間まではまだ二時間ほどある。「……誰だろう?」私は軽い足取りで玄関へ向かい、ドアを開けた。目の前に立っていた人物を見て、息を飲む。「……服部さん」病院で見たときとは別人のようだった。その夜の威圧感はすっかり消えて、ただの話しやすそうな中年男性のように見える。「中に入ってもいいか?」「どうぞ」私は数歩下がって彼を通す。玄関は開けっぱなしだ。ボディガードが外に立っている。服部さんはソファに腰を下ろし、部屋の中をぐるりと見回すと、ふと感慨深そうにつぶやいた。「鷹のやつ、普段は誰の言うことも聞かないくせに、お前のこととなると、二十年ずっと変わらず気にかけてる。この家のリフォームだって、業者に丸投げせずに最初から最後まで自分で見て回ってたよ。服部家の御曹司がだぞ?ネジ一本買いに行くのにも、自分で走ってた」胸の奥がきゅっと締め付けられる。ある程度余裕のある家なら、リフォームなんて業者に丸投げだ。仕上がりを見に行くのも、せいぜい一度か二度。私は水を一杯注ぎ、彼の前にそっと置いた。「……はい、鷹は本当に、素敵な人です」私に対しても、言葉にできないくらいよくしてくれた。だからこそ怖かった。私が本心を差し出したとたん、宏のように牙を剥くんじゃないかって。「二十年以上前なら、お前とあのバカ息子は、まさにお似合いの二人だった」そう言って、叔父はようやく本題に入った。「でもな、今はもう違う。お前が離婚しようがしまいが、一度江川夫人だった事実は消えない。鷹には、もっ
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第373話

彼はもう確信していた。ここまで話を進められたら、私には他の選択肢なんてないということを。でも、それでも私は一度くらい、自分勝手になってみたかった。私は立ち上がり、静かに言った。「服部さん。あなたにできないことなら、私にもできないと思います」鷹のためという大義名分のもとで、私が彼の未来を勝手に決めることなんてしたくなかった。彼がどう選ぶか、それは彼の自由。私は、それを尊重したい。すると、服部さんの眼差しが鋭くなった。「今のあいつは、恋に浮かれて冷静さを失ってる。お前のために、全部捨てるつもりでいる。……だが、その先のことは考えてるのか?一度てっぺんから転げ落ちてみろ。そのときもまだ、お前に対する気持ちは特別でいられるのか。三年後、五年後、十年後のことを、少しでも考えたことあるか?」胸が詰まって、息がうまく吸えなかった。服部さんは冷たく笑い、言葉を重ねる。「いずれあいつは、自分のせいで母親や妹までもが代償を払う羽目になるのを目の当たりにする。そのときだ。あいつが後悔したとき、自分の足を引っ張った石が誰だったか、考えないと思うか?」一言一言が、痛いほど的を射ていた。さすがに年の功というべきか。人の痛点を突くのが上手すぎる。「お前が江川夫人だろうが、清水さんだろうが、藤原さんだろうが関係ない」服部さんはスーツのボタンを留めながら言う。「ただ一つ、お前には分別を持っていてほしい。あいつは、どれだけ長い時間、お前を待ってきたと思ってる?それなのに、人生を丸ごとお前に賭けさせる気か?そんなの、その気持ちに、見合っているとは言えない」「それとも、お前には見えてないのか?RFが服部家にじわじわと圧力をかけてきてることが」「お前は鷹を道連れにするだけじゃない。服部家全体を巻き添えにしようとしてるんじゃないか?」「猶予は二日間だけだ。その間によく考えろ。鷹を服部家の御曹司として生かせるか、それとも……家の名を捨て、ただの一般人として生きさせるか」……私はソファに沈み、すでに閉まった玄関を見つめたまま、混乱した思考の渦に飲まれていた。そのとき、鷹から電話がかかってきた。私は画面をスライドして通話を繋げる。「……もしもし」相変わらずの、何でもない声。「清水、ちょっと用事できた。今日はドタキャン
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第374話

【服部夫人、激昂のあまり倒れる】【服部家次男、服部グループ入り】【服部家次男、副社長就任】【服部鷹の立場、風前の灯】【服部家次男、RFグループと極秘接触】──夜になると、そうした見出しが次々とネットに溢れ始めた。最後のひとつを目にしたとき、私は宏に電話をかけた。「この中に、あなたの仕込みはある?」しばらくの沈黙のあと、彼は冷たく笑って皮肉めいた声で言った。「どれのこと?偽のお嬢さんの話か?それとも服部家の茶番か?」「何を聞いてるかわかってるはず」「お前がそう思うなら、そうなんだろうな」低く沈んだ声の向こうで、ライターが擦れる音がかすかに響いた。「南、戻ってこい。江川夫人に戻ればいい。藤原家のことも、服部家のことも、全部俺が片づけてやる」私は一瞬、息を呑んだ。「……服部家のこと?」「服部鷹のことだ」タバコを吸い込む音がして、宏の声は少し掠れていた。「お前は、あのジジイがただお前を服部鷹から引き離しただけだと思ってるかもしれないが、違う。あいつはRFの力を使って、服部家をもう一段階上に押し上げようとしてる」私は冷静を装って問い返す。「……服部家の、あの私生児と知り合いなの?」「山名の高校の同級生だ」その言葉で、すべてが繋がった。服部当主が鷹を切り捨てた本当の理由。私なんかじゃない。利益だった。私と鷹が付き合ってる限り、宏は服部家を敵視し続ける。でも──その私生児を据えれば話は別だ。RFと手を組めば、双方にとって都合がいい。たとえ私が鷹と別れたとしても、この状況が変わるとは限らない。唯一流れを変えられるとしたら──宏が動いて、山名にあの私生児との接触をやめさせること。そうすれば、あの私生児は服部家でのし上がるための切り札を失うことになる。夕暮れの光がまぶしくて、私はソファにもたれたまま、かすれた声で言った。「宏……こんなの、意味ないよ。私はもう、あなたを愛してない……」「意味があるかどうかは、俺が決める」宏は低く押し殺すように言い放つ。「南。一度愛したなら、もう一度だってできる」「……私はそんなにバカじゃない」同じ穴に、二度も落ちるほど。「……一ヶ月だ。一ヶ月後も君が同じことを言うなら……」声が一瞬詰まり、わずかに
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第375話

私は衝動に駆られて立ち上がり、つま先で軽く跳ねるようにして、そのまま彼の胸に飛び込んだ。両腕を彼の腰に回し、ぎゅっと強く、逃がさないように抱きしめた。「……そんなに熱烈?」彼は満更でもない様子で、私の後頭部に手を置きながら笑った。「俺が言ったこと、ちゃんと考えた?」「……うん。考えた」私がそう答えた瞬間、視線の端に、ドアのそばに立つ宏の姿が映り込んだ。その顔は氷のように冷えきっていた。言葉を発する間もなく、宏は長く美しい指で扉をこんと軽く叩いた。「……帰るぞ、南」「俺が行く」鷹は私の頭をぽんと軽く叩き、腕をほどいて向き直ろうとした。「鷹」私はその背中を呼び止める。彼は何かを察したように、一瞬だけ体を強張らせて、それでも静かに振り向いた。「……ん?どうした?」私は彼の目を見ないようにして、全身の力を総動員して、あくまで何でもないように言った。「……彼は、私を迎えに来たの」鷹は唇をわずかに引き上げた。けれどそれは笑みではなかった。戸惑ったような声が、喉の奥からこぼれる。「……何て?」「もう十分遊んだ。私は、彼の妻として帰るべき場所に帰るわ」無理に明るく肩をすくめてみせた。「鷹、これでお互い、元いた場所に戻ろう」……私は彼を、残酷に突き放した。かつて、地下室で宏に捨てられたあの日のように。宏は何事もなかったように私の肩を抱き、連れ出す。傍から見れば、円満な夫婦そのものだった。エレベーターの扉が閉まる刹那、私は彼の手をふいに振り払って後ろへ下がる。「宏、この一ヶ月、セックスは含まれてないわよね?」えぐるような言葉を選んだのに。私は驚くほど冷静で、まるで仕事の条件を提示するような口調だった。「……当然だ」宏は無表情のまま、ポケットから除菌シートを取り出し、私の指先を一本ずつ丁寧に拭っていく。「含まれてない」彼の視線を正面から受けながら、私は続けた。「私は屋敷には戻らないし、あなたと一緒にも暮らさない」「……貞操守ってるつもりか?服部のために?」その眉間に、明らかな嘲りの影が浮かんだ。「それで、奥さんとして、何を果たすつもりなんだ?」私は表情ひとつ変えずに答えた。「「愛人の産後の世話とか?」宏の顔から血の気が
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第376話

また、あの奔放で読めない服部鷹が戻ってきたようだった。一方、藤原家では──宏が伝手を頼って隠棲していた名医を見つけ出し、おばあさんの脈を診てもらい、根本からの解毒に乗り出していた。おばあさんが意識を失ったのは、毒が心脈まで入り込んでいたせい。あの日、病院での応急処置は、あくまでその場しのぎにすぎなかった。──その日、会社の食事会のあと。花が他の社員たちから少し遅れて歩いてきて、私の隣に並んだ。一見なにげない様子で、けれど目だけはどこか切実だった。「ねえ、お姉さん。お兄ちゃんのこと、最初から好きじゃなかった?」ああ、これは鷹に頼まれて来たんだなと、すぐにわかった。でも、昨日ちょうど──服部当主から、あからさまな警告の電話を受けたばかりだった。私は笑って答えた。「うん。一度も、好きになったことはないよ」「……一度もって、どういう意味?」その瞬間だった。宏が長い足でこちらに向かって歩いてきて、私の前で立ち止まり、言った。「お迎えだ、南」このところの宏は──まるで「良き夫」だった。久々に「溺愛」を思わせる振る舞いを見せている。私を会社まで送り、終業時間には迎えに来る。雨の日も、風の日も。ただ、家に帰れば私はいつも客間へ直行し、鍵をかけて扉を閉めるだけ。宏は日替わりで私を喜ばせようと試みた。新しいデザート、私好みの香水、昔好きだった映画のチケット……でも、なぜか、どれも響かなかった。きっと、それは──タイミングがもう、終わってしまったから。私は宏を見るたび、鏡を見ているような感覚に陥った。そこに映っていたのは、かつての自分だ。「南、ドア開けて。温めたミルク持ってきた。寝つき、少しは良くなるから」夜、宏は扉越しに声をかけてきた。「使用人が言ってたよ。昨夜も、ほとんど寝てなかったって」私は開けなければ、きっと彼はいつまでもノックを続ける。食卓でもそう。私が口をつけなければ、席を立たせてくれない。彼は、私が彼に対して怒っていると思っている。でも違う。私は、本当に、食べられなかった。匂いだけで吐き気がするほどに。私は無言で扉を開け、彼の手からカップを受け取った。そのまま一気に飲み干し、空のカップを差し出す。「これで満足?」そして扉
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第377話

頭が、ズン、と鈍く響いた。一瞬、思考が真っ白になった。鷹は一見ちゃらんぽらんに見えるけど、本当はどんなことにも分別があって、冷静な人だ。そんな彼を、あそこまで花が慌てさせるなんて──ただ事じゃない。私は振り返って、あとを追ってきた来依を見た。顔がこわばっている。「来依、何があったの?知ってるんでしょ?」彼女がオフィスに来た時から、違和感はあった。今思えば──鷹に何かあったことを、私に隠すためだった。「南……」来依は唇を舐め、迷っているような目をした。その態度が、かえって恐ろしかった。私は彼女の腕を掴む。「教えて、来依……お願い、ねえ、教えてよ……」彼女は、まだ口を開こうとしなかった。たぶん、私が耐えられないと思ったんだ。「教えてくれないなら、自分で確かめる」私はスマホを手に取り、電話をかけながらオフィスを出た。「誰も教えてくれないなら、大阪に行って自分の目で見る」花にかけても出ない。佐々木さんにもかけた。……誰も、出なかった。私は震える指でエレベーターのボタンを何度も押した。そのとき、扉が開いて──目の前に、宏が立っていた。澄ました顔で、二歩でこちらに寄ってくる。「そんなに急いで、どこへ行くんだ?」「宏」私はスマホをしまい、真正面から彼を見据えた。「鷹、何があったの?」宏は肩をすくめ、あきれたように笑った。「何があるって言うんだ。何か変な噂でも聞いたのか?」「スマホ貸して」私は手を差し出す。私のスマホは──おそらく、来依が何かを消した。でももし鷹に何かあったなら、宏のほうにも何かしら情報が入っているはずだ。宏は自然な笑みを浮かべ、あっさりとスマホを渡してきた。「……そんなに疑って、どうしたんだ?」まるで「奥さんにスマホを見られても平気な理想の旦那さん」のように、優雅に振る舞っている。「パスワードは?」「結婚記念日」「……」私は視線を落とし、日付を入力した。ロックはすぐに解除される。中をくまなく探した──でも、鷹に関する不穏な情報は何も出てこない。代わりに、ひとつのライブ動画が表示された。服部グループ傘下の製薬会社が、新しい研究成果を発表する記者会見だった。その会場に、鷹がいた。
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第378話

私はその人の顔を見たことはない。けれど、宏が彼と二度ほど電話で話しているのを聞いたことがあった。どうやら命を預け合うような仲で、宏は彼と山名を深く信頼しているらしかった。「……まあ、好きにしたらいい」私は少し考えてから頷いた。「明後日、離婚届を提出しに行く予定だよ。時間、空けておいて」黒い瞳がかすかに揺れ、宏は皮肉めいた笑みを浮かべた。その表情には、どこか苦味が滲んでいた。「……俺と過ごす日を、いちいち数えてるわけ?」「そうだけど?」私は隠す気もなく答えた。宏はまつ毛を伏せ、薄い唇をまっすぐ結んだ。「……わかった。君の言う通りにする」「違うでしょ」私は静かに言い返す。「これは最初からふたりで決めたこと。誰が誰に従うとか、そういう話じゃない」宏は黙って私を見つめ、しばらくしてから低く息を吐いた。「……昔の俺って、君の前ではこんな感じだったのか?」「どんな感じ?冷たいとか、適当とか、それとも偽善的?」私はコーヒーを一口飲む。「安心して。あなたに対して、わざわざ偽ってみせるほど、暇でも優しくもないから」最初は、もっと体面よく終わらせられると思っていた。こうして冷え切った言葉を投げつける日が来るなんて、想像もしなかった。「で……君はいつから、俺のことを好きじゃなくなった?」不意の問いに手が止まった。胸の奥がざわつき、いくつもの記憶の破片が一瞬にして押し寄せる。混乱して、苦くて、息が詰まりそうなほどに。「……わからない」首を振る。「多分、結婚記念日にあなたが嘘をついた時かな。あの瞬間から、もう無理だと思った」でも本当は。手放せなかったのは、彼ではなく、長い年月、自分が必死に捧げてきた努力の方だったのかもしれない。七、八年。私は半年以上かけて、その泥沼から自分を必死に引き上げた。宏は身体を折り、膝に肘を置いたまま俯いた。「この一ヶ月……一度でも振り返りたいと思ったこと、ある?」「ないよ」彼が言い終える前に答えていた。私は、彼に半分命を削るように向き合ってきた。もう十分だった。これ以上、何も残っていない。長い沈黙のあと、宏は深く息を吐く。「……明後日の朝、役所に行こう」私は頷いた。「今度こそ、偽の証明じゃな
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第379話

おかしい。こんな偶然、信じられるわけがない。私は車の鍵を掴んで外へ飛び出そうとした。だが、その手首を宏が強くつかんだ。「どこへ行くつもりだ。送るよ」「……電波の入る場所」靴を履きながら、私は彼をまっすぐに見上げた。「今日の午後の……あの配信。あれ、どういうこと?なんでネットに再生記録が残ってないの?」宏の瞳がわずかに揺れた。「配信によっては、残らないこともある」「あり得ない」以前、鷹がイベントに出た時の映像は、女の子たちが切り抜いて山ほど上げていた。でも今日の配信は、どこにもない。ひとつも。まるで最初から存在していなかったみたいに。胸の奥で何かがはじけ、指先が震えた。「宏……あれ、偽物なんでしょ?鷹、本当に……何かあったんでしょ?」「南……」「呼ばないで。答えて!」私は一歩後ずさりし、抑えられない声で叫んだ。「なんで私に隠すの?彼に何かあったなら、どうして言ってくれなかったの?そんな存在しない配信まで作って……騙すなんて!」「騙すつもりじゃなかった」宏は必死に声を落とした。「南。この件はまだ……少しだけ待ってくれ。時間をくれれば、必ず真実を伝える」「私はただ……何が起きたのか知りたいだけ!」わかってる、冷静にならなきゃいけない。でも無理だった。私は祈るように宏を見つめた。「宏……お願い。どうなってるのか教えてよ。……お願いだから」彼の表情が痛むように歪んだ。「……君は、彼のために、俺に頭を下げるのか」「そうよ。お願いしてる。これで満足?」「満足できるわけがない!」怒りに冷えきった声でそう言い捨てると、宏は私を部屋の中へ押し戻した。「明後日、離婚届を出すまで、君はどこにも行くな」ドン、と勢いよく扉が閉まる。「宏!」私は何度も何度も叩いた。「開けて!出してよ!」返事はない。私は窓辺へ駆け寄り、庭に増えている見慣れない警備の姿を確認しながら、携帯を窓の外へ伸ばして電波を探した。ピロン。通知音。来た。画面を見た瞬間、全身から血の気が引いた。――南、服部の実験室が爆発した。山田先輩からだった。私はかろうじて呼吸を整え、そのまま彼に電話をかけた。「南?やっと電波入ったのか。さっきから何度もかけ
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第380話

彼の声を最後まで聞く前に、スマホが手から滑り落ちた。指先が勝手に震えていた。私は窓辺に立ち尽くし、宏が月明かりの下で屋敷を出ていくのを、ロールスロイスが敷地から消えるのを、ずっと見送っていた。テールランプが視界から消えた頃、ようやく私はベッドの引き出しを開けて、果物ナイフを取り出した。躊躇いもなく、手首に刃をあてた。温かい血が流れ出す。赤くて、痛くて、でも浅い。死ねない。裸足のままドアを開け、階段を下りた。土屋じいさんがこちらに気づいて駆け寄ってきた。「若奥様、若様が……」その言葉は途中で止まった。私の腕から滴る血を見て、言葉が続かなかったのだ。「土屋じいさん、ごめんなさい。困らせたくないの」まるで痛覚が麻痺しているようだった。車のキーを拾い上げながら、静かに言った。「外の警備たちには、私を通すよう伝えて。でないと、宏が帰ってくる頃には、もう死体しか残ってないよ」「……」土屋じいさんは言葉を失い、目に涙を浮かべながら車までついてきて、そっとドアを開けてくれた。「どうして、こんな……若様は、きっとあなたのために……」「私のため?」車に乗り込んでシートベルトを締めながら、私は苦笑した。「あなたも忘れたんだね。私たちがどうして、こんなふうになったのか」痛みは、自分の身に刺さらなければ、永遠に他人事だ。……車を飛ばして走らせた。途中で路肩に停まり、手に握っていたガーゼで手首の傷を雑に巻いた。行き先は大阪。私の頭の中には、ただひとつの言葉しかなかった。――鷹は、死んでいない。事故が起きたのは、実験基地。なら、私はそこに行けばいい。そうすればきっと、あの人はまた、いつものように不機嫌そうに眉をひそめて私を見つめるはずだ。「清水、良心あるんだな。来てくれるとは思わなかったよ」そう言って、いつものように笑う。そうに決まってる。ピピッ、ピピッ――湖を渡る大橋に差しかかった時だった。どこからともなく現れた大型トラックが、ものすごいスピードで逆走してきた。右にハンドルを切れば、助かる可能性はあった。でも、私は左に切った。死にに行くみたいに。そのまま、車ごと湖に突っ込んだ。春先の湖水は容赦なく冷たく、一気に車内へと流
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